(『月刊学習』2005年8月号)
不破哲三議長が日本共産党時局報告会(5月12日)での講演「日本外交のゆきづまりをどう打開するか」でおこなった靖国問題の核心をついた新しい解明が大きな反響を呼んでいます。
不破議長は、「日本には戦争犯罪などなかった、敵である連合軍が一方的な裁判で押しつけた濡れ衣だ、その立場でA級戦犯を神様として合祀したというのが、靖国神社の公式の立場」であり、靖国神社は「日本の戦争は正しかった」と宣伝する「特定の政治目的を持った運動体」であると解明。首相が、「政治運動体」であるその靖国神社に参拝することは、「戦没者への追悼という気持ちを『日本の戦争は正しかった』という立場に結びつける」ことになると批判しました。
その後、マスメディアでも、自民党のなかからも、「首相は参拝すべきでない」との声が聞かれるようになりました。侵略戦争を正当化する靖国神社の戦争観そのものが問題となり、それへの態度が鋭く問われているのです。
ここでは、同講演の学習の参考に、日本の侵略戦争・植民地支配の歴史と、戦後の日本の政治の実態にかんする資料を紹介します。
不破議長は、講演で、日本の戦争は「最初から、他国の領土をとることをあからさまに戦争の目的」にしていたと指摘。それを、戦争を「3つの段階」にわけながら明らかにしています。
日本の戦争の最初の段階は、1931年の「満州事変」です。
1931年9月18日夜、中国東北地方の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、「満鉄」(南満州鉄道。日本は日露戦争で、同鉄道の利権をロシアから獲得しました)の線路が爆破される事件が起こりました(柳条湖事件)。これは、関東軍がみずからしくんだ謀略事件だったのですが、関東軍は、中国側のしわざだとして、中国軍への攻撃を開始。たちまち、中国東北地方全体を占領してしまいました。当時日本は、不戦条約にくわわっていたため、これは戦争ではないとして「満州事変」と呼びました。
翌32年3月には、清朝最後の皇帝・溥儀を執政にすえて「満州国」の建国を宣言しました。しかし満州国は、軍事・治安を全面的に日本軍がにぎり、関東軍司令官が決めた日本人を中央政府に参議として受け入れるなど、政治も軍事も関東軍が完全に支配するカイライ国家でした。日本は、こうして満州を中国から切り離し、日本の支配下に組み込んでしまったのです。
こうしたやり方は、当時の国際社会にも受け入れられないものでした。国際連盟は、33年、「満州」からの日本軍の撤退を含む報告・勧告を採択。すると、日本は、国際連盟から脱退してしまいました。国際連盟からの脱退は日本が最初で、のちにドイツ、イタリアが続きますが、この点で日本は「第二次世界大戦にいたる道の先陣を切った」といえます(不破哲三『新・日本共産党綱領を読む』65ページ)。
【関東軍】 日露戦争(1904〜05年)でロシアから獲得した遼東半島南部(「関東州」と呼ばれた)に置かれた日本軍のこと(1919年、関東軍司令部設置)。公式には、関東州の防衛と満鉄の沿線保護を任務としましたが、満州(中国東北地方)から華北(北京、天津などを含む中国北部)にまで政治・軍事工作の手を伸ばし、中国侵略の中心部隊になりました。
【不戦条約】 1928年に結ばれた「戦争放棄に関する条約」。イギリス、ドイツ、日本、イタリアなど63力国が批准。第1条で、国家の政策の手段としての戦争の放棄を宣言し、「戦争違法化」の世界の流れをすすめるものとなりました。
日本の中国侵略への動きは、「満洲事変」以前から始まっていました。それを、もっとも露骨に示したのが、1915年、第1次世界大戦のさなかに、日本が突きつけた「21条要求」でした。
そのおもな内容は、(イ)山東省にドイツがもっていた一切の権益を日本に引き渡す(第1号)、(ロ)「南満州」および「東部内蒙古(内モンゴル東部)」を日本の勢力圏とし、日本の権益を認める(第2号)、(ハ)中国のほかの地域でも、日本の特権的地位を認める(第3、第4号)、(二)中国の中央政府の各部門に日本人有力者を顧問として配置する(第5号)、などです。つまり、これは、(イ)(ロ)を当面の要求として主張しつつ、将来的には、中国を全体として日本の従属国にしようとするものでした。
その内容が知られると、中国各地で日本の「権益」拡大に反対する運動が広がりました。日本政府は、最終的には、第5号を除いて、最後通牒を突きつけ、要求の大部分を中国政府に認めさせました。
