相沢幸悦『恐慌論入門』

相沢幸悦『恐慌論入門』(NHKブックス)

金融論がご専門の埼玉大学・相沢幸悦氏の最新著。アメリカのサブプライムローン問題に端を発した現下の金融危機、経済危機をとりあげた本です。しかし、それにもかかわらず、タイトルが『恐慌論入門』となっているところがミソ。

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「幕末明治期にこうしたことを考えて書いていたことに驚いた」

今朝の「産経新聞」に『超訳「資本論」』の紹介がでていました。面白いと思ったのは、その中で紹介されていた、担当編集者の言葉です。

「まず自分で読みたかった」。実際に読んでみたら「幕末から明治期に、こうしたことを考えて、書かれていたことに驚いた」。そして、「イデオロギーの本ではなく、社会学の本だと分かった」

そうなのです。『資本論』というのは、実際に読んでみると、けっしてイデオロギッシュな本ではなく、資本主義の仕組みを解き明かした本だということが分かります。(^_^)v

【話題の本】「超訳『資本論』全3巻」的場昭弘著(MSN産経ニュース)

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マルクス『1857-58年草稿』を読む(10)

『資本論草稿集』第1分冊、438ページ。「絶対的剰余価値と相対的剰余価値」の第8段落から。

【第8段落(438ページ?443ページ)】

富そのものの発生は、その富が地代から生じるのではなく、すなわち彼〔リカードウ〕によれば生産力の増大から生じるのではなく、逆に生産力の減退から生じるものであるかぎり、彼にとってまったく理解を絶するもの…。(438ページ下段14行目?)

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マルクス『1857-58年草稿』を読む(9)

大月書店『資本論草稿集』第1分冊の続き。425ページ「絶対的剰余価値と相対的剰余価値」から。この見出しは新MEGA編集部によるもの。マルクス自身の論の流れとは合っていない。

マルクスは、「私自身のノートにかんする摘録」(『草稿集』第3分冊)で、「57-58年草稿」のノート第3冊の26ページ(『草稿集』第1分冊、408ページ)からを「剰余価値と生産力」とくくり、ノート32?38ページ(『草稿集』第1分冊、425?446ページ)を、そのなかの「資本の価値の増大について」としている。 ((『資本論草稿集』第3分冊、509ページ上段。ちなみに高木幸二郎監訳『経済学批判要綱』では、「摘録」に従って見出しが立てられていた。))

だから、425?446ページの部分は、前の部分からのつながりで読んでゆく必要がある。

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金融と投機はどこで区別するか? (3)

井村喜代子氏は、投機について「投機は価格変動それ自体から価格差益(投機利益)を獲得しようとする取引である」(『日本経済――混沌のただ中で』勁草書房、2005年、24ページ)と指摘されている。

だから、社会のさまざまなところから余剰資金を社会的に集めて、資本を必要とするところにそれを貸し付けるという本来の金融と、投機とのこの区別が重要。

マルクスは、第25章「信用と架空資本」に続けて、第27章で次のように書いている。(ちなみに、第26章はマルクスが『資本論』とは別のことのために書き抜きをしていたものをエンゲルスが組み込んでしまったもの ((不破哲三『「資本論」全三部を読む』新日本出版社、6分冊、213-214ページ参照。))なので、マルクスのつもりとしては、本文は第27章に続いている)。

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金融と投機はどこで区別するか? (2)

こんどは利子生み資本。(第3部 第5篇)

貨幣を利子生み資本にするのは、「貸し付け」という行為。(第21章)

利子率の「自然」率というものは存在しない。利子と本来の利潤への分割を決めるものは「競争」である。(同前、新日本新書、第10分冊、602-603ページ。MEW, S.368,369)

第25章「信用と架空資本」。この章の読み方については、不破さんが『「資本論」全三部を読む』(新日本出版社)で、マルクスの草稿と、それをエンゲルスがどう編集したかという問題に遡って明らかにしている ((不破哲三『「資本論」全三部を読む』第6冊、198?205ページ、新日本出版社、2004年))。

まず、問題の限定。マルクスは、信用制度の「分析」は「われわれの計画の範囲外にある」と指摘。ここでとりあげるのは、あくまで「資本主義的生産様式一般の特徴づけに必要な2、3のわずかな点だけ」。そのとき、とりあげるのは「商業信用」だけに限られ、「公信用の発展」はとりあげない。

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金融と投機はどこで区別するか?

