『剰余価値学説史』はどう読めばよいのか(2)

サー・ジェイムズ・スチュアート、重農学派と、文字どおり「剰余価値」にかんする諸学説を扱ってきたマルクスだけれど、「A・スミス」になって、ちょっと調子が変わってくる。

草稿ノート第6冊243ページ(大月版『資本論草稿集』第5分冊、51ページ)から、スミスの剰余価値論について書かれているが、ノート257ページ(同、77ページ)にきて、{}にくくられた次のような書き込みがある。{}は、草稿でマルクスが[]でかこっていた部分。

{ここでなお次のことを考察するべきであろう。(1)A・スミスにおける剰余価値と利潤との混同。(2)生産的労働に関する彼の見解。(3)彼が地代と利潤とを価値の源泉としていること、および、原料や用具の価値が収入の3源泉〔賃金、利潤および地代――大月版訳注〕の価格と別個に存在したり別個に考察されたりしてはならないような商品の「自然価格」についての彼のまちがった分析。}

これには、新MEGA編集部の注がついていて、そこでは「この研究は、おそらくマルクスがマンチェスターのエンゲルスのところに1862年3月30日から4月24日まで滞在していたあいだに始めたもので、したがって彼が当初予定していたものではなかった。明らかにこれによって、早くも最初に予定していた枠を超える「5 剰余価値にかんする諸学説」の項の拡大は始まっているのである」と指摘されている。

で、(1)の「A・スミスにおける剰余価値と利潤との混同」の話は、大月版草稿集108ページ(ノート第6冊272ページ)まで続いている。大月版109ページから、「年々の利潤と賃金とが、利潤と賃金とのほかに不変資本をも含む年々の商品を買うということは、どうして可能であるか、の研究」が始まるが、これは、のちに第2部第3篇で検討される社会的再生産過程の問題。

いろいろあって、113ページ(ノート第7冊、273ページの終わり)から「不変資本の再生産に関する問題」の検討が始まる。しかし、この検討は、いろいろと袋小路に入り込んで、マルクス自身、行きつ戻りつしている。

 右の例では、われわれは、困難をAから先へずらしてBとCとへ移した。しかし、それでは困難は増大するばかりで、簡単にはなっていない。(大月版第5分冊、123ページ上段)

 一歩先へすすむごとに、困難は増大する。(同、123ページ下段)

 これは、みごとな無限進行であり、もしすべての生産物が賃金と利潤すなわち新たにつけ加えられた労働に分解されなければならず、しかも商品につけ加えられた労働だけではなくその不変資本も、他の生産部面において新たにつけ加えられた労働によって支払わなければならないとしたら、われわれは、この無限進行に陥るのである。(同、125ページ下段)

だから、われわれが、Aの生産物において不変資本の価値を表すところの8エレのリンネルまたは24時間つまり2労働日を売るという困難を、ほぼ800に近い生産部門にわたって繰り延ばしてきたことは、われわれにとって何の役にもたたなかったのである。(同、130ページ下段)

さらに、134ページ下段には、次のように書かれている。

 それにしても、交換行為の介入、いろいろな生産部面のいろいろな商品または生産物のあいだの販売と購買とが、われわれを一歩も前進させないであろうということは、はじめから予想できた。

予想できたなら、やらなきゃいいじゃないか、とツッコミを入れたくなるが、こう言ったにもかかわらず、こんどはマルクスは計算を逆方向にさかのぼらせて、不変資本部分を無限に細かく分けていく。そして、

 こうして、われわれは無限に計算を進め、だんだんと小さく分けることはできるが、しかし、いつまでたっても12エレのリンネルが整除されることはない。(同、147-148ページ)

と、再び同じ無限進行に行き着く。そして、あらためて結論。

したがって、ここで明らかになったことは、生産物Iから生産物II等々へ困難を引き延ばすこと、要するに単なる商品交換による媒介は、なんの役にも立たない、ということである。(同、149ページ下段)

こう書いて、マルクスは「だから、われわれは、別の仕方で問題を出さなければならなかったのである」と述べて、新しい考察に移っている。つまり、ここまでの部分は、正しい問題の立て方にたどり着くための「産みの苦しみ」というべきもので、そこでマルクスが一生懸命計算していること自体になにほどかの意味があるわけではない。もちろん、その途中でもいろいろと大事なことにマルクスは気づいているが。

