1927年、兵庫県神戸市生まれ。1950年に神戸経済大学(現在の神戸大学)を卒業。1962年、経済学博士。1964年、神戸大学経済学部教授。1966年から経済理論学会監事、1978〜1988年、日本学術会議会員(85〜88年第3部〔経済学〕副部長)、1979〜80年理論・計量経済学会会長。1990年、大阪経済大学経済学部教授。2003年11月、逝去
発行年 | 書名 | |
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1956年 | 『講座近代経済学批判第2冊 近代経済学の理論構造』(東洋経済新報社、共著) | |
1957年 | 『再生産の理論』(創文社) | ○ |
1957年 | 『ケインズ経済学』(共著、三一書房) | ○ |
1961年 | 『近代経済学論集』(河出書房新社、都留重人編) | |
1965年 | 『資本制経済学の基礎理論』(創文社) | |
1967年 | 『蓄積論』第1版(筑摩書房) | ○ |
1970年 | 『科学としての経済学』『現代の経済』『経済像の歴史と現代』(共編著、有斐閣) | ○ |
1976年 | 『蓄積論』第2版(筑摩書房) | ○ |
1976年 | 『近代経済学批判』(有斐閣) | ○ |
1977年 | 『マルクス経済学 価値と価格の理論』(筑摩書房) | ○ |
1977年 | 『現代経済学』(筑摩書房) | ○ |
1978年 | 『現代経済学の展開』(東洋経済新報社) | ○ |
1978年 | 『資本制経済学の基礎理論』増訂版(創文社) | ○ |
1980年 | 『現代資本主義分析1 現代資本主義分析の課題』(岩波書店) | ○ |
1981年 | 『日本の鉄鋼業』(共編著、有斐閣) | |
1982年 | 『講座今日の日本資本主義10 日本経済の民主的改革と社会主義の展望』(共編著、大月書店) | |
1983年 | 『日本経済の数量分析』(共編著、大月書店) | ○ |
1986年 | 『現代資本主義と経済学』(岩波書店) | ○ |
1987年 | 『マルクス経済学 II 資本蓄積の理論』(筑摩書房) | ○ |
1987年 | 『経済理論と現代資本主義 ノート交換による討論』(共著、岩波書店) | ○ |
1988年 | 『現代経済学 II 』(筑摩書房) | ○ |
1988年 | 『景気循環――その理論と数値解析』(編著、青木書店) | ○ |
1988年 | 『経済学』(共著、大月書店) | ○ |
1991年 | 『マルクス・ケインズ・シュムペーター』(共編著、大月書店) | ○ |
1993年 | 『経済学はいま何を考えているか』(大月書店) | ○ |
2004年 | 『経済学と現代の諸問題 置塩信雄のメッセージ』(大月書店) | ○ |
社会主義の基礎は生産手段の社会的共有であるとされている。ところで、あるものXが、社会的共有であるということはどういう事態を指すのであろうか。私の考えでは、あるものXが、社会的共有であるということは、そのXに関する決定が社会の全構成員によって掌握されているということでなければならない。
たとえ、「憲法」に生産手段は社会的共有であると明記されていたとしても、社会の構成員の大部分が生産手段についての決定から排除されていたとしたら、そこには生産手段の社会的共有はない。(プロローグ、p.7)
広範な社会的分業に基礎をおく大規模な社会において、生産手段の社会的共有に基礎をおく社会主義は可能なのか。社会の全構成員が生産に関する決定に関与することは可能なのか。この問題は、社会の構成員の数が大きく、生産物・サービスの種類が膨大であることを十分考慮して、考えなければならない。(プロローグ、pp.7-8)
(イ) | ある社会形態は、人間の自然にたいする制御能力が一定以上に発達しなければ、成立し存続することができない。 |
(ロ) | どんな社会形態でも、その元で人間は親善にたいする制御能力を緩慢にか、急激にか上昇させるメカニズムをもつ。 |
(ハ) | ある社会形態は、人間の自然にたいする制御能力が一定以上に達すると、機能し存続することができなくなる。 |
(ニ) | 人間の存続を確実にするためには、人間の自然にたいする制御能力にふさわしい社会形態に移行することが必須である。 |
資本家が彼らにとって合理的に新技術を導入したとき、はじめは高い特別利潤を得る。しかし、この新技術が他の資本家によって模倣され、それが標準的なものになるにつれて、特別利潤は消滅してゆく。しかし、労働者の受け取る実質賃金率が上昇しないかぎり、利潤率は旧の水準より低くなることはない。……
マルクスの「利潤率の傾向的低下法則」が以上のように成立しないとすれば、資本制における新技術の導入は、資本制の存続発展を促進する作用のみをもち、資本制の再生産にとってネガチブな反作用をもたないのだろうか。この疑問は、上述の(ハ)の命題の検証に私を導いた。生産力がそれを超えたとき、資本制の存続が困難となる生産力の上限が存在するのだろうか。それとも、生産力がいかに高くなろうとも、資本制は存続しつづけることができるのであろうか。この問題は、現代を考えるうえでとても大切なことである。(プロローグ、pp.9-10)
そこから置塩氏は次のようなテーゼを取り上げている。(pp.10-11)
マルクスは、新技術の導入にともない労働生産性が上昇するとともに、生産手段に体化された労働C(不変資本)に比して、それを用いて働く「生きた労働」Nが相対的に減少すると考えた。彼は、N/Cの傾向的低下が平均利潤率の低下や失業率の増大をひきおこす主要原因であるとみなしている。(p.19)
しかしながら、技術進歩の型についてのマルクスの想定に問題がないわけではない。
統計的にみると、労働生産性の上昇は明らかに観察される。N/Cについては、これを「資本係数」の逆数とみることができるが、マルクスの傾向法則を主張することができるほどの低下を観察できない。資本制は、労働生産性を上昇させつつ、資本係数をさほど上昇させないですむ新技術の開発・導入に成功してきたといえる。(pp.20-22)
