弁証法について、唯一体系的に叙述したといわれるヘーゲル。マルクスが、ヘーゲルから弁証法の真髄として何を受け継いだかは、なおこれからの研究課題だとされています。それだけに、ヘーゲル自身が弁証法について何を明らかにしたか、その合理的核心とは何であるのかを研究することが必要。
ということで、ヘーゲルの『小論理学』を少しずつ読んでみることにします。(ページ数は、松村一人訳『小論理学』岩波文庫)
◆聴講者にたいするヘーゲルの挨拶
・不可知論にたいする批判。
ドイツの「浅薄な精神」は、ついに「真理の認識は存在しないことを見出し証明したと考え」た。最後に、批判哲学が「永遠なもの、神的なものについては何も認識できないということを証明したと主張することによって、永遠なものおよび神的なものにかんするこのような無知を安心させた」(17ページ)
まだ健全さを失わない心は、なお真理を要求する勇気を持っている。そして真理の国こそ、哲学の故国であり、哲学がうちたてた国、そして我々が哲学を研究することによってその国の一員となりうる国である。人生において真実なもの、偉大なもの、神的なものは、理念によってそうなのである。哲学の目標は、この理念をその真の姿と普遍性において把握することである。自然は理性をただ必然性をもって実現するように拘束されているが、しかし精神の国は自由の国である。人間の生活を統一するすべてのもの、価値あり意義あるすべてのものは、精神的なものであり、そしてこの精神の国はただ真理と法の意識を通じてのみ、理念の把握を通じてのみ存在するのである。(18?19ページ)
「真理を要求する勇気」。ヘーゲルは「学問にたいする信頼、理性にたいする信念、自分自身にたいする信頼と信念を持つ」とも言っているし、「真理の勇気、精神の力にたいする信頼こそ哲学的研究の第一の条件」であるとも言っている。「宇宙のとざされた本質は、認識の勇気に抵抗しうるほどの力をもっていない」とも。(19ページ)
◆エンチクロペディーへの序論
哲学は、他の諸学科のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない。(61ページ)
哲学は無前提にはじまらなければならないというヘーゲルのご託宣。ヘーゲルの観念論の源泉なのだけれども、しかし、対象にたいして何の先入見もなくのぞまなければならないという意味では、非常に唯物論的。
哲学は、思惟の1つの独自の様式、すなわちそれによって思惟が認識となり概念的認識となるような様式である。(62ページ)
哲学とは、対象を概念的に把握するための思考の様式である。65ページでも「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる」と述べている。
・哲学の内容について
哲学の内容は、生きた精神の領域そのもののうちで生み出され、また現在生み出されつつある内容、意識の世界、意識の外的および内的世界となされている内容にほかならない……、一口に言えば哲学の内容は現実である……。(68ページ)
ここでヘーゲルは、哲学の内容は現実であると言っている。これはきわめて非思弁的で、ヘーゲル哲学の健全さを示すもの。しかし、それが「生きた精神の領域そのもののうちで生み出され」ているものだとされているのは、観念論。
ヘーゲルは、それに続けて、「現実」といっても、何でもかんでもみんな哲学の内容になる訳ではない、「気まぐれ、誤謬、悪」といったもの、要するに「偶然的なもの」は、哲学の内容、対象にならない、と言っている。これは大事な点。
日常の生活ではあらゆる気まぐれ、誤謬、悪と言ったようなもの、およびどんなにみすぼらしい一時的な存在でも、手当たり次第に現実と呼ばれている。しかしわれわれは普通の感じから言ってもすでに、偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しないことを感じている。偶然的なものは可能的なもの以上の価値を持たない存在であり、有るかもしれずまた無いかもしれないものである。(69ページ)
このような「偶然的なもの」は、現実の名に値しないというのである。だから、われわれが「現実を知る」という場合には、ボーっと眺めていたり、とりあえず気になったあれやこれやの出来事を並べただけてもダメで、対象そのものを全面的にとらえ、その多様な現象の中から偶然的なもの、「有るかもしれず無いかもしれない」ようなものを除いて、一定の必然性をもって存在している現実的なものをとりださなければならない。現実の認識ということをとってみても、そこには人間の理性的な働きが必要なのであって、そこに人間の精神の積極的・能動的役割がある。マルクスも、労働日をめぐるたたかい、長時間労働や児童労働、女性労働の実態を知るために、議会報告を調べるなど、大変な努力をした。これは大事な点。
