子安宣邦『国家と祭祀 国家神道の現在』

???宣邦『国家と祧??』

本書は、青土社『現代思想』2003年7月号〜2004年4月号に連載されたものをまとめたもの(2004年7月刊)。著者は、大阪大学名誉教授で、元日本思想史学会会長、新井白石、荻生徂徠などの研究者として著名ですが、最近は、近代以降の日本思想に対象を移し、「日本的なるもの」の問題機制を鋭く問いつづけておられます。

さて、本書をつらぬく著者の視角は、次の一文にあると思います。

国家神道とは、ただ過去に尋ねられるべき問いではない。国家神道への問いは、日本という国家の祭祀性・宗教性をめぐってわれわれがなお発し続けねばならない、あるいはまさに現在発せねばならない緊要な問いとしてある。(本書、10?11ページ)

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今村仁司『マルクス入門』

筑摩書房のマルクス・コレクションを読んでいる手前、仕方なく購読。

結論からいうと、あれこれ今村流マルクスを描いていますが、マルクスの全体像が見えてこないだけでなく、今村氏がいまマルクスを通して何を主張したいのかさえよく分かりませんでした。

全体として、『資本論』の話は、一部を除いて、主には価値形態論までで終わっており、たとえば未来社会における個人所有の復活という問題でも、「いったんは私的所有へと変質し頽落した個人所有を、もう一度共同所有と結合する」「個人所有と自由な個人を優位におき……共同所有を劣位におく仕方で、個人と共同体を結合する」など述べるだけで、意味不明というか、個人所有と共同所有の関係が問われている時に、その関係を明らかにしないままに、その周辺をあれこれさまよっているだけです。

とくに最後の2章は、「第4章と第5章は、いささか自説を押し出す試みをしてみた」(あとがき)だけあって、出来が悪いですね。

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歴史研究に向かう姿勢

中世史研究をふり返った『歴史評論』6月号に続いて、『歴史評論』5月号の特集「戦争認識と『21世紀歴史学』の課題」を読み始めました。

特集の目次は以下の通り。

  • 荒井信一「学徒兵の戦争体験と『近代の歪み』」
  • 岡部牧夫「15年戦争史研究の歩みと課題」
  • 大八木賢治「戦後歴史教育における戦争」
  • 滝澤民夫「歴史教育と高校生の戦争意識・戦争認識」

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藤原彰先生の講演「日本のインドネシア占領と独立運動」

懐かしいものを見つけてしまいました。映画「プライド」が公開された時に、「映画の自由と真実を守るネットワーク」の学習会で藤原彰先生がおこなわれた講演記録です。

「日本のインドネシア占領と独立運動」というテーマですが、あの戦争がどういう戦争だったか、非常に分かりやすくお話されています。それにしても、お元気そうな写真…。懐かしいかぎりです。

映画自由ネット:歴史学者:藤原先生 講演録

この講演記録は、不条理日記: 日中関係についての識者の見解をつまみ食い から教えていただきました。御礼申し上げます。m(_’_)m

※講演は、多分、1999年8月3日のものらしい。

集団的自衛権を考える

◆藤田久一著『国連法』(東大出版会、1998年)

51条の集団的自衛権規定は、地域取決とは無縁な、単純ではあるが破壊的な構造をもつものであった。(295ページ)

51条の集団的自衛権の論理構造の解釈として、

  1. 共同防衛
  2. 他国の権利の防衛
  3. 他国にかかわる重要な法益の防衛

の三つのパターンがある(祖川武夫の分類による)。

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日本中世史研究をふり返る

雑記@史華堂: 史学史を学ぶで、『歴史評論』6月号「特集 日本中世史研究の現代史」を知り、さっそく購入しました。特集は以下の論文。

  • 鈴木靖民、保立道久「対談 石母田正の古代・中世史論をめぐって」
  • 池 享「永原慶二 荘園制論と大名領国制論の間」
  • 伊藤喜良「非農業民と南北朝時代――網野善彦氏をめぐって」
  • 木村茂光「戸田芳実氏と在地領主制論」
  • 竹内光浩「河音能平『天神信仰論』のめざしたもの」

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それは近代天皇制か?

