富塚良三『経済原論』(有斐閣、1976年刊)から。
拡大再生産が成り立つための条件。
まず、I(V+M)>IICが成り立たなければならないが、条件はこれだけではない。
剰余価値Mのうち、蓄積に向けられる部分をMα、消費に向けられる部分をMβとし、Mαのうち追加不変資本部分をMc、追加可変資本部分をMvとすると、社会的総資本の年生産物W’は、次のようになる。
I C+V+Mc+Mv+Mβ=W’I
II C+V+Mc+Mv+Mβ=W’II
で、拡大再生産が均衡的にすすむためには、以下の条件を満たすことが必要。(左辺は供給、右辺は需要)
I(C+V+Mc+Mv+Mβ)=(IC+IIC)+(IMc+IIMc)
II(C+V+Mc+Mv+Mβ)=(IV+IIV)+(IMv+IIMv)+(IMβ+IIMβ)
で、上の2式から共通項を差し引くと、次のようになる。これは、I、II部門間の相互交換における均衡条件を示す。
I(V+Mv+Mβ)=II(C+Mc)
諸部門の蓄積額が「均衡を維持しうべき蓄積総額」に等しくなる場合には、その蓄積額が部門間にいかなる比率で配分されようと、「部門間の均衡条件」は満たされる。しかし、その場合、Iの蓄積額がまったく任意の大きさをとりうる、というのは正しいか。――ここが富塚氏が「均衡拡大再生産」として問題にするポイント(同書、264ページ)。
部門間均衡を保ちつつ拡大再生産がすすむためには、「余剰生産手段の存在量が均衡蓄積額の決定にたいしてとりわけ決定的な意味を持つ」(265ページ)。その理由は、追加労働力のための生活手段は、Mβをふりむけることで事実上可能。
蓄積基金投下(新投資)によって対応されなければ、意図される蓄積基金積立(貯蓄)の社会的総計が多ければ多いほど実現される剰余価値額が減少するのであるが、意図される蓄積基金積立の社会的総計額が均衡蓄積額を超過した場合には、たとえその積立額に対応するだけの蓄積基金投下がなされたとしても、それは「過剰蓄積」として、部門間資本移動によっては処理しえない全般的過剰生産を引き起こす。(268ページ)
Iで均衡蓄積額を上回って蓄積がおこなわれたとき、生産手段にたいする超過需要と追加労働力需要による消費需要増が生じる。その結果、生産手段不足と消費資料過剰が生ずるが、それは部門IIから部門Iへの資本移動によって解消しうるかどうか。部門IIの生産は需要減退によって大幅な縮小を余儀なくされ、部門Iの生産は新投資の刺戟に伴う生産手段需要の増加によって急速に拡張される。だが、増加した生産手段は誰によって購買されるか? 縮小を余儀なくされた部門IIの資本家ではありえない。だとすると、それは部門Iの生産拡張のために部門Iの資本家自身によって購買されなければならない。だが、「永久により多くの工場を建設するための工場の建設」を続けることは不可能。したがって、実現の一般法則としては、部門構成は、所与の生産力水準に照応し、生産力水準が普遍の場合には原則として不変であると想定されなければならない。(268?269ページ)
この点を明確にせず、意図された蓄積基金積立の社会的総計が均衡を維持しうべき蓄積総額を超える額であっても、それに等しいだけの蓄積基金投下がおこなわれるならば、部門間資本移動によって結局において均衡が成立しうると考えることは、ケインズ的な想定――貯蓄率がどれだけ大きくても、また所得にたいする消費の割合がどれだけ小さくても、その貯蓄率を埋め合わせるだけの投資があれば有効需要不足は生じないというケインズ的想定を、容認するものである。また、部門IIが停滞・縮小しても部門Iの拡張さえあれば実現の困難は生じないというトゥガン・バラノフスキー流の見解も、容認することになる。(269ページ)
ここで大事なのは、二部門間の比率が、「生産力の社会的編成」を表現している、ということ。(270ページ)
これについて、『1857〜58年草稿』の面白い注があるのだが、ページ数がインスティテュート版のものなので、対照ができない。困ったなあ〜 (^_^;)
