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アルチュセールのイデオロギー論についてのノート
『国家とイデオロギー』
邦訳=西川長夫訳、福村出版、1975年発行
- 人々は「実際問題を処理する仕方」を学ぶ。(21ページ)
- 子どもたちは「支配的なイデオロギーの中に包み込まれた《かけひき》(フランス語、算術、博物学、科学、文学)や、あるいはごく簡単に、純粋状態にある支配的なイデオロギー(道徳、公民科、哲学)」を学校で教え込まれる。(48ページ)
- 「人間がイデオロギーの中で描き出すのは、彼らの存在の現実的諸条件や彼らの現実世界ではなく、なによりもまず、そこで人間のために描き出されるこららの存在の諸条件にたいする人間の関係である」(61ページ)
- イデオロギーにおいては「諸個人がその下で生きる現実的な諸関係にたいするこれら諸個人の想像的な関係が表わされている」(62ページ)
- 「これらの実践(イデオロギーにもとづいて主体が行なう行為)はさまざまな儀式によって調整されている」「これらの実践は・・・・・・小さな教会の小さなミサ、埋葬、スポーツ団体の小さな試合、小学校の授業、政党の集会や討論会、等々といった・・・・・・イデオロギー装置の物質的な存在のただなかで、これらの儀式の中に刻み込まれている」(67ページ)
- われわれは「イデオロギーの中で《自発的に》あるいは《自然に》生きている」(71ページ)
- 「あらゆる明証を明証と信じさせること(信じさせるといったふりをせずに、なぜならこれは明証なのだから)、これこそまさにイデオロギーの特性である」(72ページ)
- イデオロギーについて科学的な論述を始めようと思ったら、イデオロギー的な再認のメカニズムの科学的な認識に到達しなければならない。(74ページ)
- イデオロギーによる、イデオロギーのイデオロギー的性格の実際上の否定は、イデオロギーの効果の1つであって、イデオロギーはけっして《私はイデオロギーである》とは言わない。(76ページ)
- 私はイデオロギーの中にいる、私はイデオロギーの中にいたと言いうるためには、イデオロギーの外側、つまり科学的認識の中にいる必要がある。(76ページ)
- イデオロギーは主体としての諸個人に呼びかける。諸個人は常に=既に主体として、イデオロギーによって呼びかけられている。(77ページ)
- 子どもは、家族的イデオロギーの中に産まれてくる。(78ページ)
- 多数の宗教的主体が存在しうるのは、別種の絶対的な唯一の主体、すなわち神が存在するという絶対的な条件の下においてのみである。(81ページ)
- あらゆるイデオロギーは、唯一絶対の主体の名において諸個人に呼びかける。この構造は、反射的、すなわち、鏡の状態にあって二重に反射的である。この二重に反射的な構造がイデオロギーを構成し、イデオロギーの機能を保証する。つまり、あらゆるイデオロギーは、絶対的な主体が中心の唯一の場所を占め、この主体が、二重に反射的な関係の中で、諸主体としての諸個人に呼びかけることによって、この諸主体を絶対的な主体に従わせる。(83ページ)
『不確定な唯物論のために』
イタリアの哲学者フェルナンダ・ナバロ女史によるインタビュー、原著1988年刊、邦訳=大村書店、1993年刊
1、スターリン主義流の哲学にたいする批判
- 「依然として存続していたスターリン主義の影響と闘うために」(p.35)
- 「普遍的な弁証法的諸法則をともなった唯物論的一元論を除去することが、私には緊要だと思われました。それは、ソ連科学アカデミーの有害な形而上学的考えであって、ヘーゲルの『精神』や『絶対理念』の位置に『物質』を置いたものなのですよ」(p.36)
- 「スターリンの政治戦略とスターリン主義の一切の悲劇は、部分的には、『弁証法的唯物論』に基礎を置いていた」(p.37)
