"自己を発現する労働力"って? (2)

ドイツ語版とフランス語版との異同について、前回は簡単に結論しか書かなかったので、もう少し詳しく紹介しておきます。

まず、前回も引用した最初に、「自己を発現する労働力」が出てくるところ。

【邦訳1】 <1>労働力の使用は労働そのものである。<2>労働力の買い手は、その売り手を労働させることにより、労働力を消費する。<3>労働力の売り手は、労働することによって、"現実に"自己を発現する労働力、労働者となるが、彼はそれ以前には"潜勢的に"そうであったにすぎない。<4>自分の労働を商品に表わすためには、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくてはならない。<5>したがって、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある特定の物品である。<6>使用価値または財貨の生産は、資本家のために、資本家の管理のもとで行なわれることによっては、その一般的な本性を変えはしない。<7>それゆえ、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない。(新日本出版社『資本論』上製版、Ia、303ページ。新書版第2分冊、303ページ)

【独文1】 <1>Der Gebrauch der Arbeitskraft ist die Arbeit selbst. <2>Der Käufer der Arbeitskraft konsumiert sie, indem er ihren Verkäufer arbeiten läßt. <3>Letztrer wird hierdurch actu sich betätigende Arbeitskraft, Arbeiter, was er früher nur potentia war. <4>Um seine Arbeit in Waren darzustellen, muß er sie vor allem in Gebrauchswerten darstellen, Sachen, die zur Befriedigung von Bedürfnissen irgendeiner Art dienen. <5>Es ist also ein besondrer Gebrauchswert, ein bestimmter Artikel, den der Kapitalist vom Arbeiter anfertigen läßt. <6>Die Produktion von Gebrauchswerten oder Gütern ändert ihre allgemeine Natur nicht dadurch, daß sie für den Kapitalisten und unter seiner Kontrolle vorgeht. <7>Der Arbeitsprozeß ist daher zunächst unabhängig von jeder bestimmten gesellschaftlichen Form zu betrachten. [Werke版, S.192]

ご覧のように、このパラグラフは7つの文から成り立っています。

で、こっちは、同じ部分のフランス語版。

【フランス語版1】 <1>L'usage ou l'emploi de la force de travail, c'est le travail. <2>L'acheteur de cette force la consomme en faisant travailler le vendeur. <4>Pour que celui-ci produise des marchandises, son travail doit être utile, c'est-à-dire se réaliser en valeurs d'usage. <5>C'est donc une valeur d'usage particulière, un article spécial que le capitaliste fait produire par son ouvrier. <6>De ce que la production de valeurs d'usage s'exécute pour le compte du capitaliste et sous sa direction, il ne s'ensuit pas, bien entendu, qu'elle change de nature. <7>Aussi, il nous faut d'abord examiner le mouvement du travail utile en général, abstraction faite de tout cachet particulier que peut lui imprimer telle ou telle phase du progrès économique de la société.

【仏語版翻訳1】 <1>労働力を使用することが労働である。<2>労働力の買い手は、労働力の売り手を労働させることによって、労働力を消費する。<4>労働力の売り手が商品を生産するためには、彼の労働は有用でなければならない。すなわち、使用価値のうちに実現されなければならない。<5>したがって、資本家が自分の労働者に生産させるものは、ある個別的な使用価値、ある特殊な物品である。<6>使用価値の生産が資本家のために彼の監督のもとで行なわれるからといって、この生産が性質を変えるということにはならないのは、もちろんのことである。<7>したがって、われわれは、社会のあれこれの経済的発展段階が有用労働に刻印するかもしれない個々の独自性はすべて度外視して、まず、有用労働一般の運動を考察しなければならない。(江夏・上杉訳『フランス語版 資本論』上巻、167ページ)

ご覧になってお分かりの通り、フランス語版では文は6つしかありません。番号をふっておきましたが、<1>、<2>および<4>?<7>の各文は、それぞれきっちり独仏対応しています。ただ、肝心の<3>「労働力の売り手は、労働することによって、"現実に"自己を発現する労働力、労働者となるが、彼はそれ以前には"潜勢的に"そうであったにすぎない」の一文だけが、フランス語版ではすっぽりと抜けているのが分かると思います。

なにか別の表現に置き換えたのではなく、「労働力の売り手は、労働することによって現実の労働者になる」という論立てそのものが省略されてしまっています。

もし、労働することによって「潜在的」な労働者から「現実的」な労働者になる、という説明に、何ほどか重要な意味がこめられているのだとしたら、こういうふうにまるごと省略されることはなかったはずです。つまり、労働をする前は「潜在的」にしか労働者でなかったが、労働することによって「現実的」な労働者になる、というのは、なにか特別なことを述べたのではなく、ごく当たり前のことを述べたまでのことであって、そこに特別な論を読み込むのは正しくない、ということです。

そして、前回も書いたように、マルクスは、別な表現に置き換えたところでは、「活動中の」とか「運動中の」という表現を使っていて、どこにも「自己を発言する」とか「自らを実証する」といったニュアンスはありません。

まだまだマルクスをヘーゲル主義的に解釈して、そこに何か深遠な真理を発見したつもりになるような読み方をする人が多いと思うので、そうではないということをあらためて指摘しておきたいと思います。

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