1928年6月には、この地方の軍閥の一人であった張作霖が乗った列車が奉天駅近くで爆破される事件が起こりました。これも関東軍がおこした事件でした。もともと関東軍は、張作霖をつかって支配の手を広げようとしていましたが、彼が簡単に日本の言いなりにならないと分かると、方針を変えて、張作霧を排除して支配権をにぎることを計画したのでした。
このときは、張作霖のあとを継いだ息子の張学良が国民党政権の側についたため、関東軍の思惑は実現しませんでした。
この地方への侵略の口実とされたのが、「満蒙」生命線論です。「満蒙」――満州(中国東北地方)と内蒙古(内モンゴル)――の「特殊権益」を理由に、この地方を勝手に“日本の「生命線」だ”と言って、武力をつかってでもこの地方を日本のものにしようという議論です。1915年の「21力条要求」も、すでに満州とモンゴルの権益拡大を、要求の柱の1つとしていました。
1927年には、田中義一首相(陸軍大将)の主宰で「東方会議」が開かれ、「対支〔中国)政策綱領」が指示されました。そこでは“「満蒙」地方は、日本の国防上も国民的生存の上でも重大な利害関係がある地方だから、この地方における日本の「既得権益」「特殊地位」を確保するためには、必要な場合、軍事行動も辞さない覚悟をする必要がある”と強調されました。これは、「満蒙」生命線論を、政府の正式な方針とするものでした。
満州事変の直前には、関東軍幹部が、公然と武力による「満蒙問題の解決」を主張していました。
「満蒙問題の解決は……外交的平和手段のみをもってしては到底その目的を完徹することができない」(板垣征四郎大佐、1931年3月)
「満蒙問題はこれをわが領土となすことにより初めて解決す」(石原莞爾中佐、1931年4月)
「満州事変」は、こうした主張を実行に移したものです。
中国侵略の次の段階のきっかけとなったのは、1937年7月7日に、北京郊外の盧溝橋でおこった日中両軍の衝突事件でした(盧溝橋事件)。
このときは、現地の日本軍は、衝突を偶発的なトラブルとして解決する方針で、事件の4日後には「停戦協定」も調印されました。ところが同じ日、日本政府は、それを無視して、「華北派兵に関する声明」を発表。事件は「支那〔中国〕側の計画的武力抗日なることは、もはや疑いの余地なし」と決めつけ、大軍を派遣し、総攻撃を開始しました。八月には上海方面にも戦線を拡大しました。
これにたいし、中国国内では、国共合作(国民党と共産党の共同)の話し合いがすすみ、国民党政権も対日抗戦を決意。こうして、日本は中国への全面的な侵略戦争への道をすすみました。
この戦争で日本のかかげた戦争日的は、つぎのようなものでした(1938年1月「支那事変処理根本方針」)。
(イ)中国が「満州国」を承認すること。
(ロ)華北、内モンゴルを中国本土から切り離した特別の地域とし、日本軍の駐屯を認めること。
(ハ)中国のその他の地方(上海など)にも、日本軍を駐屯させること。
(二)日本・満州・中国の経済的一体化をすすめること。
つまり、このときも、大規模な領土拡張と中国全体の従属国化が日本の戦争目的だったのです。
上海を攻撃した日本軍は、中華民国の首都である南京への攻撃を開始し、37年12月に占領しました。このときひきおこされたのが南京大虐殺です。
南京大虐殺が日本軍の戦争犯罪として特別の注目を集めたのは、戦闘の結果として多くの犠牲がでたという次元の問題ではなく、戦闘中も、さらに戦闘終了後も、捕虜と一般民衆にたいする殺鐵行為や、略奪・強姦・放火などが大規模にくり広げられたところにあります。ごく一部の論者がこの事件を否定しようと、あれこれの「論争」を起こしています。しかし、捕虜と住民の大量虐殺があったことは、関係者の数多くの証言によって明らかで、この基本点について論争の余地はありません。
戦争は、1941年12月、日本が対米英に宣戦布告し、太平洋戦争に拡大します。
“靖国史観”では、太平洋戦争も、日本の「自存自衛」とアジア諸民族「解放」のための戦争だとされます。そのため、太平洋戦争の開戦の責任もアメリカ政府に押しつけています。
