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不破哲三著『「資本論」全三部を読む』を学習しよう

(2004年2月)

目次

不破議長の『「資本論」全三部を読む』は、2002年、1年間にわたって党本部でおこなわれた代々木『資本論』ゼミナールの講義録です。全体で21回になった講義を3回分で1冊にまとめ、全7冊のシリーズとして刊行中です。

不破さんは、2001年の新春インタビューで、21世紀の展望と結びつけたマルクス研究の今後の課題として、恐慌論を中心にして「マルクスの資本主義批判をあらためて整理してとらえなおしたい」という問題と、マルクス、エンゲルスの社会主義・共産主義論について、二人が「自分たちの見解をどこまで明らかにしたのか」「その指摘や言及が、現代の世界にどこまで引き継がれうるのか」、全遺産をふまえてあらためて研究すべき理論問題があると語っていました(不破哲三『世紀の転換点にたって』新日本出版社、69〜73ページ)。

『「資本論」全三部を読む』は、こういう立場からとりくまれた講義録です。『資本論』の章立てにそった解説も、いまの世界や日本の課題、21世紀の展望と結びつけて論じられていますので、読んでいて分かりやすいし、私たちに理論的な確信を与えてくれるものになっています。

また、この探求の成果は、未来社会論など、すでに日本共産党綱領の改定にも生かされています。新しい綱領が示す未来社会への展望をより深く、より豊かにつかむためにも、『「資本論」全三部を読む』の学習はうってつけです。

現在、第4冊まで出版されましたが、第1冊から第3冊までで『資本論』第1部の講義部分が完結しましたので、この機会に私なりに感じたところを紹介したいと思います。

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一、『資本論』を学習する意義

なぜ『資本論』を学習の主題に選んだか

講義第1回は、「ゼミナールの出発にあたって」と題して、『資本論』学習の「序論的な話」がとりあげられています。そこで、なぜ『資本論』をとりあげたのか、その理由が次のように説明されています。

「何といっても、『資本論』が、科学的社会主義の理論――分かりやすく『科学の目』といっていますが、その『科学の目』の要(かなめ)をなす本だからです」(第1冊21ページ。以下、本書からの引用はページ数のみ、もしくは第何冊何ページと表記)

“要をなす”というのは、どういう意味でしょうか。

第1は、『資本論』は130年以上も前に書かれたものですが、そこでマルクスが明らかにした資本主義の仕組みは「現代を分析する最良の手引き」(同前)になっているということです。不況やバブル崩壊のたびに、財界関係者から“『資本論』の言葉が浮かぶ”という声が聞かれ、アメリカの新聞が「いま、どこかで第2のマルクスが生まれているかも知れない」と報じる――それだけの生きた力を『資本論』は持っています。

2つ目に、「『資本論』に書かれているのは経済学だけではない」(23ページ)ことです。史的唯物論や弁証法など、科学的社会主義の理論の全体が、『資本論』全巻に「凝集」しています。史的唯物論の見地から人類社会の歴史を広くとらえた成果や、マルクスの問題のとらえ方、経済現象や運動形態への迫り方、論理の進め方のなかに存在する「弁証法の合理的な核心」などを読み取る努力を忘れないようにしたいと思います。

3つ目にとくに強調されているのは、『資本論』はマルクスの「社会主義的見解の基礎」を叙述した本だということです。科学的社会主義の学説全体が「『資本論』の段階で仕上がった」のであり、『資本論』ほど詳しく、多面的に社会主義・共産主義を論じた著作はほかにありません。

『「資本論」全三部を読む』では、こうした豊かな内容が、『資本論』の章立てにそって分かりやすく明らかにされています。

“『資本論』を『資本論』の歴史のなかで”

不破さんは、『資本論』を21世紀の指針として生かしていくためには、「『資本論』を『資本論』自身の歴史のなかで読む」ことが大切だと強調しています(第1冊49ページ)。これは、『レーニンと「資本論」』で大いに威力を発揮した“レーニンをレーニン自身の歴史のなかで読む”という研究態度とも共通するものです。

このことがとくに威力を発揮するのは、とくに『資本論』第2部、第3部をとりあつかった第四冊以降のこととなりますが、第1部の範囲のなかでも、「恐慌の可能性」や「独自の資本主義的生産様式」といった概念の検討に生かされています。講義第1回では、その前提となる『資本論』の準備と執筆の歴史が紹介されています。

