(2002年4月)
『世界がもし100人の村だったら』という本が百万部以上も売れて、話題になっています。電子メールで流れている話がもとになっているということも関心を呼んでいるようです。
私も、さっそく読んでみました。「世界には63億人の人がいますが、もしそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう」という書き出しで、たとえば女性が52人で男性が48人だとか、30人が子どもで70人が大人、そのうち7人がお年寄り、70人が有色人種で30人が白人というように、わかりやすく紹介されています。
そのなかに、こんな話も紹介されています。
「20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」
「すべての富のうち6人が59%をもっていて、みんなアメリカ合衆国の人です。74人が39%を、20人が、たった2%を分けあっています」
この本は、本文といえる部分はわずか十数ページという短いものです。それでも、そのなかで、世界の貧富の格差、貧困の問題にしっかりと目をむけている。私はそのことがとても印象的に思いました。
各国の経済の大きさをはかるのに、国民総生産(GNP)というものがあります。1999年の日本のGNPは、4兆545億ドルでした。同じ年、世界全体では29兆9950億ドル。日本はその14%近くをしめています。アメリカは、世界全体の30%近い8兆8795億ドルでした。ヨーロッパも、EU15カ国で8兆4343億ドル、ほぼアメリカに匹敵します。
これにたいして、アフリカは、53カ国(ただし3カ国は不明)で4982億ドルしかありません。日本の8分の1、世界全体の1・6%です。アフリカの人口は世界の約13%。文字どおり“20人で、たった2%を分けあう”世界です。
現実の世界は63億もの人がいて、190あまりの国があって、私たちの普段の生活からはちょっとイメージしにくいところがあります。でも、この本のように説明されると、世界がかかえている矛盾がずっと身近なものに感じられるのではないでしょうか。私たちも、この本を出発点にして、現代の世界と日本について考えてみることにしたいと思います。
『世界がもし……』では大切な問題として、世界の貧富の格差、貧困の問題がとりあげられています。今回は、それをもう少し詳しくみたいと思います。
前回GNPの話を紹介しました。これを人口1人あたりでくらべるとどうでしょうか。日本は3万2030ドルで、世界第2位です。これにしたいして、アフリカは、いちばん高い国(セイシェル)でも6500ドル。最低はエチオピアとコンゴ民主共和国の100ドルで、半数以上の28カ国が400ドル以下です。
1日1ドル(約130円)未満で暮らす人の数は、1987年から1998年までのあいだに、サハラ以南のアフリカで2億1720万人から2億8900万人に増えました。南アジアでも、同じ時期に4億7440万人から5億2200万人に増加しています。
しかも、『世界がもし……』ではふれられていませんが、こうした貧しい国と豊かな国との経済格差が、縮まるどころかますます拡大していることを見逃すわけにはいきません。
世界でもっとも貧しい国ともっとも豊かな国、20カ国ずつを比較してみると、その経済格差(人口1人あたり国内総生産の比率)は、1960年の18倍から1995年の37倍に拡大しています。
“豊かな国はますます豊かに、貧しい国はますます貧しく”というのが、世界の現実の姿なのです。
マルクスは、『資本論』のなかで、資本主義はより大量の剰余価値の獲得――分かりやすく言えば、「利潤第一主義」を最大の原理としていることを明らかにしました。そのため、経済の発展も、社会全体を豊かにするどころか、逆に生産者の犠牲のうえにすすめられていきます。そこから、資本主義のさまざまな矛盾が生まれてくるのですが、その最たるものとして、マルクスは、「一方の極における富の蓄積は、その対極における……貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積」(『資本論』)をもたらすと指摘しました。
日本でも、長引く不況のもとで貧富の格差の拡大がクローズアップされていますが、世界に目をむけてみれば、貧困の蓄積というマルクスの指摘は、まさにそのまま現実となっています。
『世界がもし……』では、こんな話も紹介されています。
「もしもあなたが空爆や襲撃や地雷による殺戮や武装集団のレイプや拉致におびえていなければ、そうではない20人より恵まれています」
宗教、民族、その他さまざまな理由によるテロや地域紛争の問題は深刻です。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、1999年末現在で、世界中の難民は約1170万人、そのほか国内避難民などをふくめると2230万人にのぼります(『世界難民白書』)。
他方、紛争は、周辺地域に経済的損失をもたらし、それがまた難民をうみだす原因にもなっています。表は、紛争によって発展途上国の農業がこうむった損失を国連食糧農業機関が推計したものです。それによれば、1970年から1997年までの損失は、1200億ドル以上、平均すると毎年43億ドルにもなります。これは3億3000万人の栄養不足者の食料摂取量を最低水準にまでひきあげることを可能にするものだとされています。
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どんな理由があるにせよ、宗教や民族のちがいを理由にした虐殺や無差別なテロが許されないことはいうまでもありません。
国際社会は、二度の世界大戦などの経験から、「いっそう大きな自由のなかで社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること」、およびそのために「国際の平和および安全を維持するために」(国連憲章前文)力を合わせるしくみとルールを築いてきました。
1948年には、ジェノサイド条約が採択され、人種、民族、宗教その他の集団の殺害などが国際法違反の犯罪であることが明確にされました。1996年には、改定を重ねた「人類の平和と安全にたいする犯罪の法典案」が作成され、その到達点をおりこんで、1998年には国際刑事裁判所規定が採択されました。そして、ユーゴ内戦時の“民族浄化”やルワンダでの虐殺にかんする国際刑事裁判が、いますすめられています。
「全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」(前文)ことを認め、戦争と武力行使の放棄をうたった憲法をもつ国として、日本には、こうした分野でもっと積極的に世界に働きかけていくことが求められています。
世界のなかで、アジアはどれくらいの割合を占めていると思いますか?
