※2004年10月から作業。[3]は新日本出版社刊新書版第3分冊の、S.はWerke版のページ数。
目次
「労働力の価値、すなわち労働力の生産に要する労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定する」(S.332)
「1労働時間〔の価値――引用者〕が半シリングすなわち6ペンスの金分量で表わされ、そして労働力の日価値が5シリングであれば、労働者は、資本が支払った彼の労働力の日価値を補填するために、または彼が必要とする日々の生活諸手段にたいする等価物を生産するために、日々10時間労働しなければならない。この生活諸手段の価値が定まれば、彼の労働力の価値が定まり、彼の労働力の価値が定まれば、彼の必要労働時間の大きさが定まる」(S.332)
資本家が労働者に支払う労働力の日価値=労働者が必要とする日々の生活諸手段の価値。
※ここでマルクスは、いっかんして価値タームで議論をすすめていることに注意。
資本家が労働者に5シリングではなく4.5シリングしか支払わないとすれば、資本家は「労働者の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げ」たのである。この場合、労働者が手に入れることができる生活諸手段の量は10分の1だけ少なくなり、したがって「彼の労働力の萎縮した再生産しかおこなわれない」(S.333)。
このような剰余労働の拡大は、「必要労働時間の範囲の一部を横領すること」によってのみ実現される。「ここでは」労働力は「価値どおりに売買されるという前提に立っているので」こういうケースは「考察から除外」されるが、「この方法は、労賃の現実の運動に置いては重要な役割を果たす」(S.333)。
労働力の価値どおりの販売を前提にする限り、必要労働時間の減少は「労働力の価値そのものが低下する」場合にのみ起こりうる。労働日が一定の場合、必要労働時間の短縮が剰余労働の延長をもたらすのであって、その逆ではない。
【労働力の価値の低下はどのようにして起こるか】「労働力の価値が10分の1だけ低下すると言うことは、それはそれで以前に10時間で生産されたのと同じ分量の生活諸手段が、いまでは9時間で生産されるということを条件とする」。「このことは、労働の生産力が増大しなければ不可能である」(S.333)。そのためには、生産方法=労働過程に「ある革命が起こらなければならない」(同前)。
したがって、相対的剰余価値生産の場合は、資本は、「労働過程をその歴史的に伝来した姿態または現存の姿態のままで支配下におき、ただその継続時間だけを延長する」というやり方では十分でない。「資本は、労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産方法そのものを変革しなければならない」(S.334)
【絶対的剰余価値と相対的剰余価値】「労働日の延長によって生産される剰余価値を、私は絶対的剰余価値と名づける。これにたいし、剰余価値が、必要労働時間の短縮およびそれに対応する労働日の両構成部分の大きさの割合における変化から生じる場合、これを、私は相対的剰余価値と名づける」(S.334)
【労働力の価値の低下はどのような場合に起こるか】労働力の価値は「その再生産に必要な労働時間とともに減少する」。「この労働時間の短縮の総量」は、労働者の生活諸手段の価値に入り込むような「生産諸部門全体における労働時間の短縮の総和に等しい」(S.335)。
個々の資本家は、「シャツを安くする」場合に、そのことを通じて「労働力の価値をひきさげて」相対的剰余価値を生産しようという目的が「浮かんでいるわけではない」。しかし、「彼が究極においてこの結果に貢献する限りにおいてのみ、彼は一般的剰余価値率の増大に貢献する」([3]p.552、S.335)
【資本主義の内在的法則とそれが資本家の意識にどう反映するかを区別すること】「資本の一般的かつ必然的な諸傾向」と「これら諸傾向の現象諸形態」を区別すること。
「資本主義的生産の内在的諸法則」は「諸資本の外的運動のうちに現われ、競争の強制法則として貫徹」する。それゆえに、資本主義的生産の内的諸法則が資本の「推進的動機」として個々の資本家の意識にどのような形でのぼってくるかは、「ここでは考察されない」。
大事なことは「競争の科学的分析」は、「資本の内的本性」が把握された場合にのみ可能になる。
マルクスは、如上のように述べながら、それでも差し当たり以下のことは明らかだ、として次の点を指摘している。すなわち――
この特別剰余価値の実現は、相対的剰余価値生産の場合のように、その商品が生活諸手段である必要はない。
「剰余価値のこの増大が彼に生じるのは、彼の商品が生活必需品の範囲に属しているかどうかにはかかわりなく、それゆえ労働力の一般的価値を規定するものとしてこの価値〔労働力の価値〕のなかにはいり込むかどうかにはかかわりない」([3]p.554、S.336)
したがって、自分の生産する商品が生活諸手段であるかどうかにかかわりなく、「個々の資本家にとっては、労働の生産力を高めることによって商品をやすくしようと言う動機が存在する」(同前)。
しかし、この場合でも、剰余価値の増大は、「必要労働時間の短縮」によって生じる。その点では、相対的剰余価値生産の場合と同じ。
【力能を高められた労働】「例外的な生産力の労働は、力能を高められた労働として作用する――すなわち、同じ時間内に、同じ種類の社会的平均労働よりもより大きい価値をつくり出す」。
【特別剰余価値の消滅】「この新しい生産方法が普及し、それにともなって、より安く生産された諸商品の個別的価値と社会的価値との差が消滅するやいなや、右の特別剰余価値も消滅する」([3]p.556、S.337)
「労働時間による価値規定の法則は、新しい方法を用いる資本家には、彼の商品を社会的価値以下で売らなければならないという形態で感知される」のにたいして、彼の競争者たちにとっては「新しい生産方法」を採用しなければならないという「競争の強制法則」として貫徹する。([3]p.556、S.337-338)
「したがって、一般的剰余価値が、結局、全過程をつうじて影響を受けるのは、労働の生産力が、生活必需品の生産諸部門をとらえた場合、すなわち、生活必需品の範囲に属し、それゆえ労働力の価値の諸要素を形成している諸商品を安くした場合に限られる」([3]p.556、S.338)
――要するにここでマルクスは、相対的剰余価値の生産は、消費財部門での生産力の増大にかかっているのにたいし、特別剰余価値は、生産財生産部門・消費財生産部門を問わないという問題、および、個々の資本家は特別剰余価値を得ようとして生産力を高めるのであって、生活必需品の価値をひきさげて一般的剰余価値を増大させようと思って生産力を高めるわけではないという問題との、2つの問題の関連を明らかにしている。
【まとめ】「商品の価値は、労働の生産力に反比例する。労働力の価値も、諸商品価値によって規定されているので、同じく労働の生産力に反比例する」。これにたいして、相対的剰余価値は、労働の生産力に「正比例する」――ここでマルクスは正比例といっているが、それは、厳密な意味での正比例ではなく、「生産力が上がれば上がり、生産力が下がれば下がる」という意味。「12時間という社会的平均的労働日は、貨幣価値が変わらないものと前提すれば、つねに6シリングという同じ価値生産物を生産する」。これは「この価値総額が、労働力の価値の等価物と剰余価値とのあいだにどう配分されるかにはかかわりがない」。
しかし、生産力が上がった結果、労働者の日々の生活諸手段の価値が下がったならば、剰余価値は増える。以前、労働力の価値の再生産のために10時間必要だったのが、いまではもう6時間しか必要でなくなったとしたら、この自由になった4時間は剰余労働の範囲に併合される。
「それゆえ、商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を増大させることは、資本の内在的な衝動であり、不断の傾向である」([3]p.557、S.338)
これによって、資本家が、より多く儲けるために、商品を高く売るのではなく、安く売ろうとするのはなぜかという謎が解けた。([3]p.558、S.338-339)
「労働の生産力の発展による労働の節約は、資本主義的生産においては、けっして労働日の短縮を目的としてはいない」。それどころか、労働者の労働日が延長させるということもありうる。([3]p.559、S.339-340)
「労働の生産力の発展は、資本主義的生産の内部では、労働日のうち労働者が自分自身のために労働しなければならない部分〔――必要労働時間〕を短縮し、まさにそのことによって、労働日のうち労働者が資本家のためにただで労働することのできる他の部分〔――剰余労働時間〕を延長することを、目的としている」([3]p.560、S.340)
資本主義的生産の出発点。同じ資本家が、比較的多数の労働者を同時に働かせるようになった場合。したがって「より多数の労働者が、同時に、同じ場所で……、同じ種類の商品を生産するために、同じ資本家の指揮のもとで働く」というのが「歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている」([3]p.561、S.341、傍点引用者)