生産力発展の所与の地点においては、……生産物が――原材料、機械、必要労働、剰余労働に対応するところの――部分に分割され、そして最後に、剰余労働自身が消費に帰着する部分と再び資本となるもう1つの部分とに分割されるところの、ある固定した・比例関係が生ずる。資本のこの内的な概念上の分割は、交換においては、、ある規定され制限された比例関係――生産の発展とともにたえず変動してゆくとはいえ――が、諸資本相互間の交換にとって生ずる、というように現われる。……交換は、それ自体としては、これらの概念的には相互に規定された諸契機の1つの恣意的な定在をあたえる。これらの諸契機は、相互に独立して存在する。それらの内的な必然性は、それら相互の恣意的な外観を強力的に終止させる恐慌において現われる。(『57〜58年草稿』ノートVI)
全般的過剰生産は……〔たんに商品が〕消費にたいして過剰にではなく、消費と価値増殖との間の正常な比例関係を確保するには過剰に、すなわち価値増殖にたいして過剰に、生産されたために生ずる。(同前)
で、部門構成は生産力水準が不変の場合は不変でなければならないという立場からすると、蓄積過程は両部門の併行的ないし均等的発展の過程でなければならない。(272ページ)
今年度(ないしは今期)の部門Iの蓄積率が部門IIの蓄積率にくらべて大であればあるほど、翌年度(ないしは翌期)の余剰生産手段が大であり、したがってまた均衡蓄積率が大でありうる。その意味で、部門Iは蓄積過程において規定的かつ主動的な役割を果たす。しかし、生産部門間には所与の生産力水準に照応する比率があるから、ある一定の時間的なズレをもって部門IIの拡張が部門Iの拡張を追ってゆくのでなければ、部門Iはやがて過剰生産におちいらざるをえない。
そこで、蓄積額の部門間配分については、生産力水準が不変の場合には、原則として部門間の蓄積率は等しく、蓄積額の部門間配分は、元投資資本の部門間配分比率に照応するものでなければならない。(273ページ)
「第1部門の優先的発展」とは、部門関連の弾力性の範囲内で部門Iの蓄積率が部門IIの蓄積率より大であることができるという意味での蓄積率の部門間格差を意味するものでなければならない。したがって、部門間均衡条件させ満たせば、部門Iの蓄積率はまったく任意の大きさを取り得るとするのは、妥当ではない。生産力水準が不変である場合は、原則として両部門は一定の比例を保ちつつ均等的に発展してゆかなければならない。生産力が発展する場合には、資本構成の高度化に対応して、部門構成もまた高度化する。したがって部門Iは部門IIよりも急速に拡張しなければならない。
部門関連の弾力性による許容度を超えて部門Iが急速に発展してゆく場合、それを「自立的発展」という。消費需要によって直接に制約されない部門Iは、本来、この意味での「自立的発展」への傾向をもつが、この部門Iの「自立的発展」への傾向は、「不均等発展」の過程、生産力の発展にともなう部門間構成が高度化する場合に、とくに強く表れる。
※なお、富塚氏は、置塩信雄氏の『蓄積論』の議論についても、「部門構成は蓄積比率に応じて任意でありえ従って『蓄積需要』ないしは『投資需要』さえあれば実現の困難は生じない――顕在化しないというのではなく――とするトゥガン的ないしはケインズ的見解をとり、総資本の総生産物の価値的・素材的構成によって《均衡を維持しうべき蓄積率》が規定される関係を事実上無視ないしは看過する結果となった」として批判されている(275ページ)。――この点は確かめてみないといけない。置塩氏はそんなこと言ってないように思うのだが。
ということで、この項目も未完。
ピンバック: かわうそ実記
富塚氏の均衡蓄積軌道と置塩氏の均衡蓄積軌道を考える上で考えは重要です。置塩氏は記述は無いものの、暗黙裏に富塚氏が指摘した結果になっていると思われます。
もう発見されているかと思いますが、
『資本論草稿集』第2巻の76ページです。
ふとめしんどさん、今晩は。
情報ありがとうございました。『56〜57年草稿』は、それはそれで読んでいたのですが、そのときにはすっかり富塚さんの件は忘れていました。(^_^;)
あらためて読み返してみたら、自分でも線を引いてました…。お恥ずかしい。