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いま科学的社会主義の古典を学ぶ大切さ

(『青年運動』一九九四年四月号)

はじめに

日本共産党の宮本顕治議長は、今年の「赤旗」の新春インタビューにこたえて、「もともと学習は人面の生きる根本です」とのべて、「いかに生きるか」という問題でも「自分の能力を、現代のいちばん新しい革新運動みなかに生かしていくことに大きな意味がある」と語っています。

民青同盟のみなさんが、第二十二回全国大会にむかって、科学的社会主義の古典をあらためて学ぶ活動をすすめていることは、たいへん重要なことだと思います。そこで、いま、なぜ古典を学ぶのか∞古典を学ぶ意義はどこにあるのか≠ニいう問題を、いくつかの面から考えてみたいと思います。

一、科学的社会主義の古典を学ぶ魅力

科学的社会主義の特徴の一つは、それが自然や社会、人聞にたいする科学的なものの見方に基礎づけられた科学的世界観だという点にあります。

実際、マルクス、エンゲルスは、それまでに人類が生み出していた最良の成果を徹底的に研究して、受け継ぐべき価値のある積鍾的な戚某をすべてくみとるとともに、彼らが活軸した当時の資本主義社会の全面的な分析をおこなって、そこから社会発展の法則(史的唯物諭)と資本主義社会の運動法則(剰余価値理論)を明らかにしました。エンゲルスが、これら二つの発見によって「社会主義は科学になった」(『空想から科学へ』)とのべたことは有名です。そして結論的にいえば、彼らが発見した史的唯物論や剰余価値理論の大局的な正しさは、その後の一世紀半におよぶ人類の歴史と社会科学の発展のなかで、ますます確証され、その生命力が実証されているということができます。

マルクス、エンゲルスの著作は、こうした生命力に満ちた科学的社会主義の学説の貴重な宝庫であり、私たちは、それらを学ぶことによって、彼らが明らかにした社会の科学的な分析と社会発展の法則の真髄がどこにあるのかを深く知ることができます。古典を学ぶ最大の魅力は、なによりもここにあると思います。

またとくに今日では、ソ連解体を新しい口実として「社会主義は崩壊した」「マルクス主義は破綻した」などの「体制選択」論攻撃がくり返しおこなわれており、それをうちやぶる活動をすすめるうえでも、古典を学ぶことが重要になっています。学問の領域でも、「体制選択」論攻撃とかかわって、「ソ連崩壊で、マルクスの理論的誤りは証明された」とか「マルクス主義もふくめて、米ソ対決型の思想はすべて無効になった」など、科学的社会主義の学説、マルクスらの学問的業績をまともな論証もなく、全面否定する独断がさまざまなかたちでもちだされています。大学の講義などでも、このような暴論が平然と通用させられる傾向が広がっています。しかし、こうした議論は、科学的社会主義が百五十年にわたる歴史をもっていること一つみても、その誤りが明白になるような底の浅いものにすぎません。

このような議論にたいして、学説のうえからも、マルクス、エンゲルスやレーニンの業績の今日的意義を明らかにして、科学的社会主義の学説を擁護することは、「体制選択」論攻撃をうちやぶっていくうえで重要な理論・イデオロギー活動の課題となっています。そして、こうした議論への説得力ある批判をすすめるならば、青年・学生のあいだで、科学的社会主義への知的信頼を大いに高めて、広範な青年を社会進歩の事業に結集する条件も広がっています。

また、科学的社会主義の成果を否定する議論からは、日本と世界の資本主義の現実が提起するさまざまな問題にたいして、解決の展望をしめせないことも特徴です。その一例は、いま岩波書店から出されている『講座 社会科学の方法』(全十二巻、現在刊行中)です。

この『講座』は、「冷戦終結」論にたって編集されたものですが、これを読むと、民族問題や環境問題などにふれながら、その解決の方向、展望を具体的に提示できないままで終わっていることが特徴的です。たとえば、ある論文は、環境破壊をなくすためには「手っとりばやくいえば、経済的拡大の根源である資本がなくなればよい」のだが、それは「社会主義圏が消滅した今日、……実現可能性がない」(馬場宏二「社会科学の三つの危機」)といって、問題解決をまったく放棄しています。

