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日本共産党綱領改定案について

(2003年12月)

目次

天皇制問題と自衛隊問題について

【一】現在の天皇制の評価について

綱領改定案の象徴天皇制の扱いについて、「天皇制を容認するものだ」とする反対意見がいくつか出されている。しかし、それらの意見は改定案を正しく理解したうえで出されたものと私には思われないので、私の意見を述べて討論に参加したい。

まず現在の綱領での位置づけだが、天皇制廃止の課題は、民主主義革命に向かっていま我々が掲げるべき基本要求を列挙した行動綱領ではなく、将来、民主主義革命が実現したとき民主的権力のとるべき国家体制を明らかにした部分に掲げられている。これは、第七回党大会での「綱領問題についての報告」で明らかにされているように、「いまからただちにとりあげていくことと、権力の獲得の時期に解決される課題とを区別」したものである(『前衛』大会特集号、135ページ)。「いままで天皇制廃止を掲げてきたのに、それを降ろすのは反対だ」という議論は、誤解にもとづくものと言わざるをえない。

次に、現在の天皇制をどうみるかであるが、憲法が国民主権を明記している以上、日本を君主制の国とすべきでないという提起は、当たり前だが重要な指摘と思う。同時に、綱領改定案は、現在の天皇制が「民主主義の徹底に逆行する弱点」であるとも明記しているし、提案報告では、歴史的な事情から天皇制が存続したもとで、国民主権の原則を独特の形で制度化したものだとも述べていて、憲法の規定の複雑性、特殊性を指摘している。この点では、現在の綱領が象徴天皇制を単純に「ブルジョア君主制」とせず、その「一種」としていることにも注意を向けておきたい。“天皇制が君主制でないなら日本は共和制なのか”という議論は生産的なものとは思われない。

綱領の問題として考えるべきは、この弱点が、その克服なしには民主的改革の達成が不可能となるような性格のものなのかどうかである。そういう立場からみれば、それが民主的改革の決定的障害となるものでないことは明らかであろう。もしかりに反対勢力が天皇条項を利用して妨害を画策したとしても、我々は憲法に依拠してたたかうことができる。天皇の政治利用についても、改定案は、天皇の政治関与を禁じた憲法の制限条項の厳格実施を迫ることによってやめさせるという立場を明らかにしている。ここでも我々は憲法に依拠しうるのであり、現憲法がそういう仕組みになっていることを正確に見ることが大切である。

天皇制の将来の存廃について言えば、政権の一存で廃止できるものでないことは憲法の条文から明白である。現綱領は、将来の君主制廃止をいうのみで、それをどのように実現するか明らかにしていない。そこから、共産党は憲法を踏み越えるつもりなのではないかという疑問が生まれたりした。今度の改定案は、憲法改正手続きに従って国民投票を実施し、まさに主権の存する「国民の総意」(憲法第1条)によって天皇制の廃止に踏み出すことを明らかにした訳で、実に適切な措置だと思う。

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【二】自衛隊問題について

自衛隊問題についても、改定案を「自衛隊容認」と誤解した意見がある。しかし、改定案は「憲法第9条の完全実施(自衛隊の解消)」をめざすことを明記しており、自衛隊が憲法九条に違反する違憲の存在であるとの認識ははっきりしている。

しかし、自衛隊は憲法違反だということから、党が政権にくわわったらただちに自衛隊廃止に踏み出さなければならないということになれば、党は、自衛隊廃止が一致点とならない限り政権には参加できない。これでは、民主的政権の樹立をはるか遠くに追いやることになる。海外派兵の動きも、大もとは安保条約にある。「日本を守るためには自衛隊は必要」という人々とも共同し、まず安保廃棄を実現させることが切実に求められている。そのために、党の安保政策とともに自衛隊政策への理解を広げることが大切である。

また、実際に自衛隊を解消していく場合を考えてみよう。自衛隊が違憲の存在であることを大いに訴え、理解を広げることが重要であることは言うまでもない。それとともに、民主的政権が実際に憲法に基づく平和外交を展開し、国民自身が“なるほど自衛隊がなくても日本の安全は守れる”と実感するような国際環境をつくりあげることも、自衛隊解消にむけて大きな役割を果たすに違いない。そのために、民主的政権を実現し、そのもとで自衛隊の段階的解消に踏み出すという方針は実に理にかなっている。もちろん将来の民主的政権は、国民合意が熟すのをただ待つのではない。安保条約を廃棄して、米軍の指揮下にあってアメリカの世界戦略の一翼を担わされている自衛隊の改革に取り組み、海外派兵をやめ、軍縮の措置をとる。そのうえで、国民の合意で自衛隊解消の“最後の一歩”をふみだそうというのである。私は、これこそ非常に実現性のある展望だと思う。