最低必要資金量は増大して行き、大企業といえども私的調達することができない水準に達する。そこで、その調達のために国家の介入が不可避となる。生産にかんする私的所有・私的決定と資金の公的動員の間の矛盾は激しくなる。この矛盾は、多くの汚職・贈収賄・スキャンダルを生み、政治的不安定をひきおこす。
注)最低必要資金の問題を分析するには、経済学で常用されている生産関数の一次同次性の仮定を放棄しなければならない。(p.23)
人間の自然制御能力が大局的なものとなり、その自然・人間に及ぼす影響が死活にかかわるものになってきた現段階では、生産力と私的企業制(とくに基礎的部門における)の間に鋭い矛盾が生じる。すなわち、生産の結果は大局的であるのに、決定は私的、局所的であるという矛盾が生じる。(p.24)
人間自体の活動の結果、外的自然が変化してゆく場合、人間が従来と同じ自然制御能力しかもたないとすれば、人間の存続は保障されない。(p.27)
人間の存続を確実なものにするためには、自然制御能力の上昇が必要であるが、このことは、人間がより多くの電力や鉄鋼などを生産しなくてはならないというのではない。人間の自然変革能力が上昇するというのは、すでに述べてきたように、人間が内的自然および外的自然に働きかけて、人間の存続をより確実にする方向へ変化させることである。そのためには、人間が行なう自然へのはたらきかけは、内的自然、外的自然にどのような間接的・長期的効果をもたらすかを認識し、これを考慮に入れて自然への働きかけを行ない、人間の存続をより確実にする方向へ自然を変化させる能力を高めなければならない。(pp.28-29)
資本が主要環節を通過するにあたっての困難
以上、4つの困難打開のために、科学・技術の開発・導入が……要請される。ところで、これらの要求を充たすために導入される生産技術は、必ずしも、この国において開発される必要はない。外国において開発されたものを導入することによっても、一応、資本の要求は充たされる。とくに、この国が生産技術の点で遅れている場合には、外国技術の導入方式が主要なものとなる。
だが、この導入が、この国の他国にたいする政治的従属のもとに行なわれる場合には、この国の経済は、その国に従属させられることになる。(p.38)
諸商品の相対的交換比率が、いくつかの条件と保留のもとで、諸商品生産に要する投下労働量の比によって規定されるという命題は、マルクスが『資本論』を書いていた19世紀中葉においては、多少とも経済学の素養をもつ人びとにとっては、ほとんど自明に近い「常識」であった。……このような知的状況のもとでは、マルクスの「蒸留法」を用いる価値=労働の導出は、読者にとってけっして奇異なものでも、突飛なものでもなく、自分たちのもっている経済学的常識に大変手際よい説明を加えたものとして受け取られたであろう。
だが、現在の経済学における知的状況は、マルクスが『資本論』を執筆していた当時とまったく異なっている。諸商品の交換比率は諸商品の需給関係で決まり、諸商品の需給関係は人びとの嗜好状態、生産技術などによって決まるという命題が、経済学の常識としてかなり広く定着しているのが現状である。
このような知的状況のもとで、マルクスが『資本論』で明らかにしようとした、諸商品の交換は物と物との関係ではなく、人と人との労働授受の関係であること、この観点から分析を行なうには諸商品の生産のために必要な投下労働=価値を把握しなければならないことなどを、読者に伝えるには、マルクスが『資本論』でとった叙述方法は適当とは思えない。(pp.73-74)
労働価値説は次のような諸命題によって構成される学説であると、筆者は考える。
人間社会が存続してゆくための基本的な条件は、生産活動=労働である。それゆえ、経済諸現象の分析にあたって、誰がどのように労働し、その成果を誰がどのように自らのものにするか、という観点を基底にすえることが寛容である。
人間がどのような生産力にもとづき、またどのような生産諸関係のもとで行なわれるかに応じて、社会の構成員のうちで、誰が生産に関する決定を握り、誰がその決定に従って労働せざるを得ないかが異なる。そして、また、労働の成果である生産物の取る社会的形態も異なる。
社会的分業が支配的であるにもかかわらず、生産手段が私的・分散的に所有されている社会では、生産物は商品形態をとる。
すべての商品がたがいに交換関係をもつことができるためには、他のすべての商品との直接的な交換可能性をもつ貨幣が必須となり、他のすべての商品は貨幣で測った価格をもつ。
商品の生産に投下され、商品に対象化された社会的標準的な抽象的人間労働を、その商品の価値とよぶ。
どんな社会でも、生産物には抽象的人間労働が対象化されている。商品という形態をとる生産物に対象化された抽象的人間労働をとくに価値とよぶのは、そのような労働が独自的・社会的性格を持つことを示すためである。
商品を生産する労働は、社会的分業の一環であるという社会的性格をもっているにもかかわらず、私的分散的な決定にもとづいて行なわれる私的な性格をもっている。私的労働は、その生産物が交換に成功することによって、はじめて、事後的に社会的労働として社会的承認をうける。
すべての生産物が商品となっており、生産手段が社会厚生委員の一部の少数者によって独占的に私有されている社会では、生産手段の所有から排除された人びとは賃金労働者となり、自らの労働力を販売せざるをえなくなる。そして、労働力を購入した資本家は、利潤追求を基準とした自らの私的決定のもとで労働させる。
すべての部門において、資本家が利潤を手に入れるには、資本家による賃金労働者の搾取、剰余労働の強制が必要である。
ここで、すべての部門においてと限定をつけたのは、労働者の搾取によらないでも、他部門の損失の犠牲によって、ある部門が利潤を手に入れることができるからである。
利潤の源泉が剰余労働の搾取であるという命題は、等価交換を前提することなく証明できる。
各部門で搾取された剰余価値は、その部門の資本家が手に入れるとはかぎらない。各部門で賃金格差がなく、諸商品の価格がそれぞれの単位価値に比例している(等価交換)ときには、各部門で搾取された剰余価値は、その部門の資本家の手に入る。しかし、諸商品の価格が価値に比例しない場合には、不等価交換の方向いかんで、剰余価値は他の部門の資本家に流れたり、他部門から流れ込んだりする。