このような展望の不在は、結局は、社会主義は崩壊した。世界は資本主義で終わりだ≠ニいうところから生まれたものです。それにたいして、科学的社会主義の立場から確固とした未来の展望をしめすことが重要です。

このような点からも、私たちは、マルクス、エンゲルスの著作そのものにたちかえって、科学的社会主義の学説の意義を明らかにする知的活動を旺盛にすすめる必要があります。その意味で今日あらためて古典を学ぶことの大切さを、あわせて強調しておきたいと思います。

二、いまこそ輝く科学的社会主義の生命力

実際、さまざまなかたちでの「社会主義崩壊」論やマルクスやレーニンは古くなった≠ネどとする議論にもかかわらず、マルクス以来の百五十年にわたる人類の歴史と自然および社会、人間にたいする人類の科学的探求の成果は、「全一的世界観」としての科学的社会主義の生命力をあざやかに立証しています。私たちが科学的社会主義の古典を学習する場合、この点をよくつかんで学習することが大事です。

(1)唯物論と弁証法

科学的社会主義の世界観のいちばんの基礎は、唯物論と弁証法です。

唯物論というのは、一言でいえば、人間の思考、精神、観念と存在、自然、物質との、そのどちらがより根源的かという問題にたいして、存在、自然、物質の方がより根源的であるとする立場です。エンゲルスは、「感覚的に知覚される物質的世界」が「唯一の現実的なもの」であって、「意識」や「思考」は、たとえそれがどんなに神秘的に見えようとも、「物質的な身体器官」である脳の生みだしたものであると考えるのが唯物論だと指摘しました(『フォイエルバッハ論』)。今日では、精神、思考をつかさどる脳のはたらきもくわしく明らかにされており、このエンゲルスの指摘を疑う人は、ほとんどいないでしょう。

十九世紀の終わりに、ラジウムの核分裂反応が発見されると、これまで究極の物質、不変の物質だと考えられてきた原子が変化するといって、「物質は消滅した」などの誤った議論が持ち出されるようになりました。レーニンは、『唯物論と経験批判論』を書いて、こうした誤った議論を徹底的に批判しました。

そのなかで、レーニンは、科学的社会主義の哲学でいう「物質」という概念は、人聞の感覚から独立して存在し、感覚をつうじて意識に反映される「客観的実在」を言いあらわすための哲学上のカテゴリー(ひとつのまとまった考えをあらわす言葉)であると指摘し、こうした哲学上のカテゴリーとしての「物質」概念は、物理学の発展によって物質の構造についての理論が発展したからといって、「古くさくなることはない」と強調しました。

その後、物理学の発展は、原子を構成する電子、陽子、中性子その他の素粒子の存在、さらには陽子などの素粒子を構成するより小さな基本粒子であるクォークの存在も明らかにしています。しかし、どこまでいっても「物質が消滅する」ようなことは、まったくありません。これらのミクロの粒子は、私たちが日常的に体験している物体にくらべるとたいへん不思議なふるまいを見せますが、これらの粒子も、人間の意識から独立して存在する「客観的実在」(=物質)であり、さまざまな実験や観察をとおして、われわれの意識に反映されているのであって、その「反映」が正しいかどうかは、理論的な予測と実験をつうじてくり返し検証されているところです。

このクォークの研究にたずさわっている京都大学の益川敏英教授は、みずからの研究をふりかえって「赤旗」につぎのように語ったことがあります。

「素粒子が、さまざまな性質、特徴、法則性をもっているのは、その背後にそれらの担い手の物質が必ず存在するに違いないと考え(ています)」、そこには「『電子といえどもくみつくせない』という物質の無限の階層性と認識の相対性を指摘したエンゲルスやレーニンと同様の唯物弁証法(弁証法的唯物論のこと――引用者)の物の見方がつらぬかれています」、「唯物弁証法と自然科学の研究方法との関係は非常に奥深いもので、今後もさらに追求する必要があると思います」(「赤旗」一九八四年七月十四日)

