HOME学習ノート>マルクス「経済学批判要綱」

マルクス『資本論草稿集[1]』

(資本論草稿集翻訳委員会訳、大月書店)

体系的な形を取った最初の経済学草稿。

1857年10月中頃〜1858年5月末にかけて執筆。

マルクスによってI〜VIIまでの番号をふられた7冊のノート。

1858年5月31日付のエンゲルスへの手紙(草稿集p.43では3月31日となっているが誤り)で、「やっと仕事ができるようになったので、さっそく印刷のための仕上げに取りかかる」「僕の方は僕自身の原稿に目を通すのにほぼ一週間はかかるだろうからだ。というつまり、忌々しいことには、原稿(これは印刷すれば分厚い一巻になるだろう)のなかにはいろいろなことがごちゃ混ぜになっており、ずっと後の方におくべき箇所がたくさんあるのだ。こういうわけで、僕は索引を一つ作って、僕がまず著作にとりいれるべき者がどのノート、どのページに乱雑に書いてあるかを、調べてみなければならないのだ」と書いている。

「やっと仕事ができるようになった」というのは、マルクスは1858年5月6日〜24日にマンチェスターのエンゲルスのもとに滞在。健康回復のためにスポーツや乗馬にふけり、同時に「資本の章」の仕事をした(全集注292による)。4月29日付の手紙で、マルクスは「激しい肝臓病の発作」で手紙を書くことができなかった、とエンゲルスに書いている。

○1857年12月8日 エンゲルスへの手紙

「僕は経済学研究のとりまとめて毎晩気違いのように仕事をしている。大洪水までには少なくとも要綱だけでもはっきりさせるためだ」

※1857年11月ごろに恐慌が起きていた。

○1857年12月18日 エンゲルスへの手紙

「僕は猛烈に勉強している。たいてい朝の四時までやっている。というのは、仕事は二重のものだからだ。(1)経済学の要綱の仕上げ。(読者のために問題の根底まで入っていくこと、そして僕個人としてこの悪夢から解放されること、これはどうしても必要だ)
 (2)現在の恐慌。……」

マルクスは、12月21日にも、ラサールに「現在の恐慌は、僕を駆り立てて、今度こそは僕の経済学の要綱の仕上げに真剣に没頭させ、また現在の恐慌についても何かを準備させることになった」と書き送っている。

1858年1月5日には、エンゲルスに「軍事的なものを引き受けるためには、僕は博物館で多大の時間を費やさなければならないだろうし、おまけにちゃんとしたものは何も書けないのだから、それは今回は問題になりえない。というのは、僕はどうしても別の仕事を仕上げなければならないからだ――それはすべての時間を奪ってしまう――、たとえ僕の頭上で家が崩れ落ちようとも!」と書き、軍事問題の論文執筆を代わってくれるように頼んでいる。

1858年1月11日。「経済学の原理の仕上げでは僕は計算の誤りのために恐ろしくさまたげられているので、絶望のあまり、もう一度決心して大急ぎで代数をやってみることにした。算術は僕にはやはり縁がなかった」と計算で手こずっていることをなげいている。

1858年1月16日頃。エンゲルスへの手紙に、経済学の研究について「とにかく、かなりの進展が感ぜられる」「これまであったような利潤に関する学説は全部ひっくり返してしまった」と書いている。また、「編集の方法では、ほんの偶然のことから……ヘーゲルの論理学にもう一度目を通したと言うことが大いに役立った」「ヘーゲルが発見はしたが同時に神秘化してしまった方法における合理的なものを、印刷ボーゲンの二枚か三枚で普通の人の頭に分かるようにしたいものだ」と書いている。それから、この手紙には、バスティアの『経済的調和』について、「こんな調和のとれたごった煮のスープをうまくつくることは、ただフランスの俗物だけにできることだったのだ」と書いている。

1858年1月29日。エンゲルスに、「経済学の仕事の途上で君の実際的な解明をいくつかお願いしたい」「資本の流通――事業の相違によるその相違、利潤や価格へのその影響。これについて少しばかり教えてもらえると非常にありがたい」と質問。

1858年2月22日。エンゲルス宛に「経済学の仕事がどうなっているかを知らせよう」という手紙。「数カ月前から最後の仕上げに取りかかっている。だが、仕事の進行は非常に緩慢だ。というのは、何年も前から研究の主要目的としてきた諸対象が、いよいよそれらを片づけるべきと気になると、絶えずまた新たな側面を現わし、新たな熟考を必要にさせるからだ」。そして、プランについて説明。
「さしあたり問題になる仕事は、経済学の諸範疇の批判だ。または、ブルジョア経済学体系の批判的叙述といってもよい。それは、体系の叙述であると同時に、叙述による体系の批判でもある」
「全体でどれだけの印刷ボーゲンになるか、全然見当がつかない」
「全体は6つの篇に分かれる」として、プランを書いている。
 (1)資本について(いくつかの序章を含む)。
 (2)土地所有について。
 (3)賃労働について。
 (4)国家について。
 (5)国際貿易。
 (6)世界市場。
 さらに「全体として、経済学および社会主義の批判や歴史は、別の著作の対象をなすべきものだろう。最後に、経済に関する諸範疇や諸関係の発展の簡単な歴史的素描が第三の著作になる」と書いている。

1858年3月2日。エンゲルスに手紙で「君たちの工場では、どのくらいの期間で機械設備を更新するか、教えてもらえないだろうか?」と尋ねている。5年ごとに更新されるという説は「僕にはやや意外で、十分には信用できないように思われる」。「機械設備が更新させる平均期間は、大工業が確立されて以来産業の運動が通る多年的循環を説明する上での一つの重要な契機なのだ」とも述べている。これにたいして、エンゲルスは、3月4日付の手紙で、減価償却は平均7.5%、したがって機械の更新は13+1/3年になると返事。マルクスは「13年という数字は、それが必要な限りでは、理論に一致している」と礼を述べた(3月5日付)。

