参院側の反発で、「棚上げ」された恰好の「自民党憲法改正草案大綱(たたき台)」だが、彼らのホンネが書かれたものとして、内容を見ておくことは引き続き重要だろう。
彼らは、「基本的考え方」の第一に、新しい憲法は、日本の「国柄」、をふまたものでなければならないと強調している。では、その「国柄」とは何か?
そう言われて真っ先に思い起こすのは、戦前の「国体」であるが、彼らも、そういう「誤解」を避けるために、わざわざ「従来意味してきたような復古的なもの(1895年?1945年までの戦前の一時期に考えられた「国体」)ではなくて」と断っている。で、代わりに彼らが主張するのは、「草木一本にも神が宿るとして自然との共生をも大事にするような平和愛好国家・国民という『国柄』」であり、そこには「第二次世界大戦における敗北の歴史も含めたもの」と書いている。
「草木一本にも神が宿る」という以上、この「国柄」が宗教的観念を含むものであることは明らか。このような宗教的観念の上に憲法原理を組み立てるというのは、現憲法で「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に」保障された「思想・良心の自由」「信教の自由」を侵害する。
さらに、この「国柄」論からすれば、「我が国の歴史・伝統・文化といった『国柄』」を体現した天皇が「元首」として座るのも当然であり、したがって、天皇が現在は皇室内部の私的な行事としておこなっている「宮中祭祀」を天皇の「公的行為」として認められるし、政教分離原則も、「我が国の社会的又は文化的諸条件に照らし社会的儀礼又は習俗的行事とされる範囲」内であれば国などが宗教的活動をおこなってもかまわない、とする議論につながっている。
しかし、「草木一本に神が宿る」などというのは、まるっきりのアニミズム(「animism 事物には霊魂(アニマ)など霊的・生命的なものが遍在し、諸現象はその働きによるとする世界観。また、原始宗教・民間信仰における雑多な神霊の信仰。精霊崇拝。霊魂信仰」――『大辞林』三省堂)。こんな融通無碍なものが日本の「国柄」であり、その範囲内であれば「宗教」行為であっても「政教分離には違反しない」などと言うことになったら、事実上、際限がなくなる。
彼らは、こうした「国柄」論を「己も他もしあわせ」になるための「共生憲法」だと言っているが、「神が宿る」はずの草木をなぎ倒し、乱開発をすすめてきたのは、一体誰なのか? 高速道路建設のために山々を崩し、工業団地のために海岸を埋め立て、「リゾート開発」だといって自然を破壊する。「国柄」には、「相互に助け合う」国民性も含まれると言いながら、社会保障は「自立」を促すといって切り捨てる。そんな先頭に立ってきた自民党が「共生憲法」だとは、まったく呆れてしまう。