しかし、そもそも1941年の時点で、日本とアメリカなどの対立は、日本が中国への侵略戦争にしがみつき、それを続けるための物資や条件を「南方」に確保しようとしたことから起こったものでした。アメリカによる日本への石油や鉄の禁輸措置が大きな問題になったのも、それらがすべて軍事物資だったからです。中国に無法な侵略戦争を続ける国に、いつまでもそうした軍事物資を渡し続けるわけにゆかない、という動きが起こったのは当然でした。この年の日米交渉の中心問題もそこにありました。
しかし日本は、中国侵略を絶対にあきらめようとはせず、かなり早い時期から、対中国戦争のために必要な東南アジアの資源は武力で確保しようという「南進」政策がとられていました。
1939年、ドイツのポーランド侵略によってヨーロッパで第2次世界大戦が始まりました。このとき、日本は、ヨーロッパの戦争という国際情勢を利用して「支那事変処理の促進」をはかるとともに「南方を含む東亜新秩序の建設に対し有利の形勢を醸成するごとく、施策する」との方針を決定しました(1939年12月、「対外施策方針要綱」=外相・陸相・海相の三相会議による決定)。これは、ヨーロッパでの戦争のなりゆきで、イギリス、フランス、オランダなどの力が弱まれば、そのすきに東南アジアに侵攻しようという思惑を示したものです。
そして、ドイツが優勢に立つと、日本は、ドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結びます(1940年9月)。三国は、たがいの「新秩序」建設を認め合口い、尊重し合うことを確認しました。この交渉を始めるにあたって、日本政府が、ここまでは自分たちが手に入れるべき勢力圏だとしたのが、「皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏について」という決定です。
「独伊との交渉において、皇国〔天皇が統治する日本という意味〕の大東亜新秩序建設のための生存圏として考慮すべき範囲は、日満支を根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領インド〔インドシナ〕、および同太平洋島嶼、タイ国、英領マレー、英領ボルネオ、蘭〔オランダ〕領東インド、豪州〔オーストラリア〕、ニュージーランドならびにインド等とす」
このように、東南アジア全体はもちろん、西はインドから東はオーストラリア、ニュージーランドまでが日本の「生存圏」とされています。日米開戦の以前から、日本は、これだけの地域を侵略と支配の対象とする計画を決めていたのです。
アジア諸国の「解放」が日的でなかったことも、日本政府の資料から明らかです。
対米英開戦直前の1941年11月20日には、「占領地に対してはさしあたり軍政を実施」し、「重要国防資源の急速獲得および作戦軍の自活確保」をめざす方針が決められました(大本営政府連絡会議「南方占領地行政実施要領」)。
そして実際、日本が占領した地域では、日本軍はきびしい軍事支配の体制を敷き、住民虐殺や「労務者」の強制動員、食糧の大量徴発などをおこない、多くの犠牲を生みました。
【華僑虐殺】 1942年2月15日、日本軍がシンガポールを占領。その3日後に、日本軍は18歳から50歳までの中国系の男子住民を集め、いっきょに虐殺したのをはじめとして、2月から3月にかけて、中国系住民の大量抹殺作戦を続けました。同様の中国系住民の虐殺は、マレーシアでもおこなわれました。
【「労務者」】 最も大きな犠牲を生んだのは、1942年7月から翌年10月にかけて強行された「泰緬(タイ・ビルマ)鉄道」の建設です。建設には連合国軍の捕虜約6万5000人と東南アジア諸国から集められた「労務者」20万人以上が動員され、ジャングルの中での過酷な労働と栄養失調、病気などで、7万人以上が犠牲になりました。
【食糧徴発】 ベトナムでは、日本軍がコメを大量に略奪したうえ、北部の穀倉地帯では、稲作からジュート(黄麻)への転作が強要されたため、1945年に大飢饅におそわれ、200万人の餓死者を出しました。
その後、戦局が不利になるなか、「大東亜共栄圏」の看板を掲げる以上、見せかけだけでも「独立」の体制をととのえる必要に迫られ、1943年5月に「大東亜政略指導大綱」が決定されます。
しかしその内容は、ビルマ、フィリピンはカイライ政権をつくって形の上では「独立」させる約束をしましたが、「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し重要資源の供給源」とすること、そのためこれらの地域では「当分軍政を継続」するというものでした。しかも、「帝国領土」拡張の項目は「当分発表せず」と決めて、ひきつづき日本の領土拡張主義をごまかし続けようとしていました。