1858年3月11日付ラサールへの手紙。出版社探しを依頼している?(ラサールからの返事について、マルクスは3月29日付の手紙でエンゲルスに報告している) 第一分冊は、(1)価値、(2)貨幣、(3)資本一般(資本の生産過程、資本の流通過程、両者の統一または資本および利潤、利子)。さらに、「僕は全体を六冊に分けるのだが、この六冊すべてを一様に書き上げようという意図は、僕は全然持っていない。そうではなく、後の方の三冊ではどちらかと言えばただ大筋を与えるものだけでよいのだが、前の方の三つは本来の経済学の基礎の説明を含んでいる」と説明。

1858年4月2日付エンゲルスへの手紙。この手紙で、もう一度プランについて説明。
 A、全体の6巻構成
「全体が六巻に分かれる予定だ。(1)資本について。(2)土地所有。(3)賃労働。(4)国家。(5)国際貿易。(6)世界市場。」
 I 資本は四つの篇に分かれる。(1)資本一般(これが第一分冊の素材)。(b)競争、すなわち多数資本の対相互作用。(c)信用。ここでは資本が個々の諸資本に対立して一般的な要素として現われる。(d)株式資本。もっとも完成した形態(共産主義に移るための)であると同時に、資本のあらゆる矛盾を備えたものとしてのそれ。資本から土地所有への移行は同時に歴史的でもある。というのは、土地所有の近代的形態は、封建的等々の土地所有にたいする資本の作用の産物だからだ。同様に土地所有から賃労働への移行も、単に弁証法的であるだけではなく、歴史的でもある。というのは、近代的土地所有の最後の産物は賃労働の一般的定立であり、ついで賃労働が全体の基礎として現われるのだから。
 つぎに、要点に移ろう。
 I 資本。第一篇。資本一般。……
 1 価値。……
 2 貨幣。……
 (a)尺度としての貨幣。
 (b)交換手段としての貨幣、または単純な流通。
 (c)貨幣としての貨幣
 (d)この単純な流通はブルジョア社会の表面であって、それが出てくるところの、もっと深いところで行なわれる諸操作は、そこでは消え去っているのだが、このようなそれ自体として考察された単純な流通は、交換のいろいろな主体の間の相違を、ただ形態的で一時的な相違の他には、何も示していない。これこそは、自由と平等と「労働」にもとづく所有との国なのだ。……貨幣蓄蔵……
 3 資本。

1857〜1858年草稿の構成
ノート 原ページ タイトル 執筆時期 邦訳ページ
I   II 貨幣にかんする章   [1]p.69
    アルフレッド・ダリモン『銀行の改革について』    
  12 [貨幣の成立と本質]   [1]p.112
  28 [貨幣関係の担い手としての貴金属]   [1]p.164
  34 [貨幣の通流]   [1]p.185
II 1 ([貨幣の通流]続き)   [1]p.241
  8 資本としての貨幣にかんする章   [1]p.273
    [貨幣の資本への転化]   [1]p.273
  22 [資本と労働の間の交換]   [1]p.327
    ※プラン   [1]p.329
III 1〜7 バスティアとケアリ   [1]pp.3-22
  8 [資本と労働の間の交換]続き   [1]p.350
  13 [労働過程と価値増殖過程   [1]p.366
  32 [絶対的剰余価値と相対的剰余価値]   [1]p.425
  43 [剰余価値と利潤]   [1]p.466
IV 1 [剰余価値と利潤]続き   [1]p.475
         

経済学批判要綱序説

【研究にあたっては、主体は与えられている】

「経済学的諸範疇の歩みの場合にも、次のことがつねに堅持されなければならない。すなわち、現実でと同じように頭脳においても、主体が、ここでは近代ブルジョア社会が与えられていると言うこと、それゆえ諸範疇は、この一定の社会の、この主体の定在諸形態、実存諸規定を表現しており、しばしばただこの一定の社会の個々の側面だけを表現しているということ、そしてそれ故にこそ、近代ブルジョア社会は、科学の上でもまた、そのままのものとしての近代ブルジョア社会が問題となるところで初めて始まるものでは決してないということである。」([1]59ページ)

「したがって経済学的諸範疇を、それらが歴史的に規定的な範疇であったその順序のとおりに並べるということは、実行できないことであろうし、また誤りであろう。むしろ、それらの序列は、それらが近代ブルジョア社会で相互にたいして持っている関連によって規定されているのであって、この関連は、諸範疇の自然的序列として現われるものや、歴史的発展の順位に照応するものとは、ちょうど反対である。」([1]61ページ)

【篇別区分】

「篇別区分は、明らかに、次のようになされるべきである。すなわち、
 (一)一般的抽象的諸規定。それらはしたがって多かれ少なかれすべての社会諸形態に通じるが、それも以上に説明した意味で。
 (二)ブルジョア社会の内的編成をなし、また基本的諸階級がその上に存立している諸範疇。資本、賃労働、土地所有。それら相互の関連。都市と農村。三大社会階級。これら三階級のあいだの交換。流通。信用制度(私的)。
 (三)ブルジョア社会の国家の形態での総括。自己自身にたいする関係での考察。「不生産的」諸階級。租税。国債。公信用。人口。植民地。移民。
 (四)生産の国際的関係。国際的分業。国際的交換。輸出入。為替相場。
 (五)世界市場と恐慌。」([1]62ページ。原文は改行なし)