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二、現代的な視点から『資本論』を読む

不破さんは、『資本論』の読み方として警戒すべきものの1つに、“「木を見て森を見ない」式の読み方”をあげています(第1冊83ページ)。本書では、『資本論』の要所要所で、不破さんなりの“地図”が提示されており、私たちも“見通し”をもって『資本論』を学習することができます。同時に、そうした指摘から、いま現代的な視点で『資本論』を読んでいくときのポイントも分かるようになっていると思います。

労働の二重性の発見

講義の第2回と第3回は、第1篇「商品と貨幣」が対象です。『資本論』にそって、商品の使用価値と価値、商品に表わされる労働の二重性、価値形態論などを説明しながら、そのなかで、たとえば“経済学では価値だけが問題で、使用価値は問題にならない”という理解の間違い(111ページ)などの注意も指摘されています。『資本論』での「注」の読み方という興味深い指摘も登場します(113ページ)。

労働の二重性のところでは、マルクスのこの発見の意義が強調されています。

人間の労働は、生産する使用価値の特性に応じて具体的な姿をもった労働としての性質(具体的有用的労働)と、すべての生産労働に共通する人間的労働力一般の支出としての性質(抽象的人間的労働)と、この2つの性質を同時に重ね合わせて持っています。これが労働の二重性ですが、不破さんは、マルクスの手紙から、マルクス自身が自分のこの発見に大きな重要性をあたえていたことを紹介(120ページ)するとともに、古典派経済学も使用価値と価値という商品の2つの側面はとらえていたが、マルクスは、それをさらに労働の二重性にまで掘り下げ、それが労働価値説の完成に大きな意義を持ったと指摘しています(123ページ)。

日本の歴史や現代の問題にもふれながら

講義第3回では、貨幣の5つの機能――価値の尺度、流通手段、蓄蔵貨幣、支払手段、世界貨幣――の説明のあいだに、日本の貨幣の歴史が登場(194ページ)し、マルクスの解明を身近に感じさせてくれます。

また、貨幣論の最後では、現代の世界的な通貨制度の問題がとりあげられています(239ページ〜)。1970年代いらい世界の通貨制度は、各国の通貨のレートが株式の相場のように日々変動し、それがいつ大波乱を引き起こすか分からない不安定な状態が続いています。こうした通貨制度は、『資本論』の時代とはまったく異なるものです。マルクスの時代には、貨幣は金(きん)であり、紙幣も銀行へもっていけば同額の金(きん)と交換できました。この金本位制のもとでは、各国通貨の相互の関係も、金を中心に決まったし、為替レートの変動にも自己調節の機能がはたらいていました。

ところが、第2次世界大戦後、各国通貨は金(きん)との結びつきがなくなり、世界通貨の場でも、1970年代以来、金(きん)との関係を失い、そこに国際的な金融投機集団がかけめぐるという事態も生まれています。不破さんは、かならずしも結論を下しているわけではありませんが、この分野でも、『資本論』が事態を根底から分析・解明する指針を与えていると指摘しています(245ページ)。

資本の「推進的動機」と「規定的目的」

第2冊では、いよいよ資本主義の搾取の仕組みが明らかにされます。この部分は、剰余価値がどこから生まれるかという問題にせまっていくところです。そのためにマルクスは、第2篇第4章と第3篇第5章の2つの章を費やしています。はじめて『資本論』を読むと、その理づめの運びにいささか辟易(へきえき)するほどですが、不破さんは、マルクスの論理の筋道を丹念に追いながら、マルクスが「少しの隙も残さない綿密な論法」(第2冊28ページ)で議論を進めていくようすを明らかにしています。

まず「売るために買う」という資本の運動を表わす「一般的定式」G(貨幣)―W(商品)―G(貨幣)が提示されます。そして、出発点と到着点が同じ量の貨幣(G)であれば、わざわざこんなことをする必要はないのですから、資本が運動を終えたときには、最初のGに余分のもうけ(ΔG)が付加されていなければなりません。マルクスは、この増加分を「剰余価値」と名づけました。この説明は、『資本論』第四章(新日本新書版[2]256ページ。以下、「資本論」からの引用は新日本新書版による)に登場するのですが、「ここでは、剰余価値の実態は何なのか、それはどうして生まれるかなど、剰余価値の中身はまだ問題になっていません」(31ページ)。剰余価値の正体は、第五章にはいってやっと明らかにされます。