各部門での標準的生産条件をもつ資本の利潤率を均等ならしめる価格状態(生産価格)では、有機的構成の高い部門へ、有機的構成の低い部門から剰余価値が流れる。逆は逆。
諸商品の価格は、市場における需給関係によって決まる。私的資本家は、価格状態に反応して、その私的決定を改訂する。このような往復作用により、無政府的な社会的生産編成はあるいは均衡の方向に、あるときには不均衡累積的に変動する。
このように、諸商品の価格は絶えず変動するけれども、諸商品の間の相対価格(価格比)は、つねにある許容範囲のなかにある。そして、この許容範囲は諸商品の価値に遺存し、また、その範囲の広さは、搾取率が大きいほど大となる。
諸商品の価値は種々の理由から、ほとんどつねにそのとおり実現されない。不等価交換が一般的である。どのような不等価交換が行なわれているかを知ることによって、われわれは剰余価値が誰に流れたか、また各部門での労働が市場でどのような評価をうけているかを知ることができ、その社会的理由を明らかにすることができる。
どのような不等価交換が行なわれているかを統計的に知るためには、各部門の受け取る「付加価値」のその部門での生きた労働等価量にたいする比率を比較すればよい。この比率が低い部門ほど、そこでの労働は低評価を受け、その商品は負の不等価交換を行なっている。(pp.79-82)
労働価値説は、経済諸現象の分析にあたって、
(イ) | 生産=労働を基底にすえて行なうこと、 |
(ロ) | その社会がどのような性格をもった社会であるかによって、特殊な形態が生じること、 |
に焦点を当てることを要請している。(84ページ)
労働価値説の要請を主張するためには、これらの要請を受け入れない場合に、経済学が何を失うかを示さなければならない。これらの要請は、(イ)人間の社会を労働共同体として把握し、資本制における交換などの諸経済現象は、その観点からみて、何を行なっているかを明らかにするとともに、(ロ)どうして、そのような特殊な仕方で、それらのことを行なわざるをえないかを明らかにすることを求めている。(84ページ)
従来、労働価値説の立場に立つ多くの人びとは、商業、金融、医療、教育、警備などの労働は価値形成的でないとしてきた。その理由として、以下のことがあげられている。
マルクスは、『剰余価値学説史』で、資本家が経営する劇場における歌手の労働は剰余価値を生むと述べている。この考え方によれば、その歌手の労働は価値形成的であるとしなければならない。この場合には、その労働が有体物を生産するかどうか、その労働が外的自然変化活動であるかどうかはまったく問題にされていない。その労働がともかく「有用」であること、それが商品であること、これによって、その労働は価値を形成し、その労働が賃労働者の労働力によるときは、剰余価値を形成する。だから、マルクスからある個所の引用をもって、この問題にたいする解とすることはできない。(108ページ)
有体物を生産するか否かで価値形成的か否かを決めようと言う考え方は根拠がない。サービスと呼ばれるもの以外に、商品でありながら有体物とはいえないものがある。電力、電波など。(108ページ)
商品としてのサービスの売買と、商品としての労働力の売買とのちがい。ある資本家が賃金労働者を雇用して、この賃金労働者にサービス労働を行なわせる場合、労働力の売買はあるがサービスの売買はない。ある人が、他の資本家に雇用された賃金労働者の行なうサービス労働をうけ、これに代金を支払う場合、あるいはある人が、個人経営としてサービス労働の提供を行なっている人から、代金を支払って、サービスをうける場合、これらの場合には、サービスは商品として売買されている。前者においては、賃金労働者の労働は価値を形成するだけでなく、剰余価値もつくり出す。後者の場合には、個人経営者の労働は価値を形成するけれども剰余価値をつくりださない。(109ページ)
社会形態がどのようであれ行なわれねばならない労働と、ある特定の社会形態であるがために行なわれねばならない労働とが存在する。この区別は重要なこと。ある生産物を生産するのに、いずれの社会形態のもとでもaだけの労働が直接・間接に必要だったとする。ところが、商品生産が支配的な社会では、この生産物は商品となり、市場において需用者を見いだし、貨幣と交換されるというプロセルが必要にある。そのための情報処理、交渉などのためにbだけの労働が支出されたとする。このbは、その生産物がそれを必要とする人のもとに届くまでに存在する、いわば「社会的障壁」の克服のために必要となっている。ある生産物を手に入れるために投下されねばならない労働のいずれの部分が、人間と自然の関係である「技術的障壁」の克服のためのものであり、いずれの部分が人間と人間との関係である「社会的障壁」の克服のためのものであるかを明確に認識することは、これら「障壁」を低くするために何が必要かを考える展でも重要である。(110ページ)
しかし、このことから、価値形成を行なう労働はaに限るべきであると結論することは正しいか。もしそうであるならば、商品としての通常の生産物に投下された労働であっても、価値形成的でないとしなければならないものが存在することを認めなければならなくなる。例えば、株券の印刷。死刑や拷問を行なうための機材、核戦争を行なうための兵器の生産など。(110ページ)
人間の自然制御活動=生産活動=労働にはつぎの3つがある。
(イ) | 内的自然に働きかけ、これを制御する活動 |
(ロ) | 内的自然に働きかける手段を手に入れるために、外的自然に働きかけ、これを制御する活動 |
(ハ) | 外的自然に働きかける手段を手に入れるために、外的自然に働きかけ、これを制御する活動 |
消費財生産、生産財生産といわれるものは、それぞれ(ロ)(ハ)にあたり、サービス活動と呼ばれるものの多くは(イ)にあたる。(112ページ)
人間そのもの=内的自然の制御を行なう労働も、それが商品となる場合には価値を形成する。(114ページ)
「ある商品一単位当りの価値は、その社会における標準的な生産条件と労働の熟練、強度をもって、その商品一単位を生産するために直接、間接に必要な労働量で決まる。」(9ページ)
