井村喜代子「現代資本主義と世界的金融危機」

『経済』2009年7月号(新日本出版社)

雑誌『経済』7月号が「大恐慌から80年 現代の経済危機」を特集。そのなかで、井村喜代子さんが「現代資本主義と世界的金融危機」という論文を書いておられます。

問題のとらえ方の枠組みは、これまでも書かれてきたものと同じですが、リーマン・ショック後の経過をふまえて、あらためてこんにちの世界的金融危機の本質がどこにあるかを論じておられます。

まず「はじめに」で、「今回の世界的金融危機は資本主義の歴史では経験しない新しい失のものであって、これまでの危機とは比べられない深刻な内容をもっている」と指摘し、今回の論文で「今回の世界的金融危機がいかなる意味で資本主義の歴史で例のない新しい質のものであるか、現代資本主義にとっていかに深刻なものであるかを示す」と、その目的を明らかにされています。

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井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(8)

井村喜代子氏の『「資本論」の理論的展開』の続きです。

まず、第8章「『商品過剰論』と『資本過剰論』との区分の誤りについて」から。これは、論争史的には面白いところですが、こんにちではすでに過去の問題になってしまっているので、井村さんがいくつか指摘している面白いところだけを抜き出しておきます。

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井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(7)

井村喜代子さんの『「資本論」の理論的展開』の続き。いよいよ「生産と消費の矛盾」の話です。井村さんは、「生産と消費の矛盾」がいかに恐慌となって爆発するか、その展開を考えなければいけないと言われています。

これは、恐慌の「運動論」として提起されている問題と共通する指摘です。

第7章 『資本論』における<生産と消費の矛盾>

はじめに

  • マルクスは<生産と消費の矛盾>に、周期的な過剰生産恐慌の「究極の根拠」を求めている。(205ページ)
  • しかし、『資本論』は「資本一般」体系であったため、そこでは、この<生産と消費の矛盾>がいかに展開し、どのようにして恐慌となって爆発するのか、ということは解明されていない。『資本論』における<生産と消費の矛盾>の基本的把握を正しく理解した上で、<生産と消費の矛盾>の展開を解明していくことが不可欠である。(207ページ)
  • <生産と消費の矛盾>は、いずれは「商品の販売、商品資本の実現、したがってまた剰余価値の実現」において現れるものとして把えられている。(207ページ)
  • したがって、<生産と消費の矛盾>は、労働者が自分で生み出した価値生産物(v+m)のうちの一部分(v)しか消費にあてることはできないという資本制生産固有の矛盾それ自体を指すものではない。(208ページ)
  • マルクスは、「市場」における「商品の販売」「過剰生産」「恐慌」を考える場合、労働者大衆の貧困・制限された消費それ自体に問題を求めていない。資本制生産固有の生産力・生産の無制限的発展傾向が労働者の消費を制限する傾向と対立・矛盾するという関係において、矛盾を把えている。この点でマルクス理論は「過少消費説」と峻別される。(208ページ)

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井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(6)

井村喜代子さんの『「資本論」の理論的展開』のノート。まだまだ続きます。今回は第6章。『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」のなかの、とくに第15章「この法則の内的な諸矛盾の展開」についてです。

第6章 生産力の発展と資本制生産の『内的な諸矛盾の展開」
  ――『資本論』第3部第3篇第15章をめぐって――

はじめに

まず、井村さんの問題意識。

 しかしながら、第3部第3篇についてみると、各章の主題も、資本蓄積論・恐慌論におけるそれらの位置づけも、いまなおけっして明らかになってはいないと思われる。とくに、第3篇第15章「この法則の内的な諸矛盾の展開」は、生産の諸条件と「実現」の諸条件とのあいだの矛盾、「既存資本の減価」(K.III, S.258)、資本の過剰と人口過剰との併存など、きわめて重要な諸問題を取り上げているところであるにもかかわらず、この第15章を貫いている主題はなにか、またそれは第13、14章で説明された「利潤率の傾向的低下の法則」といかなる関連で把えるべきか、第15章を「この法則の内的な諸矛盾の展開」と題するのは正しいかどうかなどについて、なお多くの問題が残されている。(同書、169ページ)

これについて、不破哲三氏は、「恐慌論は恐慌論として読む」 ((不破哲三『「資本論」全三部を読む』第六冊(新日本出版社、2004年)、85ページ以下、参照。))ということを提起されていて、相通ずるものがあると思う。

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井村喜代子氏の恐慌論について

井村喜代子さんの『恐慌・産業循環の理論』(有斐閣、1973年)を読んでいますが、序説「分析の基本視角と本書の構成」で、井村さんは、恐慌論の「基軸」について、次のように書かれています。

 資本制生産が、生産諸力を「無制限的」に発展させる傾向をもつと同時に、労働者の消費を狭隘な枠内に制限する傾向をもつこと、――この<生産諸力の無制限的発展傾向と労働者の制限された消費とのあいだの矛盾>(本書では<生産と消費との矛盾>と略す)こそは周期的過剰生産恐慌の生じる基礎・「窮極の原因 der letzte Grund 」をなすものである。(同書、4ページ)

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井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(5)

第5章 拡大再生産表式分析の意義と方法

初出:『三田学会雑誌』73-6、1980年

はじめに

・表式分析にもとづいて拡大再生産過程、拡大再生産経路を考察しようという試みの共通した問題点。マルクスの表式例の前提――貨幣の価値どおりの環流、固定資本の捨象――のもつ意味を看過したまま、その前提のもとでの表式例、数式の時系列的展開を試みていること。したがって、I(v+mv+mk)=II(c+mc)を満たす範囲であればI、II部門の拡大率をまったく自由に想定できるように考えて、展開を試みている。(137ページ)