そこで、こうしたヘーゲル的でないマルクスの唯物論をアルチュセールは「不確定な唯物論」と呼ぶ。それは、「『資本論』の哲学、彼の経済・政治・歴史思想の哲学」(p.45)であり、「マルクス主義のための哲学」とも呼んでいる。「偶然性の唯物論」とも言っているが、「偶然性を必然性の容態あるいは例外として考えるのではなく、さまざまな偶然的なものの出会いが必然になったものだと、必然性を考えなければなりません」とも指摘する(偶然というものを認める必要性、つまりすべてを必然性によって説明できないし、説明できると考えるのは正しくないということは、見田石介氏や鈴木茂氏が強調された点である)。
2、イデオロギーとは何か
- 哲学の機能について。「科学的実践を覆い隠すイデオロギー的支配から、そうした実践を解放するために、科学的なものとイデオロギー的なものとの範囲を確定したり、両者を分離したりするのを可能にさせる、境界線を描くこと」(p.99〜100)
- 「イデオロギー的な諸要素全体を統一する」もの、「かつては、こうした統一者の役割」は宗教が担っていた(同前)
- しかし、こういう支配階級のイデオロギーは「自らの階級的条件を超越したりはできない」
- 哲学は、「現実的・具体的な諸実践に対して、あれこれのイデオロギーの媒介によって、遠くから働きかける」(p.102)――つまり、科学は、イデオロギー的な実践意識に転化しなければならないということ。
- 人間の「いかなる行為も、言語や思惟抜きには考えられません。したがって、言葉で表現される観念システムなしでは、いかなる人間的実践もありえません。かくして、そうした実践のイデオロギーが構成されるのです」(p.104)――つまり、実践的意識としてのイデオロギーの役割。
- 他方で、「あるイデオロギーが観念システムであるのは、それが何らかの社会関係システムと関係している」からだ――イデオロギーとイデオロギー諸制度との相互前提関係
- イデオロギーというのは「個人の幻想から生まれる何か」ではなく、「社会的に設定される諸観念」である(同前)
では、イデオロギーはどこから始まるか?
- 「意識が、そうした観念を『真理』だと認める場合に、このメカニズムが発動する」(同前)
- 「真理なるものの現前、実在、なしいは明証の効果」のもとでの再認。「観念の外部で私を支配し、その現前との出会いを通じて、私に自らの実在と真理との再認識を強要するような観念を信じる場合」に、「真理」は(真理である)「かのように」生じる。つまり、「イデオロギーを構成する諸観念が、人間の『自由な意識』を強要して、そうした観念が真理であると自由に再認識させるかたちで、個々人に呼びかける」(p.105)
- 個々人は、「イデオロギーを構成する諸観念における『真理』を再認識できるような、自由な主体としてみずからを構成する」(同前)
- 「人間はいつも、イデオロギー的社会関係のもとで生きてきた」(p.106)
- 「イデオロギーの社会的実在を考える場合、大切なのは、それらのイデオロギーと諸制度とが、分離不可能であること」(p.108)
- 「そうした制度を通じて、イデオロギーはおのれのコード、言語、習慣、儀礼、儀式とともに、みずからを表明する」(同前)
- 実践的諸イデオロギーの「観念体は、諸制度からなるシステムと分離できない」(p.109)
- イデオロギー的諸装置は「以前から存在していた」。「そうしたさまざまな社会的諸機能……の陰に隠れて、イデオロギー的諸装置が、支配的イデオロギーによって浸透され、統制されいている」(同前)
- 「いかなるイデオロギーもまったく恣意的な訳ではない」(同前)
- イデオロギーと個人との関係は「呼びかけのメカニズム」によって打ち立てられる。「呼びかけの機能作用は、個人がみずからのものだと認識している一つの社会的役割を個人に割り当てることで、彼をイデオロギーに服従させる」(p.111)
- こうした「承認の効果」によって、主体は「社会的存在」として構成される。主体は、「他者」や同胞=隣人との同一化を必要とする。その同一化を通じて、主体はみずからを実在すると認識する。