II 貨幣にかんする章

【金銀の節約】

「今日の銀行組織は、穀物飢饉のさいに国民にとってもっとも有益に使用しようと思えば使用できる購買手段を、遊休状態に押しこめるために、収益の多い生産の転換過程をたどるべき資本を一般に、流通の不生産的で無駄な基礎とするために、金をこんなに大量に積み上げなければならぬことを必要とするということがあるであろうか? したがってこのばあいに問題にされていることは、流通の内部における金銀の節約がいまだその経済的限界にまで押し下げられていないために、今日の銀行組織においては、不生産的な金属準備が未だその必要最低限度以上の水準にある、ということなのであろう。」([1]77ページ)

【流通用具の変更で生産諸関係と分配諸関係を変革することができるのか?】

「ここでわれわれは、出発点とはもはや関係のない根本問題に到達している。問題は一般的にはこうであろう、すなわち、流通用具の――流通組織の――変更によって、現存の生産諸関係とそれに照応する分配諸関係とを変革することができるか? と。さらに次のことが問題となる、すなわち、流通のそのような変形は、現存の生産諸関係とそれに立脚した社会的諸関係に手を触れることなしに、それを企てることができるのであろうか? と。……こうした根本前提の誤りは、生産諸関係、分配諸関係および流通諸関係の内的関連について同じ誤った理解のあることを証明するに十分であるだろう。……さらに、貨幣のいろいろの文明化された形態――金属貨幣、紙幣、信用貨幣、労働貨幣(これは社会主義的形態のものとしての)――は、貨幣という範疇で表現されている生産関係そのものを止揚することなしには、これらの様々な形態から期待されるものを達成することができるかどうか、またそのばあい他方では、ある関係の形式的な転形によってこの関係の本質的諸条件をのりこえようとすることは、やはりまた自分自身を台無しにしてしまう要請ではないかということが、さらに研究されるべきである。というよりもむしろ、そのことが、一般的な問題となる。……しかし、どのような諸形態であっても、それらがあくまで貨幣の諸形態であるかぎり、そして貨幣があくまで本質的な生産関係であるかぎり、それらは、貨幣の関係に内在する諸矛盾を止揚できるわけではなく、ただそれらの諸矛盾をあれやこれやの形態で表出することができるだけである。どのような形態の賃労働も、祖のある形態は、他のある形態の弊害を克服できるかも知れないが、賃労働そのものの弊害を克服することはできない。……他の生産諸関係にたいする流通の関係についてのこの一般的な問題は、もちろん最後になって初めて提出できるものである。プルドンとその仲間たちが、この問題を一度もその純粋な形でだすことをしないで、ただ時おりそれについて大げさな叫び声を上げている点には、初めから疑惑がなくならない」([1]81〜82ページ)

【貨幣流通と信用の混同】

「ダリモンの冒頭からただちにわかるのは、貨幣通流と信用とが全く同一視されていることであるが、これは経済学的に誤っている」([1]p.83)

「真の問題はこうである。すなわち、ブルジョア的な交換制度そのものが一つの特有な交換用具を必要とするのではないか? その制度がすべての諸価値にたいする一つの特殊な等価物を必然的につくりだすのではないのか? このような交換用具という、言いかえればこのような等価物というある一つの形態は、他の形態にくらべてより取り扱いやすく、より適切なものであり、それにまつわる不便もより少ないものであるかもしれない。だが、一つの特殊的な交換用具、つまり特殊的であるにもかかわらず一般的でもあるような一つの等価物の存在から生じる不便は、たとえ形態は異なるにせよ、どの形態のうちにも再現してくるに違いあるまい。このような問題そのものを、ダリモンはもちろん夢中になって飛び越えていく。貨幣を廃止せよ、そして貨幣を廃止するな!」([1]89ページ)

「価値の規定者になるのは、生産物に合体された労働時間ではなくて、現在必要な労働時間である」([1]102ページ)

たとえば、金1ポンドを生産するのに必要な労働時間が20時間から10時間になったとする(金の労働生産性が2倍に上昇)。すると、他の商品の価格は2倍に騰貴する。だから「それを兌換できるように維持するためには、労働時間の生産性が停滞したままになっていなければならないであろう。そのうえ生産費用がたえず減少し、生きた労働がたえずより生産的となり、したがって生産物に対象化された労働時間がたえず減価するという一般的な経済法則から見て、たえまない減価こそ金製の労働貨幣の不可避的な宿命となるであろう。こうした窮地をまぬがれるためには、労働時間称号をうけとるべきは金ではなくて、……紙幣、つまりたんなる価値章標がこの称号をうけとるべきだということができよう。労働時間がより生産的になるとすれば、労働時間を代表する票券はその購買力を高め、逆の場合には逆であろう。……金製労働貨幣がたえまない減価に服さざるをえない同じ法則によって、紙製労働貨幣はたえまない増価に浴することになろう。」云々([1]103ページ)

「しかし、不幸なことに、いささか疑念が生じる。まず第一に、ひとたびわれわれが貨幣を想定する以上は、たとえそれが時間票券にすぎないとしても、われわれは貨幣の蓄積をも前提しなければならないし、この貨幣の形態のもとですでにとり結ばれているであろうもろもろの契約、債務、固定負債などを前提しなければならない。蓄積された票券は、新しく発行される票券と同様に、たえまなく増価するであろうし、しかも一方では、労働の生産性の増大が労働しない人々に役立ち、他方では、以前に契約された負債が労働の剰余成果と歩調を合わせていく。」([1]103〜104ページ)

