資本論草稿集を読んでみると、マルクスは、恐慌論にしても再生産論にしても、行きつ戻りつ、いろいろと試行錯誤を繰り返しています。ところが、リカードウ批判に関していえば、『57〜58年草稿』の段階でも、すでにほとんど出来上がっていて、リカードウ理論をすっかり自分のものにして、自分の理論に即して自在に批判しています。
しかし、僕自身がリカードウの『原理』を読んでみても、たとえば第1章から、問題は労働の価値ではなく労働力の価値なんだ、というような結論がどうやったら引き出せるのか、さっぱり見当もつきません。いったいマルクスは、どんなふうにリカードウを読んで、みずからの学説を作り上げたのでしょうか?
ということで、ちょいとつぶやきました。
- @marukenkyu リカードの原理を読んでみても、なぜマルクスがあのようにリカード批判を展開できたのかさっぱり分かりません。マルクスは、どんな風にリカードの原理を読み解いていったのか知りたいものです。 posted at 22:53:07
- @marukenkyu いえ非常に単純な話で、原理の第1章を読んでみても、ここからどうやってマルクスが労働の価値ではなく労働力の価値だという結論を引き出せたのかがわからない、ということです。 posted at 16:40:53
- @marukenkyu マルクスの議論を知っているから、これは有機的構成の違う資本の作る商品の生産価格の問題だとわかるが、そういう予備知識なしにリカードの議論を読んで、これは価値ではなく生産価格に転化した場合の話だと、どうしてマルクスに分かったのか。それが不思議でなのです。 posted at 16:44:32
- @marukenkyu そこのマルクスの読み解き方を知りたいのですが、資本論草稿集に出てくるリカード批判では、マルクスはそういった問題をすでに全部わかっていて、リカードを自家薬籠中の玉にして論じています。そこにはリカード理論をめぐって行きつ戻りつ試行錯誤した印象がありません。 posted at 16:48:07
- @marukenkyu 1851年1月7日付でマルクスがエンゲルスにリカードの地代論批判の手紙を送っていますが、そこにはまだ平均利潤率の話は出てきません。62年8月2日の手紙ではリカード地代論にかかわって平均利潤率と生産価格論を展開しています。時期的には、この間なのですが。 posted at 17:31:56
- 62年6月には、エンゲルスにリカードの地代論は片付いたと手紙を書いている。だからその頃、リカードの地代論(『原理』第2章)と取り組んで、平均利潤率の話から生産価格にたどり着いたのだと思う。その前提は不変資本と可変資本の区別。そこにマルクスがたどり着いたのはいつだろう? posted at 18:28:28
- @marukenkyu これまで研究がないのは材料がなかったからだと思います。MEGAでノートが公表されて、果たしてこれに関連したものがあるのかどうか。手がかりがなく出てくれば、面白いテーマで論文がかけると思います。 posted at 18:32:39
- より長期的には、マルクスの立場からのリカード批判をより内在的なものにして、そうしてみるとスラッファの議論となんか接点が出てこないかと思っているのだが、これはまったく当てずっぽう。 posted at 18:35:09
- @marukenkyu せっかく興味を持ってもらって水を差すようですが、リカードについてのまとまった論述はでてこないと思います。そういうものがあれば「ミル評注」のように紹介されているでしょうから。だから、もう少し状況証拠を固めていくような作業がいるのだろうと思います。 posted at 18:56:09
- いずれにせよ、このテーマで新しい材料を見つけたら論文が書けると思います。アイデアは私のものですが、論文は早い者勝ち。興味のある方はどうぞ挑戦して見てください。 posted at 18:59:12
「マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究」の何号だったかなぁ???「「哲学の貧困」は未成熟な論考か?」というのがあって、それが面白かったのを覚えています。探してみては、いかがでしょう
小生は浅学ながらケネーとマルクスとの関係が意外と重要と考えております。蛇足でしたw
オガちゃん、こんばんは。
『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』ですね。この雑誌は愛媛大の赤間先生のホームページに目次が出ていたはずだから、探して見ます。『哲学の貧困』はプルードンだけでなく、イギリスのリカードウ派社会主義者が取り上げられているので、関連した話が出てくるかもしれませんね。
リカードウとマルクスの関係は、昔から取り上げられてきたテーマですが、従来は、リカードウは労働の価値ではなく労働力の価値だったことが見抜けなかったというかっこうの批判で終わってきたと思うのですが、実際に『原理』を読んでみると、あそこからどうやって労働の価値ではなく労働力の価値なんだという結論を導き出せたのか、それが僕の知りたいところです。マルクスは、いったいどんなふうにリカードウを読んだんだろう? ということです。それを、追跡して見たいなと。
さっそく調べてみます。ありがとうございました。
返信ありがと。GAKUさんなら、ご存知かと思いますが、大月書店の要綱(旧版)―高木 幸二郎訳には1850年のリカードノートがあります。
要綱ノート?53―62原ページのリカードに関するメモも重要かと。
訂正。要綱ノート7冊目
GAKUさんに。言い忘れたのですが、大月草稿集3の200頁に「所有形態。自分の労働を所有することによって、他人の労働の所有が媒介されている。」というメモ書きがあります。これは本来ならば「所有形態。自分の労働生産物を所有することによって、他人の労働力の所有が媒介されている。」とすべきところです。それゆえ、「経済学批判」の段階では、マルクスは労働力と労働の価値を峻別していなかったという定説が生じたのですが、事情はそれほど単純でないように見えます。
僭越ながら僕の仮説をきわめて単純化して言うと、草稿集3のキーワードは「抽象的労働者」(共通項)は「G―Wの反復」ということです。「資本論」の前提は労働者の貯蓄率ゼロですから、一カ月すると労働者は素寒貧になる。ということは、買われた商品を通じて生じた利潤は遊休資本として第二部門gに集積されていく。ゆえに労賃は剰余価値の分け前ではけしてない。そういうロジックだと思います。
リカードの件、頑張ってみて下さい。
蛇足ですが、グラムシのパトロンにピエロ・スラファという人がいますが、リカード全集の編纂者として知られています。スラファの論稿を集めるのも面白いかと。
先の僕の仮説(デマンドサイドからの循環論アプローチ)は、けして僕のオリジナルでなく「商品による商品の生産」有斐閣154ページからインスパイアされたものです^^;
訂正。スラファ→スラッファ
オガちゃん、こんばんは。
ツイートでも、スラッファのことはつぶやいておりますが、僕がリカードウに改めて興味を持ったのは、スラッファの『商品による商品の生産』を読んだからです。もう10年以上前のことです。それから遅々として勉強は進んでおりませんが。
恐慌論でいえば、現在の家電の業績不振をみるとそうだと思いますが、デフレ(過少消費)の下での過剰生産恐慌というのもあると、僕は思っています。
グラムシは「特定の市場」を見ることの重要性を強調していたはず。金融資産市場をふくめて、また、需給の乱れの原因となった資産の確定を含めて、どのように恐慌が拡がっていくのか段階論的にとらえなければいけないでしょうね。