- イデオロギーは、「社会・家族的に形成されたイメージ」として、機能する。「子供はこうした予示された像を、社会的主体として実在するために、自分が持つ唯一の存在可能性として受け入れる」(p.112)。社会・家族的イメージとしてのイデオロギーこそ、「子供にみずからの個体性を授けてくれるもの」(同前)。このようにして「社会的主体としての自己構成の過程を開始する」ことによって、社会的生産関係の再生産が保証される(p.112〜113)
- 主体はつねにイデオロギー的主体である。しかし、そのイデオロギーは、支配的イデオロギーから革命的イデオロギーに変更可能である(p.114)――しかしながら、どうして支配的イデオロギーから革命的イデオロギーに変更可能か、アルチュセールは述べていない。
- 支配階級は、諸主体の自由な同意を通じて服従を獲得する。それが「諸イデオロギー――矛盾した――のシステムが果たす目的の一つ」(同前)。
- 支配的イデオロギーをこのように理解するならば、「哲学に固有の機能を把握できます」(p.117)
『マルクスのために』
邦訳=河野健二、田村俶、西川長夫訳、平凡社ライブラリー、1994年刊
アルチュセールは、イデオロギーと科学との区別を次のように指摘している。
- 「マルクスが言うように、人びとが階級闘争を自覚し、それを終わりまで遂行するのは、イデオロギーにおいてである。イデオロギーは、その宗教的、道徳的、法政的、政治的、その他の携帯において、一つの客観的な社会的現実である。イデオロギー闘争は階級闘争の有機的な一部をなすものである。これに反して、私が批判したのはイデオロギーの理論的諸結果であり、それはつねに科学的知識にとっての脅威または障害をなすものである」(15ページ)
- 「これら二つの解釈は、詳細な議論や、テキストの分析や理論上の論争の背後にある大きな対立を浮かび上がらせる。その対立とは、科学をイデオロギーから区別する対立であり、より性格には形成途上にある新しい科学と、科学が生い立つ『地盤』を占拠する前科学的な理論的イデオロギーとをわかつ対立である」。「科学/イデオロギーの対立においてとりあつかわれているものは、科学と理論的イデオロギー――そこでは科学の建設に先立って、科学が知識をあたえる対象が「考察」される――とのあいだの『切断』にかかわるからである」。「この『切断』は、種々のイデオロギー(宗教、道徳、法的、政治的イデオロギー等々)が占める社会的対象領域には手を触れない。非理論的なイデオロギーのこの領域においても『切断』は大いにありうるが、しかしそれらは政治的であり(政治的実践、革命的大事件の諸結果)、『認識論的』ではない」(18ページ)
前半の文章で、アルチュセールは、イデオロギー的認識と科学的認識とを区別するとともに、科学的認識はイデオロギー的認識の領域に浸透しなければならないと言うことを指摘している。さらに、社会的現実としてのイデオロギーと、イデオロギーの理論的諸結果(あるいは理論的イデオロギーの諸結果)とを区別している。
後半の文章では、前半での社会的現実としてのイデオロギーと理論的イデオロギーとの区別を踏まえながら、イデオロギー一般ではなく、理論的イデオロギーから科学的認識への「切断」を問題にしている。科学的認識に移ったとしても、それは宗教、道徳、法的、政治的イデオロギー等々には関係がないということ。そして、宗教、道徳、法的、政治的イデオロギーの分野での「切断」が生じるとすれば、それは「認識論」的な切断ではなく、政治的な切断、つまる政治的変革、政治的激動に伴うものだと言っているのである。
アルチュセールの「自己批判」(20〜21ページ)
- 私は「理論と実践の統一」の問題を扱わなかった。理論的実践の中での理論と実践の統一については語ったが、政治的実践における理論と実践については触れなかった。
- 哲学を科学から区別する基準について不明確だった。
今日的時点(序文)
