(1996年4月)
目次
『諸君』一九九六年四月号に、東京大学教育学部の藤岡信勝教授が「自由主義史観とはなにか」という一文を書いている。藤岡氏は、これまでに雑誌『社会科教育』に「『近現代史』の授業をどう改造するか」を連載(一九九四年四月〜九六年二月まで二十三回、第十三回からは「『近現代史』の授業改革」)し、自ら提唱する「自由主義史観」にもとづく明治以後の日本歴史の「授業改革」を唱えてきた。
これまでの歴史教育を、「暗黒=自虐史観」(『諸君』論文)とか「自国の歴史に対する誇りを欠き、未来を展望する知恵と勇気を与えるものではありませんでした」(氏が編集長をつとめる『「近現代史」の授業改革』の創刊の辞)とかといって全否定する氏の議論には、すでに歴史学や教育学の分野から批判が出されている。ところが、『諸君』論文では、戦後の民主的な歴史教育、平和教育への非難にとどまらず、「暗黒=自虐史観」の「根源」には日本共産党の戦前の綱領的文書があるとして、日本共産党の理論と運動の役割をねじまげて、見過ごすことのできない攻撃をおこなうにいたった。
そこで本稿では、この藤岡氏の党攻撃に反論するとともに、氏のいう「自由主義史観」がどんなものであるかを検討したい。
(注)本稿では、『諸君』四月号論文からの引用はとくに注記しない。『社会科教育』連載論文は連載(1)というように連載回数を記す。なお、同連載は最近、『近現代史教育の改革――善玉・悪玉史観を超えて』(明治図書)として刊行された。同書からの引用が必要な場合は、単行本何ページと表記する。
藤岡氏は、次のように書いて、戦後の歴史教育を「暗黒=自虐史観」だと非難する。
「明治維新によっても農民は少しも楽にならなかった、資本主義が発達すると労働者は激しく搾取され、労働運動・社会運動は厳しく弾圧された、といったストーリーが延々と続く『暗黒史観』。明治のはじめから日本は一路大陸侵略に乗り出し、近隣諸国を踏み荒した末に、戦争で国民は悲惨な目にあったとして、日本国家を専ら悪逆非道に描き出す『自虐史観』。これらが重ね合わされた『暗黒=自虐史観』こそ、すべての学校段階に共通する日本の歴史教科書の基調である」
そして、こうした「暗黒=自虐史観」の背景には、「日本国家にたいする一貫した悪意」が存在するといい、その「悪意」の「源流」をさかのぼると「戦前の日本共産党の綱領的文書に行きつく」という。
日本共産党の戦前の綱領的文書というと、党創立直後の綱領草案(一九二三年)、一九二七年の「日本問題にかんする決議」(いわゆる「二七年テーゼ」)および一九三二年の「日本の情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」(「三二年テーゼ」)のことである。これらの文書は、共通して、日本の国家権力が遅れた半封建的性格をもつことを重視し、民主主義革命の実現を当面する課題とし、そのために天皇制の廃止・打倒をかかげた。
ところが藤岡氏は、これらの文書が、「天皇制を打倒すべき敵」としてとらえたことをもって、歴史教科書の「悪意」の「起源」ときめつけている。そして、それは、「社会主義ソ連の世界支配のための道具」であったコミンテルン(共産主義インタナショナル)が「日本国家の打倒」をもくろんで日本共産党に押しつけたもので、「天皇制絶対主義」論や、まずは民主主義革命をめざすという綱領的展望は「『天皇制打倒』の方針を合理化するための一種の修飾」にすぎないと断じる。そうした「明治維新およびそれ以後の戦前の日本国家のとらえ方」は、「コミンテルンの方針に由来」した日本の現実に根拠を持たない歴史の見方、すなわち「コミンテルン史観」だというのである。
しかし、戦前、天皇が絶対的権力をもって国民を支配していたことは、否定しようのない歴史の事実である。それは、国民を事実上無権利状態においた戦前の支配の実態が雄弁に物語っているが、明治憲法の条文からも明瞭に指摘できることである。「コミンテルン史観」などと呼ぶことで否定することは不可能である。
明治憲法は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」(第三条)するとして、天皇主権を規定したうえ、天皇は「神聖ニシテ侵スベカラズ」(第四条)として、国民の批判を認めなかった。議会は一応設けられたが、天皇は、国務大臣をはじめとする官吏の任免や宣戦・講和・条約締結の権限をにぎり、陸海軍の統帥には政府や議会の関与を許さなかった。しかも、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(第五条)とあるように、議会は天皇の立法権に「協賛」する存在で、真の立法権をもたなかった。また内閣は、天皇によって任命され、天皇にたいして責任を負うだけで、議会にたいしてはなんら責任を負わなかった。
他方、国民は天皇の家来である「臣民」とされ、その権利は「法律ノ範囲内」に限られていた。実際には、さまざまな弾圧法令が国民の権利を厳しく制限し、治安警察法(一九〇〇年)は、労働組合や農民組織をつくり、ストライキや集会、デモ行進をおこなうこと自体を犯罪として処罰した。