【時間票券の兌換性について】

「ここで研究しておくべき点は、時間票券の兌換制である。……この迷妄は時間票券の基礎になっており、プルドンの流通理論をその一般理論――彼の価値規定の理論――と結びついている最深の秘密をわれわれに除かせてくれる」([1]104〜105ページ)

(1)すべての商品(労働を含めて)の価値(実質的交換価値)は、その商品の生産費用によって、別の言葉で言えば、その商品の生産のために必要とされる労働時間によって、規定されている。価格は、この商品の交換価値が貨幣で表現されたものである。したがって自分の呼称を労働時間そのものから受けとるような労働貨幣によって、金属貨幣(およびそれからその呼称を受けとる紙幣または信用貨幣)を代替するならば、商品の実質価値(交換価値)とその名目価値、価格、貨幣価値とを等置することになるであろう。実質価値と名目価値との、価値と価格との等置。しかしこうしたことは、価値と価格とが名目的にしか違っていないというような前提のもとでしか達せられないであろう。だがそうしたことは、けっしてありえない。
 (2)労働時間によって規定された商品の価値は、商品の平均価値であるにすぎない。平均、それが一時代をつうじての平均数値として合算して引き出される限りでは、外在的抽象として現われる平均――たとえば、かりにコーヒー価格の平均が二十五年間をつうじたものとして引き出された場合、一ポンドのコーヒーが一シリングであるというように。しかしこの平均は、それが同時に、商品価格が一定期間の間だけ経過する変動の推進力であり、また運動原理であるものとして認識される場合には、きわめて実在的である。この実在性は、ひとり理論的に重要であるばかりではない――それは商人的投機の基礎となっており、投機の確率計算は、変動の中心とみなされる中位的な平均価格とこの中心以上ないし以下の変動の高位平均と低位平均とに由来している。
 (3)商品の市場価値は、こうした商品の平均価値とはいつも異なっており、いつもそれ以上かそれ以下である。市場価値は、そのたえまない変動をつうじて、第三者としての実質価値との等置をつうじてではなくて、自分自身との不断の不均等化をつうじて……実質価値に均等化される。実質価値そのものが――実質価値が市場価格の変動を支配することとは独立に……――、ふたたび自己自身を否定し、また商品の実質価値をたえずそれ自身のもつ規定と矛盾させること、現存諸商品の実質価値を減価させ、または増価させるということは、プルドンに反論した私のパンフレットの中で示しておいた……。
 (4)そういうわけで価格は価値とは区別される。それはたんに名目的なものが実質的なものと区別されるというばかりではない。つまり、金銀で表わされた呼称によってだけでなく、価値は価格がたどるもろもろの運動の法則として現われるということによっても区別されるのである。だが両者はたえず異なっており、両者は一致することは決してないか、または全く偶然に、そして例外的にしかない。商品価格はたえず商品価値以上か、または以下にあり、しかも商品価値そのものは商品価格の上下運動のうちにしか実存しないのである。
 (5)……時間票券論者たちの第一の根本幻想は、彼らが実質価値と市場価値とのあいだの、交換価値と価格とのあいだの名目的創意を廃止することによって――したがって価値を、ある一定の労働時間の対象化されたもの、たとえば金銀で表現するかわりに、労働時間そのもので表現することによって――、彼らはまた、価格と価値とのあいだの現実的区別と矛盾を除去するという点にある。そういうわけで、時間票券を採用することだけによって、すべての恐慌、ブルジョア的生産のすべての弊害がどのように除去されることになるかは、おのずからわかってくる。([1]105〜107ページ)

(1)〜(5)は引用者による。ここでマルクスは、次のように論じている。
 ――労働時間票券による交換というのは、商品の価値と価格を等置することを意味する。それは、価値と価格とは名目的な違いにすぎないという前提のもとでしか達せられないことだが、そういうことはありえない。
 ――労働時間によって規定された商品の価値というのは、商品の「平均価値」である。そういうものは、市場価格の「平均」として存在するが、それは単なる「外在的抽象」ではなく、その平均価格からの乖離によって投機がおこなわれることから分かるように「実在的」なものである。
 ――商品の市場価値(価格)は、こうした商品の「平均価値」とはいつも異なっている。価格は、「たえまない変動」=「自分自身の不断の不均等化」を通じて、実質的価値に均等化される。
 ――したがって、価格と価値とは区別される。それは、たんに名目的な価格(頭の中で、商品Aはこれこれの金貨幣に値するとされた場合)と、実際に交換された一定量の金貨幣との違いというだけでなく、「価値は、貨幣がたどる運動の法則」であるという点で区別される。価値と価格はつねに異なっており、価格は常に価値以上か価値以下であるが、価値そのものは価格の上下運動の内にしか存在しない。
 ――だから、時間票券論者の第一の根本幻想は、価値と価格の「名目的相違」を廃止することで、価格と価値との現実的区別と矛盾を除去できると考えるところにある。
 マルクスは、以上のように論じて、価値と価格の名目的な相違をなくすことによって、つまり価値どおりの商品交換を実現することで、商品の矛盾をなくそうとするプルードンらを批判している。

 先ほど省略した部分に――
「需要と供給とが絶えず商品価格を決定する。両者が一致することは決してないか、または偶然にしかない。しかし生産費用は、それはそれで需要と供給との変動を規定する。一商品の価格、その市場価値がそれで表現されている金または銀は、それ自身蓄積された労働の一定量であり、物質化された労働時間の一定容量である。商品の生産費用と金軍の生産費用が同じままで変わらないと前提すれば、商品の市場価格の騰落ということは、x労働時間に等しい一商品は、市場ではたえずx労働時間より多くか、または少なくかを支配すること、労働時間によって規定されている商品の平均価値以上か、または以下にあることを意味しているにすぎない」([1]106〜107ページ)