(スターリン批判以後に書かれた自分の論文について)「歴史がわれわれを追いこんだ理論の袋小路から、われわれが脱出するのに必要不可欠であったマルクスの哲学思想の探求」(27ページ)
(スターリン時代の哲学について)左翼主義の古い公式。ひとたび宣告されるやいなや、その公式がすべてを支配した。すべての哲学者が、注釈と沈黙以外に選択の自由を持たなかった。(28ページ)
哲学的理論の役割にたいする(フランス共産党の)無理解。(35ページ)。「マルクス主義は、たんに政治原理、つまり分析と行動の「方法」であるだけでなく、同時にそれが科学である以上は、社会科学やさまざまな「人文科学」ばかりか、自然科学や哲学の発展にとっても是非とも必要な、根源的な探求の理論的な領域であるべきだ」(35ページ)
※これは、要するに世界観としてのマルクス主義だけでなく、科学としてのマルクス主義の意義、役割をきちんと取り上げるべきだと言うことを指摘したものだ。
以下、同じようなことの指摘。
「哲学にかんしていえば、われわれの世代は、もっぱら政治とイデオロギーの闘争のために身をささげてきた」「哲学者が党のために哲学を語り、あるいは記したとしても、彼は《有名な引用句》にかんする解釈や、それを内部用に少しばかり書きかえるために働いたのだ」(以上、38ページ)。「事実、われわれはだれ一人、自分の足下に堅固な大地を踏みしめていなかった。つまり、信念以外の何者もなかったのだ」(39ページ)、「われわれは、可能なあらゆる哲学の諸原理を獲得し、さらにはどのような哲学的イデオロギーも不可能であるという原則を守ろうと考えていたが、結局はわれわれの信念を疑う余地のない正しさを公的かつ客観的に証明することができなかった」(同前)。「独断的な言説の空しさ」(同前)。――これらは、1960年代の初めに書かれたものであることを銘記せよ。
「理論的構成一般(哲学的イデオロギー、科学)の現実性を考察することのできるマルクス主義理論の諸概念をマルクス自身に適用する必要があった。理論構成の歴史についての理論なしには、じっさい、異なった二つの理論構成〔イデオロギー的認識と科学的認識――引用者〕を区別する種差をとらえ、決定することはできない。この目的をはたすために、わたしは、ジャック・マルタンから一つの理論構成の種単位、したがってその種差の妥当領域を示すプロブレマティックという概念を借り、またガストン・バシュラールから、一専門科学の形成についての現代の理論的なプロブレマティックの変容を考えるための「認識論上の切断」という概念を借りることができると信じた」(47ページ)
※ここで、「理論構成の歴史についての理論」という問題を取り上げていることに注目せよ。つまり、認識の発展の原動力は何か、人間の認識は何によって前進するのかというもんだいがそこには含まれる(アルチュセールがそれを正しく解いたかどうかは別にして)。
もう1つ。この本では、「プロブレマティック」という言葉は、単なる問題意識とか問題関心の領域というような一般的な意味で用いられているのではないことに留意せよ。むしろ、クーンのいう「パラダイム」の意味に近い。イデオロギー的認識を成り立たせている認識の枠組みそのもの、そういう意味での認識の「地平」とか「問題機制」と言われるものを考えよ。「認識論的切断」という場合も、そういう「パラダイム転換」、認識の枠組みそのものの転換、イデオロギー的認識から科学的認識への飛躍、という意味に理解しなければならない。
そして、アルチュセールは、『ドイツ・イデオロギー』こそが、マルクスにおける「認識論的切断」を示すテキストだと指摘する。(55ページ)
「マルクスのなかにはっきりと見ることを可能にし、科学とイデオロギーを区別し、歴史的な関係のなかで両者のちがいと、歴史過程の連続のなかで認識論上の切断の非連続を考えることを可能にする理論」(59ページ)。
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