それでも、この一般的定式から、資本の性質についての重要な命題が明らかになります。1つは、「資本の運動を支配する『推進的動機』と『規定的目的』は何か」という問題です(31ページ)。「資本が執着するのは交換価値、貨幣であり、貨幣をいかに増やすかが、資本の運動の中心的な動機でもあり、全体をつらぬく目的でもある」のです(32ページ)。分かりやすく言えば、より多くもうけをあげることが資本の一番の目的であり、動機であるということです。

私たちは、よく大企業の「利潤第一主義」と呼びますが、これは、この「推進的動機」「規定的目的」を分かりやすく表現したものです。企業どうしの激しい競争や、労働者の時間の「かすめとり」をしてでも労働時間を引き延ばそうという資本の活動も、この「推進的動機」「規定的目的」をつかんでおくとよく分かってきます。

経済の概念とそこに登場する人間との関係

もう1つは、資本家とは何か、という規定づけです。資本家の存在は、『資本論』第四章([2]260ページ)に来て、はじめて登場します。そこで、マルクスの規定づけも明らかにされるのですが、それは、“資本の運動を意識的自覚的にになうのが資本家だ”というものです(第2冊32ページ)。一人ひとりの人間としてみれば、資本家もいろいろな性格、個性をもっていますが、「資本の運動の担い手」としては、「資本の運動のなかで交換価値を増やす」という資本の「推進的動機」「規定的目的」の担い手として行動する存在なのです。

経済諸関係とその意識的な担い手という規定づけ方は、「経済のいろいろの概念と、そこに登場する人間との関係とをマルクス流にとらえたもの」でもあります(33ページ)。

労働力の価値をめぐって

「労働力の価値は何によって決まるのか?」(第2冊51ページ)のところでは、搾取の仕組みを理解する上で、基本となる大事な事柄が指摘されています。

労働力の価値は、労働者が「生きた個人の生存」を維持するために必要な生活諸手段の価値によって決まりますが、大事なことは、労働力の価値は、一定の国、一定の時代についてみればおおよそ決まっていますが、長い目でみれば「歴史と文化の段階で異なる」(51ページ)ことです。つまり、社会が豊かに発展すれば、労働者に必要な生活諸手段の内容も量も発展し、豊富になる、そうなって当然だということです。

また、労働力の価値には、複雑労働の養成費も含まれますが、単純労働と複雑労働の場合のそれぞれの労働力そのものの価値の大きさの違いという問題と、単純労働と複雑労働が生み出す価値の大きさがそれぞれ異なるという話とは性格の違う別の問題であり、混同しないように注意してほしいということも指摘されています(53ページ)。

第五章にはいって、いよいよ剰余価値が生み出される仕組みが明らかにされます。そのさいマルクスは、労働力の消費過程を、使用価値を生産する「労働過程」と、価値を生産する「価値形成過程」との2つの側面からそれぞれ研究していますが、ここにも、「労働の二重性」というとらえ方がつらぬかれていると思います。

このあとも、可変資本と不変資本、剰余価値率など、マルクスの経済理論を身につけるうえで基本中の基本といえる概念が出てきます。これらの概念も、本書でぜひ正確に理解してほしいと思います。

第3冊の第15章「労働力の価格と剰余価値の大きさの変動」では、「労働の強度の増大」による剰余価値の生産の問題が詳しく解明されています(第3冊90ページ)。ここは、「過密労働」問題を理解するのに大いに役立つでしょう。

随所に興味深いテーマ

不破さんは、『資本論』の警戒すべき読み方の2つ目として、解説書を読んで『資本論』を学んだつもりになって終わってしまうことをあげています。「解説書で、あらましの概念だけを追いかけていると、『資本論』のこの豊かな内容が抜け落ちてしまいます」(第1冊84ページ)。

実際、『「資本論」全三部を読む』でも、右に紹介したような基本概念の説明のあいだ、あいだで、資本主義社会における自由と平等をどう見るか、人間の発展という角度からみた人類史の三段階(これは、1980年の日本共産党第15回大会で、「自由な個性の発展」と資本主義の問題としてとりあげられたテーマです)、自由と平等の問題でのレーニンの失敗などが登場し、未来社会への科学的な展望という角度から光を当てて論じられています。

