すでに、大阪の中村さんから「日刊スポーツ」での反響をコメントしていただきましたが、これがその「しんぶん赤旗」に載った元内閣官房長官・野中広務さんのインタビューです。
実際読んでみると、なかなか胸をうつものがあります。これが、選挙の時には京都で共産党攻撃の先頭に立ったこともあるあの人物の言葉かと思ったりもしますが、最後に、「蟹工船」ブームなどに触れて、若い人たちが動き始めていることに、日本が「平和な国としてやっていけるスタート台に立てるのではないかと思っています」という感想を述べておられるのが印象に残りました。
特別インタビュー 憲法・戦争・平和
[しんぶん赤旗 2009年6月27日付]
元内閣官房長官 野中広務さん
いま日本がおかしい
小渕恵三内閣で内閣官房長官を務めた野中広務さん(元自民党幹事長)に、憲法などをめぐって最近思うことを聞きました。野中氏は、2003年秋の総選挙を機に衆院議員を引退。その後、憲法や戦争と平和、政治の原点をテーマに全国各地を講演に歩き、テレビや雑誌上で活発な発言を続けています。
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25歳で郷里の町会議員になり、衆院議員引退までの52年の政治生活を通じて「宿敵」だったあなた方(「赤旗」)に私の思いを語るのも、いまの時代が、そうさせるのだと思います。
■議員引退の訳
国会議員を退いて5年8カ月。私は全国各地で、ざっと300回の講演をしてきました。招かれる先にはあなた方と親しいグループや団体、また憲法9条を守ろうという会もあります。
いま静かに日本の政治を見ると、おかしくなっていく日本を感じます。とくに小泉内閣の5年は、短いことばで国民を狂わせて、アメリカ型の市場万能主義をそのまま持ち込み、アメリカの権益がかかわる戦場に自衛隊を派遣して、日本社会の屋台骨を粉々にしてしまいました。私は、こんな内閣と同じ時代に国会議員でいたら後世恥ずかしいと思い、議員を退いたのです。
私自身は、軍隊経験は6カ月だけですが、あの戦争の時代とその後を体験した人間として、今日ほど日本の人々が、この国の進路を誤らないように明治以後の歴史を振り返り、平和を考えなければならない時はないと思います。■大政翼賛会に
01年10月、衆院本会議にテロ特措法案の採決がかかったとき、私は、本会議場を退場して棄権しました。03年6月のイラク特措法案が採決にかかったときにも本会議場を出て棄権しました。この法案が自民党総務会に示されたとき、自衛隊の派遣については慎重であるべきだといったのは、ぼくと野呂田芳成さん、谷洋一さん(ともに元農水相)の3人だけ。あとの議員は「こんなときに何をいっているのだ。自衛隊を派遣するのはあたりまえじゃないか」といっていました。
正直いって僕はむなしさを感じました。自民党は戦争が好きな政党になってしまった。それこそ大政翼賛会時代にもどってしまったわけです。
このできごとに先立つ1997年4月、衆院本会議で僕は、日米安保条約の実施に伴う土地使用にかんする特別委員長としての「沖縄駐留軍特措法改正案」審議報告で「この法律が沖縄を軍靴で踏みにじる結果にならぬように。…国会の審議が再び大政翼賛会的にならないように、若い人にお願いしたい」と自分の思いをつけ加えました。国会ルール違反と批判され、議事録から削除された経験があります。
しかし、そのあと、特措法を積み重ねて自衛隊は地球の裏側まで出かけていけるようになってしまいました。
私は、振り返って今も3つの特措法に対する自分の当時の判断は間違っていなかったと思っています。戦争に加担しない道を
最近、この国のこれからの平和を考えるうえで、僕が一番恐れているのは米軍再編です。米軍は米本土にあった米陸軍第1軍団司令部を座間(神奈川県)に移転させ、そこへ陸上自衛隊の司令部を集結させました。かつて日本は傀儡(かいらい)国家である「満州国」をつくり、そこに関東軍司令部を置いて、中国大陸を植民地化していく橋頭塗(きょうとうほ)をつくりました。あのときの日本の植民地政策と同じ考え方ではないでしょうか。当時と違うのは日本政府が、この米軍再編に3兆円ものお金を出そうとしていることです。
(民主党前代表の)小沢(一郎)さんは、国連の下でなら自衛隊を海外に出してもいいなんておかしなことをいっています。こんどの総選挙で民主党が政権をとってもわれわれにとっても何の展望も開けないでしょう。また政界再編なんていっても、本当にまともにこの国の行方を決める政治家の集団はできないんじゃないかと思います。