まず、マルクスは、「われわれは、逃げ道や中間の諸取引への逃避を防ぐために、リンネルは、個人的消費にだけあてられ、したがってたとえば新生産物の原料を再び形成することはない、と仮定した」と述べて、個人的消費に入る商品をリンネルで代表する。そのうえで、次のように述べる。

 最初の4エレすなわち生産物のうち織物業者によってつけ加えられた12労働時間に等しい最初の3分の1についていえば、われわれは、これをただちに始末した。これは賃金と利潤に分解するのであり、その価値は、織物業者の利潤と賃金との合計の価値と同じ大きさである。したがって、これは、織物業者と彼の労働者たち自身によって消費される。4エレについてのkの解決は絶対的である。(大月版、第5分冊、150ページ上段)

これは、のちの再生産表式のあらわし方で言えば、II(v+m)の部分のことで、これは現物形態でも消費財として存在し、第2部門(消費財生産部門)の資本家および労働者によって消費される。

次のマルクスは、「いまや本来の問題が現われる」(同150ページ下段)といって、「織物業者の不変資本」の問題、つまりIIcの問題に取り掛かる。のちの再生産論では、IIc=I(v+m)が単純再生産の条件であることが明らかにされる。ここでは、それにかなり接近する。

彼〔織物業者〕が、彼の生産物のうちその不変資本を表わす部分を補填しうるのは、ただ、それを、収入と交換することによって、すなわち他の生産者たちの生産物のうち、賃金と利潤に、したがって新たにつけ加えられた労働に、分解する価値部分と交換することによって、だけである。こうして、問題はその正しい形で提出される。(同、151ページ上段)

この「他の生産者たち」というのが第1部門(生産財生産部門)であることが自覚されれば、ここで言っているのは、IIc=I(v+m)だということはすぐにわかるが、この段階ではまだマルクスの認識はそこにはいたっていない。それでも、ここでマルクスは、「他の生産者たち」として、リンネルの材料である糸を作り出す紡績業者と、織機を製造する機械製造業者でもって、織物業者の不変資本を購買する「他の生産者たち」を代表させる。そうして、計算を進め、マルクスはとうとう次のように述べる。

機械製造業者の計算はいまや次のようになるであろう。彼は、機械のための不変資本のうち1エレ分を鉄などに支出し、3分の1エレ分を、食器の生産中における機械製作用の機械の損耗分として支出した。(同、153ページ下段)

これは、のちの再生産論で言えば、Icの自己補填。

そしてさらに次のように述べて、生産手段生産部門の生産手段の自己補填にカギがあることを自覚する。

 全問題は、部分的には次のことによって解決されている。すなわち、農業者の不変資本のうち、それ自体新たにつけ加えられた労働にも機械にも分解しない部分が、まったく流通することなくすでに控除されており、それ自身の生産において自己補填され、したがってまた、機械を控除すれば、彼の流通する生産物全体が賃金と利潤に分解し、したがって、リンネルに消費されうる、ということによってである。これが解決の一部分であった。(同、157ページ)

これは、生産財生産部門の生産手段Icの自己補填の問題。

そして、その次が、I(v+m)とIIcの交換の問題。

別の部分は、ある生産部面で不変資本として現われるものが、他の生産部面では同一年度中につけ加えられた新しい生産労働として現われる、ということのうちにあった。織物業者の手元で不変資本として現われるものは、大部分、紡績業者、機械製造業者、亜麻栽培業者、鉄および木材の生産者……の収入に分解する。……しかし、第3に、これまでに見出された解決は次の点にあった。すなわち、最後的に個人的消費のうちに入る生産物の原料または生産手段だけを提供するすべての生産過程は、その収入、利潤と賃金、新たにつけ加えら得た労働を、それ自身の生産物には消費しないで、こうした生産物のうち収入に分解する価値部分を、消費用生産物に消費することができるだけであること、または、同じことであるが、同じ価値額だけ他の生産者たちの生産した消費用生産物と交換しなければならない、ということである。それの新しくつけ加えられた労働は、価値成分として最終生産物のうちに入っていくのであるが、しかし、この最終生産物の形でしか消費されないのであり、他方、その使用価値についてみれば見れば原料または消費された機械として最終生産物に含まれているのである。(同、157-158ページ)

ただし、ここではマルクスは完全に問題を解決しているわけではなく、まだ未解決の問題として「機械製作用の機械の損耗分3分の2エレ」が残っているのだが。

さらに、年々つけ加えられる価値部分(つまり第1部門、第2部門それぞれのv+mの部分)が、毎年生産される消費財の価値総額と等しい、という点も指摘されている。

 消費に入っていくこれらの生産物の合計は、価値についてみれば、年々つけ加えられる労働の合計に(収入の価値合計に)等しい。(同、159ページ)