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朝鮮(一八九七年に国号を「大韓」に改称)の併合・植民地支配の動きは、明治維新の直後から始まっています。日本は、その従属化の一つ一つを、武力による威嚇や直接的な武力の行使で朝鮮に押しつけてきました。
日本政府は、1876年、それまで鎖国政策をとっていた朝鮮に開国を強要し、不平等条約である「日朝修好条規」を押しつけました。
その対朝鮮外交は、前年の75年に始まりましたが、それは、朝鮮の首都漢城(現在のソウル)沖合に軍艦をおくって水深測量などを強行し、それにたいして江華島の朝鮮守備隊が砲撃すると、日本軍は同島を攻撃し占拠するというものでした(江華島事件)。
そして翌76年、その賠償を口実に、軍艦6隻、砲兵1個小隊、歩兵1個中隊を引き連れてのりこみ、日本の治外法権や日本からの輸入関税を無税とする不平等条約を結ばせました。幕末にペリーが黒船でやってきて、日本に不平等条約を押しつけたやり方を、そっくりそのまま朝鮮にたいしておこなったのです。
日清戦争の直前(1894年)には、日本と中国(清国)との間で中立を守ろうとする朝鮮にたいし、軍隊で王宮を急襲して占拠し、国王をとりこにして、中国との条約を廃棄させるなどして、むりやり日本側につかせました。
日清戦争後は、朝鮮王妃の閔妃が、日本の強圧的な従属化政策に反対する立場をとりますが、それにたいして、95年、朝鮮に派遣されていた公使(いまでいう大使)の三浦梧楼が、武装集団をひきいて王宮に乱入し、閔妃を殺害してしまいました。
日露戦争のときには、開戦と同時に軍隊を動員して首都を占領し、軍事的制圧下で、日本への協力を約束させました(「日韓議定書」1904年2月)。つづいて、8月には、第1次日韓協約で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押しつけました。
1905年には、「保護条約」(第2次日韓協約)を押しつけ、韓国の外交権を奪い、日本の「保護国」としました。このときは、日本軍の歩兵1個大隊、砲兵中隊、騎兵隊が王宮前などで「演習」と称して示威的な軍事行動をとるなか、日本側の代表である伊藤博文が、韓国駐在軍司令官や憲兵隊長をともなって王宮におしいって、目の前で閣議を開かせて「保護条約」の承認をせまり、強引に調印させてしまいました。
これを認めなかった韓国皇帝は、ハーグで開かれていた第2回万国平和会議(1907年)に密使を送って、日本の国際法違反を訴えようとしましたが、日本は、これを理由に、王宮に歩兵1個大隊を送って、韓国皇帝に譲位を強要するとともに、内政権まで奪う第3次日韓協約を結ばせました(1907年7月)。
韓国各地では、閔妃殺害事件の直後から、武力による抗日闘争(「義兵闘争」)が広がりました。その規模は、日本側の記録でも、1907〜10年に2800回以上、朝鮮側の参加者は14万人以上にのぼりました。これにたいし、日本側は軍隊をつかった激しい弾圧を加え、朝鮮人2万人以上の死傷者を出すなど大きな犠牲をあたえました。
日本は、このようにして内政・外交の支配権をにぎったうえで、1910年の「韓国併合」を強行し、韓国を完全に植民地化しました。
「韓国併合」の方針を決めた日本政府の閣議決定(1909年)は、韓国併合は朝鮮半島における日本の実力を確立するため「最も確実なる方法」であり、「帝国百年の長計なり」と語っています。つまり、朝鮮を植民地にすることは、明治の初めからの計画的な目標だったというのです。
「韓国を併合し、これを帝国版図の一部となすは、半島におけるわが実力を確立するため最も確実なる方法たり。……断然併合を実行し、半島を名実ともにわが統治の下に置き、かつ韓国と諸外国との条約関係を消滅せし むるは、帝国百年の長計なりとす」
併合条約締結のときも、日本は、十数隻の軍艦を韓国に派遣し、韓国駐留の部隊を動員してソウルを戒厳下において、調印を強要しました。
このように、日本の朝鮮侵略・植民地化は、その一歩一歩が軍隊で脅してすすめられたものでした。最後に条約の形をとったからといって、けっして「合意にもとづくものだ」などと正当化できるものではありません。