「平均労働時間を代表する時間票券は、けっして現実の労働時間に照応しないであろうし、またけっしてそれにたいして兌換のできるものではないであろう。すなわち、一商品に対象化された労働時間は、けっして自分と等しい量の労働貨幣を支配しないであろうし、逆に労働貨幣はそれに等しい量の商品に対象化された労働時間を支配することもけっしてないであろう。今日市場価値のどのような変動も金価格と銀価格との騰落のうちに表現されているように、より多くか、より少なくかを支配するであろう。」([1]109ページ)

[貨幣の成立と本質]

「商品(生産物または生産用具)はいずれも、一定の労働時間の対象化に等しい。商品の価値、すなわち商品が他の諸商品と交換され、あるいはまた他の諸商品がその商品と交換される割合は、その商品に実現されている労働時間の分量に等しい。」([1]112ページ)

「商品の価値は、商品それ自体からは区別されている。商品が価値(交換価値)であるのは、交換(現実の交換であれ、表象された交換であれ)においてだけである」(同)

「価値としては、商品は同時に他のすべての商品にたいする、一定の割合での等価物である。価値としては、商品は等価物である。等価物としては、商品のすべての自然的諸性質は、商品において消失している。商品は他の商品にたいして、もはや質的な特殊な関係にあるのではなくて、他のすべての商品の一般的尺度であるとともに、一般的代表物でもあり、また一般的交換手段でもある。価値としては、商品は貨幣である。」([1]112〜113ページ)

【第二の問題】

「価値としての商品の性質は、商品の自然的存在とは異なった存在をとることができるだけでなく、また同時にとらなければならないのである。なぜか?」([1]113ページ)

 貨幣の性質。(1)商品交換の尺度として、(2)交換手段として、(3)諸商品の代表物として、(4)特殊な諸商品と並ぶ一般的商品として。([1]120ページ)
 ※(1)は価値尺度機能、(2)は交換手段、(3)と(4)は貨幣?

商品交換の発展と貨幣関係の発展

[1]120ページ下段

「交換の必要と生産物の純粋な交換価値への転化とは、分業と同じ度合いで、すなわち生産の社会的性格とともに進展する。しかしながら後者の成長と同じ度合いで、貨幣の力〔Macht〕が成長する。すなわち交換関係が、諸生産者にたいしては外的な、そして彼らには依存しない力として基礎を固める。本来は生産を促進する手段として現われていたものが、諸生産者にたいして疎遠な関係となる。諸生産者が交換に依存するようになるのに比例して、交換が彼らに依存しなくなるように見え、生産物としての生産物と交換価値としての生産物とのあいだの亀裂が大きくなるように見える。貨幣がこれらの対立と矛盾をつくりだすのではなくて、これらの対立と矛盾の発展が、貨幣の仮象としての超越的な力をつくりだすのである。あらゆる諸関係の貨幣諸関係への転化……。」([1]120〜121ページ)

 [1]121ページ下段から。「ここで当面する問題は以下の点である」として、問題が4つ並んでいる。
 第一の問題。商品が二重に存在しているという事実。規定された生産物として、交換価値として。「この二重の異なった存在は区別にまで、区別は対立と矛盾にまで進まざるをえない」([1]121〜122ページ)
 第二。交換行為が二つの独立した行為に分裂する――購買と販売。この二つの行為は空間的にも時間的にも相互に分離され、相互に無関心になり、直接的な同一性はなくなる。「以前の直接的な相等性にかわって、いまでは不断の均等化の運動が現われているのであって、後者はまさに不断の不均等化を前提としている」([1]123ページ下)
 第三。もう一つの新しい関係の登場。交換のための交換が、諸商品のための交換から分離する。商人身分の登場。売るためだけに買い、買うために売る。([1]123ページ下)

【共同社会的生産】

「個々人の労働は、生産の行為それ自体の内部で考察すれば、彼が直接に生産物を、彼の特殊的な活動の対象を買うための貨幣である。しかしこの貨幣は、まさにこの限定された生産物を買う特殊的貨幣であるにすぎない。直接に一般的貨幣であるためには、個々人の労働ははじめから特殊的労働ではなくて、一般的労働でなければならず、すなわち初めから、一般的生産の分肢として措定されていなければならないであろう。しかしこうしたことが前提されるとすれば、交換によって初めて労働に一般的性格が与えられることにはならず、労働の前提となっている共同社会的〔gemeinschaftlich〕性格が個々人の生産物への参与の仕方を規定することになろう。生産の共同社会的性格が初めから生産物を共同社会的、一般的にすることになろう。本源的に生産の内部で行なわれる交換――諸交換価値の交換ではなくて、共同社会のもろもろの必要によって、共同社会の諸目的によって規定されている諸活動の交換――が、初めから個々人の共同社会的な生産物世界への参与を含んでいるであろう。諸交換価値の基礎の上では、労働は交換をつうじて初めて一般的なものとして措定される。上記の〔共同社会的な〕生産の基礎の上では、労働は交換に先だってそのような一般的労働として措定されているであろう。すなわち諸生産物の交換は、およそ個々人の一般的生産への参加が媒介される媒体ではないであろう。」([1]160ページ)