マルクスは「貨幣取扱資本」について、次のように書いている。(第3部 第19章「貨幣取扱資本」の冒頭部分)。

 産業資本……の流通過程において貨幣が遂行する純粋に技術的な諸運動――それが自立して、この諸運動を、そしてこの諸運動だけを自分に特有な諸操作として営む1つの特殊な資本の機能となれば、この諸運動はこの資本を貨幣取引資に転化する。(新日本新書、第9分冊、532ページ、MEW, S.327)

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実体経済から独立した投機的金融活動

『日本の科学者』2009年4月号
『日本の科学者』2009年4月号

慶応大学名誉教授の井村喜代子氏『日本の科学者』4月号「世界的金融危機と現代資本主義」という論文を書かれている。その中で、井村氏は、新しい投機的金融活動の内実を、理論的に「実体経済から独立した、金融・金融収益のための金融活動」「金融操作から生み出された、実態的な富の裏づけのない『虚』の金融取引の膨張」としてとらえる立場を強調しておられる。

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地名症?! これが調べてみると面白い(^_^;)

『資本論』第1部の、第8章「労働日」や第13章「機械と大工業」、第24章「いわゆる本源的蓄積」など、いわゆる歴史的な叙述の部分は、いろんな地名が登場します。

マンチェスターとかリバプールぐらいなら、高校の世界地図にも出てきますが、もっと細かい地名になると、どこがどこだかさっぱり分かりません。(^_^;)

しかし、地名の原綴りをWikipedia英語版で調べてみると、ほとんど全部ヒットします。

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マルクス『1857-58年草稿』を読む(8)

さらに『1857-58年草稿』の続きです。「資本と労働のあいだの交換」第16段落から(第15段落は断片なので、よく分かりません)。

●第16段落(350ページ上段)?

まずマルクスは、「労働力能は労働者の資本だ」という言い方、見方を批判する。

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マルクス『1857-58年草稿』を読む(7)

「資本と労働のあいだの交換」の続きです。(ページ数は、大月書店『資本論草稿集』第1分冊)

●第11段落(335ページ下段)?第12段落(338ページ)
 「市場」と書かれて始まっていて、{}で囲まれた部分。これも、プランの続き?
 310?311ページのプランでは、「資本の後には、土地所有」「土地所有の後には賃労働」と書かれた後で、「こんどはその内的総体性において規定された流通として、諸価格の運動」と書かれている。この「諸価格の運動」が、この「市場」か?
 おもしろいのは、「市場」と言いながら、「まず金融市場」から始まっていること。その意味では、この「市場」は、310?311ページのプランの「V.金融市場としての資本」の話か?
 いずれにしても、最後にマルクスは「市場の抽象的範疇をどの箇所に入れなければならないかは、いずれわかるであろう」(338ページ上段)と書いている。

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マルクス『1857-58年草稿』を読む(6)

えーっと、マルクス『資本論1857-58年草稿』の続きです。(^_^;)

今回は、327ページ「資本と労働のあいだの交換」から。ただし、この見出しは新MEGA編集部がつけたもの。しかし、ここでマルクスは、単なる商品交換と、「資本と労働のあいだの交換」とはどこが違うかということを言いたいのだ。

●第2段落(327ページ上段)?第7段落(328ページ下段)
 資本と労働との交換は、たんなる商品と商品との交換と違って、「2つの過程」に分かれる。
 第1の過程=労働者が労働力を一定額の貨幣と交換する過程。
 第2の過程=資本家が価値を生み出す活動としての労働を交換で手に入れる過程。」
 商品と商品との単純な交換の場合には、こうした二重化は起こらない。

