前回の古典教室で、『賃金、価格および利潤』の第11章「剰余価値が分解する種々の部分」に出てくる「税金徴収者」のことが話題になりました。剰余価値の受け取り手のなかに、資本家、地主、貨幣資本家だけでなく、「諸君が望むなら税金徴収者をこれにくわえてもよい」と、マルクスは書いています ((服部文男訳『賃労働と資本/賃金、価格および利潤』新日本出版社、古典選書シリーズ、156ページ。))。
もちろん、ここでマルクスが言っているのは、税務署の職員のことではなくて、徴税主体である国家のことです。そして、社会全体の労働を、労働者の必要労働部分とそれ以外の剰余労働部分とに大別すれば、税金が剰余労働に含まれることは明らかです。
しかし、そもそもこの時代の税金って、どうなっていたんでしょうか? そもそも、労働者が納めるような税があったのでしょうか? そこで、またもやあれこれと調べてみました。
税金といえば、すぐに思い出すのは、『共産党宣言』。
第2章「プロレタリアと共産主義者」の最後のところで、「生産様式全体を変革するための手段」として10項目の要求が掲げられていますが、その2番目に「強度の累進課税」とあります。服部文男氏の懇切丁寧な訳注によれば、この部分は、1888年エンゲルス訳の英語版では、「累進的または等級的所得税」となっているそうです ((服部文男訳『共産党宣言/共産主義の諸原理』新日本出版社、古典選書シリーズ、85ページ。))。
ということは、少なくとも1888年にはイギリスには所得税があった、ということになりますが、労働者が所得税を納めていたのかどうかは不明。もちろん、1848年段階で、ドイツに所得税があったどうかも分かりません。
それでまず、平凡社世界大百科事典で「所得税」を調べてみると、次のように書かれていました(筆者は古田精司氏)。
[所得税の歴史] 所得税が初めて創設されたのはイギリスで、1799年に W. ピット ((1783年に首相になった小ピットのこと。))がナポレオン戦争の臨時財源として始めた。その後、廃止されたり復活されたりしたが、1816年に戦争終結とともに廃止された。インドでの反乱を契機に42年 R.ピールが臨時税として復活させ、以後数度の改正はあったが廃止されることなく現代に及んでいる。イギリスの所得税は、分類所得税という特色をもち、不動産所得から勤労所得まで5種類に分類し、各種所得別に税率を異にして課税していた。1913年には累進税率(累進税・逆進税)が初めて採用された。同年にアメリカでも設けられた所得税は、総合所得税の特色をもっている。ドイツの連邦所得税は20年に制定され、その後の改正はあるが、原則として総合課税主義をとっている。フランスの所得税は1914年に制定され、戦争のため2年遅れて施行された。その特色は分類所得税と総合所得税の2本立てにあった。
R・ピールが所得税を復活させるきっかけになった「インドでの反乱」というのが何を指しているのかよく分かりません。有名な「セポイの反乱」は1857年ですので、年代が合いません。この時期は、東インド会社 ((東インド会社が解散されて、イギリスが直接支配に乗り出すのは1858年。))が1838年から第1次アフガン戦争をおこない、一時期はカブールを占領するものの、1842年にはカブールを撤収、アフガン軍の攻撃によって壊滅しています。ひょっとすると、このことを指しているのかも知れません。
いずれにしても『賃金、価格および利潤』の講演がおこなわれた1864年には、イギリスに所得税があったことは間違いありません。しかも、「勤労所得」に課税されていたことや、累進税率が導入される前だったので、一律課税だったことなども分かりますが、実際に労働者がどれぐらい負担させられていたのかは、これだけではよく分かりませ。
Wikipedia日本語版の「所得税」によれば、イギリス以外では、1840年にスイスで導入、1851年にプロイセンが導入。アメリカは1861年に南北戦争の戦費調達のために導入されたが、憲法違反とされ翌62年に廃止されたことなどが分かります。
これによると、『共産党宣言』に「強度の累進税」の要求が掲げられた当時(1848年)はドイツにはまだ所得税はなかった、ということになりますが、そうすると、マルクスたちはどこから「強度の累進税」という発想を得たのか。今度はそれが気になりますね。
それはさておき、イギリスの税制です。
山川出版社『世界歴史大系 イギリス史3』(村岡健次、木畑洋一編)の91ページに掲載された表「歳入の推移」によると、たとえば1841年の歳入総額は以下のとおり(単位100万ポンド)。
総額51.6 関税23.4 内国消費税14.9 地租・アセスト・タックス4.2 印紙税その他8.7
先にも紹介したとおり、所得税は対仏戦争の時期に一時導入されたとは、1816年には廃止されたので、この時期には所得税という項目はありません。税収の主な項目は、関税と消費税だったわけです ((ちなみに、1841年の支出の方はというと、総額53.2百万ポンド。内訳は、国債費29.5、民事費9.2、軍事費13.9百万ポンド。つまり、国家財政の約55%は国債の利払いなどに当てられていたのです。そしてそれ以外でいえば6割が軍事費。まさに「夜警国家」です(同書、91ページ表19による)。))。
で、国家財政の赤字のために、関税や内国消費税の引き上げが必要になってくるが、その一方で、自由貿易運動も広がってきて、なかなか関税も上げられない。ということで、ピール内閣が、関税引き下げの財源として、当初は3年の期限を切って導入したのが「所得税」。しかし、結局、3年で廃止することができず、延長をくり返し、クリミア戦争の勃発によって永続化して今日に至っているとのことです(同書、92〜93ページ)。