「個々で標準的な生産条件というのは、その社会における通常の資力と情報を持つ商品生産者が新たに、ある部門に入ってきたときに、採用する生産条件のことである」(同前)
「多くの研究者は価値……が個別的価値の加重平均で決まると考えている。……このような見解はつぎの三つの理由から誤りであると考えられる」(同前)
ある商品の価値は投下労働量によって決まるという場合、その投下労働量のうち、消耗生産財に投下された「死んだ労働」は過去の蓄積労働ではない。ある商品の価値は、その商品の生産に実際にどれだけの労働が投下されたかによって決まるのではなく、ある商品を、現在その社会での標準的な生産条件のもとで生産するために直接、間接に必要な労働量で決まる。(13〜14ページ)
個別的価値と社会的価値の差は、商品が個別的生産条件の相違、したがって個別的価値の相違があるにもかかわらず、すべて価値としては社会的価値として評価し直される結果、ある商品を生産する多数の商品生産者の間に階層分化を生じる原因となる。(15〜16ページ)
このことを別の面からいえば、生産条件が劣悪であるか優秀であるかの責任が、その生産条件のもとでの私的商品生産者に課せられるということ。この根拠は、その生産条件を支えている生産手段が私人の所有であることにある。生産手段が共有された社会では、生産条件の相違は社会全体が責任を負うべきものであり、たまたまより劣等な生産条件で労働した人々の労働が低く評価されるということはない。(17ページ)
資本主義社会のなかで日常、種々の取り引きに携わっている人々の日常的な諸判断のなかで、価値がどのような意義を占めているかということがここでの問題なのではない。これらの人々にとっては、諸商品のそのときの価格、予想される価格が重要であり、それとは別に価値を考慮に入れる必要はない。……
したがって、経済学が、これら各種経済主体が取引実践を行なうにあたっての考量、選択をいかに行なうかという記述・分析から出発して、諸経済現象の説明に向かっていく方向に進んでいく場合、価値概念が無用なものとして放棄されることは当然である。(25ページ)
第1=価値概念を導入することによって、商品生産という形態で社会の諸成員が協働する態様を明らかにすることができる。(26ページ)
第2=ある商品の単位当り価値の大きさは、その商品の生産に関する社会的標準的な労働生産性の測度を与える。(29ページ)
「鉄鋼の生産に関する労働生産性の上昇という場合、鉄鋼部門で従来よりも、より少ない労働で一定量の生産ができるというだけでは、不充分である。というのは、その場合、そのために新しい設備を必要とし、その生産のために巨大な労働を必要とする結果、人間労働は総計としてより多く支出されなくてはならないのであれば、人間労働の生産性は逆に低下したといわねばならない」(30ページ)
注(19)労働価値説の一つの意義は労働生産性の変化が経済全体に及ぼす作用を価値という基礎概念を用いて追究することを可能にした点にある。……現在、激しいテンポで技術革新が行なわれている。したがって労働生産性の変化がもたらす諸種の作用の分析のためにも価値概念を経済学の中心にすえる必要がますます強まっている。(31ページ)
第3=価値概念を導入することによって、商品生産が行なわれている社会の労働の特殊性を明白につかむことができる。(31ページ)
生産過程での協働関係は、流通過程での販売関係を媒介にしてはじめて成就される。……たがいに協働関係にある各部門の労働は、生産物に対象化され、その生産物が商品として首尾良く販売されることによって、他部門の労働と協働関係をとりむすぶ。(34ページ)
第4=価値概念を導入することによって諸商品の交換関係の背後にある人と人との関係を明らかにすることができる。(35ページ)
第5=価値概念を導入することによって、利潤・利子・地代の源泉を明らかにすることができる。(37ページ)
注20)労働価値説が「諸価格がつねに価値に比例する」と主張していると考え、現実には諸価格が価値から乖離する事情を挙げて、労働価値説の不成立をいう反対論が多い。しかし、……現実の交換が不等価交換であるか否かを考える基準を提供し、不等価交換の生じる諸理由の追及へのり出す基礎を与えるということが労働価値説の一つの役割である。(同前)
各部門の連関の仕方が単線的である場合には、純粋生産可能条件は無条件で成立する。
各部門の関連が単線的であるというのは、「どの生産財をとっても、それが投入される部門、さらにその部門の製品が投入される部門というようにたどってゆけば、必ず純粋消費財にゆきつき、しかも純粋消費財にゆきつかないような投入経路はないということである」。(40〜41ページ)
単線的でない場合には、つねに生産財部門内での回帰的投入経路が存在する。
各部門の純生産物から、今期消耗した労働力の再生産のために消費しなければならない各種消費財を控除した残余を剰余生産物という。すると、再生産が可能であるためには、各部門の生産水準を適当に選ぶことによって、各部門の剰余生産物を非負にできるということである。(48ページ)
剰余条件が成立するためには、純生産可能で且つ剰余労働が行なわれることが必要且つ充分条件である。(50ページ)
剰余条件が成立するためには、基礎部門の生産係数が一定の条件を満たさなくてはならない。基礎的でない部門の生産係数は剰余条件とは無関係である。/ここで基礎部門というのは、労働力の再生産のために消費しなくてはならない消費財を生産する部門および、これらの部門に到着する投入経路を持つ部門のことである。(52ページ)
各部門で利潤が存在するためには、諸商品の単位当り支配労働はその価値より大でなければならない。(55ページ)
各部門で利潤が存在するためには、剰余労働が行なわれなくてはならない。別の表現でいえば、労働者の実質賃金率は労働生産性より小でなくてはならない。(58ページ)
この3つの命題は、いずれも同一の事態を種々の側面から見たもので、論理的には等価である。(59ページ)