このように、唯物論と弁証法の正しさが最先端の自然科学者によっても確証されているのです。

(2)「常識」になった史的唯物論

歴史や社会にたいする唯物論的なものの見方、すなわち史的唯物論(唯物史観)については、どうでしょうか。

ソ連を社会主義の本家とみなす人たちからは、「資本主義から社会主義へすすむというのが史的唯物論のはずだ。しかし、ソ連が崩壊してヤ社会主義から資本主義にかわっている。だから史的唯物論はまちがっていた」という議論がもちだされています。これが、科学的社会主義本来の道を根本的にふみはずしたソ連を「社会主義の本家」とみなす誤った議論であることは明らかです。同時に、史的唯物論の考え方というのは、そのような単純な図式ではないということも、よくみておく必要があります。

史的唯物論の基本的な考え方について、エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかでつぎのようにいっています。[1]「これまでのすべての歴史は、原始状態を例外として、階級闘争の歴史であったこと」、[2]これらの階級は、その時代の「生産関係」「経済的諸関係の産物であること」、[3]したがって、社会の経済的構造が「現実の土台」であり、「法律的および政治的諸制度ならびに宗教的、哲学的、その他の見解からなる全体の上部構造」は、「この土合から説明されるべきである」こと。

* 生産関係 生産のなかで人びとかとりむすぶ社会関係のこと。基本となるのは、生産手段を所有しているかどうかの関係で、資本主義のもとでは、生産手段を所有する資本家階級が、生産手段を所有せず労働力を販売して生活費を得ている労働者階級を搾取しています。これが、資本主義的生産関係です。

社会の発展、変動の根底には経済的諸関係があるという考え方は、史的唯物論という名前を出すかどうかは別にして、今日では広く認められた考え方です。学校の歴史教科書でも、それぞれの時代の生産のあり方、人びとの経済生活の様子を中心的なテーマとしてとりあげないものはないといってよいでしょう。

評論家の加藤周一氏は、このような史的唯物論の考え方について、「今では誰にとっても常識的なことではなかろうか。その限りで、マルクス主義は死んだのではなく、常識になったのである」(「朝日」夕刊、九一年十二月十六日付)と指摘しています。

また、明治維新研究などで有名な歴史学者の遠山茂樹氏は、史的唯物論は「経済・政治・法律・教育・思想・宗教・芸術等々、歴史の諸要素を総体として統一的にとらえようとするならば、今日のところもっとも有効な方法」(『遠山茂樹著作集』第1巻、はしがき)だと指摘しています。

このような専門の研究者・知識人の発言に照らしてみても、ソ連が崩壊したのだから、史的唯物論は破綻した≠ネどという議論がいかに皮相なものかは明らかでしょう。

(3)ますます輝きをます『資本論』

剰余価値学説と『資本論』はどうでしょうか。ここでは、搾取のしくみなどくわしく説明することはしませんが、日本と世界の資本主義の現状をまともに見るならば、社会主義の崩壊で資本主義が勝った≠ネどといえないことは明白です。

また、『資本論』をあらためて読んでみると、利潤の増大を唯一の動機とする資本の本性をマルクスがさまざまなかたちで明らかにしているなかで、現代の日本の現実に照らしてみてもあらためて感心させられるするどい指摘にたくさん気がつきます。

たとえばマルクスは、本来は労働時間を短くし、労働者の負担を減らすはずの機械が、資本家によって利用されるならば「労働日の無際限な延長の新しい強力な動機をつくり出」すと指摘し、その結果、機械は「労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖のための自由に処分されうる労働時間に転化するもっとも確実な手段に急変する」とのべています(新訳『資本論』[3]七〇五ページ)。これなど、今日の日本の長時間・過密労働の実態をえがいたものではないかと思ってしまうほどです。

