この問題について、大谷禎之介氏の『マルクスのアソシエーション論』(桜井書店、2011年)を読んでみました。大谷氏の「アソシエーション論」については共感する部分も多いのですが、その全体を論じる能力は僕にはありません。ここでは、問題を、第2の否定の結果として、生産手段の共同占有の基礎の上に再建される労働者の個人的所有が、生産手段にたいする所有のことなのか、消費手段(生活手段)にたいする所有のことなのか、という点に絞って、考えてみたいと思います。
大谷氏は、この問題を、おもに第2章「『資本主義的生産の否定』はなぜ『個人的所有の再建』か」で論じられています。それを順次みてゆきたいと思います。
まず第1に、第1の否定にあっても第2の否定にあっても、所有の対象は労働諸条件、生産諸条件であって、社会的生産物の中の、たとえば個人的生活手段といった、特定の部分だけを指すものではまったくありえない、ということである。マルクスの文章とは別に独自論を展開するのであれば別であるが、ことマルクスの文章にかんするかぎり、『反デューリング論』におけるエンゲルスの解釈[個人的所有の対象は消費手段であるという解釈――引用者]と、それにもとづく、あるいはそれを支持する、レーニンのそれを含む多くの議論が成立しえないことはまったく明らかである。(158〜159ページ)。
これは、要するに、「第1の否定にあっても第2の否定にあっても、所有の対象は労働諸条件、生産諸条件である」、だから、再建される個人的所有の対象も労働諸条件、生産諸条件である、ということです。
しかし、はたしてそうなのでしょうか?
僕は、『資本論』の「否定の否定」のパラグラフというのは、生産者と生産諸条件との関係が変化することによって、生産者の生産物にたいする関係がどういうふうに変化するかということを論じたものだと思います。
すなわち、まず小経営の場合は、生産者個人が、直接、生産諸条件を私的に所有しているがゆえに、生産物もまた生産者個人の所有となります。
これが「第1の否定」によって否定され、資本主義的的所有に転化します。ここでは、生産諸条件は資本家によって所有され、労働者は生産手段の所有から排除され、その結果として生産物についても資本家が取得し、労働者は生産物の所有からも排除されます。
しかし、資本主義のもとで生産が大規模化し、社会的な生産過程へと発展する。それによって、資本主義のもとでも、生産手段は、それを動かす労働者の集団によって事実上占有されることになります(この点を、マルクスの理論として明確にされたのは、大谷氏の大きな業績であり、そこがかつての「アソシエーション論」と大谷氏の議論との根本的な違いだと思います)。
で、「第2の否定」の結果として、資本主義のもとでもすでに潜在的に生まれていた労働者集団による生産手段の共同占有が、顕在化し、いわば体制化され、その共同占有の基礎のうえに、労働者の個人的所有が再建される、というのが、この「否定の否定」パラグラフの結論です。
ここでは、生産者(労働者集団)による生産手段の「共同占有」はすでに成立しています。したがって、残された問題は、共同占有された生産手段によって生産された生産物はどうなるのか? という問題です。そして、それにたいしてマルクスが与えた答えが「労働者の個人的所有の再建」です。
簡単に図説すれば、次のようになります。
生産者の生産手段にたいする関係 | 生産者の生活手段にたいする関係 | |
---|---|---|
小経営 | 生産者の個人的所有 | 生産者による個人的取得 |
資本主義 | 資本家の資本主義的私的所有 | 資本家による資本主義的私的取得。 労働者は非所有・無所有 |
未来社会 | 全体労働者による共同占有 | 労働者の個人的所有 |
このように読むならば、個人的所有の対象は生産手段ではなく、消費手段(生活手段)だということになります。この解釈に賛成でないとしても、「再建される個人的所有とは生産手段の所有のことだ」というのは、それほど自明のことではないということはお分かりいただけるのではないでしょうか。