「第二のばあいには、前提自体が媒介されている。すなわち共同社会的生産、生産の基礎としての共同社会性が前提されている。個々人の労働は初めから社会的労働として措定されている。それゆえ彼がつくり、またはつくるのをたすける生産物の特殊的な物質的姿態がどうであろうとも、彼が彼の労働で買ったものは一つの規定された特殊な生産物ではなくて、共同社会的生産への一定の参加分なのである。したがってまた彼はなんら特殊的な生産物を交換する必要はない。彼の生産物はけっして交換価値ではない。生産物は、個々人にとっての一般的性格を受け取るために、まず一つの特殊的な形態に転地される必要はない。諸交換価値の交換において必然的につくりだされる労働の分割〔分業〕にかわって、個々人の共同社会的消費への参加を帰結としてもたらすような一つの労働の有機的組織〔Organistation der Arbeit〕ができてくるだろう。……第二のばあいには、生産の社会的性格は前提されており、生産物世界への参加、消費への参加は、相互に独立した諸労働または諸労働生産物の交換によって媒介されてはいない。生産の社会的性格は、個人がその内部で活動している社会的な生産諸条件によって媒介されている。したがって個々人の労働を(すなわち彼の生産物を)直接的に貨幣に、実現された交換価値にしようとのぞむことは、個々人の労働を直接的に一般的労働として規定することを意味している、すなわち、労働がそのもとで貨幣および諸交換価値にされざるをえないような諸条件、そして労働がそのもとで私的交換に依存している諸条件をまさしく否定することを意味している。そうした要求は、その要求がもはや提起されえないような諸条件のもとでだけ満たすことができる。」([1]161ページ) 「共同社会的生産が前提されているばあいでも、時間規定はもちろんあいかわらず本質的なものでありつづける。社会が小麦や家畜などを生産するために必要とする時間が少なければ少ないほど、社会はますます多くの時間をその他の生産、物質的または精神的な生産のために獲得する。個々の個人のばあいと同じく、社会の発展の、社会の享受の、そして社会の活動の全面性は、時間の節約にかかっている。時間の経済、すべての経済は結局のところそこに帰結する。社会が自己の諸必要全体に即応する生産を達成するためには、その時間を合目的的に分割しなければならないのは、個々人が、適切なわりふりでもろもろの知識を得たり、あるいは彼の活動にたいするさまざまな要請に満足を与えたりするために、彼の時間を正しく分割しなければならないのと同様である。したがって時間の経済は、生産のさまざまな部門への労働時間の計画的配分と同様に、共同社会的生産の基礎の上でもあいかわらず第一の経済法則でありつづける。それどころか、共同社会的生産の基礎の上で、それが法則となる程度は、はるかに高くなるのである。けれども、この法則は、労働時間によって諸交換価値(諸労働または労働諸生産物)を測ることとは本質的にちがっている」([1]162ページ)

【共同社会的生産における時間】

「共同社会的生産が前提されているばあいでも、時間規定はもちろんあいかわらず本質的なものでありつづける。社会が小麦や家畜などを生産するために必要とする時間が少なければ少ないほど、社会はますます多くの時間をその他の生産、物質的または精神的な生産のために獲得する。個々の個人のばあいと同じく、社会の発展の、社会の享受の、そして社会の活動の全面性は、時間の節約にかかっている。時間の経済〔時間の節約〕、すべての経済〔節約〕は結局そこのところに帰着する。社会が自己の諸必要全体に即応する生産を達成するためには、その時間を合目的的に分割しなければならないのは、個々人が、適切なわりふりでもろもろの知識を得たり、あるいは彼の活動にたいするさまざまな要請に満足を与えたりするために、彼の時間を正しく分割しなければならないのと同様である。したがって時間の経済は、生産のさまざまな部門への労働時間の計画的配分と同様に、共同社会的生産の基礎のうえでもあいかわらず第一の経済法則でありつづける。それどころか、共同社会的生産の基礎のうえで、それが法則となる程度は、はるかに高くなるのである。けれどもこの法則は、労働時間によって諸交換価値(諸労働または労働諸生産物)を測ることとは本質的にちがっている」([1]162ページ)

[貨幣の通流]

「発展した価格規定は、個々人が彼の生活資料を直接生産するのではなくて、彼の直接の生産物が交換価値であり、したがって彼のための生活手段になるためには、まず社会的過程によって媒介されなければならない、ということを前提とする。産業社会のこうした基礎の完全な発展と家父長的な状態とのあいだには、多くの中間段階、無限のニュアンスが存在している。」([1]198ページ)

こうした運動〔諸交換価値の流通〕の全体が社会的過程として現われれば現われるだけ、またこうした運動の個別的諸契機が諸個人の意識した意志や特殊的諸目的から出発すればするだけ、過程の総体はますます自然生的に成立する客体的連関として現われる。しかも、意識した諸個人の相互作用から出てくるものではあるのだが、彼らの意識のうちにもなく、全体として彼ら諸個人に服属させられることもないような客体的連関として現われる。諸個人自身の相互的衝突が、彼らのうえに立つ、疎遠な社会的力〔Macht〕を彼らにたいして生産する。つまり彼らの相互作用が、彼らから独立した過程として、強力〔Gewalt〕として〔現われる〕。流通は、社会的過程の総体であるから、また、たとえば貨幣片、または交換価値といったものの場合でのように、社会的関係が諸個人から独立したあるものとして現われるだけでなく、社会的運動それ自体の全体までもが諸個人から独立したあるものとしても現われるところの最初の形態でもある。」([1]205〜206ページ)

「購買と販売という流通の二つの本質的な契機が相互に無関心であり、空間と時間にかんして分離されているかぎり、両者はけっして一致することを必要としない。両者の無関心性は、一方が他方にたいして固定化して、仮象的に自立化した状態にまで進行することができる。しかし両者が本質的には一個の全体の二つの契機をなしているかぎり、自立した姿態が強力的に打ちくだかれ、内的統一が強力的な爆発をつうじて外的に回復されるような一瞬間がやってこないわけにいかない。こうしてすでに媒介者としての貨幣の規定のうちに、交換の二つの行為への分裂のうちに、恐慌の萌芽が、少なくともその可能性が含まれている。」([1]207ページ)