歴史的にといえば、「初期におけるマニュファクチュア」は、同じ資本家のもとで多数の労働者が同時に働くということ以外には、手工業との違いはなにもなかった。つまり、「区別は差し当たり量的」なのである。(同前)
1200人の職人がばらばらに12時間働くのと、1200人の労働者が1人の資本家のもとで12時間働くのとでは、「価値資産にとっては……なんら区別はない」。「それにもかかわらず、ある限界内では、変化が生じる」。
このような生産手段の節約は、二重の効果を持つ。1つは、個々の商品を安くし、そのことを通じて相対的剰余価値の生産に与るということ。もう1つは、不変資本の節約を通して、前貸総資本にたいする剰余価値の割合を大きくするということ。後者は、利潤率を高めるということであり、だからマルクスはここで「この後の方の点は、第3部の最初の部分で論究される」と断っている。
「資本主義的生産において、労働諸条件は労働者にたいして自立的に相対するのであるから、その労働諸条件の節約もまた、労働者にはなんのかかわりもない、それゆえ労働者個人の生産性を高める諸方法から切り離されている、特殊な操作として現われる」([3]pp.566-567、S.344)。
【協業の定義】ここで初めて「協業」という言葉が登場する。
「同じ生産過程において、あるいは、異なっているが連関している生産諸過程において、肩をならべ、一緒になって計画的に労働する多くの人々の労働の形態が、協業と呼ばれる」([3]p.567、S.344、傍点引用者)
【協業の効果】「結合された労働者または総労働者」――たぶん、「結合された労働者」という言葉の初出?――は「前にも後ろにも目をもっており、ある程度の遍在性をもっている」ので、自分の仕事に「一面的に取りかからなければならない」個別労働者よりも、より速く総生産部を仕上げることができる。
次にマルクスは、「互いに補い合う多くの人々が、同じことまたは同種のことをする」という協業の基本的な特徴を強調している。なぜマルクスは、この点を強調するのか。「それは、共同労働のこのもっとも単純な形態が、協業のもっとも発展した姿態」――つまり機械制大工業――「においても大きな役割を果たす」からである([3]p.570、S.346-347)
機械制大工業における単純協業の再現について、マルクスは、あとで指摘している。
「結合労働日は、それと同じ大きさの、個々別々の個別的労働日の総和と比較すると、より大量の使用価値を生産し、それゆえ一定の有用効果を生産するのに必要な労働時間を減少させる」([3]p.573、S.348)
「結合労働日の独特な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力である。それは、協業そのものから生じる。労働者は、他の労働者たちとの計画的協力のなかで、彼の個人的諸制限を脱して、彼の類的能力を発展させる」([3]p.573、S.349)
【協業の規模は資本の大きさに依存する】労働者は、「同じ資本、同じ資本家が賃労働者たちを同時に使用することがなければ、すなわち彼らの労働力を同時に買うことがなければ……協業することができない」([3]p.574、S.349)
協業の規模は、資本の大きさに依存している。([3]p.574、S.349)
【資本として機能するための最小限の大きさについて】「同時に搾取される労働者の総数」であり「生産される剰余価値の総量」によって、小親方を資本家にするための、資本の最小限の大きさが決まる。「個別資本のこの最小限の大きさは、分散しかつ相互に独立する多くの個別的労働過程を1つの結合された社会的労働過程に転化させるための、物質的条件として現われる」([3]9.575、S.350)
【労働にたいする資本の指揮】「労働にたいする資本の指揮」は、はじめは、「資本家のもとで労働することの形式的結果として現われた」。しかし、協業とともに、「資本の指揮は、労働過程そのものを遂行するための必要事項」になる。「生産場面における資本家の命令は、いまや、戦場における将軍の命令と同じように不可欠なものとなる」([3]p.575、S.350)
【大規模な協同的労働は指揮を必要とする】「比較的大規模の直接に社会的または共同的な労働は、すべて多かれ少なかれ1つの指揮を必要とする」「この指揮は、個別的諸活動の調和をもたらし、生産体総体の運動……から生じる一般的機能を遂行する」([3]pp.575-576、S.350)。マルクスは、これをオーケストラの指揮者に例えている。
【資本の独自の機能としての指揮・監督・調整機能】しかし「指揮、監督、および調整というこの機能は、資本に従属する労働が協業的なものになるやいなや、資本の機能となる。この指揮機能は、資本の独特の機能として、独特な特性をもつようになる」([3]p.576、S.350)
(1)「資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的とは、できるだけ大きな資本の自己増殖、すなわちできるだけ大きな剰余価値の生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である」。しかし、「同時に就業している労働者の総数が増えるとともに、彼らの抵抗が増大」する。したがって、「それとともに、この抵抗を抑えつけるための資本の圧力が必然的に増大する」。
資本家の指揮は、「社会的労働過程の本性から発生し、この過程につきものの1つの特殊な機能」――つまり社会的な労働過程に不可欠の指揮機能一般というものではなく、「社会的生産過程の搾取の機能」であり、「搾取者とその搾取原料〔労働者〕とのあいだの不可避的敵対によって条件づけられている」。([3]p.576、S.350)
「他人の所有物として賃労働者に対立する生産諸手段の範囲が増大するとともに、生産諸手段の適切な止揚を管理する必要も増大する」
「賃労働者たちの協業は、資本家が彼らを同時に使用することのたんなる結果である」。したがって、「賃労働者たちの諸機能の連関と生産体総体としての彼らの統一とは、彼らの外に、彼らの結びつけている資本のなかに、ある。それゆえ、彼らの労働の連関は、概念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自己の目的に従わせる他人の意志の力として、彼らに対立する」([3]p.576、S.351)
【資本家の指揮の二面性】「資本家の指揮は、内容から見れば二面的である――それは、指揮される生産過程そのものが、一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり、他面では資本の価値増殖過程であるという二面性を備えているためである」([3]p.577、S.351)。
【産業将校、産業下士官】とすれば、資本家の指揮は「形式から見れば専政的」であり、協業の発展につれて「独自な諸形態を発展させる」(同前)。すなわち、資本家は、自らの監督機能を「ふたたび特殊な種類の賃労働者に譲り渡す」。産業将校(支配人、マネージャー)と産業下士官(職長、“監督”)。([3]p.578、S.351)
【資本家は産業上の指揮官であるが故に資本家であるのではなく、資本家であるから産業上の指揮官になる】「資本家は、彼が産業上の指揮官であるがゆえに資本家であるのではなく、彼が資本家であるがゆえに産業上の指揮官になる」([3]p.578、S.352)。
経済学者たちは、一方では、この監督労働を「生産の空費」に数えながら、他方では、共同の労働過程の指揮機能を、社会的労働過程の「資本主義的な、それゆえ敵対的な性格によって条件づけられる限りでの指揮の機能」と同一視する。(同前)
【社会的労働の生産力は資本の生産力となる】労働者は労働過程にはいるとともに資本に合体される。生産有機体の一分肢としては、労働者は「資本の1つの特殊な実存様式」にすぎない。「それゆえ、労働者が社会的労働者として展開する生産力は、資本の生産力である」([3]p.580、S.353)。「この労働の社会的資産力は、資本が生まれながらにしてもっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われる」(同前)。
「株式会社」――初出か?([3]p.581、S.353)
資本主義以前の共同体において支配的な協業――。一方では、「生産諸条件の共同所有」にもとづき、他方では「各個人が部族または共同体の生態から切り離されていないこと」による。この2つによって、この協業は「資本主義的協業から区別される」。([3]p.581、S.354)。これらは「直接的な支配隷属関係」、多くの場合は奴隷性にもとづいている。
それにたいし、資本主義的形態は、「最初から、自分の労働力を資本に売る自由な賃労働者を前提している」。しかし、歴史的には、農民経営や独立手工業経営に「対立して、発展する」([3]p.582、S.354)。資本主義的協業が、協業の1つの特殊な歴史的形態として現われるのではなく、協業そのものが資本主義的生産過程に固有な、資本主義的生産過程を独自なものとして区別する歴史的形態として、現われる。
注の(24)。「小農民経済および独立手工業経営はいずれも、一部は封建的生産様式の基礎をなし、一部はこの生産様式の解体後に資本主義的経営とならんで現われるのであるが、それらは、同時に、本源的、オリエント的な共同所有制が解体したのち、奴隷性が生産を本格的に支配するまで、最盛期の古典的共同体の経済的基礎をなす」([3]p.582)
