『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」の第3節「貨幣」b「支払手段」の終わり近く、注(107)がついているところで、マルクスは、次のように書いています。(上製版Ia、238ページ、新書版第1分冊、239ページ)
支払手段の通流速度にかんする法則の帰結として、どんな起源をもつ支払いであろうと、すべての周期的支払いにとって必要な支払手段の総量は、諸支払期間の長さに正比例する。
この部分、長谷部文雄氏の翻訳では、次のようになっています。
支払い手段の通流速度にかんする法則からして、その起源のいかんをとわずすべての周期的な支払いにとっては、支払手段の必要分量は支払期間の長さに逆比例する、ということになる。
ご覧のように、新日本訳で「正比例」となっている部分が、長谷部訳では「逆比例」(反比例)と、正反対の意味に訳されています。「正比例」か「反比例」か、 どっちが正しいのでしょうか?
現在広く底本とされている旧東独のWerke版では、この部分は、次のようになっています。
Aus dem Gesetz über die Umlaufsgeschwindigkeit der Zahlungsmittel folgt, daß für alle periodischen Zahlungen, welches immer ihre Quelle, die notwendige Masse der Zahlungsmittel in geradem Verhältnis zur Länge der Zahlungsperioden steht.
さらに、この geradem Verhältnis(正比例)の部分に、Werke版編集部の編集注がついていています。
1. bis 4.Auflage: umgekehrtem
つまり、初版から第4版までは、この部分は umgekehrtem Verhältnisとなっていた、というのです。もちろんこれは「反比例」。ちなみに、マルクスが翻訳したフランス語版でも、この部分は、raison inverse となっているし、エンゲルス監修の英語版でも inverse proportion となっています。
実は、それが「正比例」と「訂正」されたのは、カウツキー版が最初であることも分かっています。
これらのことについては、すでに長谷部文雄氏が詳しい訳注をつけています。ちなみに、長谷部氏は、この部分を「逆比例」(反比例)と訳しており、訳注は、カウツキー版やインスティテュート版(旧ソ連の研究所版)の「訂正」にもかかわらず、「逆比例」が正しい、として説明されています。
大月書店版では、この部分はヴェルケ版にしたがって、「正比例」と訳されており、「初版から第4版では『反比例』となっていた」とだけ書かれています(これは、ヴェルケ版編集部注にしたがったもの)。
で、不思議なのは、新日本出版社版の『資本論』です。最初に紹介したとおり、新日本版では、この部分は「正比例」になっています。
その上で、この部分に訳注をつけて、なぜ「正比例」が正しいかをくだくだしく説明していますが、残念なことに何が言いたいのかよく分かりません。(^^;) しかも、その訳注の基本的な組み立てがほとんど長谷部氏の訳注と同じなのに、結論だけが正反対になっているのだから、ますます、新日本版、長谷部訳、どちらの立場が正しいのか、分からなくなってきます。
ご参考までに、その訳注を紹介しておきます。まず、長谷部訳。
インスティテュート版では、この逆比例が正比例と改められ(カウツキー版でも同じ)、そして、「原文で逆比例となっているのは明らかに誤記である」という編集者の注が付せられている。この場合の問題は、Länge der Zahlungsperioden という言葉を、支払周期(1週間目とか3カ月目というような、支払期限と支払期限との間隔)の長さと解するか、支払期間(1日間とか1週間とかいう、その間にわたって支払が行なわれる期間)の長さと解するかにかかるのであって、前者〔支払周期のこと――引用者〕が大となれば、支払総額が大となるがゆえに支払手段の必要分量はこれに正比例し、また後者〔支払期間〕が大となれば、支払手段の流通速度が大となるがゆえに支払手段の必要分量はこれに逆比例する。しかるに、マルクスの本文における「支払手段の通流速度にかんする法則からして……周期的な支払にとっては」という前書きからすれば、右の言葉は「支払期間の長さ」と読むべきであり、比例関係は「逆」でなければならぬと思われる。(以下略)
この長谷部氏の説明については、いろいろな疑問があるのですが、ともかく、「正比例」か「反比例」か、どちらが正しいかという問題は「諸支払期間の長さ」Länge der Zahlungsperioden という言葉の解釈にかかっている、という議論の立て方になっていることは読まれたとおりです。
次は、新日本出版社の訳注です。
ここは、カウツキー版およびインスティテュート版(1932年)以外の版本であ「反比例」となっており、戦後のロシア語版、ドイツ語版、フランス語版等、たいていの版本で「正比例」に改められた。マルクスは、支払手段の通流速度を制約する事情として、債権者・債務者の関係の連鎖と、さまざまな支払期限の間の時間の長さとをあげているが、これは支払期限(満期日)に達した債務についての行論である。したがって、「諸支払期間の長さ」を「支払期限と次の支払期限とのへだたり」(週払いとか月払い)と解すれば、長い方が支払総額が大きくなるから「正比例」である。これにたいして、「支払期間」を「支払が行なわれる期間」(1日とか1週間)と解すれば、長い方が同一の貨幣が支払手段として転々と通流するので貨幣の必要量は少なくなり、「反比例」となる。マルクスは、ここでは「支払期限」について論じており、「期間」については1カ所しか言及しておらず、周期的支払いを問題にしているため「諸支払期間」(周期的な期限と期限のあいだ)としたものと思われる。(以下略)
ご覧の通り、新日本訳でも、「正比例」か「反比例」かを決めるカギは「諸支払期間の長さ」の解釈にかかっている、というのが中心的な論点になっています。その点では長谷部氏とまったく同じであるにもかかわらず、まったく正反対の結論がそこから正しいとされているのですから、読めば読むほど、訳がわからなくなるのではないでしょうか。
それでは、どう考えたらよいのでしょうか?