昨日付の「東京新聞」夕刊の文化欄「土曜訪問」に、明治学院大学教授の原武史氏のインタビューが掲載されています(「近代天皇制を考える 国民が『知る』ことから議論を」)。

原氏は、明治憲法下の近代天皇制は、現在の日本国憲法の下で「象徴」に変わったことによって「終わったはず」だったにもかかわらず、実は「いまも本質的には変わっていない」という。で、その本質とは何か? 原氏の指摘によれば、「天皇の最大の公務」は、宮中祭祀であり、それは「国民の平安のために祈ること」だという。
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日韓歴史共同研究、最終報告を提出

2002年以来、日韓両政府がすすめてきた「日韓歴史共同研究委員会」は最終報告書を提出。近現代史の分野では、両論併記に終わったとのこと。

報告書は近く公表されるというので、日韓双方が何を主張し、どこが一致しなかったのか、詳細な検証を望みたいですね。

日韓歴史共同研究:植民地支配は両論併記 最終報告書(毎日新聞)

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山家悠紀夫『景気とは何だろうか』

山家悠紀夫『景気とは何だろうか』

ここ最近の日本経済の動きを知りたいと思って、山家悠紀夫さんの新著『景気とは何だろうか』(岩波新書、2月刊)を読んでみました。序章+第1章?第6章+終章の8章立て。前半の第1章?第3章は、「景気とは何か」「景気循環とは何か」「景気はなぜ循環するのか」という、どちらかといえば一般論的な内容。それにたいし、第4章以降の後半は、1997年以降の日本の景気の動き方が、実は少し変わってきたのではないか、というお話になっています。

後半では、1997年はほんとは景気上昇期だったのに、いわゆる橋本内閣の9兆円国民負担増(消費税の3%→5%への引き上げ、医療費の本人負担1割→2割など)という政策によって意図せざる景気後退が引き起こされた、と指摘。そのため、次の小渕内閣では、財政再建が棚上げされ、公共事業拡大、政策減税(こんど打ち切られた定率減税もこのときのもの)などがおこなわれ、1999年、2000年と短い景気拡張を迎えたが、2002年にアメリカの景気後退と小泉内閣の「構造改革」政策によって激しく落ち込んだこと。その後、輸出に導かれてゆっくりと回復に向かったこと(というより、日本の景気が輸出の伸びに左右されるようになったこと)などが明らかにされています。
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永原慶二『下克上の時代』(中公版「日本の歴史」第10巻)

下克上の時代

永原慶二先生の『下克上の時代』(中公版「日本の歴史」第10巻)を久しぶりに読みました。親本は1965年刊で、僕自身は、多分(←記憶あいまい)大学に入ってすぐの頃に旧文庫版で読んだと思います。この度、新しく版を起こして、文庫で再刊されました。

その後、永原先生は、いわゆる一般向け通史としては、1975年に小学館版「日本の歴史」第14巻『戦国の動乱』を、1988年に同じく小学館の「大系 日本の歴史」第6巻『内乱と民衆の世紀』を執筆されています。前者は、その後、大幅に加筆・修正し、『戦国時代 16世紀、日本はどう変わったのか』と改題の上、2000年に小学館ライブラリーに上下2冊で収められました。後者は、90年代に「大系 日本歴史」全体が同じく小学館ライブラリーのシリーズとして再刊。どちらも現在入手可能です。

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筑摩版『資本論』続き

その後も、筑摩版『資本論』をたらたらと読んでいます。また、いろいろ疑問な箇所を見つけました。

上246ページ終わりから2行目「資本家のサナギ」
原語はKapitalistenraupe。Raupeは辞書をひく限り、「幼虫、いも虫、毛虫」でサナギの意味はありません。サナギはPuppe。
上251ページ終わりから5行目「社会的生産の古い諸形態」
これはFormationenだから「諸構成体」の間違い。Formと勘違いしたんでしょうか?
俗流経済学と通俗経済学
鈴木直氏の担当部分は、すべて「俗流経済学」になっていますが、今村仁司氏・三島憲一氏が翻訳を担当した部分は、なぜか「通俗経済学」と訳されています。どっちでもいいんですが、訳の統一ができてません。(^^;)
Stoffwechsel
「物質代謝」というような意味の単語ですが、これも訳の不統一です。鈴木氏担当部分は全部「新陳代謝」という訳になっているのですが、今村氏の担当部分では「素材のやりとり」(上67ページ3行目)、「物質変換」(上130ページ注38の4行目、6行目)となっています。なお、三島氏担当部分には、この言葉は出てこないみたいです。