協業そのものが「個別的な独立労働者たちや小親方たちの生産過程に対立する、資本主義的生産過程の独自の形態として現われる。それは、現実の労働過程が資本に包摂されることによってこうむる最初の変化である」([3]p.582、S.354)。
この変化は自然発生的に生じる。
資本主義的生産の出発点――多数の賃労働者が同時に就業すること。「この出発点は、資本そのものの定在と一致する」。それゆえ、資本主義的生産様式が、労働過程を社会的過程へと転換させていくとすれば、他方では、労働過程のこの形態(協業)は、資本が労働過程の生産力を増大させ、それによってこの過程を有利に利用するための方法として現われる。」([3]p.583、S.355)。
【単純協業は独自の発展段階を示す形態とはならない】ここまで述べてきたような単純協業としては、協業は「比較的大規模な生産と同時に現われる」が、「資本主義的生産様式の1つの独自の発展段階」をしめす「固定的特徴的形態」とはならない。つまり、単純協業というのは、資本主義固有の協業の形態をなすものではないということ。
これまで考察してきたような単純協業は、「せいぜいのところ、まだ手工業的な初期マニュファクチュア」の段階でしか現われない。しかし、「単純協業は、資本が大規模に作動しているが、分業または機械が重要な役割を演じていないような生産諸部門では、いつまでも支配的な形態である」([3]p.583、S.355)。
【単純協業は、いっそう発展した形態と並んで現われる】協業は、資本主義的生産様式の基本形態である。ただし、その単純な姿態そのものが、いっそう発展した諸形態とならぶ特殊な形態として現われるが。([3]p.584、S.355)
「分業にもとづく協業は、マニュファクチュアにおいて、その典型的な姿態をつくり出す。それが、資本主義的生産過程の特徴的形態として支配的なのは、おおよそ16世紀中葉から18世紀最後の3分の1期にいたる本来的マニュファクチュア時代のあいだである」([3]p.585、S.356)
「マニュファクチュアは、二重の仕方で発生する」
(1)は、種類を異にする自立的な手工業の結合から出発する。これら手工業は、自立性を奪われ、一面化され、同一商品の生産過程における相互補足的な部分作業に転化する。
(2)は、同じ種類の手工業者の協業から出発し、同じ個別的手工業をさまざまな特殊的作業に分解し、これらの作業を分立化させ、自立化させ、それぞれの作業が1人の特殊的労働者の専門的職能になるところまでもっていく。
しかし、いずれの場合も、「マニュファクチュアの最終の姿態は同じもの――人間をその諸器官とする1つの生産機構である」([3]p.589、S.358)
マニュファクチュアにおける分業を正しく理解する――
終生にわたって同一の単純な作業を行なう労働者が、自分の身体全体を、その作業の自動的・一面的な器官に転化」し、それゆえに「その作業に使う時間」は独立手工業者の場合よりも短縮される。それゆえに、労働の生産力が高められる。(同前)
ここに初めて「結合された全体労働者」という言葉が登場する。([3]p.590、S.359)
マニュファクチュア的分業と、資本主義以前の社会的分業との比較。([3]pp.591〜、S.360〜)
マニュファクチュアによる生産性の増大。([3]pp.593-594、S.361-362)
マニュファクチュアの編制の2つの基本形態。本質的に異なる2つの種類。この2つの形態は、マニュファクチュアが機械制大工業に転化する際に、まったく異なる役割を演じる。
2つの形態の違いは、生産する製品そのものの本性から生じる。
マニュファクチュアにおける作業を見てみると――
原料は、さまざまな部分労働者たちの手で生産局面を時間的に次々に通過しながら、完成させられる。この作業場を「全体機構」としてみるならば、原料はすべての生産諸局面に同時にそろって存在している。
「結合された細目労働者たちから成り立っている全体労働者は、用具で装備されたたくさんの手の一部分で針金を延ばし、同時に他方では他の手と道具で針金を真っ直ぐにし、皿に他の手と道具で針金を切り、とがらせるなどの働きをする」([3]p.599、S.365)
さまざまな段階的諸過程が、時間的継起から、空間的並存に転化されている。(同前)
「労働相互の、それゆえ労働者相互のこの直接的依存は、各個人にたいし自分の機能に必要な時間だけを費やすように強制するのであり、そのため、独立の手工業の場合とは、または単純な協業の場合とさえも、まったく異なる労働の連続性、画一性、規則性、秩序、とりわけ労働の強度までもが、生み出される。」([3]pp.600-601、S.365-366)
「一商品にたいし、その生産のために社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、商品生産一般にあっては、競争の外的強制として現われる。……これに反して、マニュファクチュアでは、与えられた労働時間内に与えられた分量の生産物を供給することが、生産過程そのものの技術的法則となる。」([3]p.601、S.366)
「マニュファクチュア的分業は、ただ社会的総労働者の質的に異なる諸機関を単純化しかつ多様化するだけでなく、これらの諸機関の量的な規模を決める――すなわちそれぞれの特殊機能を果たす相対的な労働者数または諸労働者群の相対的な大きさを決める――数学的に一定した比率をもつくりだす。」「マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程の質的編制とともに、その量的な規則および比例性をも発展させる。」([3]p.602、S.366)
【監督労働】監督労働。1つの生産局面から他の生産局面への部分生産物の運搬。「これらの諸機能が自立すること、またそれらが特殊な労働者に割り当てられることは、就業労働者数の増大と結びついて初めて有利になる」([3]p.602、S.367)
「同じ部分機能をおこなう労働者たちの個々の群、小集団は、同質な諸要素から成り立っており、全体機構の1つの特殊な器官を形成する」([3]p.603、S.367)
「この群そのものが1つの編制された労働体」(同前)
「この労働体は、ただ統一体としてのみ、すなわち5つの特殊器官の直接的協業によってのみ、機能を果たしうる」(同前)。
「マニュファクチュアは、その一部がさまざまな手工業の結合から生じるように、さまざまなマニュファクチュアの結合に発展する場合がある」([3]p.604、S.368)
例えば、生産手段のマニュファクチュアが生産物のマニュファクチュアと結合される場合。しかし、「この結合されたマニュファクチュアは、多くの利点をもたらすとはいえ、それ自身の基礎のうえでは、真の技術的統一をなんら達成しない」([3]p.605、S.368)
マニュファクチュア時代は、商品生産に必要な労働時間の短縮を、やがて意識的な原理として表明する」が、「それはまた、機械の使用をも散在的に発展させる」(同前)
【マニュファクチュアのもとでも散在的に機械は使用される。しかし、基本はあくまで多数の部分労働者からなる全体労働者そのものにある】機械の散在的使用([3]p.605、S.369)
しかし、「マニュファクチュア時代の独自の機械は、依然として、多数の部分労働者たちから結成された全体労働者そのものである」([3]p.607、S.369)
マニュファクチュアは、「生来ただ一面的な特殊機能にしか適さない諸労働を発展させる」。そうなると、「全体労働者は、同じ程度の熟練技をもつあらゆる生産的特質をそなえ、同時に、特殊な労働者または労働者群において個別化されている自己のすべての器官を、もっぱらその独自な諸機能をはたすために使用することによって、右の生産的諸特質を、最も経済的消費する。部分労働者の一面性が、またその不完全性さえもが、彼の全体労働者の分肢となる場合、完全性となる」。「全機構の連関により、部分労働者は機械の一部がもつ規則正しさで作業するように強制される」([3]pp.307-308、S.369-370)
【マニュファクチュアは労働力の等級制を発展させ、不熟練労働者の階層を生み出す】マニュファクチュアは諸労働力の等級制を発展させる。([3]p.609、S.370)
それゆえマニュファクチュアは、不熟練労働者の一階層を生み出す。([3]p.609、S.371)
等級制的区別と並んで、労働者が熟練労働者と不熟練労働者とに単純に区分される。後者にとっては修業費はまったく不要。前者も、手工業者の場合に比べると、機能の単純化により修業費は減少する。したがって、どちらの場合も労働力の価値は低下する。([3]p.610、S.371)
「修業費が不要になるか、または減少することから、労働力の相対的な価値減少が生じるが、これは資本のより高い価値増殖を直接に含んでいる。」([3]p.610、S.371)
「労働そのものだけを眼中におくならば、農業、工業などのような大きな類への社会的生産の分割は、一般的分業と名づけることができ、種および亜種へのこれらの生産上の類の区分は、特殊的分業と名づけることができ、1つの作業場内部での分業は、個別的分業と名づけることができる」([3]p.611、S.371)
※この区分に何か意味があるんだろうか?