実は、この部分には、もともとマルクスがつけた注(107)があります。そこでは、ウィリアム・ペティの『アイルランドの政治的解剖』(正確にはその付録「賢者には一言をもって足る」)から、次のような文章が引用されています。
……支出は4000万であるから、もし回転が、たとえば、土曜ごとに受け取って支払う貧しい手工業者や労働者のあいだで行なわれるように、毎週というような短い周期で行なわれるならば、100万の貨幣あたり40/52でこれらの目的に応じられるだろう。だが、もし周期が、わが国の賃料支払や租税徴収の習慣に従って、四半期ごとだとすれば、1000万が必要だろう。だから、一般に、諸支払が1週間と13週間とのあいだのさまざまな周期で行なわれるものと仮定すれば、100万の40/52に1000万を加えたものの半分はほぼ550万であるから、550万あれば十分である。
ここでペティが書いているように、1年間なら1年間という決まった期間に、総額4000万なら4000万という決まった金額を支払わなければならないという前提のもとでは、「支払周期」がたとえば1週間なら(1週間ごとに支払うのなら)、1回の支払いに必要な「支払手段の総量」は4000万÷52≒80万であるのにたいして、四半期ごとの支払いの場合には、1回の支払額は1000万となります。
つまり、「支払周期」が長くなればなるほど「必要な支払手段の総量」は大きくなるから、「正比例」が正解ということになります。
ちなみに、いま、上の引用で下線を引いた「周期」という部分、現在の新日本訳では、1つめは「周期」、2つめと3つめは「期限」と訳されています。しかし、『資本論』で実際にマルクスがペティから引用した文章(英文)では、いずれも circle になっており、当然、すべて「周期」と訳すべきところです。
最初に引用した文章で「諸支払期間の長さ」とあるところも、独文は、Länge der Zahlungsperioden で、この Zahlungsperiode は、「支払周期」と訳すべきです。periodischen Zahlungen を「周期的な支払い」と訳しているのに、Zahlungsperiode が「支払期限」では平仄があいません。
さらに、実はマルクスは、いま問題の箇所の少し前で、こんなふうに書いています。(新日本新書版、第1分冊、232ページ)
この流通速度は2つの事情によって制約される。すなわち、Aがその債務者Bから貨幣を受け取り、それをさらに自分の債権者Cに支払うというような債務者と債権者との諸関係の連鎖――それに、さまざまな支払期限と支払期限とのあいだの時間の長さである。
この下線部は、現行訳では、「さまざまな支払期限のあいだの時間の長さ」となっていますが、原文は、
die Zeitlänge zwischen den verschiednen Zahlungsterminen
で、はっきりと zwischen という単語が使われており、それを生かせば、私が訳し直したとおり「さまざまな支払期限と支払期限とのあいだの時間の長さ」という意味です。
こういうふうに読んでくると、ここでマルクスは、一貫して「支払周期」を問題にしていることが分かると思います。長谷部氏は訳注で、ペティを引用した注(107)に言及して、「ペティの見解は、支払手段の『通流速度』を問題にしない素朴なもの」としていますが、これは自説に合わないマルクスの原注を切り捨てるもの。マルクスが問題にしているのは「支払周期」ではなく「支払期間」のことだというのは、完全な読み誤りだと思います。
さらに付言すれば、長谷部氏は、「支払周期」にたいして「支払期間」をもちだし、それを「1日間とか1週間とかいう、その間にわたって支払が行なわれる期間」と定義していますが、そもそも「支払期間」が1日間というのはどういう支払いなんでしょうか? 長谷部氏の「定義」を素直に読むと、「支払期間」1週間というのは、1週間のあいだ、ずっと毎日支払い続けるという意味になるのでしょうか? しかしこれも理解不能です。さらに、「支払期間」が大になると、支払手段の流通速度が大となる、という関係もよく理解できません。だから、なんどくり返して読んでみても、長谷部氏がこの訳注でなにが言いたいのか、分からないのです。
で、最後に、ではなぜマルクスは「反比例」と書いたのか? という問題。マルクスが、何倍とか何分の一とか、比例関係に弱かったことは、『資本論』を読むと、あちこちで気づきます。一方が2倍になれば、他方が半分になる関係を正比例だと言ってみたり、一方がある量増えれば、他方が同じ量だけ減る関係を「比例」と言ってみたり…。まあ、比例・反比例にかんしていえば、マルクスはぐだぐだです。(^^;)