交換の購買と販売への分離は、私が売らないでただ買い(商品の買占め)、または買わないでただ売る(貨幣の蓄積)ことを可能にする。この分離は投機を可能にする。それは交換することを一つの特殊的な営業にする、すなわちそれは商人身分を成立させる。」([1]210ページ)

c 富の物質的代表としての貨幣。

p.217〜 この辺で、価値形態論をやっている。

「ある一つの関係が最初に出現してくる場合の状況は、この同じ関係をその純粋性においても、総体性においても、けっして示してくれるものではない。」([1]218ページ)

 ↑これは「序説」での議論をくり返している。

p.219 「一般に、他の商品の交換価値がそれで表現されている商品は、交換価値としては、関係としては表現されず、その自然的性状の規定された分量として表現されているだけである」。

「……交換価値が必然的に価格規定にまですすんでいくものであることは、すでにわれわれがみたところである。」(p.221)

p.310 原ノートII、18ページ プラン

I
 (1)資本の一般的概念。――
 (2)資本の特殊性。すなわち流動資本。固定資本。(生活手段としての、原料としての、労働用具としての資本)。
 (3)貨幣としての資本
 II
 (1)資本の量。蓄積。――
 (2)それ自身で測られた資本。利潤。利子。資本の価値。すなわち利子および利潤としてのそれ自身から区別された資本。
 (3)諸資本の流通。
  (α)資本と資本の交換。資本と所得との交換。資本と諸価格。
  (β)諸資本の競争。
  (γ)諸資本の集積。
 III、信用としての資本。
 IV、株式資本としての資本。
 V、金融市場としての資本。
 VI、富の源泉としての資本。資本家。
 土地所有。
 賃労働
 内的総体性において規定された流通として、諸価格の運動。  他方では、三つの階級。
 次には、国家
  ――国家とブルジョア社会
  ――租税または不生産的諸階級の存在
  ――国債
  ――人口
  ――外側に向かっての国家(植民地、外国貿易、為替相場、国際的鋳貨としての貨幣)
  ――世界市場。ブルジョア社会が国家をのりこえて押し広がること。恐慌。
 「交換価値のうえにうちたてられた生産様式と社会形態の解体。個人的労働を社会的労働として、またその反対に、社会的労働を個人的労働として実在的に措定すること。」

↑これは、共産主義への移行のこと。

さらにこのプランを修正したものが、p.329に出てくる。

資本。
 I、一般性
  (1)a貨幣からの資本の生成、b資本と労働、c資本の諸要素
  (2)資本の特殊化。a流動資本、固定資本。資本の通流
  (3)資本の個別性。資本と利潤。資本と利子。利子および利潤としてのそれ自身から区別された、価値としての資本。
 II、特殊性――
  (1)諸資本の蓄積。
  (2)諸資本の競争。
  (3)諸資本の集積。
 III、個別性――
  (1)信用としての資本。
  (2)株式資本としての資本。
  (3)金融市場としての資本。
 地代。土地所有。
 賃労働

「(現実的な社会的共同性〔social Gemainschaftlichkeit〕が考えられるようになる前に、まず相互的依存性が純粋に仕上げられていなければならない。自然によって規定されたものではなく、社会によって措定されたものとしてのすべての諸関係。)」([1]331ページ)

実は、土地所有から賃労働への移行の話は、p.334までずっと続いている。

そのなかに、「否定的移行」というのが登場する。すなわち、「資本による土地所有の否定」であり、マルクスは、それは「資本による自立的価値の否定、すなわち、ほかならぬ資本自身による資本の否定」と書いている。「次には賃労働の側からの、土地所有の否定と、土地所有を媒介した資本の否定。すなわち、自己を自立的なものとして措定することを欲する賃労働」([1]334ページ)

さらに、p.335も、「{市場……」という書き出しで、プランについての考察が続いている。

「奴隷としては、労働者は交換価値を、すなわち一つの価値を持つが、自由な労働者としては、なんの価値も持たない。ただ、彼との交換によって得られる、彼の労働にたいする処分権だけが、価値を持つのである。労働者が交換価値として資本家に対立しているのではなく、資本家が交換価値として労働者に対立しているのである。労働者の没価値性と価値喪失とは、資本の前提であり、自由な労働一般の条件である。」(p.347)
 つづけて、「そのことによって、労働者が形式的に人格として措定されていること、その労働者彼の労働の外でもなお自立的になにものかであり、彼の生命発現をもっぱら彼自身生きるための手段として譲渡するということである」(同)

※このあたりは、人格論。

「所有の労働からの分離は、資本と労働のこの交換の必然的法則として現われる。」(p.353)

p.376 「われわれがここで考察するかぎりでは、資本は、価値と貨幣から区別されるべき関係として、資本一般であり、すなわち資本としての価値をたんなる価値または貨幣としての自己から区別する諸規定の総括である。」