【価値法則】「確かに、さまざまな生産部面は、絶えず均衡を保とうとしている。すなわち一方で、各商品生産者はある使用価値を生産し、したがってある特殊な社会的欲求を充足しなければならないのであるが、これらの欲求の範囲は量的に相違している。それで、1つの内的なきずながさまざまな欲求群を1つの自然発生的体系に連結することによって、生産部面の均衡が保たれる。他方では、社会がその処分しうる全労働時間のうち、特殊な商品種類のそれぞれの生産にどれだけ支出しうるかを商品の価値法則が規定することによって、右の均衡が保たれる。しかし、均衡を保とうとするさまざまな生産部面のこの絶え間ない傾向は、この均衡の絶え間ない破壊にたいする反作用としてのみ働く」([3]pp.617-618、S.377)
「資本主義的生産様式の社会においては、社会的分業の無政府性とマニュファクチュア的分業の専制とは相互に制約し合っているのであるが、職業の特殊化が自然発生的に発展し、次いで結晶し、最後に法律的に確定された以前の社会諸形態は、これに反し、一方では、社会的労働の計画的かつ権威的な組織の姿を示すが、他方では、作業場内部の分業をまったく排除するか、または、それをきわめて小規模にしか、もしくは散在的かつ偶然的にしか、発展させない」([3]p.620、S.377-378)
【太古的な小さなインド的共同体】「太古的な小さいインド的共同体は、土地の共同所有と、農業と手工業との直接的結合と固定的分業を基礎としており、この固定的分業は、新たな共同体がつくられるさいに与えられた計画や見取図として役立つ。この共同体は、自給自足的な総生産体をなしており……」([3]p.621、S.378)。「この自給自足的な共同体の単純な生産有機体は、アジア諸国家の絶え間のない崩壊と再建ならびに絶え間のない王朝交替といちじるしい対照をなしているアジア諸社会の不変性の秘密をとく鍵を提供する」([3]p.622、S.379)
「マニュファクチュア的分業は、使用労働者数の増大を技術的必然性にまで発展させる」([3]p.624、S.380)
【資本の最小限の大きさがマニュファクチュアとともに大きくなる】「個々の資本家の手における資本の最低の大きさの増加、または、社会的な生活諸手段および生産諸手段の資本への転化の増加は、マニュファクチュアの技術的性格から生じる一法則である」([3]p.625、S.381)
「単純協業におけるのと同様に、マニュファクチュアにおいても、機能している労働体は、資本の一実存形態である。多数の個別的部分労働者から構成された社会的生産機構は、資本家に所属する。それゆえ、諸労働の結合から生じる生産力は、資本の生産力として現れる」([3]p.625、S.381)
【マニュファクチュアは労働者のあいだに等級的編制をつくりだす】「本来的マニュファクチュアは、以前の自立的労働者を資本の指揮と規律に従わせるのみでなく、なおそのうえに、労働者たちそのもののあいだの等級的編制をつくりだす。」([3]p.626、S.381)
【マニュファクチュアは労働様式を徹底的に革命する】「単純協業は、個々人の労働様式を一般に変化させないが、マニュファクチュアは、それを徹底的に革命し、個別的労働力の根底を襲う。それは、生産的な衝動および素質のいっさいを抑圧し、労働者の細目的熟練を温室的に助長することによって、労働者を不具にし奇形者にしてしまう……。特殊的部分諸労働が、さまざまな個人のあいだに配分されるだけでなく、個人そのものが分割されて、1つの部分労働の自動装置に転化され(る)。」([3]p.626、S.381)
【マニュファクチュア労働者は資本の付属物になる】「労働者は本源的には、商品を生産するための物質的諸手段をもたないから自分の労働力を資本に売るのであるが、いまや、彼の個別的労働力そのものは、それが資本に売られない限りは役には立たない。この個別的労働力は、いまや、それが販売されたあとではじめて実存する1つの連関のなかで、すなわち資本家の作業場のなかで、機能するにすぎない。マニュファクチュア労働者は、その自然的性状から自立的な物をつくることができなくされており、もはや資本家の作業場への付属物として生産的活動を展開するにすぎない」([3]p.626、S.381-382)
【生産過程における精神的諸能力の分離】「自立的な農民または手工業者がたとえ小規模にでも展開する知識、洞察、および意志は、いまではもはや、作業場全体にとって必要とされているにすぎない。生産上の精神的諸能力は、多くの面で消滅するからこそ、1つの面でその規模を拡大する。部分労働者たちが失うものは、彼らに対立して資本に集中される。部分労働者たちにたいして、物質的生産過程の精神的諸能力を、他人の所有物、そして彼らを支配する力として対立させることは、マニュファクチュア的分業の一産物である。この分離過程は、資本家が個々の労働者に対立して社会的労働体の統一と意志を代表する単純協業において始まる。この分離は、労働者を不具化して部分労働者にするマニュファクチュアにおいて発展する。この分離過程は、科学を自立的な生産能力として労働から分離して資本に奉仕させる大工業において完成する」([3]pp.627-628、S.382)
「マニュファクチュア時代には、労働諸部門のこの社会的分割をさらにはるかに前進させ、また他面では、その固有な分業によってはじめて個人の生命の根源を襲う」([3]p.631、S.384)
「分業にもとづく協業すなわちマニュファクチュアは、その発端では、自然発生的な形成物である。マニュファクチュアがいくらか堅実かつ広範に定在するようになるや、それは資本主義的生産様式の意識的、計画的、かつ組織的な形態となる」([3]p.632、S.385)
マニュファクチュアに固有な分業の出来上がり方――[1]経験的に、いわば登場人物たちの背後で、適切な諸形態を獲得する、[2]ひとたび見いだされた形態が幾世紀にもわたって固守される、[3]この形態が変えられるのは、労働用具の変革の結果である。([3]pp.632-633、S.385)
「マニュファクチュア的分業は、手工業的活動の分解、労働諸用具の専門化、部分労働者たちの形成、1つの全体機構のなかにおける彼らの群分けと結合とによって、社会的生産諸過程の質的編制および量的比例性、すなわち社会的労働の一定の組織をつくり出し、それによって同時に労働の新しい社会的生産力を発展させる。」([3]p.633、S.386)
「マニュファクチュア的分業は、社会的生産過程の独自的・資本主義的な形態としては――そしてそれは、既存の基礎の上では資本主義的形態でのそれとして以外に発展しえなかったが――相対的剰余価値を生み出すための、または資本……の自己増殖を労働者の犠牲において高めるための、1つの特殊な方法でしかない。マニュファクチュア的分業は、労働の社会的生産力を、労働者のためにではなく資本家のために、しかも個別的労働者を不具にすることによって発展させる。マニュファクチュア的分業は、労働にたいする資本の支配の新しい諸条件を生み出す。それゆえマニュファクチュア的分業は、一方では、社会の経済的形成過程における歴史的進歩および必然的発展契機として現われるとすれば、他方では、文明化され洗練された搾取の一手段として現われる」([3]pp.633-634、S.386)
【本来的マニュファクチュアの時代】「本来的なマニュファクチュア時代、すなわち、マニュファクチュアが資本主義的生産様式の支配形態である時代」([3]p.639、S.389)
本来的なマニュファクチュア時代のあいだ「マニュファクチュア独自の諸傾向の十分な展開は多面的な障害に突きあたる」([3]p.639、S.389)。
「マニュファクチュアは、社会的生産をその全範囲においてとらえることもできず、またその深部において変革することもできなかった」([3]p.641、S.390)