労働生産性が大であることが利潤存在の根本にあると考えるか、実質賃金率の低いことが根本にあると考えるかは、利潤という経済現象の理解にとってきわめて重要である。労働生産性→利潤という考え方は、多くの場合利潤の根源を技術的あるいは自然的なものに求める考え方に至る。……これに対して低実質賃金率→利潤という方向は、低実質賃金率の根拠を追究することを通じて、社会的構造を明らかにする可能性をもつ。/学説史的にみれば、重農主義、リカードウは労働生産性→利潤の方向を、マルクス、オーストリア学派は低実質賃金率→利潤の方向をとる。(61ページ)
労働者の1日の労働日を「必要労働時間」以上に延長させることが利潤発生の根本である。このことなしには、いかに労働生産性が大になっても、剰余は発生しない。これがマルクスの剰余価値論の中核である。(64ページ)
利潤の根源をなす剰余労働なる概念は、個々の資本家の立場からは把握できない。(65ページ)
個々の資本家の立場からいえば、彼が販売する商品の価格が貨幣賃金率で測って、その商品の価値より大であったとしても、この資本家は利潤を手に入れることができるとは限らない。逆に、貨幣賃金率で測った価格が、価値より小であったとしても、この資本家は利潤を手に入れることができる場合がある。……このように、個々の資本家の立場からすれば、彼が利潤を入手できるかどうかは、労働者が剰余労働を行なうかどうかとは何の関係もないように見える。このことが、個々の資本家の日常的表象として定式化することを出発点とする俗流経済学が利潤の源泉としての剰余労働への追求を拒否する原因となる。(65〜66ページ)
剰余労働なる概念は、労働者の立場から把握できない。(67ページ)
剰余労働の有無を簡単に確定できないのはなぜか。それは社会的分業という事情が介入しているからである。ある労働者が生産に用いる生産財は他部門の生産物であり、彼が仕上げた生産物も厳密な意味で彼だけの生産物ではない。さらに彼が賃金で購入する生活資料は彼の生産物ではない。このような場合、ある労働者が故人の立場に固執する限り、彼の一定時間の労働と生活資料バスケット1組とを比較して、剰余労働が行なわれたかどうかを言うことはできない。(69〜70ページ)
ある期間における剰余生産物の価値総計はその期に行なわれた剰余労働の総計に等しい。また剰余生産物の価額総計は、利潤総計に等しい。(71ページ)
剰余条件だけで正の平均利潤率の存在にとって十分でないとすれば、さらにどのような条件が必要であろうか?
「平均利潤率は結局、基礎部門で決定される。したがって平均利潤率の大きさを決める第1の要因は基礎部門の生産技術、1日の労働力の再生産に必要な諸商品の種類および量、1日の労働日の長さの三つである。基礎部門の生産技術が優秀なほど、労働力再生産のための諸商品が小なるほど、労働日が延長されるほど、平均利潤率は大となる(逆は逆)」(88ページ、下線は引用者)
非基礎部門の生産技術の変化は、平均利潤率に何らの変化も与えないのかと言えば、そうではなく、自己再帰経路を持つ部門の生産技術の変化によって、それが属する再帰グループの最高平均利潤率が小となって、基礎部門の平均利潤率を下回るようになると、全部門の平均利潤率は存在しなくなる。(88〜89ページ)
資本主義社会における平均利潤率が労働生産性、実質賃金率にいかに依存するか……。(89ページ)
学説史上は、「この解決のために労働価値説は重要な役割を果たした。すなわち労働価値学説を基礎にして、実質賃金率と利潤率の対抗的な関係が開示された」。……「にもかかわらずいわゆる『限界革命』以後の近代経済学はこの問題を等閑視してきた。……この傾向は価額としての経済学にとっては不幸なことであった」(89ページ)
この問題は経済学の基本的なものである。基本的問題だからこそ、「資本主義の現段階での重要問題である独占価格などの分析のためにも不可欠である。」しかし、「労働生産性、実質賃金率、利潤率の関係は充分明らかにされていない」(89ページ)
「労働価値説に基礎を置いて導かれた結論が、一般的妥当性をもつためには、その結論が価値だけでなく価格のtermででも真なることが示されねばならない。」(89〜90ページ)
平均利潤率が正である場合、すべての商品の賃金単位で測った単位当たりの生産費は、投下労働量より大である……。(93ページ)
マルクスは、平均利潤率が搾取率より小となる理由としてただ不変資本の存在を挙げるだけであったが、そしてその結論は正しいが、平均利潤率の導出において(したがって「生産価格」の分析において)周知の不充分さをもっていたから、その論証は十分ではなかった注8」
注8)この点〔いわゆる転形問題の展開〕が充分に追求されなかったことが、利潤率の決定要因について誤った結論をマルクスが出した原因である。誤った結論というのは(イ)利潤率が非基礎部門の生産性の変化で動くと考えたこと、(ロ)実質賃金率一定のもとで、資本の有機的構成を高める技術変化の結果、利潤率が低下すると考えたことである。(94ページ
実質賃金率の定義
時間当たり実質賃金率は、1日の労働時間 T と、1日の労働力の販売によって得た賃金で購入できる消費財
( B1、B2、……、Bn )
で決まる。したがって、T や Bi が変化すれば時間当たり実質賃金率は変化する。(95ページ)
「生産方法一定のもとで、われわれの意味で実質賃金率が上昇すれば、平均利潤率は下落し、すべての商品価格は貨幣賃金率に比して下落する。このことは各商品の生産量が一定であるかぎり、分配率が労働者に有利に変化することを意味する。」(97ページ)
生産方法一定のもとで、搾取率を大にするような実質賃金率の変化があっても、平均利潤率、各商品の支配労働力、分配率は減少する場合がありうる。(97〜98ページ)
実質賃金率の上昇は、生産方法の既知の集合が不変であるかぎり、いかに生産方法を転換しても平均利潤率の低下、諸商品の単位当たりの支配労働量の減少を避けることは不可能である。だが、実質賃金率の上昇、それに伴う価格変動にもかかわらず、従来のままの生産方法を固定している場合よりも、資本にとって比較的有利であろうことが予想される。この予想は正しい。(100ページ)
資本家は生産方法の既知の集合が固定しており、はじめに生産費を最小ならしめる生産方法がえらばれているかぎり実質賃金率の上昇による平均利潤率の低下をのがれることはできないが、生産費を低める生産方法に移ることによって、そうしなければこうむったであろう大幅の低下をまぬがれることができる。(101ページ)