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井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(4)

ノートはまだまだ続きますが、本のほうはそろそろ読み終わりつつあります。引き続き、井村さんの『恐慌・産業循環の理論』(有斐閣、1973年)にとりかかりたいと思います。

第4章 マルクスの相対的過剰人口論にかんする一考察

初出:『三田学会雑誌』第53巻第4号、1960年。論争史的なところは1960年に書かれたものだということをふまえて読むこと。

はじめに

・『資本論』における相対的過剰人口の分析は、「資本一般」体系たる『資本論』の論理次元によって限定をうけている。(84ページ)
・すなわち、『資本論』第1部第7篇「資本の蓄積過程」では、「資本はその流通過程を正常な仕方で通過することが前提」されている(K,I,589)ほか、大小の資本の対立・競争もそれ自体としては分析されていないし、産業循環の変動・恐慌も分析対象となっていない。
・したがって、商品市場の資本制的制限と変動のもとで、そこにおける諸資本間の対立・競争のもとで、資本蓄積と生産力発展・資本の有機的構成高度化の「現実的」運動がいかにすすみ、相対的過剰人口の「不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成」(K.I,661)がいかに展開するかは、部分的には言及されていても、分析課題にはなっていない。(85ページ)
・第3部第3篇第15章でも、「資本主義的生産の総過程」において資本過剰と人口過剰の併存する事態がとりあげられているが、そこでも分析は、基本的に「資本一般」の枠内にとどまっており、資本過剰と人口過剰の併存する事態がなぜ、いかにして生じるのかは解明されていない。

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井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(3)

第3章「マルクス賃金理論の方法論について」

初出:藤林敬三博士還暦記念『労働問題研究の現代的課題』ダイヤモンド社、1960年

マルクスの「賃金論」をめぐって、第2章に続いて書かれた論文。

第1節「賃金の本質論」

ここで「賃金の本質論」と言っているのは、『資本論』第1部第2篇?第6篇で展開されているもの(51ページ)。

「賃金の本質論」は、(1)資本と賃労働とのあいだに行なわれる労働力商品の売買の本質を明らかにする。それと同時に、(2)この売買の本質が、労働の価格=賃金という現象形態によって隠蔽されることを暴露する。

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井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(2)

第2章「『経済学批判』プランの『賃労働』について(研究ノート)」

初出:『経済評論』1957年2月号

第1節 『資本論』における賃労働の分析

(1)“プラン”構想当初の「資本」「土地所有」「賃労働」では、「資本一般」では、「土地所有はゼロ」、賃労働の分析範囲も非常に限られていた。

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井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(1)

少し前から、井村喜代子さんの『「資本論」の理論的展開』(有斐閣、1987年)を読んでいます。

井村氏は一つ一つ厳密に考察をすすめているので、とても勉強になります。『資本論』でマルクスが問題をどう解明、展開しているか、ということと、マルクスが解明・展開しなかった問題をどう考えたらよいかということとを厳密に区別し、本書ではマルクスが『資本論』で分析・解明の対象とした問題はなになのかを明確にするとともに、それをふまえて後者の問題にも取り組んでいます。

井村氏は、『資本論』は、いろいろありつつも、基本的には「資本一般」という分析の枠組みに規定されているとしているところがポイント。

第1章「『資本論』の対象領域と残された課題」

『資本論』第3部でも、「競争の現実の運動」はそれ自体としては分析対象とはならない。(6ページ)

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膨大な金融的利得はどこから来たのか?

季刊『経済理論』第46巻第1号(経済理論学会編)

季刊『経済理論』の最新号(2009年4月、第46巻第1号)は、経済理論学会第56回大会共通論題「サブプライム・ショックとグローバル資本主義のゆくえ」の特集。河村哲二、建部正義、姉歯暁の3氏の報告が掲載されているが、面白く思ったのは、3報告にたいする井村喜代子氏のコメント。

井村氏は「報告へのコメント」で、おおむね次のような問題を提起されている ((3報告に即して書かれている部分は省略。))。

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金融と投機はどこで区別するか? (3)

井村喜代子氏は、投機について「投機は価格変動それ自体から価格差益(投機利益)を獲得しようとする取引である」(『日本経済――混沌のただ中で』勁草書房、2005年、24ページ)と指摘されている。

だから、社会のさまざまなところから余剰資金を社会的に集めて、資本を必要とするところにそれを貸し付けるという本来の金融と、投機とのこの区別が重要。

マルクスは、第25章「信用と架空資本」に続けて、第27章で次のように書いている。(ちなみに、第26章はマルクスが『資本論』とは別のことのために書き抜きをしていたものをエンゲルスが組み込んでしまったもの ((不破哲三『「資本論」全三部を読む』新日本出版社、6分冊、213-214ページ参照。))なので、マルクスのつもりとしては、本文は第27章に続いている)。

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実体経済から独立した投機的金融活動

『日本の科学者』2009年4月号
『日本の科学者』2009年4月号

慶応大学名誉教授の井村喜代子氏『日本の科学者』4月号「世界的金融危機と現代資本主義」という論文を書かれている。その中で、井村氏は、新しい投機的金融活動の内実を、理論的に「実体経済から独立した、金融・金融収益のための金融活動」「金融操作から生み出された、実態的な富の裏づけのない『虚』の金融取引の膨張」としてとらえる立場を強調しておられる。

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