「マニュファクチュアは、都市手工業と農村家内工業との広範な基礎の上に、経済的作品としてそびえ立っていた」([3]p.641、S.390)
「マニュファクチュア自身の狭い技術的基盤は、ある一定の発展度に達すると、それ自身によってつくり出された生産諸要求と矛盾するにいたった」([3]p.641、S.390)
「マニュファクチュア的分業のこの生産物そのものが機械を生産した。この機械は、社会的生産の規制的原理としての手工業的活動を排除する。こうして、一方では、1つの部分機能への労働者の終身的合体の技術的基盤が除去される。他方では、同じ原理が資本の支配にたいしてなお課していた諸制限がなくなる」([3]pp.641-642、S.390)
人間の日々の労苦を軽くすることは「資本主義的に使用される機械の目的では決してない」([3]p.643、S.391)
「労働の生産力の他のどの発展とも同じように、機械は、商品を安くして、労働日のうち労働者が自分自身のために費やす部分〔必要労働部分〕を短縮し、彼が資本家に無償で与える労働日の他の部分〔剰余労働部分〕を延長するはずのものである。機械は、剰余価値の生産のための手段である」([3]p.643、S.391)
生産様式の変革は、大工業では労働手段を出発点とする。([3]p.643、S.391)
原注89 「技術学は、人間の自然にたいする能動的態度〔行動様式――仏語版〕を、人間の生活の直接的生産過程を、それとともにまた人間の社会的生活関係およびそれから湧き出る精神的諸表象の直接的生産過程〔知的表象あるいは概念の起源―――仏語版〕を、あらわにする。どんな宗教史も、この物質的土台を度外視するものは――批判的とは言えない。実際、分析によって宗教的な諸幻像の現世的核心を見いだすことは、その逆に、そのときどきの現実的生活諸関係からそれらの天国的な形態を展開することよりも、はるかに容易である。後者が唯一の唯物論的な、それゆえ科学的な方法である。歴史的過程を排除する抽象的・自然科学的唯物論の欠陥は、その代弁者たちが自分の専門外にとび出すやいなや、彼らの抽象的でイデオロギー的な諸表象からも、すでに見てとれる。」([3]pp.645-646)
【機械の3要素】機械の「3つの本質的に異なる部分」――[1]原動機、[2]伝動機構、[3]道具機または作業機――から成り立っている。([3]p.646、S.393)
「機械のこの部分、すなわち道具機こそが、18世紀産業革命の出発点をなすものである」([3]p.647、S.393)
「道具機本来の作業機をもっと詳しく考察すると、しばしば形態は非常に変えられているとはいえ、一般に、手工業者やマニュファクチュア労働者が作業するときに用いる装置と道具類が再現する。ただし人間の道具としてではなく、いまや1つの機構の道具として、または機械的道具として、である。」([3]p.647、S.393-394)
「道具機は、適当な運動が伝えられると、自分の道具で、以前に労働者が類似の道具で行なったのと同じ作業を行なう一機構である。原動力が人間から出てくるか、それ自身または一機械から出てくるかは、事態の本質をなにも変えない。本来的な道具が、人間から1つの機構に移されたときから、単なる道具に代わって機構が現われる。」([3]p.648、S.394)
【同種の機械の単純協業と機械体系の区別】多数の同種の機械の協業と機械体系の区別。([3]p.655〜、S.399-)
機械体系――「本来的な機械体系が個々の自立した機械に代わってはじめて現われるのは、労働対象が連関する一系列の相異なる段階過程を通過する場合であるが、それらの各段階過程は、種類を異にするが相互に補足し合う道具機の1つの連鎖によって遂行される」([3]p.667、S.400)
「ここでは、マニュファクチュアに固有な分業による協業が再現している」(同前)
「機械の体系は、……それが自動的な原動機によって運転されるようになるやいなや、それ自体として1つの大きな自動装置を形成する。」([3]p.659、S.402)
「工業と農業の生産方法における変革は、とくに、社会的生産過程の一般的諸条件、すなわち運輸・通信手段における変革をも必要とした。」([3]p.664、S.404-405)
「大工業は、その特徴的生産手段である機械そのものを掌握し、機械によって機械を生産しなければならなかった。こうしてはじめて大工業は、それにふさわしい技術的基礎をつくり出し、自分自身の足で立った。」([3]p.665、S.405)
「労働手段は、機械として、人間力に置き換えるに自然諸力をもってし、経験的熟練に置き換えるに自然科学の意識的応用をもってすることを必須にする、1つの物質的実存様式をとるようになる。マニュファクチュアでは、社会的労働過程の編制は、純粋に主観的であり、部分労働者の結合である。機械体系では、大工業は、1つのまったく客観的な生産有機体をもっているのであって、労働者は、それを既成の物質的生産条件として見いだすのである。単純協業においては、また分業によって特殊化された協業においてさえ、社会化された労働者による個別的な労働者の駆逐は、依然として、多かれ少なかれ偶然的に現われる。機械は、のちに述べるようないくつかの例外はあるが、直接的に社会化された、または共同的な、労働によってのみ機能する。したがって、いまや、労働過程の協業的性格が、労働手段そのものの本性によって厳命された技術的必然となる。」([3]p.667-668、S.407)
「協業および分業から生じる生産諸力は、資本にはなんらの費用も費やせない」([3]p.668、S.407)
「不変資本のほかのどの構成部分とも同じように、機械はなんらの価値を想像しはせず、自分が、その生産の役に立つ生産物に自分自身の価値を引き渡す。」([3]p.669、S.408)
第1に、「機械は労働過程にはいつも全部的にはいり込むが、価値増殖過程にはつねに部分的にのみはいり込む」。「機械は、それがその消耗によって平均的に失うよりも多くの価値を決してつけ加えない」([3]p.670、S.408)
「したがって、機械の価値と機械から生産物に周期的に引き渡される価値部分とのあいだには、大きな差がある」(同前)
【機械の生産性】「1つの機械の生産に、その機械の充用によって節約するのと同じだけの労働がかかるならば、労働の単なる置き換えが起こるだけであり、1つの商品の生産に必要な労働の送料は減少されないこと、すなわち労働の生産力は増大されないことは明らかである」([3]p.676、S.412)
「機械の生産に費やされる労働と機械が節約する労働とのあいだの差、すなわち機械の生産性の程度は、明らかに、機械自身の価値と機械によって置き換えられる道具の価値とのあいだの差には依存しない。」(同前)
「機械の生産性は、機械が人間労働力に取って代わる程度によってはかられる」([3]p.676、S.412)
「機械にその機械によって置き換えられた労働力と同じだけの費用がかかるとしても、機械そのものに対象化された労働は、つねに機械によって置き換えられた生きた労働よりもはるかに小さいのである」([3]p.679、S.414)
「生産物を安くするための手段としてのみ考察すれば、機械の使用の限界は、機械自身の生産に要する労働がその充用によって置き換えられる労働よりも少ない、という点にある」([3]p.679、S.414)
「とはいえ、資本にとっては、この限界はもっと狭く表わされる。資本は、充用された労働を支払うのでなく、充用された労働力の価値を支払うのであるから、資本にとっては、機械の使用は、機械の価値と機械によって置き換えられる労働力の価値との差によって限界づけられる。」([3]p.679、S.414)