日米間には現在、安保条約があるだけで、平和友好条約はないです。やはり日米平和友好条約を結べる環境をつくらねば、日本はいつまでたっても米国と対等になれないと思います。■憲法
たしかにいまの憲法にはいろいろ矛盾はあります。しかし、わが国は日本国憲法の掲げる「戦争放棄」「恒久平和」の理念を1つのよりどころにして、自衛隊を海外に出したりすることを「卑怯(ひきょう)者」といわれても避けてきました。憲法を盾にして戦争に加担しない道を歩んできたんです。このことが戦後64年の平和につながったんです。1つ足を踏み出したら取り返しのつかないことになることは20世紀の戦争の1つ1つが物語っています。
私は、この事実だけは何があろうと忘れてはいけないし、日本はあくまでも憲法の掲げる理念に則(のっと)って国際平和に貢献すべきだと思います。
私自身は、憲法について、9条2項を変えて自衛隊を認め、しかし海外へ出さないという規定にすべきと考えています。あなた方とは違うかもしれないが、これが実現しないうちは、9条を含めて現在の憲法を守るべきだと思います。■戦争の傷跡
私の生まれ育った京都府船井郡園部町(現在の南丹市)がある口丹波(くちたんば)といわれる地方には戦争前、マンガンなどの鉱山がありました。
僕は子どものころ、鉱山で働く朝鮮人が、背中にたくさんの荷物を背負い、道をよろよろ歩く、疲れ切ってうずくまるとムチでパチッと叩(たた)かれ、血を流しながら、はうようにまた歩き出す、そんな姿を見てきました。また私の家から300メートルほど先に大阪造兵廠(しょう)が疎開してきて、兵器を造るため連行されてきた朝鮮人が同じようにひどい仕打ちで働かされていました。
戦後64年が経過した今も、戦争の傷は癒えていません。未処理の問題も数多くあります。
北朝鮮との国交回復、賠償の問題も残っています。中国に日本軍が遺棄してきた化学兵器や中国残留孤児の問題もあります。多くの未解決の傷跡をみるとき、まだまだ日本は無謀な戦争の責任が取れていないと思います。そのこと自体が被害者の方々にとって大きな傷になっていると思われ、政治家の一人として申し訳ない思いです。■歴史に学ぶ
幕末から明治にかけて、「富国強兵」が国是となって日清・日露戦争に突入し、その結果が「満州国」という傀儡国家をつくる、あるいは朝鮮半島を植民地にするという狂った時代をつくり上げてしまいました。美化された明治の改革であったけれども、このときのスタートがあの戦争の敗戦まで至っていたのか、と思うとき、そこに焦点を当てて、もう一度、歴史を学ぶ必要があります。
私は、子どもたちにしっかりと近現代史を教えてこなかったツケが、田母神俊雄・元航空幕僚長のような暴言を吐く人間が出てくるような、悲しい、いまの日本の狂ったような状況に拍車をかけていると思います。
シビリアンコントロールが効かない状況が起きているのを、政治がどのようにチェックし、正常化していくのかというところにも力を置かないと自衛隊内部からの暴発によって日本の平和が脅かされる危険性があると思います。
国の根幹を決めなくてはいけない政治家たちが、しっかりした歴史認識にたって、再び誤った道へ走っていく流れにブレーキをかけなくてはならないと思います。
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去年あたりから「蟹工船」ブームといわれ若い人たちがまともに歴史に向かい合おうという気持ちが出ていることを非常にうれしく思い、また期待もしています。こういう輪が広がることで、日本が再び軍国主義国家になっていく道が閉ざされて、平和な国としてやっていけるスタート台に立てるのではないかと思います。
そのための種を蒔(ま)いていく使命がわれわれにはあるんじゃないかと思っています。のなか・ひろむ 1925年、京都府船井郡園部町(現南丹市)生まれ。大阪鉄道局(旧国鉄)入り、召集で陸軍に。戦後、園部町議、同町長、京都府議、同副知事をへて、83年衆院京都2区補選で初当選、以後当選7回。自治相・国家公安委員長、内閣官房長官、自民党幹事長を歴任。03年10月、解散・総選挙で衆院議員引退。
現在は全国土地改良事業団体連合会会長など。著書に『私は闘う』『老兵は死なず 野中広務全回顧録』ほか。(聞き手・井上協、写真・林行博)
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