今日は、新宿駅南口でJRをまたいでいる甲州街道の跨線橋工事ということで、中央線の快速・特快は全面運休、すべて各駅停車として運転していました。
三鷹駅では、中央線快速電車の下りホームとして使われている3・4番線が上り専用ホームになり、総武・中央線各駅停車が折り返し運転している1・2番線ホームが下り専用ホームになっておりました。(^_^;)
今日は、新宿駅南口でJRをまたいでいる甲州街道の跨線橋工事ということで、中央線の快速・特快は全面運休、すべて各駅停車として運転していました。
三鷹駅では、中央線快速電車の下りホームとして使われている3・4番線が上り専用ホームになり、総武・中央線各駅停車が折り返し運転している1・2番線ホームが下り専用ホームになっておりました。(^_^;)
さて、続きです。
マルクスは、過程を進行する主体としての「流動資本」、流通しなければならない各局面に固定された「固定資本」という定義を使って、早速、経済学者たちの批判に向かう。
【8】361ページ上段から363ページ上段までの段落。
まず、復習。(^_^;)
流動および固定という規定は、まず第1には、2つの規定のもとに――特殊的種類の2つの資本として、2つの特殊的種類における資本としてではなく、同じ資本の異なった形態上の諸規定として――措定された資本そのもの、すなわち1つには過程の統一として措定され、次には過程の特殊的局面として、統一としての自己からは区別されたものとしての資本そのものとして措定された資本そのもの以外のなにものでもないということ……。
さて、本題に戻ろう。
というのは、『資本論1857-58年草稿』の「固定資本と流動資本」の書き出し。(^_^;) そこまでの剰余価値と利潤にかんする学説史が終わって、ここで、マルクスは、資本の流通にかかわる問題の検討に戻っています(大月書店『資本論草稿集<2>』356ページ下段)。
「固定資本と流動資本」という見出しは、新MEGA編集部のもので、ここでマルクスが取り上げているのは、決して、固定資本と流動資本の問題だけではなくて、流通費の問題や、回転および回転が利潤率に及ぼす影響など、『資本論』第2部で取り上げられているいろいろな問題がごたまぜで出てきます。
しかも困ったことに、「固定資本」「流動資本」という概念そのものが、マルクスの中で、まだ固まっていません。というか、書きながら、だんだんと「固定資本」「流動資本」の概念が固まってゆく、というところに、この部分の面白みがあるということです。
イギリス政府が、大手銀行ロイヤルバンク・オブ・スコットランドに5兆円近い公的資金を追加注入することを決定。
英、大手銀に4兆9000億円公的資金再注入へ : 読売新聞
ロンドン株式市場は反落、UBS決算など受け銀行株に売り : Reuters
UBS:7?9月赤字、富裕層向け部門の資金流出も加速?株価下落 : Bloomberg
アメリカのノンバンク大手のCITが経営破綻。まだまだ金融不安はおさまっていないようです。日経平均も231円安の9802円に急落。
米ノンバンク大手のCIT、破綻 : 読売新聞
日経平均、大幅反落し1万円割れ 10月7日以来の安値 : NIKKEI NET
焦点:米CIT破綻、ファクタリング部門への影響に懸念広がる : Reuters
日経新聞の夕刊に出ていた記事。
記事そのものは、鳩山内閣の「軸足が定まらない」ことにたいする批判が主だが、アメリカ側がこの問題に本気で取り組もうとしていることは明らか。ペリー元国務長官も、米国内では、大きく見ればオバマの核廃絶路線を進める側にいるのだろうが、しかし、仮にペリー氏のいうような新しい協議機関をつくって、そこで話し合いをしてみても、核兵器の運び込みを前提とする「拡大抑止」と非核3原則とが両立するはずもなく、結局は、新たな「密室」を作るか、非核「2原則」化になるか、どちらかしかないように思う。
鳩山政権がこんごどういう対応をするのか注目しなければならないが、なんにせよ、その動向を決めるのも国民世論だ。
「毎日新聞」が憲法問題で世論調査を実施。
特集:憲法問題、全国世論調査 「改憲論議に関心」66% : 毎日新聞
毎日新聞世論調査:「密約認めるべきだ」60% 「三原則堅持を」72% : 毎日新聞
9月の完全失業率が発表されましたが、それを報道したNHKニュース。
でも、「先月の就業者数は6295万人で、前の年の同じ月より98万人減る一方、完全失業者は363万人と92万人増えました」といったあと、「その結果」、失業率は下がりました…って、なにか変じゃないですか?!