* こうした問題については、不破委員長の『資本論と今日の時代』や『労働基準法を考える』でくわしくとり上げられています。

資本主義の問題は、よくマルクスは資本主義経済がゆきづまると予測したが、そうはならなかった≠ニいう議論がもちだされます。「社会主義崩壊」論のなかで、しばしば訳知り顔に、このようなマルクスの誤り≠もちだす学者もいますが、『資本論』を読めば、そうした議論がマルクスを読まない決めつけにすぎないことがよくわかります。

マルクス、エンゲルスは、資本主義が技術的に衰退したり、その経済が下降線をたどったりするところに資本主義の限界をみたわけではありません。マルクスは、資本主義が生産力を飛躍的に発展させること、そのことによって、きたるべきより高度な社会の物質的基礎を、意図せずにつくりだすことをくり返し指摘しています。同時に、資本主義のもとでつくり出された高度な生産力が、利潤の追求を最大の動機とする資本主義のもとでは制御できなくなること、そこに資本主義の限界を見出だしたのです。

一部の先進国の物質的な豊かさの一方で、環境破壊や発展途上国の飢餓など深刻な問題が広がっている日本と世界の資本主義の現状をみると、資本主義の発展のなかに資本主義の矛盾の拡大をみたマルクスの予見が、ますます実証されていることがわかると思います。

三、古典を学ぶうえで大事なこと

つぎに、科学的社会主義の古典を学ぶうえで大事なことについて、いくつかのべておきたいと思います。

(1)マルクスらのことばを固定化せずに

第一の問題は、古典を学ぶさい、マルクス、エンゲルスあるいはレーニンの言ったこと、書いたことの一言一句を固定化して「教条」(決まり文句)にしないということです。これは、科学的社会主義本来の性格に根ざしています。マルクス、エンゲルスが、それ以前の、理想社会の青写真をつくってそれを外から社会に押しつける「空想的社会主義」を批判して、「社会にも発展の法則があるという社会科学の立場にたち、その法則を認識し、それによって社会に働きかける」(日本共産党第九回中央委員会総会決議)ことを社会主義の理論と運動の根本にすえたことは、この間、私たちがくりかえし明らかにしてきたところです。ですから、私たちがマルクス、エンゲルスあるいはレーニンが「こう言った」ということにとどまっていたならば、それは、まったくマルクスらの精神に反することになります。

エンゲルスは、科学的社会主義の方法は現実を研究するさいの「導きの糸」であって、それを現実を「ぐあいよく裁断するためのできあいの型紙」のようにとりあつかうと、まったく反対の誤った立場におちこむと指摘したことがあります。レーニンは、「マルクスの理論」が正しいということについて、それは、マルクスの著作のなかにすべての答えが書いてあるということではなくて、「マルクスの理論の道にそっていくことによって、われわれは、いよいよますます客観的真理に近づく」ことができるということだと説明しています。ですから、私たちも、古典学習をとおして、現実の分析をすすめるさいのマルクスの精神、方法を深くつかむようにしなければなりません。

そのためには、マルクス、エンゲルスあるいはレーニンの著作が、どんな時期にどのような状況のもとで書かれたのかを頭に入れながら、古典を読むことが大切です。

不破委員長は、「古典はとっつきにくい」という声に答えて、こうのべています。

「古典には、一般的な教科書として書かれたものはなく、どれもその時代との切り結びの中で書かれた著作ばかりですから、その真臓をつかむためには、具体的な情勢の中で展開される分析や解明、その論理を生きた形で読みとることが、何よりも重要になってきます。それだけに、それぞれの古典が書かれた事情や背景となっている情勢などを、労を惜しまず把握することは、古典学習の大切な要の一つです」(『古典への旅』新日本新書)

そして、自分自身の学習をふりかえり、ロシア革命史を勉強したり、マルクス、エンゲルスの伝記を読むなど「古典家たちと近づきになるために、いろいろ苦労したことを思い出します」とのべています。こうした学習のしかたをぜひ参考にしてください。

また、日本における科学的社会主義の自主的、創造的な探求の成果のうえにたって、古典を読むことも大切です。日本共産党の大会や中央委員会の決定、「自由と民主主義の宣言」や重要論文には、日本の現状にあわせて、科学的社会主義の原則を創造的に発展させた内容がもりこまれています。こうしたものの学習の成果を、古典学習にも生かしてもらいたいと思います。