実質賃金率が上昇したときに、資本家はより少量の「生きた労働」を用いる生産方法に転換し、労働生産性を高めることで搾取率の低下を防ぎ、利潤率の低下を食い止めようとするという予想は「必ずしも正しくない」。
第一に、実質賃金率の上昇は生産方法が一定の場合、利潤率、資本家の分配率は必ず減少させるが、搾取率を減少させるとは限らず、上昇させることさえある。
第二に、一定の生産物を生産するのにより少量の「生きた労働」を用いる生産方法が必ず労働生産性を上昇させるとは限らない。
第三に、実質賃金率が上昇したとき、資本家がより生産費を低めるような新しい生産方法を採用する場合に、必ずしも「生きた労働」をより少量用いるような生産方法に移るとは限らない。注17)
第四に、実質賃金率が上昇したとき、資本家がより生産費を低めるような新しい生産方法を採用する場合、必ずしも労働生産性を高めるような生産方法に移るとは限らない注18)。(101〜102ページ)
注17)労働が割高になったにもかかわらず、生きた労働をより多くもちいる生産方法への代替が起こるのは、生産財の種類が2個以上あり、かつ生産財価格のあいだの相対比も変化する場合である。(102ページ)
注18)剰余労働が行なわれ、利潤が存在するかぎり、資本家がコストを低下させる目的で導入する新方法は、労働生産性を上昇させるどころか、逆に下落させることも充分あるのである。資本制が生産力の桎梏であるという一つの表現である。マルクスはこのことを認識していた。〔『資本論』第一部の機械の使用範囲にかんする部分を引用〕(103ページ)
技術変化が生じた部門(第k部門)が基礎的部門に属するか、そうでないかが決定的に充用。そのことを、リカードウは認識していたが、マルクスは認識していなかった注19)。基礎的部門に属しない部門で生じた生産技術の変化は、平均利潤率そのものが存在できない事情を生ずるかもしれないということをのぞけば、平均利潤率の水準にはまったく影響を与えない。……基礎的部門に属する場合には、平均利潤率は必ず上昇する。(104〜105ページ)
注19)マルクスの誤りは、平均利潤率を単純に、全剰余価値を総資本(価値で測った)で除した商であるとしたことに発する。
以上の結論は、マルクスの平均利潤率低下法則にとってはなにを意味するか? 資本主義社会での新技術の導入は、資本の有機的構成を高めるにせよ、低めるにせよ、資本家によって行なわれるかぎり、式(30)の関係を充たさねばならない。したがって、資本の有機的構成を高める技術変化でも、実質賃金率が一定であるかぎり、平均利潤率は低下しない。基礎的部門で技術導入が行なわれた場合には利潤率は必ず上昇する。
したがって、マルクスが実質賃金率が一定の場合(労働日の長さと一日の生活資料が一定)にも、資本の有機的構成が高まることによって、利潤率が低下してゆくと考えていたとすれば誤りである注20)。
注20)マルクスは時間当たり実質賃金率は生産性上昇とともに上昇するとは考えていなかった。したがって、生産性上昇によって、相対的剰余価値が増価し、剰余価値率は上昇すると考えた。にもかかわらず、有機的構成の造田による利潤率の低下をくいとめることができるとは考えなかった。……問題は、第1の前提にある。マルクスとともに、生産性を高めるような新生産方法は資本の有機的構成を高め、不変資本に対する生きた労働の比率を減少させるようなものとしても、考えなくてはならないのは本節の注18で示したように、資本家が採用する生産方法は労働生産性を高めることを基準としているのではなく、貨幣的コストの低下を目指している。そして、いかに生産性を高める方法でも、コストを低めない方法は採用しない。この点はマルクスも認識している。ところが、実質賃金率が不変の場合、旧価格で計算してコストを低める新方式の導入は、利潤率を低めず、高めるのである。したがって資本主義社会で資本家が生産方法の選択をにぎっているときは、実質賃金率不変の場合、(m+v)/cはどこまでも小になっていくことはできない。(107ページ下段)
「価値と価格」での結論(『マルクス経済学』第1章)(113ページ)
(イ) | 平均利潤率が正であるためには、剰余生産物あるいはその資本制社会での特殊な形態である剰余価値が存在しなくてはならない。 |
(ロ) | 有機的構成のより高い部門の商品の生産価格は「価値価格」以上に、有機的構成のより低い部門の商品の生産価格は「価値価格」以下になる。 |
(ハ) | 有機的構成のより高い部門の資本家は、その商品を生産価格で販売することにより、みずからの部門で生産された剰余価値よりも大なる利潤を得、有機的構成のより低い部門の資本家は小なる利益を得る。 |
(ニ) | 一商品の旧生産価格での費用を増大させない限り、一商品の価値を減少せしめる生産力の増大は、その商品の生産価格を減少せしめる。そのとき平均利潤率は上昇する。 |
(ホ) | 実質賃金率の一般的騰貴の場合には有機的構成のより高い部門の生産価格は下落し、より低い部門のそれは上昇する。そのとき平均利潤率は下落する。 |
(ヘ) | 一部門において平均利潤率以上の利潤を得たとすれば、必ず少なくとも他の一部門において利潤率は平均利潤率より以下である。 |
固定資本を考慮した場合、前項(イ)〜(ヘ)がどうなるか。
(イ)固定資本の存在を考慮した場合でも平均利潤率が正であるためには、剰余価値が存在しなくてはならない。
(ロ)有機的構成および技術的構成なる概念について、次のように考える。
このとき、資本の有機的構成のより高い部門の商品は「価値価格」以上に、資本の有機的構成のより低い部門の商品のそれは以下になる。
(ハ)資本の有機的構成のより高い部門の資本家は、その商品の生産価格で販売することにより、自らの部門で生産された剰余価値よりも大きい利潤を得、資本の有機的構成のより低い部門の資本家は小なる利潤を得る。このことは(ロ)の帰結である。(ロ)および(ハ)はともに費用の有機的構成には全く依存しない。(115ページ)
(ニ)生産方法の変化と生産価格および平均利潤率との関係について。次のように考える。