なお、この部分でヘーゲルは、「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である」という『法哲学』序文の命題を引用して、「この簡単な命題は多くの人に驚きと敵意をおこさせた」と述べ、大事なことは、何でもかんでも現実に起こっていることがすべて現実的なものなのではないと指摘している。
ヘーゲル哲学の現実性とは。現実性を「やはり現存在をもってはいるところの偶然的なものから区別しているだけでなく、さらに定有、現存在およびその他の諸規定からはっきり区別している」と指摘(70ページ)。Sollenをふりまわすやり方にたいする批判。
◆第7節からの部分
最初、哲学というのは、「経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なものの認識」「一見無秩序ともみえる無数の偶然事のうちにある必然的なものや法則の認識」に従事する知識にあたえられた名前であった。(第7節)
しかし、こういう哲学には、2つの点で不十分さがある。1つは、「自由、精神、神」といった対象、「無限なもの」が、上述のような「哲学」の地盤には見出されないこと。(第8節)
2つめ。「主観的理性」は、「経験的知識があたえうる以上の満足を求める」。それは「必然性」である。
しかし、経験的科学の方法は、次の2点の不十分さから、主観的理性の求める「必然性」を満足させない。
第1。経験的諸科学が含んでいる普遍、類など〔=抽象的普遍〕というものは、「それだけとってみると無規定で、特殊との関連を持たず、〔したがって〕普遍的なものと特殊なものと関係は外的で偶然的なものにとどまっている」。特殊なものが結びつけられている場合も、その結びつきは外的で偶然的なものにとどまっている。
第2。経験的科学は、「常に直接的なもの、与えられたもの、前提されたもの」から始める。
「この2つの点から言って、経験的科学の方法は必然性の形式を満足させない」(75ページ)
これも、正しい側面と観念論的誤りという側面とがある。「直接的なもの、与えられたもの、前提されたもの」から始めるのは正しくないといって、認識の出発点となる現実を否定するのは観念論。しかし、前提を前提にとどめず、その前提そのものがどのようにして生まれてきたかを明らかにすることは、必然的な認識にとって必要不可欠。
ただ、経験諸科学が、なんでも、あるいはいつでも、「与えられたもの」を所与の前提として、その必然性を問わないのかというと、それ自体が、経験諸科学の歴史的な発展に規定されていると思う。たとえば、現在の宇宙物理学では、宇宙の存在は所与の前提ではなく、その宇宙そのものがどうやって誕生したのかが、いちばんの研究対象になっている。しかし他方で、経済学では、資本主義は所与の前提にされていて、資本主義そのものがなぜ、どのようにして、何によって誕生し、今日まで発展してきたかを問わない学説が支配的。いわゆるブルジョア経済学。この点でのマルクスの経済学の優位性は決定的。
まだまだ続く…
定年前のエンジニアです。野球と弁証法が好きです。高校の硬式でスイングのアドバイスを概念的・実践的にやろうとしています(もう8年目です)。
ヘーゲルの有論他の展開を拝見して、何だか同好の士を感じて嬉しい気持ちです。私も2冊ほど小冊子を出しましたが、ヘーゲルを咀嚼するのは困難そのものです。
30前後から解説本をずっと見てきたのですが、40代後半まで殆ど分かっていませんでした。ところが、そのあと、スイングの実践理論と、広島の労学協(高村先生)から出た大著(99年:ヘーゲル小論理学:理論)が合体して、歴然とわかるようになりました。
吉崎様
概念的スイングですか? なんか難しそうですねぇ… (^^;)
高村先生のヘーゲル論は私も興味深く読みました。ただし、概念論の捉え方については、一面的だと思っています(ヘーゲルの持っている、現実の矛盾を糊塗しようとする側面がほとんど捉えられていない)。
最初の「小論理学」の本は、まだそんなに表面に出ていませんでしたが、「法の哲学」の解説本あたりから、それが極端に前面に出るようになって、ヘーゲルがほとんどそのまま革命理論であるかのように主張されています。
そのあたりは、もっと冷静にヘーゲルを読む必要があると思っています。