ここで、翻訳の問題にもふれておきます。科学的社会主義の理論の中心的考え方の一つに、「プロレタリアートのディクタツーラ」という概念があります。このことばは、過去には、「プロレタリアート独裁」と翻訳され、共産党は独裁を目指している≠ニ反共攻撃の材料にも利用されたことがありました。しかし、「ディクタツーラ」という用語で表現されている中身は、資本家階級や労働者階級など特定の階級や階層などの政治支配、国家権力のことです。したがって、これに、特定の個人や組織への権力の集中という意味をもつ「独裁」の訳語をあてることは、適切でないことが明らかにされ、今日では「執権」の訳語が使われるようになっています。いろいろな翻訳書が出版されていますが、みなさんが学習する場合には、訳語の面からも日本での理論的到達点をふまえたものを選ばれるとよいでしょう。

(2)古典そのものに挑戦する

古典学習の問題の二つめとして強調したいことは、科学的社会主義理論の学習を参考書や入門書ですませないで、ぜひマルクス、エンゲルス、レーニンの書いた古典そのものに挑戦してほしいということです。

それは、つぎのような理由からです。日本共産党は、この間、科学的社会主義の運動論の見地の重要性を解明してきました。これについては、不破委員長が『月刊学習』に論文「科学的社会主義の運動論」を連載して、マルクス、エンゲルスの多くの発言を紹介しています。そのさい、不破委員長は、こうのべています。

「マルクス、エンゲルスは、運動論の問題について、まとまった論文をのこしているわけではありません。しかし、マルクスもエンゲルスも、科学的社会主義の学説をつくりあげた理論であると同時に、その理論を指針として、労働者階級と人民の運動の先頭に立った革命家です。彼らが科学的社会主義の立場に到達した十九世紀の四〇年代から、それぞれの生涯を終えた八〇〜九〇年代までの著作や論文、発言のなかには、科学的社会主義の運動論の基本をなす見解が、実に豊かな内容をもって展開されています」

このように、マルクス、エンゲルスらの著作は、まだまだ私たちがくみ取るべき豊かな内容を含んでいるのです。科学的社会主義の運動論の問題にかぎらず、あらためて古典を読んでみると、解説書などでは得られない豊かな内容に驚かされることが何度となくあると思います。

戦前の日本共産覚の指導的幹部の一人で、経済学者でもあった野呂栄太郎は、将棋の「定石」について語った著名な棋士の言葉にふれて、われわれがマルクス、レーニンの学説を緕究するのは、彼らの「片言隻句を暗記したり、その翌論を公式的にうのみにする」ことでもないし、また「物知りになって、マルクス、レーニンの学説を切り売り」することでもないとして、つぎのように語ったことがあります。

「必要なことは、まず、それ(マルクス、レーニンの学説を学ぶこと)によってわれわれの頭脳のはたらきを根本的に改造し、事物の見方を徹底的に変革するにある」、「(その場合)必要な第一のことは、マルクス、エンゲルス、レーニン自身によって書かれた、いまはすでに歴史的なものとなっている文献に直接親しみ、解説書などでまにあわせをすることなく、たとえ一年に一冊でもよいからぞれを再三再四精読し、それによって、ややともすればゆがめられがちなわれわれのものの見方を正しくし、にぶらされがちな考え方をするどくするようにたえず努力することである」(「名人上手に聞く」、『野呂栄太郎全集』下巻)

野呂の時代よりはるかに容易にマルクスらの文献が手に入る今日、一年に一冊でよいかどうかは別として、これは、古典そのものを学ぶ意義をたいへんわかりやすく説明したものといえるのではないでしょうか。

もちろん、マルクスらの著作は、参考書などのようにカかりやすく整理整とんされているわけではありませんから、はじめて読む人が難しいと感じるところもあるでしょう。そういう場合は、『社会科学総合辞典』や解説書などを役立ててほしいと思います。しかし、だからといって解説書などですませないで、ぜひ古典そのものに挑戦してほしいというのが、野呂の考え方だと思います。