そこで、固定資本の増大による直接的変化と、費用を構成する必要生産材料および直接労働量の変化を分離して考える。
結論。
これはマルクスが利潤率の傾向的低下の法則について述べた際に相反する事情として挙げた不変資本の低廉化および労働力の価値下落にあたる。このいずれが強いかは、固定資本の増大に伴う生産力の変化の程度に依存する。(以上、115ページ)
一般均衡における価格体系が、たんにすべての財の需給を一致せしめる価格体系という性質のみをもっているのであれば、このような均衡価格は必ずしも安定的ではない。
単なる需給の一致という規定しかもたない均衡は、たかだか一時的均衡でしかなく 競争過程を通じてたえずそこへ引きつけられる価格体系を与えない。均衡概念がこのような一時的均衡概念として経済学の基礎概念になったのは、J・R・ヒックスによってである。(6ページ)
一時的均衡のうちの特殊な規定をもつ状態だけが安定的な均衡であり、価格体系はつねにその状態へ引きつけられる。/それでは単なる需給の一致ということに加えて、どのような規定がおかれるべきであろうか。(7ページ)
各産業部門において平均利潤率が成立する状態こそ自由競争における資本の移動によって絶えず実現されようとする状態である。(7ページ)
需要量、したがって生産量の増加は単位生産費にどのような影響を及ぼすか。ここで通常持ち出されるのは、収穫逓減の法則である。……増加需要が維持されるとき固定設備の増加が行なわれるから、長期的には決して収穫逓減は働かない。……需要は技術の変化を通じて単位生産費に影響を与える。たとえ需要が変化しても技術に影響を与えなければ単位生産費は変化しない。(9ページ)
生産費説は賃金についての命題を含まないかぎり完結的な価格論とはなりえない。賃金は明らかに生産費プラス平均利潤ではないからである。(10ページ)
まず最初に出された答えは賃金は競争の結果、最低生計費で定まるという命題である。最低生計費より賃金が高騰すれば、出生により労働人口が増加し、これを押し下げ、これより下落すれば、労働人口が減少して、これを押し上げる。(11ページ)
生産費説に対する労働価値説の批判
(イ)循環論であるという批判の二つの意味
1については、置塩氏は「生産費説は量的な意味では循環論ではない」と指摘。
質的な意味での循環論。留小津生産物は、一定の社会形態のもとにおいてのみ価格形態を持つのはなぜかを明らかにしない。この点では、マルクス経済学をのぞくすべての経済学に共通。
(ロ)利潤の決定機構を明らかにしないという批判の二つの意味。
この二つの意味は、(イ)の場合に対応。1については、量的に決定されないという批判は正しくない。
生産財、消費財それぞれ1単位を生産するための標準的な生産方法は、(a1、τ1)、(a2、τ2)としよう。a1、a2 は、生産財、消費税をそれぞれ1単位生産するために必要な生産財の投入量、τ1、τ2 は、生産財、消費財をそれぞれ1単位生産するために必要な直接(その部門での)労働投入量。
生産財、消費財の「価値」を t1、t2 とすると、t1、t2 は、
t1=a1t1+τ1
t2=a2t1+τ2
の連立方程式できまる。(37〜38ページ)
生産は有意味で純生産が可能でなくてはならないから、a1<1 を前提してよい。これを純生産可能条件という。この条件を置けば、上記の連立方程式は必ず正値の「価値」の大いさをとる。(39ページ)
両部門で利潤があるということは、
p1>a1p1+τ1w (3)
p2>a2p1+τ2w (4)
ということである。ここで、p1、p2 は生産財、消費財の価格を示し、w は貨幣賃金率を示す。労働者は賃金で消費財を購入するが、実質賃金率をR とすると、
w=Rp2 (5)
である。(39ページ)
1−Rt2>0 (14)
……両者の積Rt2 は、労働者が単位労働当たり受け取る消費財を生産するために、直接・間接に必要な労働量を示している。これが1より小であるということは、労働者が単位労働を行なって、受け取る消費財生産のために単位労働以下の労働しか支出されていないということである。すなわち、この差額だけ、単位労働時間のうち剰余労働となるわけである。(41ページ)
(14)はつぎのようにかきかえられる。
T−Bt2>0 (15)
ここで、T は1日の労働時間、B は1日の労働力を販売して、労働者が受け取る消費財の量で、実質賃金率との間に、
R=B/T
という関係がある。(15)の意味は、1日の労働時間Tが、1日当たり労働者が受け取る消費財の価値(Bt2)以上に延長されねば、利潤は存在し得ないと言うことを示している。このことを、はじめて明らかにしたのはマルクスである。(41〜42ページ)
条件(14)はつぎのようにかきかえられる。
R<1/t2 (17)
われわれは、この項のはじめに、いったい、実質賃金率がどのような限度以下にある場合に利潤が生じるのかという問題を出した。(17)はこれに答えている。すなわち実質賃金率 R は、1/t2 を超えてはならず、それ以下である場合にはじめて利潤は存在しうるのである。1/t2 はどんな意味を持った量であろうか。・・・・・・消費財生産の労働生産性を与える。ここで注意しなくてはならないのは、消費財生産の労働生産性という場合、消費財部門で投下される直接労働についてではないということことである。(42ページ)
消費財の価値を低めるような生産方法の導入は、搾取率を高める。いわゆる合理化による搾取率の上昇である。・・・・・・労働者が消費する生活資料に生産上、直接にも間接にも関係しない部門、例えば奢侈品部門での技術変化は、上述の搾取率を変化させない。(44ページ)
搾取率は、i)実質賃金率 R と、ii)消費財の価値 t2 できまる。(同前)
労働者階級の生活にとっては、実質賃金率の高低はただちには生活の改善・悪化を意味するのではない……。というのは、労働者階級の生活の内容を規定するのは、1日に受け取りうる生活の資料の大いさBである。(45ページ)
本書において、実質賃金率の上昇、下落が中心問題の1つとなるが、それが労働者階級に対してもつ意味を正確にとらえてゆくことが大切である。(同前)
生産財、消費財の両部門の均等利潤率rは次の式できまる。
p1=(1+r)(a1p1+τ1w) (20)
