白井恭弘『外国語学習の科学――第2言語習得論とは何か』(岩波新書)
オイラは、英語にせよドイツ語にせよ、もっぱら和訳するのみで、さっぱり喋れないという、最近ではすっかり流行遅れのスタイル。
しかし、『資本論』などの論文を相手にしていると、しっかりと内容を理解しないと、英語やドイツ語で読んでいても、皆目歯が立ちません。というか、きちんと日本語に移し替えるためには、英語やドイツ語としてちゃんと意味がとおるまで、徹底的に読み込むしかありません。ネイティブじゃない以上、ドイツ語のまま理解する、などということは不可能。そうなれば、日本語に翻訳して完璧に意味が通じるまで、とことんドイツ語を調べ尽くすしかありません。
そんな訳で、何か役に立つことはないかと思って、手に取ったのがこの本でした。
結論からいえば、オイラのようなケースは、やっぱり例外的なんでしょう。いまどきの外国語学習は、やっぱり会話ができるようになることが目的。
それでも外国語の学習というものが、母語の習得とは違うメカニズムによるものであることは、それなりによく分かりました。
母語習得のメカニズムについても、チョムスキーの「生成文法」論がある一方で、試行錯誤にもとづく学習を重視する説もあって、はっきりしません。それ以上に、大人になってからの外国語学習(第2言語の習得)は、もっとメカニズムがはっきりしないようです。著者は、実験的な検証にも留意しながら議論をすすめているので、とくに○○理論でスパっと“快刀乱麻を断つごとく”という訳にはいかないようです。
外国語は母語を基礎に習得されるものだということもよく分かりました。だからこそ、母語をしっかり身につけることが外国語を身につける上でも重要だということになります。
同時に外国語を学んでいくときに、侵しやすい間違いとして、母語に引きずられるという問題と、それから母語に関係なく、学びはじめた人がしばしば犯す間違いというのがあるというのも面白いですね。前者は、いわゆる日本語直訳英語。食事でライスかパンかを選ぶときに、「僕はライス」というのをそのまま“I am rice.”といってしまうようなやつですね。
それにたいして、後者は、たとえば英語の三単現-s。これは、中学校英語で早くから勉強するにもかかわらず、なかなか使えるようにならない。それは、日本人だけの問題ではなくて、非英語圏の人が英語を勉強するときにしばしば見られる問題なのだそうです。
あと面白かったのは、「テレビが壊れた」「財布が見つかった」など、日本語では自動詞を使うというケース。これは、英語では自動詞では表現できません。このあたりは、自動詞、他動詞、あるいは能動、受動という文法的な区別以前の、言語のそもそもの性質にもかかわるもの。しかし逆に言うと、“The wallet was found.”という英文を「財布は見つけられた」と訳すとおかしなことになるというわけで、こんなときは堂々と「財布が見つかった」と訳せばいいわけです。
第2言語習得論というように一般化されていますが、主要にとりあげられいてるのは、非英語圏の人間がどんなふうに英語を学ぶかという話です。これが、どこまで第2言語習得として一般化できているのかは、私にはよく分かりませんでした。英語は、冠詞や形容詞などの格変化がないので、そのあたりは、文脈依存的に読むしかないのにたいして、ドイツ語は、代名詞や動詞の格変化だけでなく、冠詞から形容詞、関係代名詞まで、ことごとく格変化する分、文脈に依存して内容を理解するよりも、文法的に解析して内容をつかむことが求められると思うのですが、そういうことが、大人になってから外国語を習う場合に、どれぐらい違いをもたらすものなのでしょうか。そうした問題にも、もっと研究の目が向けられてもよいのではないでしょうか。
言語間の距離という問題でも、日本語と韓国語は、日本語と英語やドイツ語よりも距離が近いので、学習しやすいと指摘されていますが、その一方で、発音という面から見れば、日本人にとって韓国語はとても簡単とは言えません。母音の数も韓国語の方が多いし、表音文字であるハングルにも、いくつかの変化規則があって、それを覚えるのは大変です。もちろん日本語でも、助詞の「は」を「ワ」と読むなど、いくつかの変化規則はあるので、これは韓国語だけの現象ではありませんが。
何にせよ、学習の難易という点では、文法だけでなくて、発音、文字、発音と綴り字との関係(規則)など、いろいろな要素があると思うし、それらが外国語を学ぶときにどんなふうに影響するかも気になるところです。
まあ、そういう訳で、本書は、第2言語習得論についてのサーベイとして役立つと思いますが、外国語をもっとよく身につけるためにはどうしたらよいか、という疑問には、かならずしもストレートに答えてくれる訳ではありません。そこんところは誤解のないように。(^_^;)
ちょうどNHK教育のETV特集で、手話を使いながら日本語を勉強する聾の小学生たちが紹介されていました(9月21日放送「手の言葉で生きる」)。
最近になって、学校でも手話をつかって教えることができるようになったのだそうですが、聾の人たちにとって母語である日本式手話は、日本語とは文法なども異なる独自の言語。だから、小学校に上がって「国語」の時間に日本語を読み書きすることを習い始めた聾の子どもたちは、文字の読み方(発音)でも、「てにをは」の使い方でも、苦労するようです。それを、自身も聾の先生が、いろんな工夫をしながら教えていくのですが、先生は、まず子どもたちに手話で思いっきり話をさせたあと、それを日本語で書く練習をする。そんなふうにすることによって、子どもたちが日本語を身につけいく様子が紹介されていました。
聴者である親から生まれた聾の子ども、聾の両親から生まれた聴者の子ども。いろいろな親と子どもが登場しましたが、印象的だったのは、聴者である親が聾の子どもと手話によって自由にコミュニケーションができるようになったと喜んでいたこと。それに、聾の両親から生まれた聴者の子どもが、手話と、発話による日本語での会話とを自由に使いこなしていたこと。そして、聾の子どもをもつ聴者の親にとって、聾の先生がとても頼もしい存在であること、等々。なにより、手話をつかって楽しそうに会話する子どもたちが印象的でした。
それを見ながら、あらためて身近にある「第2言語習得」問題の大切さに気づかされました。
【書誌情報】
著者:白井恭弘(しらい・やすひろ)/書名:外国語学習の科学――第2言語習得論とは何か/出版社:岩波書店(岩波新書 新赤版1150)/発行:2008年9月/定価:本体700円+税/ISBN978-4-00-431150-8
著者の白井です。長文の紹介、コメントありがとうございます。手話の問題についても書きたかったのですが、今回は時間切れでした。続編を書くときには是非かきたいとおもっています。
白井恭弘さま
わざわざお越しいただき、ありがとうございます。m(_’_)m
私は、『資本論』をトコトン理解したいがために、英語、ドイツ語と格闘しているので、白井さんが考えておられることとは見当違いのコメントになってしまったのではと、冷や汗たらたらです。
チョムスキーの生成文法――とうより人間には生得的に文法を獲得する能力があるという考え方に興味をもっています。その角度から第2言語習得を考えるとどうなるのか、実は非常に興味があります。