「労働者の現実の賃銀は、ときには彼の労働力の価値以上に上がるのであるから、機械の価格と、それによって置き換えられる労働力の価格との差は、たとえ機械の生産に必要な労働分量と、機械によって置き換えられる労働の総分量との差が同じであっても、甚だしく変化することがありうる」([3]pp.679-680、S.414)
「労働力の価値は、個々の成年男子労働者の生活維持に必要な労働時間によって規定されただけでなく、労働者家族の生活維持に必要な労働時間によっても規定された。機械は、労働者家族の全成員を労働市場に投げ込むことによって、夫の労働力の価値を彼の全家族が分担するようにする。それゆえ機械は、彼の労働力の価値を減少させる。たとえば4つの労働力に分割された家族〔の労働力〕を買い入れることは、以前に家長の労働力を買い入れた場合よりもおそらく多くの費用がかかるであろうが、しかしその代わり、4労働日が1労働日に取って代わるのであって、それら労働力の価格は、4労働日の剰余労働が1労働日の剰余労働を超過するのに比例して下がる」([3]p.683、S.417)
「機械は、はじめから、資本の人間的搾取材料すなわちもっとも独自な搾取分野と同時に、搾取度を拡大する」([3]p.684、S.417)
(母親が働くようになって)「家事労働の支出の減少には、貨幣支出の増大が対応することになる。それゆえ労働者家族の生計費が増大して、収入の増大を帳消しにする。そのうえ、生活手段の利用や準備における節約と合理性が不可欠になる。公認の経済学によっては隠蔽されているこれらの事実については、工場監督官や『児童労働調査委員会』の『報告書』、とくに『公衆衛生にかんする報告書』のなかに豊かな資料が見いだされる」(原注121、[3]p.684)
「機械はまた、資本関係の形式的媒介、すなわち労働者と資本家とのあいだの契約を根底から変革する」([3]p.684、S417)
「商品の基礎上では、資本家と労働者とは自由な人格として、独立の商品所有者として……相対するということが、第1の前提であった。しかしいまや、資本は、児童や未成年者を買う。以前には、動労者は、彼らが形式的に自由な人格として処分できる自分自身の労働力を売った。いまや労働者は、妻子を売る。彼は奴隷商人となる。児童労働にたいする需要は、しばしば形式上でも、黒人奴隷にたいする需要……に似ている」([3]pp.684-685、S.418)
「婦人労働および児童労働の資本主義的搾取から生じる精神的な委縮」([3]p.691、S.421)
「未成熟な人間を単なる剰余価値製造機械に転化することによって人為的につくり出された知的荒廃――それは、精神の発達能力やその自然的豊饒性そのものの破壊なしに精神を休閑状態におく自然発生的な無知とはいちじるしく異なるものである」([3]p.691、S.422)
こうした知的荒廃は「ついに、イギリス議会をさえ強制して、工場法の適用を受けるすべての産業において、初等教育を14歳未満の児童の『生産的』消費のための法定の条件にさせるにいたった」([3]p.691、S.422)
「結合された労働人員に圧倒的多数の児童および婦人をつけ加えることにより、機械は、マニュファクチュアにおいて男子労働者が資本の専制に対抗してなお行なっていた抵抗を、ついにうちくだく」([3]p.695、S.424)
「機械が、労働の生産性を高めるための、すなわち商品の生産に必要な労働時間を短縮するための、もっとも強力な手段であるとすれば、資本の担い手としての機会は、それが直接的にとらえる諸産業では、まず第1に、労働日をあらゆる自然的制限を超えて延長するもっとも強力な手段になる。」([3]p.696、S.425)
【労働手段が労働者にたいして自立する】「まず第1に、機械においては、労働手段の運動および活動が労働者にたいして自立化する。労働手段は、それ自体として、1つの産業的な“永久運動機関”となるのであって、この機関は、それの人間的助手におけるある種の自然的制限、すなわち彼らの肉体的弱点と我意に衝突しないならば、普段に生産し続けるであろう。それゆえ自動装置は、資本として……、反抗的であるが弾力的な人間の自然的制限を押さえ込み最小限の抵抗にしようとする衝動によって、精気を吹き込まれている。この抵抗は、双でなくても、機械での労働の外見上の容易さと、いっそう従順で御しやすい婦人および児童の要素とによって、減らされている」([3]p.697、S.425)
【機械の社会基準上の摩滅】([3]p.699、S.426)
「機械の価値は――例えその機械がおよそどんなに若く生命力をもっていようとも――もう、事実上その機械自身のなかに対象化されている労働時間によって規定されるのではなく、それ自身の再生産またはより優れた機械の再生産に必要な労働時間によって規定される。それゆえその機械は、多かれ少なかれ減価している。機械の総価値が再生産される期間が短ければ短いほど、社会基準上の摩滅の危険はそれだけ少なくなり、また、労働日が長ければ長いほど、右の期間〔機械の総価値再生産の〕はそれだけ短くなる。」([3]p.699、S.427)
【機械による相対的剰余価値生産――力能を高められた労働による生産】「機械は、それが直接的に労働力の価値を減少させること、また、労働力の再生産にはいり込む諸商品を安くして労働力を間接的に安くすることによってのみ相対的剰余価値を生産するのではなく、また、機械がはじめて散発的に採用されるさいに、機械所有者によって使用される労働を、力能を高められた労働に転化し、こうして資本家が1日の生産物のより少ない価値部分で労働力の日価値を補填することができるようにすることによっても、相対的剰余価値を生産する。」([3]pp.702-703、S3428-429)
したがって、「機械経営が一種の独占状態にある」場合には、「利得は途方もなく大きく」なる。そのために、そういうあいだに「もっと徹底的に利用しよう」として「労働日のできる限りの延長」がおこなわれる([3]p.703、S.429)
しかし、「同じ生産部門における機械の普及につれて、機械生産物の社会的価値はその個別的価値まで低下し、またそれにつれて、剰余価値は資本家が機械によって置き換えた労働力から生まれるのではなく、逆に、資本家が機械につけて働かせる労働力から生まれるという法則が完徹する。」([3]p.703、S.429)
「機械経営は、たとえそれが労働の生産力を増大させることにより必要労働の犠牲において剰余労働を拡大するとしても、この成果をもたらすのは、与えられた資本によって働かされる労働者の総数を減少させることによってだけである」。「機械経営は、資本のうちの以前は可変的であった部分、すなわち生きた労働力に転化されていた部分を、機械に、すなわちなんらの剰余価値も生産しない不変資本に転化する」([3]p.703、S.429)
【機械の充用がもつ内在的矛盾】「したがって、剰余価値の生産のための機械の充用には、1つの内在的矛盾がある。というのは、機械は、与えられた大きさの資本が与える剰余価値の2つの要因のうち、一方の要因、すなわち労働者数を減少させることによってのみ、他方の要因、すなわち剰余価値率を増加させるからである。」([3]p.704、S.429)
「この内在的矛盾は、1つの産業部門における機械の普及につれて、機械で生産される商品の価値が同種のすべての商品の規制的な社会的価値になるや、ただちに現われてくる。」([3]p.704、S.430)
「この矛盾が、搾取される労働者の相対的総数の減少を、相対的剰余価値の増加のみならず絶対的剰余労働の増加によっても埋め合わせるために、労働日のこのうえない乱暴な延長へと資本をまたもやかり立てる……。」([3]p.704、S.430)