同。「われわれはいま資本の発生過程に立ち会っている。この弁証法的発生過程は、資本が生成する現実的運動の観念的表現にすぎない。それからあとの諸連関は、この萌芽からの展開とみなされるべきである。しかし資本がある一定の点で措定されるさいにとる規定された形態を確定することは、必要である。そうしなければ混乱が生じる。」

p.383 「剰余価値」という言葉が初めて登場する。原ノートIII、19ページ。

p.397あたり、搾取の仕組みがこのあたりで初めて解明されている。
 「たとえば一人の労働者をまる一労働日生存させるのに、半労働日しか必要としないとすれば、おのずから生産物の剰余価値が生まれてくる。なぜなら資本家は、価格ではただ半労働日分についてしか支払いをしなかったのに、生産物ではまる一労働日を対象化させた形で受けとるからであり、したがって労働日の残り半分と交換されたものは何もないからである。資本家を資本家とすることができるのは、交換ではなく、彼が対象化された労働時間すなわち価値を交換なしに受けとるところの過程だけである。半労働日は、資本にとって何一つ必要がかからないわけである。つまり資本は、代償になんら等価物を与えることなく、ある価値を受けとる。そして価値の増加が生じることができるのは、ただ等価量をこえた価値が受けとられる、つまりつくりだされることによってだけなのである」

限界と制限の弁証法。
 p.398 「資本は、この生産諸力の発展そのものが資本それ自体のなかに一つの制限を見出すとき初めて、そうしたものであることをやめる。」つまり、社会主義・共産主義への移行。

さらに、p.413上段。
 「富の一般的形態――貨幣――を代表するものとしての資本は、自己の制限をのりこえようとする、制限も限度ももたない衝動である。どんな限界でも、資本にとっては制限であるし、また制限たらざるをえない。さもなければ資本は、もはや資本ではなくなってしまうであろう。……資本は、より多くの剰余価値をつくりだそうとする不断の運動である。剰余価値の量的限界は、資本にとっては、たえずそれを克服し、たえずそれをのりこえようとつとめる自然制限、必然性としてだけ現われる。

『資本論草稿集』[2]

III 資本にかんする章(つづき)

原15ページ、邦訳5ページ

これまでもわれわれは、価値増殖過程を通ることによって、(1)交換そのもの(つまり生きた労働との交換)を介して自己の価値を維持し、(2)増大させた、つまり剰余価値をつくりだした、その次第を見てきた。生産過程と価値増殖過程とのこのような統一の結果として、いまや過程の生産物、資本そのものが現われる。

原15ページ、邦訳6ページ
 (3)つまり厳密に考察するならば、資本の価値増殖過程は……、同時に資本の価値喪失過程として、資本の貨幣性喪失として現われる。

ここでマルクスが、「価値喪失過程」と言っているのは、1つは、「現存する資本の一部が、資本の再生産を可能にする生産費用の減少」によって「価値喪失をこうむる」ことであり、もう1つは、販売のことである。前者については、マルクスは「ここで論じるべき問題ではない」「諸資本の集中と競争と二かんする理論のところで論じるべきこと」(原16ページ、邦訳6ページ)としている。

たんに〔販売と購買とが〕分離していることによって、個々の場合にこのような挫折が生じる可能性が与えられている……。(原16、邦訳7)

「統一して資本をなす三つの過程」(原16、邦訳7)――3つ?、3つとは何?

生産過程の内部では、価値増殖は剰余労働の生産(剰余時間の対象化)とまったく同一のものとして現われていた。したがってまたそれには、次のような諸限界以外の限界はないものとして現われていた。すなわち、この過程そのものの内部で一部は前提され、一部は措定されるが、しかしつねにそのまま、克服されるべき諸制限としてこの過程のなかで措定されているような諸限界である。(原16、邦訳9)

文章が込み入っているが、要するに、価値増殖が生産過程の内部において措定されているような限界というのは、そのまま「克服されるべき諸制限として」価値増殖過程の内部で措定されているということが言いたいのだ。限界=Grenze、制限=Schranke。

しかも、そのような生産過程内部の「制限」が、いまや交換過程においては、「生産過程の外部にある、生産過程の制限」が登場するという。(原16、邦訳9下段)

商品の第一の制限は、消費そのもの――それにたいする欲求――である。

ここでマルクスは、次のように書いているのが注目される。これは、いわゆる「貨幣の裏付けを持った需要」すなわち有効需要のことではないだろうか。

(支払い能力のない欲求、すなわち、なんらかの商品にたいする欲求ではあっても、それ自身は、交換で与えることのできるどんな商品も貨幣も持っていないような欲求のようなものは、これまでの諸前提からしても、まだまったく問題となりえない)(原16〜17、邦訳9〜10。丸括弧は原文)

第二に、商品にたいする等価物が存在しなければならないが……資本は生産過程で新価値をつくりだしたのだから、この新価値にたいしては実際のところいかなる等価値も存在し得ないように見える。

ここからマルクスは次のように考察する。

a)生産として、消費(あるいは消費能力)の大きさに一つの制限を見出すように見受けられる。……使用価値それ自体には、価値そのものが持っているような無限度性〔Maasslosigkeit〕はない。
 b)生産物は新価値および価値一般としては、現存する等価物の大きさに……制限を持つように見える。剰余価値は剰余等価物を必要とする……。このことが、いまや第二の制限として現われる。
 c)いまや生産過程が、流通過程へと移行できないかぎり、苦境に陥るように見受けられる。……この点が、以前の生産諸段階と異なるところであって、以前の生産諸段階では、交換はただ余剰の生産と余剰の生産物をとらえるだけで、生産と生産物の総体をとられることはなかった。

以上は、素朴で客観的で偏らない見方にはおのずから見えてくるような諸矛盾である。

資本にもとづく生産のなかで、どのようにしてこれらの矛盾が不断に止揚され、しかしまた不断にくり返して産出されるのか――そして、どのようにただ強力的にのみ止揚されるのか(もっともこの止揚は、ある点までは、たんにおだやかな均衡作用として現われるだけであるが)――というのは、また別個の問題であって、大事なことは、まずもってこれらの矛盾の存在を確認することである。

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