したがって、大谷氏にしたがって、個人的所有の対象は生産手段である、第2の否定の結果として、生産手段にたいしては、共同占有と「アソシエートした社会的諸個人の所有」との二重状態?が成立すると主張するのであれば、論者は、少なくとも、「マルクスは、こうしか読めない」とか「明らかだ」という大谷氏の言葉をくり返すのではなく、自分なりに、ここで「所有」という言葉をマルクスは生産手段の所有の意味で使っている、ということを論証することが必要だと思います。
ちなみに、大谷氏が第2章の冒頭で引用されている『1861-63年草稿』の一節(同書、147ページ参照)は、僕にはむしろ、僕のような解釈の正しさを傍証するもののように思われます。
引用された『草稿』の部分で、マルクスは、生産条件が「連合した多数の労働者の労働」に適合したものへと発展することの」積極的な成果」として、「増大した量の生活手段を生産するために必要とされる労働時間が減少するということ、こうした成果が労働の社会的形態によって達成されるのだということ、そして、生産諸条件にたいする個々人の占有は、不必要なものとして現われるだけでなく、この大規模生産とは相容れないものとして現われる、ということである」と指摘しています(大月書店『資本論草稿集』第9分冊、389ページ)。もちろん、資本主義では、このことは「資本家――非労働者――がこの社会的大量の生産手段の所有者である、という形で現われる」のですが。
で、これがなぜ僕の解釈の傍証になるかといえば、ここでマルクスが、資本主義のもとでの労働者による生産手段の事実上の社会的占有を、「増大した量の生活手段」の生産との関係で論じているからです。
たしかに消費手段・生活手段は、社会的生産物のなかの一部分でしかありませんが、生産手段も、社会的再生産という視点から見れば、社会的生産物の中の一部分でしかありません。ですから、マルクスが社会的生産物の特定の部分だけを問題にするはずがないといえば、生産手段しか問題にしないことも同様に問われるのではないでしょうか。
そもそも、マルクスがなぜ生産手段の所有のことを問題にするのかと言えば、生産手段の所有が生産物の領有を規定するからであり、生産者が直接に生産手段を所有していることが「自由な個性の発展の必要条件」だからです。生産者は、生産手段をみずから所有する結果として、生産物の中から生活手段・消費手段を自由にわがものとして取得することができるのです。だとすれば、「否定の否定」によって再建されるべきものも、生産手段の共同占有の結果として、労働者が生活手段・消費手段を自由にわがものとして取得すること、ということになるのではないでしょうか。だとすれば、ここでいう再建された個人的所有は生産手段にたいする所有のことではなく、消費手段・生活手段にたいするものだと解釈できます。少なくとも、こういう解釈がマルクスの文章とは別の「独自論」とは言えないと思うのですが、どうでしょうか。
マルクスは、『資本論』第1部第1章第4節で、マルクスが展開した未来社会での生産物の分配について次のように説明しています。
最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現されるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。……この連合体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として役立つ。この部分は依然として社会的なものである。しかし、もう一つの部分は、生活手段として、連合体の成員によって消費される。この部分は、だから、彼らのあいだで分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度とに応じて、変化するであろう。もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しよう。そうすると、労働時間は二重の役割を果たすことになるだろう。労働時間の社会的計画的配分は、様々な欲求にたいする様々な労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働にたいする生産者たちの個人的関与の尺度として役立ち、それゆえまた、共同生産物のうち個人的に消費されうる部分にたいする生産者たちの個人的分け前の尺度として役立つ。(新日本新書『資本論』第1分冊133〜134ページ、ヴェルケ版92〜93ページ)