これは、再生産表式の等式風に書けば、次のようなこと。

 II(c+v+m)=I(v+m)+II(v+m)

この等式から共通項を消去すると、IIc=I(v+m)が出てきて、単純再生産の条件が導かれる。しかし、マルクスはここではそこまですすんでいない。しかし、消費用生産物と消費用生産物の原料および生産手段との2つに大別して、使用価値の側面と価値の側面の両面から社会的再生産についての考察を進めていることは成功への第一歩だ。(^_^;)

160ページからの考察でも、第1では、Icの自己補填が指摘される。そして、第2はともかく、第3では消費用生産物に入り込む生産手段については「使用価値にではなく、ただ価値成分として消費用生産物に入っていく」こと、そして、消費用生産物の生産者たちは、「労賃と利潤の合計に、つまり彼らの収入に分解する部分だけを消費する」のにたいして、消費用生産物の「不変資本の生産者たち」は、「彼らの新たにつけ区割られた労働を、消費用生産物だけに消費し、実現する」と指摘されている(161-162ページ)。これを再生産表紙の等式ふうに表せば、IIc=I(v+m)となる。

 消費用生産物すなわちリンネルのうち(消費用の諸生産物自身の間の交換、および、商品があらかじめ貨幣に転化するということは、事柄をなんら変えない)、それを仕上げて供給する部面の生産者たち自身が控除するところの生産物部分は、彼らの収入に等しい〔II(v+m)のこと――引用者〕。すなわち、最後に彼らによってつけ加えられた労働=賃金と利潤との合計に等しい。彼らは、消費用生産物のうちの他の部分をもって、彼らの不変資本を自分たちに直接供給してくれる生産者たち〔第1部門の生産者〕の価値成分を支払う。したがって、彼らの消費用生産物のこの部分は全部、隣接のこうした不変資本生産者たちの収入と不変資本との価値を補填する。(162ページ)

つまりここでは、マルクスは、IIcの部分が第1部門の全生産物と交換されるとしているのだ。ただし、そのすぐあとで、「しかしながら、この計算が割り切れるのは」と言って、Icの部分の問題に迫っていく。

 農産物については、このことはすでに論証済みである。
 ……そこでも、問題はこうである。農産物のうち生産者たち自身によって生産に返還される部分すなわち種子や家畜や肥料などのほかに、なお、消費用生産物に勝ち成分として入っていかず生産そのものの過程で現物で補填されるような不変資本の他の部分が存在するか? (163ページ)

こういうふうに問題を立てて、マルクスは、「石炭の生産においては、石炭の一部は、水を汲み出したり石炭を運び出す蒸気機関を動かすために利用される」(163ページ下段)、「不変資本のうち石炭そのものから成っている部分は、総生産物のうちから直接に控除されて生産に返還される。だれも、この部分をその生産者のために補填することを必要としない」(164ページ)と、Icの自己補填にたどり着く。

マルクスは、166ページ下段で「この問題はこのくらいにして、それには、資本の流通のところで立ち返ることにしよう」と書いているが、そういいながら、不変資本の補填の問題を論じ続けている。そうして、単に炭鉱で石炭を直接生産に投じるだけでなく、生産手段生産部門全体に、相互に不変資本を補填しあう関係があることを明らかにする。

 機械製造業者と、第一次生産者である鉄や木材などの生産者とのあいだには、事実上彼らが自分たちの不変資本の一部を相互に交換するという関係が生ずる(これは、一方の不変資本の一部が他方の収入に分解するということとは、なんらの共通点をもたない)。……哲也木材などの生産者は、彼らが必要とする機械と交換に、哲也木材などを、補填すべき機械の価値が区分だけ機械製造業者に与える。機械製造業者の不変資本のこの部分は、彼にとっては、農民の場合の種子とまったく同じである。それは、彼の年生産物のうち、彼が自ら現物で補填する部分であり、彼にとっては収入に分解しない部分である。(167ページ下段)

こういうふうに考察を続けて、マルクスは、第1部門の不変資本の自己補填というところまで行き着いたのだが、表式で表すというところに至っていないために、自分が下した結論を明確な形で自覚することになっていない。

以上で、この部分の再生産論は終わり。170ページから、「生産的労働と不生産的労働」の話に移る。

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