p2=(1+r)(a2p1+τ2w) (21)
w=Rp2 (22)
純生産条件a1<1が充たされ、かつ、剰余条件(14)が充たされた場合には、かならず正値をとる均等利潤率が存在する。(47ページ)
条件(14)は、消費財生産の労働生産性が高ければ成立するように思われる。そして、実際、本節のa項でみたように、労働生産性が高いことに剰余発生の根拠をおいた学説が存在した。労働生産性が高いこと、したがって、消費財単位生産に必要な投下労働 t2 が小であることが、剰余発生の十分条件であり得ないことは、(14)あるいは(17)をみれば容易に分かる。 t2 が以下に小であっても、R がそれにともなって大であれば、剰余条件(14)は成立しない。(16)からわかるように、実質賃金率 R は、1日の労働時間が短いほど、1日に労働者の受け取る生活資料が大きいほど大になる。だから、労働生産性が高くても、労働時間が短くなったり、労働者が1日に受け取る生活資料が大になれば、剰余は発生しない。剰余労働が労働生産性が高くさえあれば充たされると考えることは、剰余の存在が自然的(たとえば土地の肥沃度)、技術的条件から出てくると考えることである。また、1日の労働時間の長さや、労働者の1日当たり受け取る生活資料を不変量と考えているからである。しかし、これらは可変量であり、それを決定するものは、優れて社会的な諸条件である。したがって、剰余の存在は自然的技術的なものでなく、社会的な根拠に支えられているのである。(49ページ)
これに対してマルクスの労働力の再生産費の規定は、質的に異なっている(この点は、従来のマルクス経済学の研究で、十分注意されていないように思う)。マルクスは、労働力の再生産費という場合、賃労働者の再生産費と言うことを念頭に置いていた。したがって、それは、生理的、文化的、社会的に労働力が再生産されるというにとどまらず、つねに労働力販売者として労働力市場に繰返しあらわれざるをえない賃金であることが重要である。(54ページ)
古典派、マルクスともに、労働力市場の需給の緩急によって実質賃金率は下落、上昇すると見解をとっている。この点、本節の後段dで述べる諸理由によって、承認しがたい。これを別にしていえば、マルクスの見解は、資本蓄積過程と実質賃金率の運動を統一して考えねばならないとする重要な方向を与えている。私見では、マルクスの搾取論の証明は、資本蓄積過程を扱った『資本論』第1巻第23章にいたって完結する。本書は、そのような観点から、剰余発生の問題と蓄積過程との関連を中軸においている。(同前)
諸商品にたいする需要は、諸部門における生産活動に基本的には依存する。
マルクスは、拡大再生産表式を論じる際注4)に、このほかに、資本家階級の蓄積需要としての消費財需要を加えている。というのは、資本家が次期において生産拡大のために追加的に雇用する労働者の賃金部分にあたる消費財を、今期の消費財への需要として加えている。しかし、私見では、これは適当でないように思える。(83ページ)
注4)『資本論』国民文庫655〜690ページ。第3巻、第21章第3節「蓄積と表式的叙述」)
この理由。資本家が、次期生産を拡大しようと思ったとき、今期、そのために必要な追加的生産財を購入しておかなければならないのは当然。しかし、だからといって、追加的労働力まで購入しておかなければならないか? 今期において資本家が、次期での生産拡大を企図するということと、次期において実際に生産拡大が企図どおりに行なわれるかは、別のこと。後者は、次期における諸事情によって決定される。
次期における生産水準は、次期における諸事情で決定され、それによって、次期の労働雇用量はきまるのである。そして、次期に追加雇用された労働者の消費財に対する需要は、次期の消費財にたいする追加需要として現れる、と考えた方がよいようである。(83ページ)
両部門の需給の一致点が成立したとして、生産量、雇用量、実質賃金率は、(1)生産財に対する新規投資需要、(2)消費財に対する資本家需要、(3)両部門の資本家の生産決定態度にどのように依存しているか。(86ページ)
●資本家の生産財に対する蓄積需要かくして、蓄積需要の増大は、生産財、消費財の価格を、いずれも貨幣賃金率以上に上昇させ、実質賃金率を低下させる。生産財の生産量は増加させるが、消費財の生産量は減少させる場合もありうる。したがって、両部門の雇用量総計は減少することもありうる。蓄積需要が増大したとき、消費財の生産量、したがって、消費財に対する需要が減少することがあるという結論は、のちに恐慌の問題を考える際に重要な役割を果たす(第3章第2節、a項参照)。この場合の消費財需要の減少は、実質賃金率の下落や、雇用量の減少による労働者の消費需要の減少によるのである。このとき、消費財部門の利潤率は、生産財価格の上昇のため下落している。蓄積需要の減少の場合はこの逆。(87ページ)
いま、例えば、消費財部門の資本家が、従来より、より低い利潤率でもいままでの水準の生産を決定するようになったとしよう(これはなんらかの矯正なしには不可能だが)。すると、消費財で測った実質賃金率は上昇する。その結果、労働者の消費需要が増加して、消費財生産、生産財生産はともに増加する。この場合には、資本家の蓄積需要や個人消費の増加の場合とちがって、生産水準の上昇が、実質賃金銀の下落をともなうのでなく、実質賃金率の上昇がともなう点が注意されなくてはならない。すなわち、この場合には、労働者の消費需要の増大による生産水準の上昇があるのである。だが、このことが可能なためには、資本家の供給態度の変更が絶対必要である。ケインズは、このような方向への研究、そのための政策を考えてもみない。これは彼がブルジョア経済学者として、資本家の利潤追求態度を変化しえない「神聖」なものとみなしていたことを示している。(88ページ)
↑
これが置塩氏の結論で重要なところ。経済の民主的規制で、置塩氏が想定したような「強制」ができたとすれば、労働者の実質賃金率を引き上げつつ、経済水準全体を引き上げることが可能だということ、つまり“国民の懐を暖めてこそ、経済は発展する”ということの経済学的証明。
生産技術が変化してゆく場合の均衡蓄積経路について(184〜185ページ)