十六世紀の「時代論」

第4章「貨幣の資本への転化」のところでは、「十六世紀とはどんな時代だったか」というテーマがとりあげられています。『資本論』を経済学の本だと思って読んでいると、こういうところは深く考えずに読み飛ばしがちですが、独自の年表(第2冊19〜20ページ)を使いながら詳しくこの時代をふり返っています。

この年表はゼミナールでも紹介されたものなのですが、そのときは、私は、そこまで重視して整理する意味がよく分かりませんでした。しかし、講義録を読んでみて、実はここでの整理が、そのあと第4篇「相対的剰余価値の生産」(とくに第12章「分業とマニュファクチュア」)や、第5篇「絶対的および相対的剰余価値の生産」での「独自の資本主義的生産様式」という概念の問題、さらに第24章「いわゆる本源的蓄積」など、歴史的な事実をふまえながら、マルクスの理論的な提起を深く理解するのに、非常に役だつことがよく分かりました。

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三、マルクスの「方法」への注目

不破さんは、『資本論』での研究方法、問題のとらえ方、複雑な経済現象への迫り方、論理の進め方も、重要なテーマとしてとりあげています。これは、マルクスの「科学の目」を学ぶ上で大切なところです。

マルクスの「発生論的方法」

講義第1回では、マルクスの「発生論的方法」が詳しくとりあげられています(第1冊77〜82ページ)。これは、「資本主義社会の複雑な仕組みのなかから、その全体の土台をなすもっとも基礎的な関係の分析から出発し、一歩一歩、より高度な関係の分析に進み、分析の成果を段階的に重ねて、資本主義経済の内面的な論理を明らかにしながら、最後に、資本主義社会の表面に生起する複雑な現実の全体を解明する」やり方のことです(78ページ)。

不破さんは、マルクス以前の経済学(古典派経済学)との違いという角度から、「発生論的方法」の重要性を指摘しています。古典派経済学は、資本主義を支配する内面の論理の解明にとりくみましたが、そのための方法論が会得できなかったため、矛盾に落ち込んでしまったのです(79〜80ページ)。「古典派経済学との違いという点では、資本主義を「人類社会の絶対的な形態」とみるか(古典派経済学)、「人類の歴史のなかの一段階」「歴史的な社会形態の1つ」とみるか(マルクス)という点も重要です(74〜77ページ)。

つねに現実を頭に思い浮かべながら

さらに、『57〜58年草稿』の「序説」として書かれた「経済学の方法」をとりあげて、理論的な研究をするときには、つねに現実の社会が「前提として」頭の中に思い浮かべられていなければならないというマルクスの姿勢も強調されています(101〜107ページ)。つねに頭の中に現実の資本主義を思い浮かべて、それにむかって論理を1つずつ積み重ねて、一歩一歩迫っていく、これは、先ほど紹介した「発生論的方法」そのものです(106ページ)。

この方法は、『資本論』第1章の最初に登場する商品はいったいどういう性格の商品か、それを正確に理解するうえでもポイントになっています。この冒頭の商品の性格をめぐっては、大きな論争があるのですが、不破さんの結論は明快です。“第1篇は、商品経済の研究であって、「資本」はまだ登場しない。資本ぬきで市場経済を研究するのが第1篇の主題だ”と。しかし、ではここでの研究対象は、資本がまだ存在しない資本主義以前の社会なのかといえば、そうではなく、「資本主義的生産様式が支配している諸社会」(『資本論』[1]59ページ)、つまり資本主義社会です。この両者の関係が正しくつかまれなかったところから、この最初に登場する商品の性格をめぐって論争もおこなわれたのでした。不破さんは、先ほどのマルクスの「方法」を念頭において、「資本主義社会を、商品の生産と交換、市場経済という面からとらえて研究する、それが第1篇の研究対象なのです」と指摘しています(第1冊101ページ)。つまり、資本ぬきで商品をとりあつかうが、しかし、現実の資本主義社会のことが研究の対象として、いつも頭の中に思い浮かべられているということです。

無数の事実で理論を裏づける

もう1つ、マルクスの方法として注目されているのは、“無数の事実によって理論を裏づける”という態度です。

「理論的な展開を無数の事実をもって実証するという方法は、精密な論理に抜群の説得力をあたえ、『資本論』のもっともすぐれた特質の1つとなりました」(第2冊123ページ)