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帝国主義の問題と日本独占資本主義の復活・強化について

(1)「独占資本主義=帝国主義」という従来型の見方にたいする綱領改定案の提起について、帝国主義の危険性を軽視するものではないかという反対意見や疑問があるので、私の考えを述べて討論に参加したい。

まず確認しておきたいが、提案報告では「独占資本主義というのは、独占体が中心ですから、独占体に固有の拡張欲とかそれを基盤にした侵略性とか、そういう性格や傾向を当然もっています」(冊子23ページ)と明確に指摘されている。だから、改定案は帝国主義を過小評価するものだという意見は正しくないと思う。

問題は、改定案第3章(7)で詳しく明らかにされたように、第2次世界大戦後の世界情勢の大きな転換によって、そうした独占資本主義のもつ本来的な拡張欲・侵略性というものが、ストレートな形で現われなくなっているときに、我々は、何を基準にして、ある国を政治的に帝国主義と呼んで批判・告発するのが適切なのかということにある。さらに、大会決議案第1章で詳しく紹介されているように、アメリカのイラク武力攻撃にたいして、世界的な反対運動が広がり、国連安保理でもフランス、ドイツなど独占資本主義国の中からも反対の声が上がり、アメリカは外交的敗北の中で攻撃に踏み切らざるを得なかった。そうしたときに、経済的に同じ独占資本主義だということで、フランスやドイツをアメリカと同列に帝国主義と呼んですましていられるかどうか。このことも問われている。

そこで、改定案は、「その国が現実にとっている政策と行動の内容を根拠に」して、「その国の政策と行動に侵略性が体系的に現れているときに、その国を帝国主義と呼ぶ」(同前)という新しい基準を提起したわけで、私は、これは「政治的に適切な」ものと思う。さらに、この基準に基づいて改定案は、アメリカの対日支配が「帝国主義的な性格」(第2章〔5〕節)をもつことを指摘するとともに、現在のアメリカの世界戦略を「独占資本主義に特有の帝国主義的侵略性」を「むきだしに現わしたもの」と批判し、「いま、アメリカ帝国主義は、世界の平和と安全、諸国民の主権と独立にとって最大の脅威になっている」と告発している。アメリカの軍事行動は、アメリカを軸としてフランスやドイツ(日本をも)含めた帝国主義諸国の同盟が出来上がっていて、その共同利益のためのものであるとする議論もあるが、それでは、自国の利益のために単独での先制攻撃もやってのけるアメリカの世界戦略と合わないし、国際政治の舞台において、それへの批判が一番の焦点になっているということとも食い違ってしまう思う。

今度の改定案の提起は、こうした生きた国際政治の課題に真正面から答えたものだと思う。それを、20世紀初頭の現実を念頭においたレーニンの解明を持ち出して「カウツキー主義だ」と批判してみても、新しい現実の課題に答えたことにならないと思う。冒頭に書いたように、改定案の新しい提起は独占資本主義が本来的に拡張欲・侵略性をもっていることを前提にしたもので、「カウツキー理論」と同じとは思わない。

(2)以上の見地は、日本独占資本主義の復活・強化の問題についても、つらぬかれている。改定案は、日本の大企業・財界と日本政府が「アメリカの目したの同盟者としての役割を軍事、外交、経済のあらゆる面で積極的、能動的に果たしつつ、アメリカの世界戦略に日本をより深く結びつける形で、自分自身の海外での活動を拡大しようとしている」(〔6〕節)と指摘している。そして、そのために、自衛隊の海外派兵の拡大、有事立法、集団的自衛権の行使、憲法改悪など、アメリカの先制攻撃戦略と結びついて「軍国主義復活の動きを推進」しており、それが「アジアにおける軍事的緊張の危険な震源地の一つ」になっていると告発している。このとらえ方は、軍国主義復活の規定が現状にふさわしく改められているが、大枠は現在の綱領と同じである。改定されたのは、そのときに、独占資本主義の復活・強化がどこまですすんできたか」という基準で軍国主義復活・強化の進捗を測るのではなく、「大企業・財界および日本政府の政策と行動」に基づいて判断するようにした点である(冊子25ページ)。

大企業の対外活動についても、改定案第4章で、多国籍企業への民主的規制、すべての国の経済主権の尊重と平等・公平を基礎とする民主的な国際経済秩序の確立をめざすこと(「国の独立・安全保障・外交の分野で」)、平等・互恵の経済関係の促進、南北問題や地球環境問題などの解決への積極的貢献(「経済的民主主義の分野で」)などを民主的改革の課題として明記している。このように、改定案に即してきちんと理解をすすめていけば、日本独占資本主義の現在や将来について、見方を緩めたのではないかといった疑問は解消すると思う。