 ここでは〔資本と労働とのあいだの交換では〕、貨幣と交換して手に入れたものの使用価値が特殊的な経済的関係として現われ、貨幣と交換に手に入れたものの特定の仕方で使用することが、この2つの過程の究極の目的をなしている。したがって、このことが、資本と労働のあいだの交換を単純な交換とすでに形式的に区別している――2つの相異なる過程。(328ページ上段)

 第2の過程は、第7段落では「資本の側からする労働の領有」(328ページ下段)と言われている。

 資本と労働のあいだの交換では、第1の行為は1つの交換であり、まったく普通の流通に属している。第2の行為は、質的に交換とは異なる過程であって、言葉の濫用をしないかぎり、それを一般にある種の交換だなどと呼ぶわけにはいかない。それは、直接に交換に対立しており、本質的に別の範疇である。(328ページ下段?329ページ上段)

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やっぱりリカードはよう分からん…

引き続きリカード『経済学および課税の原理』(岩波文庫)を読んでいます。

第2章「地代について」は、有名なリカードの地代論(マルクスが「差額地代」と呼んだもの)の解明です。

しかしその中に、こんなくだりが出てきました。

 製造品、鉱産物、土地生産物のどれであろうと、あらゆる商品の交換価値は、つねに、きわめて有利な、そして生産上の特殊便宜をもつ者だけがもっぱら享受する事情のもとで、その生産に十分である、より少ない労働量によって規定されるのではなく、このような便宜をもたない者、つまり最も不利な事情のもとで生産を継続する者によって、その生産に必然的に投下される、より多くの労働量によって規定される。(岩波文庫、上110ページ)

ここでリカードは、地代の問題に限らず、一般の「製造品」であっても、その交換価値は、最劣等条件のもとで生産する場合の投下労働量によって規定されると言っています。

地代の場合は、土地が独占されているがゆえに、最劣等地での必要労働量が価値を規定するというのは分かりますが、工業生産物の場合も、そうなるというのは、いったいどういうことでしょうか?

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リカードウをちゃんと理解したい!!

ふたたびリカードウの『経済学および課税の原理』を読んでいます。しかし、リカードウがどういうことを想定して、彼の理論を展開しているのか、よ?分かりまへん。(^_^;)

第1章「価値について」の第3節で、リカードウは、こんな議論を展開しています。

 諸商品の相対価値の変動は、それらの物の生産に要する労働の増減によってひき起こされるばかりではない。その相対価値は、使用される固定資本の価値が不等であるか、あるいは、その耐久力が不等である場合には、賃金の騰貴およびその結果である利潤の下落によって変動することを免れない。(岩波文庫、上、45ページ)

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横浜方面うろうろ中に読んだ本(3)

小林正宏・大類雄司『世界金融危機はなぜ起こったか』(東洋経済新報社)水野和夫『金融大崩壊』(NHK生活人新書)

横浜方面でうろうろしている間に、何度か、共産党の「緊急経済提言」の学習会の講師を務める機会がありました。そのため、という訳ではありませんが(といいつつ、やっぱり、そのためか?)、サブプライムローン問題に始まったアメリカ発の金融危機にかんする本を何冊か読みました。そのなかで、いま何が起こっているのか、実態を理解するのに比較的役に立ったのがこの2冊です。

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ドイツで『資本論』が売れているらしい

米紙「ワシントンポスト」に、こんな記事が出ていました。ドイツでマルクス『資本論』が売れているそうです。

Karl Marx's book sells as Germany economy sinks – The Washington Post
経済危機の中、マルクスの『資本論』が売れ行き伸ばす: AFPBB News

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100年に1度あるかないかの変革期

現在の世界的な金融不安に関連して、あらためてこの間の「金融理論」の是非が問われている。

最近の「日本経済新聞」に載ったいくつかの論評から、それを拾ってみた。「100年に1度あるかないかの変革期」かどうかはともかく、この間のビジネスモデル、金融理論そのものを根本から考え直す必要があるのは、その通り。

いずれにせよ、私たちはいま、本当に100年に1度あるかないかの金融危機、終わってみればドルが基軸通貨でなくなっているかも知れないような金融危機に踏み入ろうとしている…、のかも知れない。

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