それから、前に書き込んだときに指摘した強調(ゴチック)がいっぱい出てくる件ですが…
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『現代思想』マルクス特集号

いまさらとは思うが、『現代思想』2004年4月臨時増刊「総特集 マルクス」を読み始めました。筑摩の「マルクス・コレクション」といい、マルクスが出版ジャーナリズムでいろいろ取沙汰されるのはよいのですが、問題はその中身です。

全部は読み終わっていませんが、これまで読んだところで、いろいろ感想を。
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筑摩版『資本論』

筑摩書房から新しく出た『資本論 第1巻』を読み始めました。

とりあえずぱらぱら読み始めた印象では、細かい訳注などがいっさいない(簡単なものは割り注で入っているが)ので、意外と読みやすいというのが一番。あと、強調(ゴチック)がたくさんあるのも特徴です。後者は、邦訳「マルクス・エンゲルス全集」などの底本となっているDietz社のWerke版ではいっさい省略されているものを、同じDietz社の普及版(1953年)を参考に復活させたとのこと。従来の邦訳資本論にはなかったもので、結構たくさん出てきます。

ところで、これまで読んだところで、誤訳(もしくは誤植)と思われるのは――

(1)上巻68ページ13行目、および、同72ページ8行目の「人間労働の支出」のところは、独文はArbeitskraftなので、「人間労働力の支出」と訳されるべき部分です。同じ68ページの15?16行目では、「人間の労働」と「人間の労働力」がきちんと訳し分けられているので、たんなるミスか、それとも誤植なんでしょうか。しかし、2カ所もというのはちょっと解せません。

(2)上巻171ページ、注73の3行目と4行目の「資本制生産様式」。原文はProduktionsprozesses(「生産過程」)なので、ここも訳が違っています。そのあとに出てくる「生産様式」はProduktionsweiseなので、正しい翻訳になっています。

こなれた日本語にするために、いろいろ努力されていますが、上記2点は誤訳もしくは誤植と言わざるをえません。

ジョン・ベラミー・フォスター『マルクスのエコロジー』

マルクスのエコャ??ー表紙

ジョン・ベラミー・フォスター氏は、『独占資本主義の理論』(鶴田満彦監訳、広樹社、1988年)などの著書で知られるアメリカの経済学者。現在はオレゴン大学教授(社会学)。

で、この本は、最初は「マルクスとエコロジー」という題名で書かれる予定だったが、執筆の過程で「マルクスのエコロジー」に変わったという。著者によれば、マルクスに対するエコロジーの側からの批判は、次のような6点にかかわっている。

  1. マルクスのエコロジーにかんする記述は「啓発的な余談」であって、マルクスの著作本体とは体系的に関連づけられていない。
  2. マルクスのエコロジーにかんする洞察は、もっぱら初期の「疎外」論から生まれたもので、後期の著作にはエコロジーにかんする洞察は見られない。
  3. マルクスは、結局、自然の搾取という問題へのとりくみに失敗し、それを価値論に取り込むことを怠った。
  4. マルクスは、科学の発展と社会変革がエコロジー的限界の問題を解決し、未来社会ではエコロジー的問題は考える必要がないと考えた。
  5. マルクスは、科学の問題やテクノロジーの環境への影響に関心を持たなかった。
  6. マルクスは、人間中心主義である。

著者は、こうした見方が、マルクスが批判した相手の議論であって、マルクスのものではないことを明らかにしていくのだが、その詳細は省略せざるを得ない。

面白いのは、こうした問題とかかわって、著者が、自分のマルクス主義理解を問題にしていること。「私のエコロジー的唯物論への道は、長年学んできたマルクス主義によって遮られていた」(まえがき)と書いて、次のように指摘している。