この部分では、支払周期が長くなると、支払回数が減って、その分、1回の支払額が増える、あるいは、支払周期が短いと、支払回数が多く、1回あたりの支払額は小さくなる、という関係を問題にしているのですが、マルクスは、支払周期の長い・短いを、支払回数の多い・少ないと混同して、回数が増えれば額が減る、回数が減れば額が大きくなる、だから「反比例」だ、と勘違いのではないでしょうか。
ということで、あんまりスッキリはしませんが、いちおうこれが僕の答えです。
今から四半世紀前、新日本新書が出たとき「正比例か反比例か」ちょうど学生で、サークルで論議しましたが、よく分かりませんでした。
gakuさんの説明、すっきりしてますよ。なぜマルクスがまちがえたのかも、分かるような気がします。ありがとうございました。
おそらくマルクスは最小限の金準備で貸し渋り貸しはがしが起きないような通貨制度〔の運用を〕を模索したのだと思います。
貴金属ペッグでもなく、カレンシストのように外貨準備に応じて自国通貨を垂れ流すのでなく、相対取り引きで相殺された総取引量という、現代では当たり前になっている価値フロート制を提唱したのだと思います。
ここで気になるのは今日、近経〔とくにトービン〕で貨幣乗数とか信用乗数とか言われているものとの関連でマルクスが正しいか、どうかですね。実証的な研究が必要だと思います。
資本の回転なら「資本論」第2巻より「経済学批判要綱」の方が説明がすっきりしていて分かりやすいよ(*^_^*)
オガちゃん、初めまして。コメントありがとうございます。
さて、この部分(『資本論』第1部第3章第3節b)では、マルクスはまだ通貨(信用貨幣=銀行券)のようなものをまだ想定していないのではないでしょうか。この段階では、貨幣=金商品なので、金と乖離した信用貨幣の議論と結びつけると、議論はかえってややこしくなると思います。
現在の管理通貨制度のもとでの貨幣の運動が、貨幣=金商品というマルクス段階の貨幣制度(金本位・兌換紙幣制度)のもとでの議論とどこまで一致するか、あるいはどこがどのように変化・発展しているかは、理論的な研究と同時に、ご指摘のように実証的な研究が必要だと思います。
匿名希望さんへ。
コメントありがとうございます。ここ(『資本論』第1部第3章第3節b)で議論になっているのは、掛け買いの結果としての債務を分割弁済していくときの支払手段としての貨幣量と支払期間もしくは支払周期との関係ですので、資本の回転とはとりあえず関係がないのではないでしょうか。
それから、資本の回転論についていえば、『経済学批判要綱』では、資本の本性として「流通時間のない流通」という問題が論じられているのが、理論的にはおもしろいところだと思います。『資本論』第2部ではそうした議論が消えてしまっているので、そもそもなぜ「資本の回転」が問題なのか? ということが分かりにくくなっているのではないでしょうか。他方で、『要綱』では固定資本・流動資本のカテゴリーも確定していないので、そこはやっぱり『資本論』第2部によって理解すべきだろうと思います。
GAKUさん。ご返信ありがとう。返信するのが遅れて、ごめんなさい。
ところで、トムメイヤーのアナルティカルマルクシズムは読みましたか? 面白いようだったらご感想お教えいただけると嬉しいです。
経済学批判について。「流通手段としてにせよ、支払手段としてにせよ、貨幣の流通速度があたえられていれば、あるあたえられた期間内に流通する貨幣の総額は、実現されるべき商品価格の総額〔プラス〕その同じ期間中に満期になる諸支払いの総額マイナス相殺によって相互に消去しあう諸支払いの総額に規定されている。流通する貨幣の量は商品価格によって決まるという一般法則は、これによって少しも動かされない(大月全集13巻125ページ下)」とありますが「ぷらす」のところMEWの落丁、誤植なのでしょうかね? それともソ連共産党の情報操作だったりして(笑)
オガちゃんへ
『経済学批判』全集第13巻125ページ下段の、「プラス」が〔〕で補足されている件は、MEWの誤植などではなく、『経済学批判』(1859年)での誤植(脱落)です。そのことは、『資本論草稿集』第3分冊374ページ下段の注(1)でも指摘されています。そのあとにマイナスが出てきますから、ここにプラスがないと文章として意味が通じません。
『資本論』でほぼ同じ文章がでてきたところでは、きちんとplusと書かれています。また、戦前の全集でも、この部分はプラスを補って翻訳されているので、昔から誤植であることは知られていたのではないでしょうか。
お久しぶりです(*^_^*)
マルクスの比例―反比例のウダウダですけれども、もしかしたら当時の会計事情を反映しているかもしれないと思いつきました。
高杉良さんの「不とう不屈」を読んだんですけど――発生主義と時価評価主義との対立、大変勉強になりました。
どこかで、グラムシも同じようなことを言っていたはずです(忘れちゃったけどw)