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改定案の未来社会論の提起する新しい問題に学んで

綱領改定案の未来社会論は、マルクス以来の科学的社会主義の見地を復活、前面に押し出す内容となっており、理論的にも非常に重要な提起が含まれていると思う。しかし、そのことが十分に理解されないまま、いくつかの反対意見が提出されているように思われるので、私の理解したところを述べて討論に参加したい。

(1)改定案は、生産手段の社会化について、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」と述べている。つまり、生産手段を社会化するというのは、形の上で所有を移せばすむといったことではなく、現実に生産手段が社会の手によって管理・運営(つまり、社会の全構成員の意志にもとづいて経済が管理・運営されるということ)されて、はじめて本当に社会化されたといえるということである。これは「生産手段の社会化」についての従来の理解を発展させたものであり、非常に重要な提起だと思う。

この見地は、すでに第20回党大会の綱領改定報告のなかで、旧ソ連社会の問題として次のように指摘されていた。

「社会主義とは『生産手段の社会化』だとよくいわれます。わが党の綱領にもそのことは明記されています。では『社会化』とはなにかと言えば、生産手段の社会、すなわち人民の手に移すことであります。生産手段を国有化しさえすれば、それが『社会化』だというわけにはゆかないのです」(『前衛』大会特集号、113ページ)

この見地を日本の将来社会の問題として綱領に明記することに、私は大賛成である。

これに関連して、新しい検討課題が生まれていると思う。1つは、「所有」と「管理・運営」の関係についてである。社会主義的変革を前提にした場合でも、上述のごとく、「所有」だけでは不十分で「管理・運営」がともなわなければならないという関係にある一方で、「管理・運営」を社会の手に移すには「所有」の移転が必要だという関係にもある。さらに、民主的規制が前進していく過程においては、両者はどういう関係になるか。解明すべき問題はいろいろあると思う。

また、管理・運営が社会の手によっておこなわれるとはどういうことか、ということもより深い解明が求められていると思う。具体的な経済運営の詳細を今から明らかにしようというのは正しくないが、経済の管理・運営が社会の手でおこなわれるというためには、最低限どのようなことが必要かは理論的に検討しうる課題と思う。討議の中では「生産手段の社会化」がよく分からないという意見もあったが、それに答えるためにも必要なことだろう。

(2)「ゴータ綱領批判」を典拠とした分配による段階区分をやめることについて、賛成意見とともに反対意見、疑問も出されている。私自身は以前から、「能力に応じて」「必要に応じて」という言い方はマルクスの積極的な見解というよりも、当時そういうことが言われていたということを前提に述べたもので、その限りで理解すべきものと思ってきた。もしそれがマルクスの積極的見解なら、なぜ他の文献でそれに類することが言われていないのか説明がつかないからである。すでに第20回党大会では、肉体労働と精神労働の対立に限ってではあるが、「ゴータ綱領批判」の2段階論を絶対視しないことを明らかにしていた。私自身は、今度の改定案でむしろすっきりしたと感じている。

「能力」「労働」「必要」などの“正確な理解”について論じる意見もある。未来社会では人間の能力、労働や必要ということ自体が質的に発展するということ自体は、私も賛成だし、未来社会を考えるうえで今後も大切な論点だと思う。しかし、定式化そのものについていえば、そういう“注釈”がつくということ自体が、この定式化の不十分さを表しているのではないだろうか。

もう1つ、不破議長の論文「『ゴータ綱領批判』の読み方」では、「共産主義の低い段階」では国家権力が残るとしたレーニンの理解の誤りも明確にされた。これも、理論的に重要な解明だと思う。

(3)提案報告では、「生産手段の社会化」という定式化は、「私有財産の否定」という定式化から理論的に発展したものであることも明らかにされている。これは、「社会化されるのは生産手段だけであり、生活手段の私的所有は保障される」ということを理論的に裏づけるもので、やはり非常に重要な提起と思う。不破議長は、昨年の代々木「資本論」ゼミナールの講義でこの問題をはじめて指摘されたが、その時私は、レーニンも見過ごしていた重要な提起だと肌の粟立つ思いがした。

以上、新しい未来社会論は、理論的にみても画期的な内容を含み、新しい課題を提起している。私自身、そのことを深くつかみ、マルクスらの著作もその見地から新鮮な目でとらえ返し、科学的社会主義の理論をさらに深めてゆきたいと思う。

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