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第二次世界大戦後、世界は、日本とドイツがおこなった侵略戦争を断罪し、このような侵略戦争を2度と引き起こさないことを出発点としました。国連憲章は、この原点に立って、「共同の利益の場合を除く外は武力を用いない」(前文)ことをうたい、加盟国は「武力による威嚇」や「武力の行使」を「慎まなければならない」(第2条)と定めました。日本国憲法も、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにする」(前文)として主権在民を宣言し、その立場を戦力保持の禁止・交戦権の否定にまで徹底させました。
「日本の戦争は正義の戦争だった」との主張は、こうした戦後の世界と日本の出発点を根本からくつがえすものです。
東京裁判は、正式には「極東国際軍事裁判」といいます。戦争犯罪人の処罰を規定したポツダム宣言にもとづき、アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国など11力国が原告となって、侵略戦争を計画し、ひきおこした重大戦争犯罪人を裁いた国際軍事裁判です。
アメリカのキーナンを主席検察官とする国際検察局が、「平和に対する罪」、「通常の戦争犯罪」および「人道に対する罪」で、東条英機ら28人の被告を起訴。1946年5月から審理が始まり、48年11月、25人に有罪の判決が下されました(2人は公判中に死亡、1人は精神障害で免訴)。こうして東京裁判は、人道と平和の見地から日本のおこなった侵略戦争について、明確な国際的審判を下し、こうした行為が二度と許されてはならないことを明らかにしたのです。
もちろん、東京裁判にさまざまな弱点があったことも事実です。いちばんの問題は、アメリカの意向にしたがって、日本の戦争の最高責任者であり、満州事変から敗戦まで戦争の全過程にかかわった唯一の人物であった昭和天皇について、その責任を問わず、訴追しない方針がつらぬかれたことです。そのため、裁判では、戦争の経過や責任の所在があいまいになるといった状況も生まれました。また、連合国の側の戦争行為については、アメリカの原爆投下やソ連による捕虜の強制労働(シベリア抑留)など、戦争犯罪のおそれのある問題もまったく不問に付されました。
しかし、こうした弱点をもちながらも、東京裁判がヒトラー・ドイツのヨーロッパでの侵略戦争と大量虐殺を断罪したニュルンベルク裁判とともに、世界の平和と進歩の歴史のなかで大きな意義をもっていることは、だれも否定できません。
日本は、1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約において、「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判〔判決〕を受諾」(第11条)しました。つまり、国際社会の復帰にあたって、日本の戦争犯罪を公式に認めるところから出発したのです。
【「平和に対する罪」】 侵略戦争もしくは国際条約に違反する戦争の計画、準備、開始、遂行、またはその共同謀議。
【「人道に対する罪」】 一般住民にたいする殺人、職滅、奴隷化、追放その他の非人道的行為、あるいは政治的・人種的・宗教的理由による迫害。
【A級戦犯】 侵略戦争の責任(「平和に対する罪」)が、ニュルンベルク裁判の裁判所条例第6条のa項だったことから、戦争指導者など重大戦争犯罪人が「A級戦犯」と呼ばれるようになりました。
【ポツダム宣言】 1945年7月、ドイツのベルリン郊外のポツダムで、アメリカ、イギリス、ソ連の3力国首脳が会談し、その取り決めにもとついて発表された共同宣言。日本に降伏を求めるとともに、その条件として7項目の対日要求を明記しました。最初は、アメリカ、中国、イギリス3力国の名前で発表されましたが、ソ連は対日参戦ののち、宣言にくわわりました。8月、日本は同宣言を受諾し降伏しました。ポツダム宣言は、第6項で「日本国国民を欺隔し、これをして世界征服の挙に出つるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず」として、日本の軍国主義の権力・勢力の永久除去を規定。戦争犯罪人の処罰についても、「吾等の俘虜〔捕虜〕を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし」(第10項)と定めています。