『世界がもし……』では、こんなふうに書かれています。
「61人がアジア人です。13人がアフリカ人、13人が南北アメリカ人、12人がヨーロッパ人。あとは南太平洋地域の人です」
マスコミを流れるニュースや日本政府の外交をみていると圧倒的にアメリカ中心で気づかないかもしれませんが、アジアの比重というのは、実は大きかったことがわかります。
GDP(国内総生産)でみると、日本をのぞいたアジア諸国全体で、世界の約10%(1998年)。アメリカ(26%)や日本(17%)よりも少ないのが現状です。しかし、経済的つながりからいえば、日本にとってのアジアは、けっして世界の10%ではありません。
日本の貿易にしめる割合でみると、国別では、もちろんアメリカが1位で、輸出の3割、輸入の2割を占めています。しかし、アジア全体では、日本の輸出の43%、輸入の55%にもなります。経済の結びつきでは、アメリカ以上に大きいことがわかります。
そのアジア地域で、1999年末には6762社の日系企業が活動していて、37兆3696億円の売上げで5845億円の利益をあげています。そして、そこに働く従業員は180万人を超えています(経済通産省「海外事業活動基本調査」)。
日本企業の海外進出は、他方で、国内の産業空洞化や雇用喪失をもたらしています。現地企業からの逆輸入だけでも四兆八千七百二十億円、日本の輸入総額の一五%近くになります。
こうした企業進出は、きちんとしたかたちでおこなわれれば、発展途上国の経済発展に役立つ可能性をもっています。逆に、過去に実際に事件を引き起こしたように、日本の環境基準などからの規制逃れに利用したり、安い労働力を食い物にしたりするだけなら、アジア諸国に否定的な結果をもたらすことになります。 日本共産党は、多国籍企業の横暴にたいする民主的規制や、アメリカ主導の「グローバル化」にたいして新しい民主的な国際経済秩序の実現を求めています。アジア諸国と日本の将来にとっても、それは重要な課題になっています。
『世界がもし……』では直接ふれていませんが、いま世界の問題を考えるときに、忘れてはならない問題について、最後に考えてみたいと思います。それは地球温暖化の問題です。
図は、二酸化炭素の国別の排出量の割合をしめしています。
一目見て、アメリカが一国で世界の4分の1近くを占め、非常に大きいことに気がつきます。アメリカの人口は世界の5%弱なので、1人あたりでは、世界平均の5倍以上も排出している計算になります。
地球温暖化を防止するためには、この二酸化炭素の排出量を抑えることが必要だといわれています。その場合、アメリカやヨーロッパ、日本など、いわゆる先進国が率先してとりくむ必要があることは明らかでしょう。
1997年に、そのための国際的な取り決めがまとめられました。日本が議長国となって、京都で開かれた国際会議の場でまとめられたので、「京都議定書」とよばれています。京都議定書は、2008〜12年を目標に、先進国全体で二酸化炭素やその他の温暖化ガスの放出量を1990年の量から5%削減することを確認し、そのためにヨーロッパの多くの国は8%、アメリカ7%、日本6%など、拘束力のある削減目標を定めました。
ところが、この京都議定書の実現が危ぶまれています。それは、最大の排出国であるアメリカが、ブッシュ政権になって脱退を表明したからです。ブッシュ大統領はその理由を、アメリカの国益に反すると明言しています。つまり、アメリカ企業の拡大にとって妨げになるというのです。
企業の利益のために、その力にものをいわせて、長年の議論と努力をふまえてようやくまとめられた国際的な取り決めを踏みにじる。ここにも、自分たちの利益のためなら、その結果がどうなってもかまわない――マルクスが“わが亡き後に洪水よ、来たれ”と表現した資本主義の「利潤第一主義」があらわれていると思います。
『世界がもし100人の村だったら』には、最後にこう書かれています。
「もしもたくさんのわたし・たちがこの村を愛することを知ったなら、まだ間にあいます。人びとを引き裂いている非道な力からこの村を救えます。きっと」
最後のこの部分は、インターネットに流れていた元の話にはなくて、本にまとめるときに、池田香代子さんとダグラス・ラミスさんとの作業のなかから生まれてきたのだそうです。
もし、この本が「このメールを読めたなら、あなたは幸せです」という話で終わっていたら、どうだったでしょうか? 私は、これほど話題にはなったり、共感を呼んだりしなかったにちがいないと思いました。
深刻な問題がたくさんあって、簡単に答えはみつからないかも知れませんが、それでも、きっと解決できるにちがいない。そういうメッセージが伝わってきます。そして、私の連載が、問題をいっしょに考える一つのきっかけになればと思っています。
(おわり)