『資本論』を読むとみなさん気づかれるように、第8章「労働日」や第4篇「相対的剰余価値の生産」(協業、マニュファクチュア、機械制大工業)、第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」(とくに相対的過剰人口のところ)、第24章「いわゆる本源的蓄積」などのところでは、マルクスは、イギリスの経済や産業発展の歴史、あるいは労働者階級のたたかいの歴史を詳しくとりあげて、現実の資本主義の姿を生々しく描き出しています。

私も、はじめて『資本論』を読んだとき、経済学の難しい理論はよく分からなくても、一日12時間、14時間以上も働かされた労働者が10時間労働をかちとるまでのたたかいの歴史や、「血と火の文字」をもって進められた本源的蓄積の過程の叙述には、ぐいぐいとひきこまれました。「資本は、頭から爪先まで、あらゆる毛穴から、血と汚物をしたたらせながらこの世に生まれてくる」(『資本論』[4]1300〜1301ページ)というマルクスの凄烈な文章を読んで、本当に目の前に血や汚物をしたたらせた“化け物”が立ち上がってきたような強い印象を受けました。

同時に、これらの篇・章では、“無数の事実”に埋もれてしまって、マルクスが何を論じているのか見失ってしまいがちですが、そこは不破さんが“見通し”をつけてくれていますので、現実の資本主義の生々しい姿と、マルクスの論理的な展開と、両方ともしっかり学ぶことができます。

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四、日本の現実のたたかいと結びつけて

『「資本論」全三部を読む』では、『資本論』の内容にふれながら、日本の現実、運動とのかかわりが随所に登場します。

第23回党大会決議は、日本共産党が「たたかいの組織者」としての先駆的役割を発揮する上で、たたかいの大義を理論的・政策的に明らかにして、国民の運動をはげますことを党の重要な責務として強調しました。『「資本論」全三部を読む』のこれらの部分を読んでいると、まさに、私たちのたたかい、とりくみの“大義”が『資本論』の奥深いところから理論づけられ、本当に確信もわくし、私たちを直接激励してくれているような気持ちにもなります。

工場立法と“ルールある経済秩序づくり”

「労働日」のところでは、当時のイギリスの資本家たちによる、労働者の時間の「ひったくり」「ちょろまかし」「かじりとり」が登場します。しかし、不破さんはこれを「昔の資本家たちは、ずいぶん汚いことをやったものだ、などと思って読んだら、大間違い」、日本のサービス残業はそれ以上だと指摘しています。19世紀の資本家もやれなかったことを平気でやろうとする日本の大企業のどん欲さに怒りもわいてきます(第2冊118ページ)。

また、金儲けのためには結果がどうなろうとかまわないという資本家の態度(“洪水よ、わが亡き後に来たれ”)にたいし、マルクスが「社会による強制」の必要を指摘したところ(『資本論』[2]464ページ)では、「現在の日本における“ルールある経済秩序づくり”の要求と運動にもつながる面が、見えてくる」(132ページ)とも指摘されています。

イギリスでは、10時間労働制になって経済は大いに発展しました。10時間労働法が産業に驚くべき活力を生み出したのです。不破さんは、この事実に注目し、「19世紀の昔話としてすますわけにはゆかない現代的教訓」があると指摘し、「労働者の状態や国民の生活の抜本的改善を求める要求」を敵視する日本の論調を厳しく批判しています(138〜139ページ)。

労働時間の短縮は人間らしさの基本条件

さらに、労働時間の規制は、「資本家階級と労働者階級とのあいだの、長期にわたる、多かれ少なかれ隠されている内乱の産物」(『資本論』[2]519ページ)であるというマルクスの指摘は、今日の私たちのたたかいを大きくはげましてくれるものだといえます(第2冊93ページ)。第15章のところでも、賃金の水準は、一定の範囲内で、資本家と労働者の力関係と闘争によって決まることが指摘されています(第3冊89ページ)。また、そのときマルクスが、資本主義社会では資本の要求が必ず貫徹するといった機械的な態度をとらず、「闘争によって決まる性質の問題であることを、原理的に解明している」と指摘されていることも重要です(第2冊95ページ)。

労働時間の短縮の意義については、2つの「補論」でさらに詳しく明らかにされています。1つは、8時間労働制の実現をめざした国際労働者協会の活動で、マルクスが、8時間労働制の実現を労働者の人間的な存在と発達の基本条件と意義づけていたことです(第2冊147〜148ページ、160〜164ページ)。補論2では、人間的能力の全面的発達という立場からも、マルクスが労働時間短縮を未来社会の重要な課題の1つとしてとらえていたことが指摘されています(165〜166ページ)。なお、補論2のなかでは、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』段階の分業否定論を「かなり早い時期に捨てさ」ったことも明らかにされています(167ページ)。これも、未来社会論として見逃せない指摘だと思います。