戦争犯罪を国際裁判で裁くという問題は、第一次世界大戦の惨劇をへて、「戦争違法化」の流れとともに、具体化されてきました。第1次世界大戦の戦後処理を話し合ったパリ講和会議では、この間題がもっとも重要なテーマの1つとして議論されました。そして、締結されたベルサイユ条約に、講和条約として初めて「戦争責任」を明記し、日本を含む五力国の裁判官によって構成される国際裁判によってドイツ皇帝の戦争責任を裁く方針が明らかにされました(この裁判は、ドイツ皇帝が亡命したため実現しませんでした)。
第2次世界大戦においても、連合国は、戦争中から、戦争犯罪人処罰の方針を明らかにしていました(1943年10月「モスクワ宣言」)。「ポツダム宣言」(1945年7月)が、一切の戦争犯罪人にたいする厳重な処罰(第10項)を明記していたことは前に紹介したとおりです。
戦争犯罪の概念は、第2次世界大戦後、ニュルンベルク裁判および東京裁判において、通例の戦争犯罪(戦争法規・慣例の違反)だけでなく、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」を含むものとして具体化されました。国連総会は、ニュルンベルク裁判が終了した直後の1946年12月に、「ニュルンベルク裁判所憲章による国際法の原則の確認」という決議を全会一致で採択し、そのことによってこうした考え方は国際法のルールとして確認されました。
アメリカは、昭和天皇の戦争責任を免罪する方針をとりながらも、当初はきびしく戦争犯罪人を追及する方針をとり、犯罪調査もかなり徹底しておこなわれました。しかし、1947年ごろからの対日占領政策の転換にともなって、戦争責任者追及の方針も変更されました。そして、東京裁判の判決言い渡しの翌月(48年12月)には、A級戦犯容疑者19人(このなかには、その後首相となった岸信介が含まれます)を釈放。翌年2月には、東京裁判に続くA級戦犯裁判の打ち切りを決定しました。
アメリカの占領の終了とともに、戦争犯罪人の減刑、釈放などがすすめられ、1956年3月までにA級戦犯全員を釈放。その後、58年4月7日付で、それまでに服役した期間を刑期とする刑に減刑されました(ただし、A級戦犯で赦免された者はいません)。こうした動きのなかで、A級戦犯が日本政治の中枢の地位につくようになりました。
重光 葵(禁固七年)……1950年11月に仮出所、51年に刑期満了。52年に公職追放解除、その後改進党の総裁になり、衆議院議員に当選。54年に結成された日本民主党副総裁として、鳩山一郎内閣の副総理・外相となりました。
賀屋興宣(終身禁固)……1955年9月仮出所、58年4月に減刑によって刑期満了。同年5月の総選挙で自民党から当選。63年、池田内閣の法相として入閣。
岸 信介(A級戦犯容疑者)……1948年12月に釈放。52年4月に追放解除になったあと、自由党から衆議院議員に当選。55年、自由民主党の結成とともに幹事長となり、56年、石橋湛山内閣の外相。57年に首相、1960年の日米安保条約改定を強行しました。
国会でも、「本来講和条約締結により、一切の戦争責任は解除せられる」、戦争犯罪人は「愛国者」「国の犠牲者」などといって、戦争責任を免罪する議論が繰り返しおこなわれました。
戦犯の釈放・赦免を求める決議は、参議院本会議(1952年6月9日)、衆議院本会議(52年6月12日、同12月9日、53年8月3日、55年7月19日)で計5回おこなわれました。これらは、日本共産党と労農党(1957年に社会党に合流)が反対したのを除いて、社会党をふくめ賛成しておこなわれたものです。
もちろん日本共産党は、これらの決議に反対の態度をとりました。一定数の議席があり国会の会派として認められた時期には、反対討論もおこなっています(52年6月9日参院本会議=岩間正男議員、同12日衆院本会議=高田富之議員)。1952年12月の衆院本会議決議の当時は議席がありませんでした。53年の決議当時は議員が1人、55年当時は2人だったため、国会会派として認められず、反対討論の権利を奪われていましたが、党議貝団として反対の態度を表明しました。
(おわり)