では、その所得税の実態は? というと、J・A・ケイ、M・A・キング著『現代税制の経済学―イギリスの現状と改革』(東洋経済新報社、1989年)によると、次のように書かれていました。
当初〔1842年〕、1ポンドに対し7ペンス(7ペンス/ポンド、3% ((1ポンド=20シリング=240ペンス。)))の単一税率で課税された。その後19世紀において、時期によって、政府によって多少この率に違いはあるが、単一低率課税という性格は不変であった。税率が最高になったのは、クリミア戦争の時で、課税最低限は年収100ポンド、税率は1シリング4ペンス/ポンド(7%〕であった。しかし、当時所得税の納税者は50万人を下回っていた。したがって、所得税は国民の大多数にとって関心のない税金であったのである。
所得税の納税者数は、20世紀の初頭まで100万人を超えなかった。所得税に実質的な累進性が導入されたのは、1909年ロイド・ジョージの「国民予算」の時であった。この時、年収5000ポンドを超える(現在の額で15万ポンド超)所得に「超過税」が課された。その結果、最高税率は1シリング8ペンス/ポンド(8%)となった。……
しかしながら、その当時においても、所得税を支払っていたのは一部の富裕階層に限られていた。1939年の平均賃金は年間約180ポンドであるのに対して、夫婦世帯の課税最低額は225ポンドであった。このため、2000万を超える労働人口のうち、所得税の納税者は400万人以下であった。(同書、23〜24ページ)
ということで、マルクスが『賃金、価格および利潤』の講演をおこなった1864年当時、イギリスには所得税という制度はあったが、労働者が所得税を納めるようなことはなかった、ということが分かりました。
ところで、税金の負担というと、イギリスの選挙法改正のときに、選挙資格とのかかわりで、やはり問題になりました。そこで、そちらも調べてみましたが、これがまたややこしい。
まず、1832年の選挙法改正のときに問題となった選挙資格は次のようなもの
- 都市選挙区については、年価値(借料による)10ポンド以上の家屋、店舗、事務所、倉庫などの所有者ないし借家人として占有する戸主(いわゆる10ポンド戸主)
- 州選挙区については、<1>従来からの40シリング以上の自由土地保有者、<2>年価値10ポンド以上の謄本土地保有者と自由土地所有者、<3>年価値50ポンド以上で期限20年以上の定期土地保有者、年価値10ポンド以上で期限60年以上の定期土地保有者、年50ポンド以上の地代を支払う任意借地人。
これが1867年の改正の時には、都市選挙区については、最初66年に自由党のラッセル=グラッドストン内閣が提案したのは、10ポンド戸主を7ポンドに引き下げる案。これが否決され、結局、地方税の納入を要件として戸主に選挙資格が与えられました。州選挙区については、期限60年以上の定期土地保有者の資格が10ポンドから5ポンドに引き下げられたほか、課税評価12ポンド以上の土地、家屋、店舗などの占有者(ということは借地人、借家人を含むということ)にも拡大されました。これによって、有権者は135万人から247万人に拡大しました。
この「地方税」というものの実態がよく分からないのですが、土地や家屋に税金が課せられていたことは分かります。まあ、だいたい考えてみれば、所得税は所得を把握しなければならないけれど、これはなかなかやっかい。それにくらべたら、土地あるいは家屋・店舗などへの課税はいたって簡単です。まさか徴税吏が来たときだけ、家を壊して隠れるという訳にはゆきませんからね。
しかし、それはともかく、労働者のなかで年価値10ポンド、課税評価12ポンドの家屋に住んでいたのはどれぐらいいたんでしょうか。労働者がまるきり排除されていた訳ではないでしょうが、かなり限られていたことは確実でしょう。
いずれにせよ、マルクスが『賃金、価格および利潤』の講演をした1864年当時には、広く労働者も負担するような所得税というものは存在しなかったことが分かります。そういう状況のもとで、庶民にとっていちばん重い負担となった税金は内国消費税だったのではないでしょうか。
なんだかまとまらない話ですが、以上、とりあえず調査終わり。(^_^;)
まだ、読んでいない本なんですが…… 吉岡昭彦「近代イギリス経済史」岩波全書1981年にはピール銀行法について詳しい解説があるそうです。R.ピールとはロバート・ピールのことでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%8A%80%E8%A1%8C%E6%9D%A1%E4%BE%8B 資本論第三巻が直接、批判の対象にしているのはピール銀行法ですから、この辺、調べる価値ありです。
とりあえず、お久しぶり♪
オガちゃんへ
はい、そのロバート・ピールのことです。
ロバート・ピールは1850年に亡くなっているので、『資本論』を書いた頃には過去の人物ですが、2度まで首相を務めたイギリス保守党の大物政治家です。しかし、地主の利益を代表する保守党の政治家でありながら、1846年には穀物法廃止に踏み切っています。ここらあたりが、大物たる所以でしょう。
銀行法の問題は、『資本論』だけを読んでいても、当時のイギリスの銀行システムそのものがよく分からないので、なかなか難しいですね。もう少しいろいろ調べてから挑戦したいと思っています。
言い忘れたんですが、税について面白いデータがあるんで、はっておきます(笑)http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10570876426.html
返信ありがと。