私の哲学的基礎はヘーゲルと、ポジティヴィズム〔実証主義〕的マルクス主義に対するヘーゲル主義的マルクス主義者の反乱に置かれていた。それは1920年代にルカーチ、コルシュ、グラムシによって始められ、フランクフルト学派、ニュー・レフトへとひきつがれたものであった。……そこで強調されたのは、マルクスの実践概念に根ざした実践的唯物論であり、……このような理論の中には、自然や、自然・物質科学の問題へのマルクス主義的アプローチが入り込む余地はないように思われたのである。……私が自分の一部としたルカーチやグラムシの理論的遺産は、弁証法的方法を自然界に適用することの可能性を否定した。それは基本的に領域全体をポジティヴィズムの手に譲り渡すことになると考えたのである。……私の唯物論は、完全に実践的な、政治経済学的なものであり、哲学的にはヘーゲルの観念論とフォイエルバッハによるその唯物論的転倒から知識を得たものだったが、哲学と科学内部における唯物論のより長い歴史については無知だった。(本書、9?10ページ)

著者はまた、「唯物論を実践的なものにする際に、マルクスは自然の唯物論的把握への、つまり存在論的および認識論的カテゴリーとしての唯物論への一般的な関わりをけっして放棄しなかったということである」とも指摘している(同、23ページ)。
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戸田山和久『科学哲学の冒険』

科妥??妣??冒険表紙

科学哲学というと、論理実証主義とか構成主義とか、あまりロクでもない観念論的議論が多くて、鬱陶しいだけと思っていたのですが、この本は、科学的実在論の立場に立ち、「それでも科学は実在を捉えている」というのが結論。また、筆者の戸田山氏は、前著『論文の教室』(NHKブックス)が意外に良くて(けっこう文章は乱暴でしたが)、論理の筋道の展開の仕方が分かりやすく、僕の感覚に近いところがあると思っていました。それで、とりあえず買ってきました。

開いてみると、これも会話形式で書かれていて、科学哲学専攻のセンセイ、それに理系のリカコさんと文系・哲学好きのテツオくんというベタな名前の学生が登場。センセイの研究室で、お菓子を食べながら、哲学談義をするという趣向になってます。で、テツオくんが、論理実証主義や反実在論など、いかにも文科系の哲学オタクがはまりそうな議論を持ち出すのにたいし、リカコさんが、科学(この場合は自然科学)をやってる人間として、そんな議論は間違ってると反論し、その2人に引きずられて、センセイが科学哲学とは何か、実在と科学との関係をどう考えるかを述べるというふうになっています。
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学習会の感想

過日、若者相手に「『科学の目』と古典学習」をテーマに喋ったものの感想文をどっさりといただきました。準備不足で、レジュメの「一」の(一)だけで1時間もかかってしまうというとんでもない講義だったのに、「よかった」「学習の意義が分かった」「古典を読んでみようと思った」などなどの感想をいただき、うれしいやら申し訳ないやらです。

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韓国ドラマ「バリでの出来事」に出てきたグラムシ

以前、韓国ドラマにグラムシ「獄中ノート」が…で、韓国ドラマ「バリでの出来事」のなかに、グラムシ ((アントニオ・グラムシ(1891?1937) イタリアの政治家・思想家。1921年、イタリア共産党の結成に参加、24年、国会議員に当選。ファシスト党によって、26年11月に逮捕され、南イタリアのトゥーリ監獄に収監される。しかし獄中でもイタリア社会の分析や変革の展望などについて思索をめぐらし、30冊近いノートを執筆(これがいわゆる「獄中ノート」)。その後病気となり33年に病院に移されるが、さらに悪化。37年12月、病気釈放直後に死去。))の「獄中ノート」が登場したけど、「それを見つけた女性に対し、男性は『寝る前に読むとよく眠れる』というだけなのですが」と書きましたが、どうやら、そうではなかったようです。

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細谷千博『シベリア出兵の史的研究』

シベリア出兵の史的研究

今週出張したときに、行き帰りの電車の中で、細谷千博『シベリア出兵の史的研究』を読みました。
細谷千博氏は、わが母校の名誉教授。僕が学生のころはまだ現役で授業されてました。本書の親本は1955年刊、今回、岩波現代文庫に収録されました。

昔読んだときはもっと難しく、中身があるように思っていたのですが、今回読み返してみて、意外にあっさりと読み終えることができたのにちょっと驚きました。
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