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五、市場経済と未来社会論での理論的な解明

本稿の冒頭で、『資本論』はマルクスが本格的に社会主義・共産主義の社会を論じた著作だという指摘を紹介しましたが、『「資本論」全三部を読む』では、未来社会論としても、重要な問題がとりあげられています。

とくに、未来社会と自由の問題や、市場経済論、「生産手段の社会化」の問題は、今度の綱領改定にも直接かかわった重要な解明です。新しくなった綱領の未来社会への展望を、理論的に深いところから、豊かな内容をもって理解するためにも、『「資本論」全三部を読む』の学習は大切です。

商品の研究のなかでの未来社会論

その1つは、第1章「商品」に登場するマルクスの未来社会論です。それは、第4節「商品の物神的性格とその秘密」のなかの次の一節ですが、そこではマルクスは、未来社会を「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に1つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(『資本論』[1]123ページ)として描いています。これは、『資本論』のなかで未来社会論が登場する最初のところでもあります。

ここから、社会主義・共産主義の未来社会の特徴として、次のように指摘されています(154〜156ページ)。

第1に、未来社会の基本的な特徴は、「共同的生産手段で労働する」ところにある、つまり、生産手段が社会化され、社会全体が生産手段を持ち、それをみんなで共同して使うということです。

第2に、そこで働く人々は、社会的分業に従っているのだけれども、その分業は「自覚的に」おこなわれる、社会全体でどういう仕事が必要で、自分の労働はそのどの部分を分担しているのかを自覚して働いているということです。

第3に、そういう未来社会は「自由な人々の連合体」だということです。ここで「自由な」という規定が加えられているところが重要で、この見地から、崩壊した旧ソ連社会をふり返ってみると、国民がスターリン体制に従属して自由を奪われたり制限されたりしていた社会は、とうてい「社会主義」などと呼べるものでなかったことは明白でしょう。

生産手段を国有化するのが社会主義だという理解がまだまだ見られますが、「生産手段を誰がもっていようが、その社会で生産にあたっている生産者たちが連合して社会の主人公となり、外的な権力に従属しない自由な存在であること」が「社会主義・共産主義の社会のなによりの特質」であることが強調されています(第1冊159ページ)。こうした視角は、改定された綱領第5章の未来社会論に直接つながっていくものです。

市場経済とは何か

2つ目は、市場経済の問題です。商品と貨幣を対象にした第1冊では、市場経済とは何かという問題に、実にさまざまな角度から光が当てられています。

労働の二重性のところでは、「商品経済の社会が、人間社会のあり方として、どういう位置をもつ社会か」という問題がとりあげられ、次のように指摘されています。

「(商品経済の社会は)分業社会であり、どの生産者もこの社会が必要とする分業の一翼をになって労働をしているが、自分の労働が質的にも量的にも社会の必要にこたえているかどうかは、市場の働きによって、商品を生産したあとで明らかになる――ここに、商品経済の社会の重大な特質があります。/市場のその動きを示すのが、価格です」(第1冊125ページ)

また、「価値法則の核心」は何かという問題でも、クーゲルマンにあてたマルクスの手紙(1868年7月11日付)にそって、次のような議論がとりあげられています(126ページ〜)。

社会を全体としてみたとき、構成員のさまざまな必要に応じて、社会の総労働を適切に配分して、過不足なく生産しなくてはなりません。そのために「社会の総労働を、いろいろな欲望の量に応じて一定の割合で配分する」ことは、どんな社会でも必要なことです。しかし、資本主義社会では、何をどれだけ生産するか、社会が計画的に管理しているわけではありません。では資本主義社会では、この法則は、どんな形をとって現われるのか――。たとえば、ある部門の商品の生産が社会の必要にくらべて多すぎると、市場ではその商品の価格が下がり、少なすぎれば価格が上がります。それに応じて、個々の生産者たちは生産を減らしたり増やしたりします。こうやって、市場経済のもとでは、結果として、生産が事後的に調節されるようになっています。この市場経済の「調節作用を担うのが価値法則です」(128ページ)。