ここでは、社会的生産物は、生産手段と生活手段に二分され、生産手段は引き続き社会的に取得され、生活手段は社会の成員の間に分配される、つまり個人的に取得されると説明されています。大谷氏は、この部分を引用したうえで、次のように述べておられます。これが、第2章での2番目の説明です。
見られるように、「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々のアソシエーション」のもとでの、労働および生産の前提としての生産手段にたいする「アソシエートした社会的個人の所有」は、当然に、このような生産物の社会的取得……とそのうちの個人的消費手段の個人的分配と消費とを含むのであって、それを排除するはずがない。
しかし、覚え書きでいう「アソシエートした、社会的な個人の所有」が、生産の諸条件、したがって生産手段について言われているものであって、直接には生産物について言われているものでないことは明らかであろう。
しかし、これも、生産手段の共同占有の基礎の上に再建される個人的所有が生産手段にたいする所有のことであるということの証明にはなっていないと思います。前段についていえば、生産手段の共同占有の結果に「個人的消費手段の個人的分配と消費」が含まれていることについては誰も異論はありません。しかし、問題になっているのは「否定の否定」のパラグラフで言われている「個人的所有」の対象が生産手段なのかどうかなのですから、生産手段の共同占有が「個人的消費手段の分配と消費」を含んでいるといっても、その答えにはなりません。後段について言えば、これは大谷氏が「覚え書き」として引用された『1861-63年草稿』の前述の箇所の読み方としてはその通りだと思います。問題は依然として、「覚え書き」で「アソーシエイトした社会的な個人」による生産手段の所有が、「否定の否定」でマルクスが生産手段の共同占有の基礎の上に再建されるとした「個人的所有」と同じことであるのかどうか、というところにあります。しかし、その点は、ここではまったく論証されていません。
「覚え書き」の「アソーシエイトした社会的な個人の所有」とは、『資本論』の「否定の否定」のパラグラフで言われている生産手段の共同占有のことであって、それを基礎に再建される「個人的所有」は、それとは別のことを言い表しているのではないでしょうか。「覚え書き」では、生活手段・消費手段のことは明示的には触れられていませんが、『資本論』の「否定の否定」のくだりでは、マルクスはその議論をさらに発展させて、生産手段における「アソーシエイトした社会的な個人の所有」と、消費手段における「個人的所有の再建」を明確にしたと読んだ方が分かりやすいと思います。
いずれにしても、『資本論』第1章第4節のこのくだりは、生産手段は社会的所有、消費手段は個人的所有というふうに考えた方が、すっかりとわかりやすいと思います。そして、そのことと、再建された個人的所有とは消費手段にたいする所有のことだという解釈とは相互適合的だと思います。
資本主義のもとで、労働者は所有から排除されている。今日では、労働者もマイホームや乗用車をもち、なにか財産を所有ているかのように見えますが、これはあくまで労働力商品の対価として資本家から分け与えられただけのものにすぎない。資本主義のもとでは、直接的生産者である労働者は、非所有、無所有なのです。それが、社会主義・共産主義の未来社会になると、生産手段の共同占有を基礎として、労働者も生活手段・消費手段を自分のものとして所有することができるようになる。それが、マルクスのいう「個人的所有の再建」なのではないでしょうか。
3番目に、大谷氏は、「アソーシエイトした労働の生産様式における新たな所有」が生産諸条件の「社会的所有」である理由を説明され、それに続けて次のように言われています。
だから、新たな所有について、マルクスは「個人的所有」だけを言っていたのではなくて、それが同時に「社会的所有」でもあることを、この箇所で明言していたのだと言わなければならない。(160ページ)
これはよくわからないのですが、要するに、所有といえば個人的所有のことのように考えられるかもしれないので、マルクスは、「否定の否定」のこの箇所で、再建される所有が「個人的所有」であると同時に「社会的所有」でもあることを言明した、ということなのでしょう。しかし、再建される所有が個人的所有であると同時に社会的所有であるならば、なぜ「生産手段の共同占有の基礎の上に、労働者個人的所有が再建される」という言い方をマルクスはしたのか、僕にはよくわかりません。