【機械の資本主義的充用は過剰人口を生み出す】「機械の資本主義的充用は、一方では、労働日の無際限な延長の新しい強力な動機をつくり出し、この傾向にたいする抵抗を打ちくだくような仕方で労働様式そのものと社会的労働体の性格とを変革するとすれば、他方では、一部は、労働者階級のうち、以前には資本の手の届かなかった階層を編入することによって、一部は、機械に駆逐された労働者を遊離することによって、資本の法則の命令に従わざるをえない過剰人口を生み出す」。([3]p.705、S.430)
そこから、「機械は労働日のあらゆる社会基準的および自然的な諸制限をくつがえす」、あるいはまた、「労働時間の短縮のためのもっとも強力な手段が、労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖のための自由に処分されうる労働時間に転化するもっとも確実な手段に急変する」という逆説が生まれる。([3]p.705、S.430)
ここへのフランス語版でのマルクスの注。労働の強化とは「労働をいっそう強度にする方法」を意味する。([3]p.707、S.431)
「機械が資本の手中で生み出す労働日の無際限な延長は、……のちにいたって、その生命の根源をおびやかされた社会の反作用を引き起こし、それとともに、法律によって制限された標準労働日をもたらす。」([3]p.707、S.431)
【労働日の制限から労働の強化が始まる】それとともに、「標準労働日を基礎として」、「労働の強化」が「決定的に重要なものとなる」(同前)
「絶対的剰余価値の分析にさいしては、まず第1に、労働の外延的大きさから内包的大きさまたは大きさの程度への転換を考察しなければならない」([3]p.707、S.431)
「労働者階級の次第に増大する反抗が、国家に強制して、労働時間を強権によって短縮させ、まず第1に本来的工場に標準労働日を命令させるやいなや、したがって、労働日の延長による剰余価値の生産の増大がきっぱりと断ち切られたこの瞬間から、資本は、あらゆる力と意識とをもって、機械体系の加速的発展による相対的剰余価値の生産に没頭した。それと同時に、相対的剰余価値の性格に1つの変化が現われる。」
【相対的剰余価値の生産とは】「一般的に言えば、相対的剰余価値の生産方法とは、労働の生産力の増大によって、労働者が同じ労働支出で同じ時間内により多く生産することができるようにすることである。」
「同じ労働時間は、相変わらず、総生産物に同じ価値をつけ加える」
【濃密化された労働は、粗放な労働より、より多くの価値を生産する】「労働日の強制的短縮が、生産力の発展と生産諸条件の節約に巨大な刺激を与えるとともに、同時に、労働者にたいして、同じ時間内における労働支出の増加、労働時間の気孔充填のいっそうの濃密化すなわち労働の凝縮を、短縮された労働日の以内でのみ達成されうる程度にまで強制するにいたるやいなや、事情は一変する。与えられた時間内へのより大量の労働のこの圧縮は、いまや、それがあるがままのものとして、すなわちより大きい労働分量として、計算される。『外延的大きさ』としての労働時間の尺度とならんで、いまや、労働時間の密度の尺度が現われる。」([3]pp.708-709、S.432)
12時間労働のより粗放な1時間に比べて、10時間労働のより集約的な1時間は、より多くの労働、同じか、またはより多くの支出された労働力をふくむ。「それゆえ、その1時間の生産物は、粗放な11/5時間の生産物に比べて、同じかまたはより多くの価値を持っている」。「労働の生産力の増大による相対的剰余価値の増加を別とすれば、いまや、たとえば、62/3時間の必要労働にたいする31/3時間の剰余労働は、以前には8時間の必要労働にたいする4時間の剰余労働が与えたと同じ価値量を、資本家に与えるのである」([3]p.709、S.433)
労働はどのようにして強化されるか?([3]p.709〜、S.433〜)
労働日短縮の第1の効果。「労働日短縮の第1の効果は、労働力の作用能力はその作用時間に反比例する、という自明の法則にもとづく」。つまり、労働時間を短くした方が労働効率があがるという「自明の法則」。
労働者が確実に労働力をより多く発揮させるように、「資本は、支払いの方法によって配慮する」([3]p.710、S.433)
「労働日の短縮は、さしあたり、労働凝縮の主観的条件、すなわち与えられた時間内により多くの力を流動化させる労働者の能力をつくり出す」。←これはさしあたり、上で述べたのと同じこと。労働時間が短くなることによって、労働者自身が、より効率よく働くようになるということ。
しかし、「この労働日の短縮が法律によって強制されるものとなるやいなや、機械は、資本の手中にあって、同じ時間内により多くの労働を絞り出すための、客観的な、かつ系統的に充用される手段となる」。([3]p.712、S.434)
そのための方法は2つある――
※2は、いわゆる「多能工化」のこと。
「労働が累進的に増加していくのは、歩行距離がいっそう増大するからだけでなく、生産される商品のが増加するのに工員が比例的に減少するからでもある」([3]p.714、S.436)
「労働日の延長が法律によってきっぱりと禁止されるやいなや、労働の強度の系統的な引き上げによってその埋め合わせをつけ、また機械のすべての改良を労働力のより大きな吸収のための手段に転じようとする資本の傾向は、やがてまた労働時間[←この労働時間は標準労働日のこと?]の再度の減少が不可避となる一つの転換点に到達せざるをえない」([3]p.722、S.440)
この節の課題。「工場全体、しかもそのもっとも完成された姿態における工場全体」([3]pp.724-725、S.441)
「1つの巨大な自動装置」([3]p.725、S.441)←これは、ユアの言葉
(1)第1の表現では、結合された総労働者または社会的労働体が支配的な主体として現われ、機械的自動装置は客体として現われる。
(2)第2の表現では、自動装置そのものが主体であって、労働者はただ意識のある諸器官として自動装置の意識のない書記官に付属させられているだけ。
「第1の表現は、大規模な機械のありとあらゆる充用にあてはまり、第2の表現は、その資本主義的充用を、それゆえ近代的工場制度を特徴づけている」([3]p.725、S.442)
専制君主としての機械。(同前)
「労働用具とともに、それを操縦する巧妙さもまた、労働者から機械に移行する。」([3]p.726、S.442)
「道具の作業能力は、人間労働力の個人的諸制限から解放されている」([3]p.726、S.443)
「マニュファクチュアにおける分業の土台をなしている技術的基礎が排除されている」(同前)
【機械による労働の均等化】「自動化工場では、マニュファクチュア的分業を特徴づけている専門化された労働者たちの等級制に代わって、機械の助手たちが行なわなければならない諸労働の均等化または平準化の傾向が現われ、部分労働者たちの人為的につくり出された区別に代わって、年齢および性の自然的区別が主要なものとして現われる。」([3]p.726、S.442)
「自動化工場において分業が再現する」場合について。([3]p.726〜、S.442〜)
後者の場合、労働者群は並列する同種の道具機について労働している。つまり、「彼らのあいだでは単純協業が行なわれる」([3]p.726、S.443)
「マニュファクチュアの編制された[労働者]群に代わって、主要労働者と少数の助手との連関が現われる」([3]p.726、S.443)
「本質的区別は、現実に道具機について働いている労働者(これに原動機の見張りまたは給炭を行なう何人かの労働者が加わる)と、これら機械労働者の単なる下働き(ほとんどが児童ばかりである)との区別である」([3]p.726、S.443)