市場経済の作用としては、こうした点をきちんとつかんでおくと、講義第3回でとりあげられている「市場経済と社会主義の問題」も、より深いところから理解できるのではないでしょうか。講義第3回では、需要と供給の調整機能のほかに、複雑労働を単純労働に還元する割合を決めること、「市場競争が、生産性の向上、コストの削減などへの刺激になる」ことなどもとりあげられています。

市場経済の否定面にどうとりくむか

しかし、市場経済は、調整作用とともに、そのまま放置すれば、不況や失業、利潤第一主義や拝金主義の横行、弱肉強食による経済格差や社会的被害、環境破壊など、さまざまな害悪をもたらします。ですから、社会主義の立場で市場経済にとりくむ場合、それにどう立ち向かうかが問われます。それについて、3つの課題が提起されています(第1冊255ページ〜)。ここには補論として、中国社会科学院での不破議長の学術講演も収められています。

これらの提起は、直接には中国やベトナムの「市場経済」を念頭においたものですが、同時に、日本の将来の問題としても重要な視点が提起されていると思います。

「恐慌の可能性」をめぐって

もう1つ、恐慌の問題も紹介しておきたいと思います。恐慌論は、マルクスの資本主義批判の中心問題として、この間、不破さんが重視している問題です。『「資本論」全三部を読む』第1冊では、市場経済論ともかかわって、恐慌の問題が重視されています。

資本主義経済が続く限り、景気の変動、恐慌は避けられません。マルクスも、なぜ恐慌が起こるのか、何がきっかけとなって好景気が恐慌に転じるのかなど、さまざまに探求し、『資本論』第1篇では「恐慌の可能性」という概念が登場します。

商品経済が発展すると、貨幣が登場し、それにともなって貨幣が仲立ちとなった「掛け売り」「掛け買い」がおこなわれるようになり、商品の販売と購買が、時間的にも空間的にも分離するようになります。そのため、生産物交換(物々交換)のときには確実に一致していた販売と購買が独立化し、そこに「恐慌の可能性」(『資本論』[1]193ページ)が生まれます。

この「恐慌の可能性」という概念についても、正確な理解のために注意すべき3つの点が指摘されています。第1に、「恐慌の可能性」にも、いろいろな「可能性」があることです。『資本論』草稿でマルクスは、恐慌の「可能性」自体が「経済発展のさまざまな段階や領域に応じて、発展していくものとしてとらえています(220〜221ページ)。

第2に、「恐慌の可能性」という規定・概念は、古典派経済学の「“恐慌ありえない”論にたいして、商品経済、資本主義経済のもとでは恐慌が起こりうること」をしめしたものであって、そもそもこの規定には、恐慌の「可能性」が「どうして恐慌になるかの説明は含まれていない」(221ページ)こと、第3に、したがって、恐慌の「可能性」と恐慌の「原因」を取り違えてはならないことです。

綱領でも、「資本主義の矛盾」の1つとして「くりかえす不況と大量失業」の問題がとりあげられています。恐慌論の検討は、恐慌の発現をどのように規制できるのか、あるいは国民の暮らしを支える方向で、恐慌・不況から脱け出し、不況による落ち込みを短縮、軽減することは可能か、などの探求にもつながる重要な内容をもっていると思います。

「独自の資本主義的生産様式」と「結合された生産者たち」

不破さんが『資本論』全体にわたって注目した概念に、「独自の資本主義的生産様式」と「結合された生産者」(もしくは「全体労働者」)があります。

「独自の資本主義的生産様式」という概念は、これまで決まった訳語もなかったものですが、不破さんは、マルクスの資本主義理解――機械制大工業、資本のもとへの「形式的包摂」と「実質的包摂」、さらには資本主義の歴史的使命の問題など――にかかわる重要な特徴づけとして、詳しく論じています(第2冊188ページ〜、第3冊147ページ〜)。

また、社会主義的変革の主体勢力として、「結合された生産者たち」あるいは「全体労働者」という概念が注目されています。すなわち、資本が生産をとらえ、機械制大工業が発展する過程で、技術的な高度化の側面と同時に、「生産にたずさわる労働者が、一人で働く生産者から、集団的に働く生産者――『結合された生産者たち』へと変貌」していきます(第2冊190ページ)。そして、「この生産者たちの手に生産手段を移すこと、つまり生産者たちによる生産手段の共有が、資本主義をのりこえた新しい社会の根本的な特質になります」(第3冊256ページ)。