4番目に、大谷氏があげているのは、次のような説明です。
「資本家――非労働者――による生産手段の所有」の否定によって、労働する諸個人がふたたび生産諸条件を占有し所有している状態が再現するというかぎりで、それはまさに「再建」なのである。このように見ることができるとすれば、「個人的所有」という語は、所有が「社会的」でなくて「個人的」だ、ということを言っているのではなくて、所有の主体が非労働者ではなくて労働する個人だ、ということを言っている、ということになる。要するに、「個人的所有の再建」とは、「アソーシエイトした、社会的な個人による所有」の再建なのである。(161ページ)
これも理解に苦しみます。生産手段の所有が非労働者による所有でなくて労働する個人による所有であるということを表わすのであれば、「労働者による生産手段の共同占有」云々といえばすむことであって、なぜわざわざ「生産手段の共同占有の基礎の上に、労働者の個人的所有が再建される」という言い方をする必要があったのか、ますます謎が増えるだけです。
そこで、大谷氏は、さらに次のように説明されています。
新たな形態への移行は、一方で「社会的所有」への移行であり、他方で「個人的所有」への移行なのであるが、それではなぜ、「社会的所有」とせずに「個人的所有」としたのか。
もし「社会的所有」としたならば、それは、資本主義的私的所有に対立的に、あるいは潜在的に含まれているものがここで顕在化する、あるがままに姿を現わすということであるから、それは「否定の否定」ではあり得ないからだ、と考えられる。(同ページ)
しかし、潜在的であったものが顕在化するというのは、弁証法でいう否定そのものではないでしょうか。資本主義のもとで潜在的に含まれていた生産手段の「社会的所有」が、未来社会で顕在化したとすれば、それこそが「否定の否定」なのであって、それが「否定の否定」ではありえない、という大谷氏の説明は理解に苦しみます。まして、それでは「否定の否定」ではありえないことになるから、マルクスは「社会的所有」とせずに「個人的所有」としたという説明も、よくわかりません。
最後、第5の理由として、大谷氏は、次のように指摘されています。
アソーシエイトした労働の生産様式における所有が「社会的所有」であるのは、「個人」と区別された「社会」なるものが所有の主体だからなのではない、ということが強調されなければならない。資本主義的な所有から「社会的所有」への移行とは、それ自体としては、「社会」なるものが生産手段の「所有権」を個々の資本家から奪うことではないのである。いわんや、「社会」という名において「国家」が社会的生産手段を掌握することではありえない。「社会的所有」への移行とは、「資本主義時代の獲得物」(資本主義的生産のもとですでに実現されていたもの)、すなわち「協業と土地を含めたあらゆる生産手段の共同占有」を基礎にして、「労働者たちが、この生産手段を、私的諸個人としてではなく社会的に占有している」状態をそのままあるがままに顕在化させることである。あるいは、「事実上すでに社会的経営にもとづいている資本主義的所有」から、「資本主義的所有」の外皮を爆破して、その社会的経営を名実ともに「社会的経営」たらしめることである。そのために必要なのが、この「共同占有」にもとづく「労働者の個人的所有の再建」なのである。(162〜163ページ)
ここで言われていることにかんしては、僕は、半分は賛成です。しかし、再建された「労働者の個人的所有」が生産手段にたいする所有のことであるという説明としては、依然として、納得できるものではありません。