完全失業率というのは、完全失業者数÷(就業人口+完全失業者数)なのだから、失業者が増えて、就業人口が減れば、失業率は高くなるはず。それが低くなったのだから、誰がどう考えても「その結果」ではつながらないはず。
『資本論』第1部第7章「剰余価値率」の第3節、有名な「シーニアの最後の1時間」の終わり近くに、こんなくだりが登場します。
【新日本版】 ……もし諸君が、諸君の「工員たち」から11時間半ではなく13時間を手に入れることに成功し、そして諸君は当然にそうすると思われるのであるが、超過した1時間半を単なる剰余価値につけ足すならば……(上製版Ia、387ページ、新書第2分冊、386ページ)
この下線部分。実は、戦前の河上肇訳では、次のようになっています。(仮名遣い等は、現代通用のものに直してあります)
【河上訳】 ……なお諸君が、諸君の織工を11 1/2時間でなく無理に13時間労働せしめ、かつその余分の1 1/2時間を全部剰余労働に加えるとすれば、――諸君にはそれらが全く同じものにみえるはずだが――……(改造社、616ページ)
ご覧のように、訳文が全く異なるだけでなく、「そうする」とか「それら」で受けているものが全然違っています。一体、どっちが正しいのか? なぜ、こんなふうに違っているのか? ささいな挿入部分で、ここでのマルクスの議論の筋とはなんの関係もないのですが、気になってしまいました。
ウルグアイの大統領選挙で、左派で政権党「拡大戦線」の候補者が優勢を占めているものの、過半数に到達しなかったため、11月の決選投票にはいる見込み。
ウルグアイで大統領選、11月末に決選投票へ : CNN.co.jp
というのですが、CNNの記事を読むと、左派「拡大戦線」の候補者が勝っても、右派野党候補が勝っても、「同国の政策に大きな変化はないとの見方が強い」と書かれていて、いったいどういうこと? と思って、調べてみました。
で、見つかったのが共同通信の2つの記事。
ウルグアイ大統領選、決選投票へ 過半数届かず : 共同通信
25日にウルグアイ大統領選 「継承」唱える元閣僚優位 : 共同通信
ドイツ語版とフランス語版との異同について、前回は簡単に結論しか書かなかったので、もう少し詳しく紹介しておきます。
大谷禎之介氏の翻訳で、ヨハン・モスト著『資本と労働』(第2版)の新訳が出ました。同書を大谷氏は196年に岩波書店から翻訳・出版されていますが、今回はその再刊ではなく、新しい翻訳、編集による新訳となっています。
本書は、ヨハン・モストという人が執筆した、『資本論』第1部のダイジェスト本『資本と労働』(第1版、1874年刊)に、マルクスが手を入れた改訂第2版(1876年)の翻訳です。「マルクス自身の手による資本論入門」というのは、大谷禎之介氏がつけたタイトルで、マルクス自身は、改訂第2版の出版にあたって、自分の名前を一切出さないように求めていました。
しかし、読んでみると、確かになかなかよくできた「資本論入門」になっていると思いました。
ラザレフ月間の最後は、日フィルの定期。
もちろん目玉はプロコフィエフの交響曲第3番ですが、1曲目、チャイコフスキーの「ハムレット」が、とても印象的でした。とくに途中のオーボエの旋律、いいなぁ?と思って聴いていたら、演奏が終わったあと、ラザレフは、オーボエ奏者の女性を立たせただけでなく、指揮台にまで引っ張り上げていました。実際、それほど見事な演奏でした。(^^;)
Windows 7が発売になりました。
オイラが自宅で使っているPCは、Vista発売直前に買ったXP搭載マシン。もちろん! VistaにはUpgradeしていません。で、そろそろXPも飽きてきたのでWindows 7にUpgradeしてみようかと思って、Microsoftの診断プログラムを試してみました。
資本論のドイツ語とにらめっこしていると、その世界に完全に引き込まれてしまって、なかなかそこから抜け出すことが出来ません。
そこで、気分転換に、こんなものを買ってみました。ちくま文庫のシェイクスピア全集の最新刊、松岡和子訳『ヘンリー6世』です。
これまでも、気分転換のために『源氏物語』を読んだこともあります。さすがに、古文では難しいので、円地文子訳でしたが、それでも文章に神経を集中させないと、すぐに筋が分からなくなります。シェイクスピアも同じで、資本論の世界からちょっと気分転換するのに、ほどよい難しさ?です。(^^;)
唐突ですが、新日本出版社の『資本論』を読んでいると、「自己を発現する労働力」という表現がところどころで出てきます。たとえば、第5章「労働過程と価値増殖過程」の冒頭。
【邦訳1】 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、その売り手を労働させることにより、労働力を消費する。労働力の売り手は、労働することによって、"現実に"自己を発現する労働力、労働者となるが、彼はそれ以前には"潜勢的に"そうであったにすぎない。自分の労働を商品に表わすためには、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくてはならない。(新日本出版社『資本論』上製版、Ia、303ページ。新書版第2分冊、303ページ)
「発現」とは、「実際に現われ出ること。現わし出すこと」です(『新明解国語辞典』第4版)。つまり、労働力が「自己を発現する」というのは、植物の種が(一定の条件さえあれば)ほったらかしておいても、おのずと芽を出し花開いていくように、労働力も、おのずから、他の助けなしに、おのれの力だけで自分自身を表に現わして、労働となっていくかのようです。
しかし、マルクスは、労働力を、こんなふうにヘーゲルばりの「生きた主体」として、本当にとらえていたのでしょうか? この「自己を発現する労働力」というのは、ドイツ語では sich betätigende Arbeitskraft です。そこでまず、『資本論』第1巻のなかで、この表現が出てくる箇所を調べてみました。
日本の厚生労働省が、貧困率を初めて調査。
で、厚生労働省の発表資料がこちら↓。といっても、ペーパーは3枚だけですが。