(3)科学的社会主義の全体像を頭において

三つめに、よく「何から読んだらいいのでしょうか」と質問されることがありす。これは、特別この順番に読まなければならないという決まりがあるわけではありませんが、手当たりしだいに読めばよいということにもならないでしょう。そこで、若干、私の考えをのべておきましょう。

昨年、不破委員長は、民青同盟の中央役員のみなさんを対象に特別講義をしたさい、レー二ンの「カール・マルクス」という論文を手がかりにしながら、科学的社会主義の世界観の全体を概観しました。「何から読んだらいいのか」を考えるとき、不破委員長のこのやり方は参考になると思います。

科学的社会主義は、哲学、経済学、社会主義、階級闘争の理論などにわたる「全一的な」(全体として一つにまとまった)世界観をかたちづくっていますから、古典を学習するさいは、そうした全体をある程度頭にいれながら、計画的にすすめるとよいと思います。民青同盟や日本共産党の独習指定文献のなかにも、科学的社会主義の古典がとりあげられていますので、それにそって学習することも大切です。

また、とくに学生の方や幹部同盟員のみなさんは、日本共産党綱領を深く解明した『日本革命の展望』はもちろん、マルクスの『資本論』やレーニンの『唯物論と経験批判論』にも挑戦し、ぜひ読破してほしいと思います。これらは.経済学、哲学という科学的社会主義の基礎理論を体系的に明らかにした中心的な文献です。なかなか大部で読み通すには、一定の時間と努力が求められるものですが、計画的に、また仲間でお互いに援助しあって、ぜひ読了してほしいと思います。

さいごに――時代の本流見ぬき、生きがいを社会進歩に結びつけて

激動の情勢のなかで、時代の流れ、社会進歩の方向を正しく見ぬくことがいまほど求められていることはありません。不破委員長は、日本共産党本部の党旗びらきで、「激動の時代には、流れの本流を見ぬくということが非常に大事だ」ということを強調しましたが、私たちは、小選挙区制をめぐるこの間のたたかいのなかで、そのことを痛感しました。また、「時代の本流」を見誤らせる「冷戦終結・保革対立消滅」論を正面から論破することの重要性も、みなさん実感されているところでしょう。

史的唯物論の基本的見地からみれば、「保革対立消滅」論の根拠のなさは明白です。搾取と収奪に基礎をおく資本主義のもとで、より多くの利潤をあげようとする資本の要求と国民の願いとの矛盾はさけられません。そして、この矛盾を解決するための革新の運動、人民の階級闘争が歴史をつくる原動力です。したがって、資本主義の矛盾がなくならないかぎり、革新運動が「消滅」するなどということはありえないことは明らかです。

もう一つ強調したいことは、みなさん一人ひとりの生き方、生きがいを、「時代の本流」をすすむ社会進歩の事業と固く結びつけるということです。いま、現実の矛盾を反映して、広範な青年が自分らしい生き方、生きがいを求めて模索していますが、他方で、「社会主義崩壊」論などが否定的な影響をあたえ、科学的社会主義への接近を妨げています。

そうしたときに、青年の苦難の解決の先頭にたつ同盟員が、社会進歩の道すじに確信をもって、みずからの生き方・生きがいをそれに結びつけて活動する姿は、たいへん大きな魅力となるものです。昨年、東京大学の民青同盟が発表した「二つの東大と民青同盟」という論文は、戦前の歴史の教訓や「冷戦終結」論への批判と結びつけて「何のために学ぶのか、どうすれば自分らしい生き方ができるのか」を真正面から訴えて、大きな反響をよびました。

古典をとおして科学的社会主義の世界観の真髄を学び、それをみずからの生き方、生きがいにむすびつけることは、また同盟員自身の要求でもあります。

民青同盟のみなさんが、科学的社会主義の古典を積極的に学んで、その世界観的確信をみずからのものとし、激動の情勢のなかで「時代の本流」をしっかりとつかんで、知的な面でも生き方の面でも、大いにその魅力と輝きを発揮されることを期待しています。

(おわり)

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