【技師、機械専門工、指物職】「これらの主要部類の他に、技師、機械専門工、指物職などのような、機械全体の管理とその不断の修理とに従事している従事している数的には取るに足らない人員がいる。それは、比較的高級な、一部は科学的教養のある、一部は手工業的な、労働者部類であり、工場労働者の範囲外のものであって、右の部類のものに配属されているに過ぎない。この分類は純粋に技術的である」([3]p.272、S.443)
「機械によるすべての労働者、労働者が自分自身の運動を自動装置の画一的で連続的な運動に適合させうるようにするための、年少時からの修業を必要とする。」([3]p.727、S.443)
「機械全体が、それ自身、多様な、同時に働く、結合された諸機械の一体系を形成している限りでは、その機械全体にもとづく協業もまた、さまざまな種類の諸機械のあいだへのさまざまな種類の労働者群の配分を必要とする。」([3]p.727、S.443)
「機械経営は、同じ労働者に同じ職能を持続的に担当させることによって、この配分をマニュファクチュア式に固定化するという必要をなくしてしまう。」([3]p.727、S.443)
「工場の全運動が、労働者からでなく、機械から出発するのであるから、労働過程を中断することなしに、絶えず人員交替が行なわれうる」([3]p.727、S.444)
リレー制度([3]p.723、S.444)
「労働力の価値は、平均労働者が習慣的に必要とする生活手段の価値によって規定されている。この生活手段の総量は、その形態が変動することはあっても、一定の社会の一定の時代には与えられており、それゆえ不変の大きさとして取り扱われうる。変動するのはこの総量の価値である。」([3]p.889、S.542)
さらにマルクスは、2つの要因が「労働力の価値規定のなかに入り込む」と言っている。
これらの事情の違いは、「労働者家族の再生産費および成年男子労働者の価値において大きな差異をつくる」(同前)。
【労働力の価値と剰余価値を規定する3つの法則】ただし、生産力が高まって労働力の価値が低下したときに、労働力の価格がどれだけ低下するかという点では、「中間的諸運動が起こりうる」。つまり、実際に労働力の価値がどれだけ低下するかは、「資本の圧力」と「労働者の抵抗」の力関係(「相対的重量」)に依存する。([3]p.894、S.565)
【労働の生産力とともに変動するのは、生活手段1単位当たりの価値であって、生活手段の総量ではない】「労働力の価値は、一定分量の生活手段の価値によって規定されている。労働の生産力とともに変動するのは、この生活手段の価値であって、それらの総量ではない。この総量そのものは、労働の生産力が上昇する場合には、労働力の価格と剰余価値とのあいだになんらかの大きさの変動がなくても、労働者と資本家にとって、同時に同じ割合で増大しうる」。
(1)労働の生産力が2倍になっても、労働日の分割が(つまり剰余価値率が)同じままの場合――労働力の価格と剰余価値とは不変。しかし、それぞれの使用価値量は2倍になる。この場合、個々の商品1つの価格は2分の1になるので、労働力の価格が不変でも、賃金によって労働者が手に入れることのできる使用価値総量は増えるので、労働力の価値以上に高くなっていくということができる。
(2)労働の生産力が2倍になった場合でも、労働力の価格が2分の1まで低下しない場合には、労働力の価格は低下しても、受け取る生活手段の総量は増大する。「労働の生産力が上昇する場合には、労働者の生活手段総量が同時に持続して増大しながら、労働力の価格はたえず低下するということがありうる」([3]p.895、S.546)。しかし、その場合でも「相対的には、すなわち剰余価値と比較するならば、労働力の価値は絶えず低下」し、「労働者の生活状態と資本家の生活状態」の格差は拡大する(同前)。
「労働の強度の増大は、同一時間内での労働支出の増加を意味する」。
「強度のより大きい労働日は、同じ時間数の強度のより小さい労働日よりも、より多くの生産物にみずからを体化する」。
生産力が高まった場合も、同じ労働日により多くの生産物がつくられるようになるが、この場合は「個々の生産物は、以前より少ない労働しか費やさないので、その価値は低下する」。ところが労働の強化の場合は、生産物には「同量の労働」が費やされているのであり、したがって「個々の生産物の価値は不変のまま」である。
また、生産力が高くなる場合は、生産物の総量は増大するが、生産される価値総量は不変。それにたいし、労働の強化の場合は、生産物の数が増えるのに従って、その「価格総額は増大する」。
「時間数が同じままであれば、強度のより大きい労働日は、より高い価値生産物にみずからを体化し、したがって、貨幣の価値が同じままであるならば、より多くの貨幣にみずからを体化する」([3]p.897、S.547)。つまり、同一の労働日が「可変の価値生産物」で表わされる(同前)。
マルクスが紹介する数値例。通常の強度の12時間労働で6シリングを生産していたのが、労働の強化によって同じ12時間労働で8シリング生産するようになる。このとき搾取率=50%のままなら、労働力の価格と剰余価値は、どちらも3シリングから4シリングへ増える。しかし「労働の価格の騰貴は、ここでは、その価格がその価値以上に上昇することを、必ずしも含んではいない」。なぜなら、労働力の価格の騰貴が、「労働力の速められた消耗を償わない場合には」、労働力の価値以下に低下したことになるから([3]p.898、S.547)
「労働の強度が、すべての産業部門において同時にまた同じ程度に増価すると、この新しいより高い強度は通常の社会的標準となり、したがって、外延的な大きさとして数えられなくなる」([3]p.898、S.548)
「労働日の延長と不可分な労働力の消耗の増大は、一定の点までは、代償の増大によってつぐなわれうる。この点を超えると、労働力の消耗は幾何級数的に増大し、同時に労働力のすべての正常な再生産の諸条件と活動諸条件が破壊される。労働力の価格とその搾取度とは、相互に同じ単位で計量される大きさではなくなる。」([3]p.901、S.549)
「社会的に考察すると、労働の生産性は、労働の節約によっても増大する。労働の節約は、生産手段の節約だけでなく、あらゆる無用な労働を避けることをも含んでいる」([3]p.905、S.552)
「資本主義的生産様式は、個々の事業所内では節約を強制するが、その無政府的な競争制度は、社会的な生産手段と労働力の際限のない浪費を生み出し、それとともに、こんにちでは不可欠であるがそれ自体としては不必要な無数の機能を生み出す」(同前)
【未来社会論。労働日短縮のための絶対的短縮】「労働の強度と生産力が与えられているならば、そして労働が社会のすべての労働能力のある成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、また、ある社会層が労働の自然的必要性を自分から他の社会層に転嫁することができなくなればなるほど、社会の労働日のうちで物質的生産のために必要になる時間部分がそれだけ大きくなる。労働日短縮のための絶対的限界は、この面からすれば、労働の普遍性である。資本主義社会においては、一階級の自由な時間は、大衆のすべての生活時間を労働時間へ転化することによって生み出されている。」([3]p.905、S.552)
ここでは、利潤論にかかわることがいろいろと言及されている。
「剰余価値と労働力の価値とを価値生産物の分割部分として表わすことは――この表現様式は、ともかくも資本主義的生産様式から生ずるものであって、その意義はのちに解明されるだろう――資本関係の特殊な性格、すなわち、可変資本と生きた労働力との交換、およびそれに照応した生産物からの労働者の排除をおおい隠す。それに代わって、労働者と資本家とが生産物をその様々な形成諸要因の割合にもとづいて配分するある協同関係、といういつわりの外観が現われる。」([3]p.911、S.555)