賛成するというのは、いわゆる生産手段の社会化が、「社会」(つまり協同組合とか、国家・地方団体など)が個々の資本家から「所有権」を奪いさえすればそれでいい、というようなものではないという点です。僕は、生産手段が社会の手に移されたというためには、その生産手段をつかってどんな生産を、どのようなやり方でおこなうか、できあがった生産物の分配をどうするか、等々の問題が、社会の手によって、つまり直接には、その生産手段を「占有」している労働者の集団によって自由に決定されるという状態が実現されていなければならないと考えています。ソ連などの旧体制では、名目的には生産手段は国有あるいは集団所有されていたが、実態として、労働者が生産の決定に自由に、主体的に関与することはなかった。だから、生産手段が社会的所有に移されたというためには、たんなる「所有権」を個々の資本家・企業から国・協同組合などに移しただけでは足りないということは、何度強調されても強調しすぎるということはないと思います。
しかしだからといって、「否定の否定」のパラグラフで「労働者の個人的所有」の再建と言ったのは、生産手段を名目的に社会に移しただけではダメだと言うことを言うためだというふうには、読めないと思うのです。大谷氏の言う「アソーシエイトした社会的個人」というのが、労働者の集団を指すのであれば、「アソーシエイトした社会的個人の所有」とは共同所有・共同占有のことであり、それ以上でもそれ以下でもありません。もし「アソーシエイトした社会的個人」が個々の人格、一人一人の独立した労働者をさすのであれば、同じ生産手段について、片方では共同占有だと言い、同時に他方で個々人による所有を言うというのは、なかなか理解しにくい事柄ではないでしょうか。
以上、長々と書いてきましたが、僕がここで問題にしているのは、あくまで『資本論』の「否定の否定」のパラグラフで言われている、生産手段の共同占有の基礎の上に再建される個人的所有が生産手段にたいする所有のことなのかどうか、それが生産手段にたいする所有であることはマルクスの文章をみれば「まったく明らか」な問題なのかどうか、ということだけ、僕はこの点では大谷氏の見解には同意できないということだけです。
しかし、誤解のないように最後にあらためて指摘しておきますが、僕は、大谷禎之介氏が資本論草稿に徹して研究された成果は非常に大きく、資本論理解を飛躍的に前に進めるものだと思っています。また、研究成果の中身は多岐にわたっており、それらの成果を僕自身ぜひともきちんと学びたいし、学ばなければならないと思っています。アソシエーション論についても、傾聴すべきところは多々あると思っています。ただ、生産手段の共同占有の基礎の上に再建される個人的所有は生産手段にたいする所有のことなのか、という点についは、僕には大谷氏の説明が理解できないし、その見解に同意できないというのが、ここで僕が言いたかったこと。それ以上でもそれ以下でもないので、その点はくれぐれも誤解なきように。
ちょっと時間のたったエントリーに急にコメントして恐縮です。かなり気になる内容だったので,少し異論を。
《労働者が自分の生産手段を私的に所有していることが小経営の基礎であり、小経営は、社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のための必要条件である。たしかに、この生産様式は、奴隷制、農奴制、およびその他の隷属的諸関係の内部でも存在する。しかし、それが繁栄し、その全活力を発揮し、適合した典型的形態をとるのは、労働者が自分の使用する労働諸条件の自由な私的所有者である場合、すなわち農民は彼が耕す耕地の、手工業者は熟達した技能で彼が使用する用具の、自由な私的所有者である場合のみである。》
これが第1の否定の対象ですよね。ここには、生活手段の話は出てきませんよね。第1の否定の対象である個人的所有が生産手段の所有なのですから、第二の否定を通じて再建される個人的所有も生産手段の所有ですよ。
それとGemeinbesitzですが、せっかく「共有」という完全な語訳を避けることに成功しているのに、事実上Besitzを「所有」と同一視なさっており、Besitzの概念的把握に失敗なさっているようにお見受けします。
Besitzは、労働する諸個人の生産手段に対する実践的な働きかけであるのに対し、所有対象に対する意志的支配です。資本主義社会では、結合させられた労働する諸個人のGemeinbesitzを通じて資本の人格化の意志が対象を支配しています。アソシエーションにおいては、自主的自発的に結合する(アソシエートする)労働する諸個人のGemeinbesitzを通じて各個人の意志が対象を支配するのです。
これが再建される個人的所有の内実です。
訂正です。
×《所有対象に対する意志的支配です。》