「結合された生産者たち」という概念は、綱領改定で明確にされた「生産者が主役」という社会主義の原則ともかかわる重要な概念です(7中総提案報告、冊子41ページ参照)。

「私有財産の否定」から「生産手段の社会化」へ

最後に、第24章「いわゆる本源的蓄積」についての解明にも注目したいと思います。この章は『資本論』第1部の結論的部分ともいいうるものです。

そのなかで、マルクスは、いわゆる「否定の否定」と呼ばれる議論を展開して、「資本主義的外被」の打破(社会主義革命)の必然性と、そこから生まれる未来社会の性格と展望を明らかにしています(第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」、第3冊249ページ)。

小経営者の「自分の労働にもとづく個人的な私的所有」が資本主義によってまず否定され(最初の「否定」)、その結果、生産手段の所有を根拠とした、他人の労働の成果(生産物)の搾取にもとづく「資本主義的私的所有」に置き換わります。しかし、資本主義のもとでの生産力の発展は、やがて「資本主義的私的所有」の「外被」と矛盾・衝突し、労働者階級の主体的な成長によって、社会主義革命が実現します(「否定の否定」)。その結果生まれる社会について、マルクスは、次のように述べています。

「この否定〔資本主義的私的所有の否定――不破〕は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果――すなわち、協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を再建する」(『資本論』[4]1306〜1307ページ。第3冊256ページ)

これがいわゆる「否定の否定」による「個人的所有の再建」です。

不破さんは、マルクスが『資本論』に結実する研究を通じて、生産手段の共有に基礎をおく「個人的所有の再建」という結論に到達したことは、社会主義・共産主義の運動にとって「画期的な意義」をもったことを強調しています(268ページ)。「補論 『資本論』での所有論の整理が社会主義・共産主義の目標の定式化に道を開いた」は、この問題を詳しく検討、解明した重要な章です。

一言でいうと、社会主義・共産主義の運動の目標は初期には「私的所有の廃止」というスローガンにまとめられていました。『共産党宣言』(1848年)でも、このスローガンがかかげられていることは、ご存じの方も多いでしょう。

もちろん「私的所有の廃止」といった場合の「私的所有」は、生産手段の私的所有が中心だったのですが、しかし、この定式化においては、生活手段、個々人の生活のための財産はどうなるのかという問題は、とくに言及されていません。当時の運動が「生活手段の所有の問題」についてまでたちいって定式化するにいたっていなかった「ある種の未熟さ」を反映していたのではないかと指摘されています(270ページ)。

いずれにせよ、この不十分さは、「共産主義になったら、財産をとりあげられる」という古くからの反共攻撃を許す弱点となっていました。

生活手段の個人所有が明確に

これにたいし、『資本論』第1部のこの節で、社会主義・共産主義の社会での所有について、「生産手段は社会的所有、生活手段は個人所有という区別を明確にしたこと」は、「社会変革の目標を明確にするうえ、画期的な意義をもつものでした」(268ページ)。それによって、社会主義・共産主義の目標として「私的所有の廃止」ではなく、「生産手段の社会化」という定式化がうちだされるようになりました(271ページ)。「共産主義になったら、財産をとりあげられる」という攻撃にきっぱりと反撃する理論的根拠も明確になったのです。

不破さんは、『資本論』の研究を通じて、社会主義・共産主義運動の目標の定式化に理論的な発展があったと指摘し、その意義を強調しています。この解明は、代々木『資本論』ゼミナールの講義ではじめて明らかにされたもので、科学的社会主義の理論の歴史のなかでも画期的な意義をもつと思います。

今度の日本共産党綱領の改定でも、未来社会論の中心に「生産手段の社会化」がすえられました。その意義については、改定案の提案報告でも詳しく明らかにされていますが、さらにそれを「所有」とは何かという問題や、人類社会における資本主義の役割にまで掘り下げて、理論的にも詳しく裏づけたものといえます。改定された綱領の見地を深く身につけるためにも、ここのところの学習は欠かせないということを強調しておきたいと思います。

以上、『「資本論」全三部を読む』を学んで、私自身が強く印象づけられたところを中心に、その内容を紹介しました。本書には、ほんとうにたくさんの“知的刺激”に富んでいます。21世紀に向かって『資本論』を読み、私たちの実践の理論的な糧にしていくために、私自身大いに学習を進めたいと思います。

(終わり)

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