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アルチュセールのイデオロギー論についてのノート

『国家とイデオロギー』

邦訳=西川長夫訳、福村出版、1975年発行

『不確定な唯物論のために』

イタリアの哲学者フェルナンダ・ナバロ女史によるインタビュー、原著1988年刊、邦訳=大村書店、1993年刊

1、スターリン主義流の哲学にたいする批判

そこで、こうしたヘーゲル的でないマルクスの唯物論をアルチュセールは「不確定な唯物論」と呼ぶ。それは、「『資本論』の哲学、彼の経済・政治・歴史思想の哲学」(p.45)であり、「マルクス主義のための哲学」とも呼んでいる。「偶然性の唯物論」とも言っているが、「偶然性を必然性の容態あるいは例外として考えるのではなく、さまざまな偶然的なものの出会いが必然になったものだと、必然性を考えなければなりません」とも指摘する(偶然というものを認める必要性、つまりすべてを必然性によって説明できないし、説明できると考えるのは正しくないということは、見田石介氏や鈴木茂氏が強調された点である)。

2、イデオロギーとは何か

では、イデオロギーはどこから始まるか?

『マルクスのために』

邦訳=河野健二、田村俶、西川長夫訳、平凡社ライブラリー、1994年刊

アルチュセールは、イデオロギーと科学との区別を次のように指摘している。

前半の文章で、アルチュセールは、イデオロギー的認識と科学的認識とを区別するとともに、科学的認識はイデオロギー的認識の領域に浸透しなければならないと言うことを指摘している。さらに、社会的現実としてのイデオロギーと、イデオロギーの理論的諸結果(あるいは理論的イデオロギーの諸結果)とを区別している。

後半の文章では、前半での社会的現実としてのイデオロギーと理論的イデオロギーとの区別を踏まえながら、イデオロギー一般ではなく、理論的イデオロギーから科学的認識への「切断」を問題にしている。科学的認識に移ったとしても、それは宗教、道徳、法的、政治的イデオロギー等々には関係がないということ。そして、宗教、道徳、法的、政治的イデオロギーの分野での「切断」が生じるとすれば、それは「認識論」的な切断ではなく、政治的な切断、つまる政治的変革、政治的激動に伴うものだと言っているのである。

アルチュセールの「自己批判」(20〜21ページ)

今日的時点(序文)

(スターリン批判以後に書かれた自分の論文について)「歴史がわれわれを追いこんだ理論の袋小路から、われわれが脱出するのに必要不可欠であったマルクスの哲学思想の探求」(27ページ)

(スターリン時代の哲学について)左翼主義の古い公式。ひとたび宣告されるやいなや、その公式がすべてを支配した。すべての哲学者が、注釈と沈黙以外に選択の自由を持たなかった。(28ページ)

哲学的理論の役割にたいする(フランス共産党の)無理解。(35ページ)。「マルクス主義は、たんに政治原理、つまり分析と行動の「方法」であるだけでなく、同時にそれが科学である以上は、社会科学やさまざまな「人文科学」ばかりか、自然科学や哲学の発展にとっても是非とも必要な、根源的な探求の理論的な領域であるべきだ」(35ページ)

※これは、要するに世界観としてのマルクス主義だけでなく、科学としてのマルクス主義の意義、役割をきちんと取り上げるべきだと言うことを指摘したものだ。

以下、同じようなことの指摘。

「哲学にかんしていえば、われわれの世代は、もっぱら政治とイデオロギーの闘争のために身をささげてきた」「哲学者が党のために哲学を語り、あるいは記したとしても、彼は《有名な引用句》にかんする解釈や、それを内部用に少しばかり書きかえるために働いたのだ」(以上、38ページ)。「事実、われわれはだれ一人、自分の足下に堅固な大地を踏みしめていなかった。つまり、信念以外の何者もなかったのだ」(39ページ)、「われわれは、可能なあらゆる哲学の諸原理を獲得し、さらにはどのような哲学的イデオロギーも不可能であるという原則を守ろうと考えていたが、結局はわれわれの信念を疑う余地のない正しさを公的かつ客観的に証明することができなかった」(同前)。「独断的な言説の空しさ」(同前)。――これらは、1960年代の初めに書かれたものであることを銘記せよ。

「理論的構成一般(哲学的イデオロギー、科学)の現実性を考察することのできるマルクス主義理論の諸概念をマルクス自身に適用する必要があった。理論構成の歴史についての理論なしには、じっさい、異なった二つの理論構成〔イデオロギー的認識と科学的認識――引用者〕を区別する種差をとらえ、決定することはできない。この目的をはたすために、わたしは、ジャック・マルタンから一つの理論構成の種単位、したがってその種差の妥当領域を示すプロブレマティックという概念を借り、またガストン・バシュラールから、一専門科学の形成についての現代の理論的なプロブレマティックの変容を考えるための「認識論上の切断」という概念を借りることができると信じた」(47ページ)

※ここで、「理論構成の歴史についての理論」という問題を取り上げていることに注目せよ。つまり、認識の発展の原動力は何か、人間の認識は何によって前進するのかというもんだいがそこには含まれる(アルチュセールがそれを正しく解いたかどうかは別にして)。

もう1つ。この本では、「プロブレマティック」という言葉は、単なる問題意識とか問題関心の領域というような一般的な意味で用いられているのではないことに留意せよ。むしろ、クーンのいう「パラダイム」の意味に近い。イデオロギー的認識を成り立たせている認識の枠組みそのもの、そういう意味での認識の「地平」とか「問題機制」と言われるものを考えよ。「認識論的切断」という場合も、そういう「パラダイム転換」、認識の枠組みそのものの転換、イデオロギー的認識から科学的認識への飛躍、という意味に理解しなければならない。

そして、アルチュセールは、『ドイツ・イデオロギー』こそが、マルクスにおける「認識論的切断」を示すテキストだと指摘する。(55ページ)

「マルクスのなかにはっきりと見ることを可能にし、科学とイデオロギーを区別し、歴史的な関係のなかで両者のちがいと、歴史過程の連続のなかで認識論上の切断の非連続を考えることを可能にする理論」(59ページ)。

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