○《所有は、対象に対する意志的支配です。》
「は、」を落としてしまっていました。失礼しました。
阿蘇地☆曳人さん、はじめまして、かな。
このパラグラフに出てくるのは生産手段だけだから、個人的所有とは生産手段に対する所有のことだというのが、そもそもこのパラグラフの誤読の出発点なのです。
第7節の初めの方でマルクスは「小経営は…労働者自身の自由な個性の発展のための必要条件」と書いています。自由な個性の発展のためには、生産物を自由にわがものとして享受することが必要です。ですから、第7節全体が、生産手段の所有が変わることによって生活手段にたいする所有がどのように変化するのか、ということを論じたものだ、というのが私の考えです。そのことは記事で縷々説明した通りです。
所有と占有については、私は、その区別に意味を認めていません。「否定の否定」のくだりでも、初版、第2版では所有Eigentumが使われており、フランス語版に従って第3版でBesitzに改訂されたものです。資本論の結論部分とでもいいうるところで、実はマルクスはEigentumとBesitzを使い間違えたとは考えにくいでしょう。所有と占有の考え方はドイツとフランスでも違うと思いますし、あまりそこで膨大な議論を組み立ててもいかがなものかと思います。
そもそも、ここでは生産手段は「共有」になると明記されており、それにもかかわらず、さらにそれに重ねて、生産手段は個人的所有もされてもいると解釈するのは論理的に矛盾しています。それで、個人的所有ではなく個体的所有であるとか、所有と占有は違うとか、これまでもあれこれ難しい議論がいろいろな人によって展開されてきましたが、僕は、それは方向が違うと思っています。
>自由な個性の発展のためには、生産物を自由にわがものとして
>享受することが必要です。
そうでしょうか。なぜ、そう言えるのでしょうか。ブルジョアも生産物を我がものとしていますが、自由な個性の発展の、すなくとも必要条件は満たしているのでしょうかね。とすると、十分条件は何でしょうかね。
それはやはり、労働の実現条件の非分離的所有(individuelle Eugentum)なんじゃないですか。自己の有機的身体と非有機的身体としての労働実現条件が非分離であるということですね。
また、マルクス自身は、EigentumtとBesitzを区別しています。
リンク先でご確認ください。
それと、第2版までのGemeineigentumについても、「資本主義時代の諸成果」とある以上、そのままでは、不整合だったのです。だから、「占有」に修正した。
ちなみにモストの「入門」でも、対応するか所では「占有」が使われています。
《労働者が自分の生産手段を私的に所有していることが小経営の基礎であり、小経営は、社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のための必要条件である。たしかに、この生産様式は、奴隷制、農奴制、およびその他の隷属的諸関係の内部でも存在する。しかし、それが繁栄し、その全活力を発揮し、適合した典型的形態をとるのは、労働者が自分の使用する労働諸条件の自由な私的所有者である場合、すなわち農民は彼が耕す耕地の、手工業者は熟達した技能で彼が使用する用具の、自由な私的所有者である場合のみである。》
「労働者が自分の生産手段を私的に所有していること」が「小経営の基礎」、「小経営は、…自由な個性との発展のための必要条件」、小経営が「それが繁栄し、その全活力を発揮し、適合した典型的形態をとるのは、労働者が自分の使用する労働諸条件の自由な私的所有者である場合」…これに勝手に、生活手段の話を混ぜ込んだら、それは独自研究でしょう。もし、そうでないとしたら、〈改〉釈ですよね。
阿蘇地☆曳人さんへ
私と貴方のあいだで解釈の違いがあるのは事実です。しかし、”ここは生産手段のことについて書いてあるのだから、再建される個人的所有も生産手段のことだ”という解釈は、ある種の「思い込み」であって、解釈として間違っていると私は思っています。そして、その理由は、このブログの他の投稿を含めていろいろと説明していますので、どうぞそれをお読み下さい。
なお、これ以上の自説の開陳は、私のブログではお断りします。どうぞご自分のブログなりホームページなりで自由に行なって下さい。