日本共産党が誕生した当時の日本は、世界の資本主義諸国のなかで「六大列強」の一つに数えられるほどの独占資本主義国となっていながら、農村には遅れた寄生的な地主制度が残り、先に指摘したように、絶対的な権力をもった天皇制国家機構が国民を支配していた。日本共産党の戦前の綱領的文書は、こうした当時の日本社会の特質を明らかにし、その分析のうえに、資本主義国だからといってただちに社会主義革命をめざすのではなく、天皇制の専制支配と侵略戦争に反対して、男女普通選挙権にもとづく民主主義日本の実現こそが社会進歩の当面する課題であることを明らかにした。ここに、戦前の党の綱領的文書の最大の意義がある。とくに「三二年テーゼ」は、日本の支配制度を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の三つの要素の結合として特徴づけ、天皇制について、地主階級と独占資本の利益を代表しながら、同時に、その独自の相対的に大きな役割とえせ立憲的形態で軽く粉飾された絶対的性格を保持していること、この天皇制こそが「国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓の主要支柱」であり、階級支配の「強固な背骨」であることを指摘し、その粉砕に日本の革命運動の第一の任務があることを明らかにしたところに重要な意義をもった。
これらの文書に示された将来社会への科学的な展望は、日本共産党が戦前の激しい弾圧にたいして不屈のたたかいをつらぬくうえで決定的な支えとなったことはいうまでもない。そして、第二次世界大戦後、天皇の絶対的権力が否定され、憲法に国民主権と平和、民主主義の諸原則が明記されたことで、日本共産党のかかげた方向にこそ日本社会のすすむべき道があったことがみごとに証明されたのである。日本共産党の綱領的文書は、「暗黒=自虐史観」の「源流」であるどころか、日本の社会進歩の方向を明らかにした羅針盤として、日本戦前史に重要な地位をしめているのである。
藤岡氏は、絶対主義的天皇制論がコミンテルンから押しつけられた歴史観であることを論拠づけようとして、「二七年テーゼ」や「三二年テーゼ」以前には、日本のマルクス主義者は明治維新を「ブルジョア革命」とみなしていたと主張し、その一例として戦前の党指導部の一人であった野呂栄太郎をあげ、野呂の論文「日本資本主義発達史」(単行本『日本資本主義発達史』第一編として収録)の一節を引用する。
「明治維新は、明らかに政治革命であるとともに、また広範にして徹底せる社会革命であった。それは、決して一般に理解せられるがごとく、単なる王政復古ではなくして、資本家と資本家的地主とを支配者たる地位につかしむるための強力的社会変革であった」(『野呂栄太郎全集』上、五七ページ、新日本出版社、一九九四年)
ここから、藤岡氏は、「これによれば、要するに明治維新は基本的にフランス革命などと同じ部類の近代市民革命・ブルジョア革命の性格をもった変革だったということになろう。野呂に限らず、当時のマルクス主義者はいずれも明治維新をブルジョア革命とみなしていた」と結論づけている。しかしこれは、野呂の論文の一節をつまみ食いして、自分に都合よく勝手な解釈をしたものといわざるをえない。野呂は、右の引用につづけて次のように書いている。
「明治維新が、反動的なる公家と、同様に本質的には封建的意識を脱却し得ない武家との意識的協力によって遂行せられたということは、後述すべき他のもう一つの理由と相まって、わが政治的組織が永く今日にいたるまで反動的専制的絶対的性質を揚棄し得ない所以である」(同前、五八ページ)
このように野呂は、明治維新の特質の分析をつうじて、眼前の国家権力の「反動的専制的絶対的性質」の本質にせまろうとしていた。資本主義への道を強行的にきりひらいたからといって、明治維新を、「人権宣言」を生んだフランス革命と同様の近代市民革命とみなすような図式的な解釈を、野呂がとらなかったことは明白であろう。
この論文は、労働者の疑問にこたえようと、野呂が大学の卒業論文のために準備した材料をもとに独自に研究し、一九二六年から二七年にかけて執筆し、新潮社『社会問題講座』に発表したものである。のちに、同論文を『日本資本主義発達史』(一九三〇年)に収録するさい、野呂は、「その後コミンテルン執行委員会の『日本に関するテーゼ』〔「二七年テーゼ」のこと〕を読むにいたって、私の分析が、その一般的見通しにおいてはコミンテルンのそれと一致し、個々の点においても重大な(戦略上の対立を生むような)誤謬を犯していないことを知り得た」と記している。このことからも、戦前の党の綱領的展望が、決してコミンテルンから一方的に押しつけられたものでなく、野呂の研究など、日本の社会科学の自主的な到達点とも合致するものであったことが分かる。
藤岡氏はさらに、日本共産党の誕生それ自体を「ソ連の破壊活動」とみなして、次のようにいっている。
「日本社会に天皇制打倒を第一の方針に掲げる政治勢力が生まれたことは、日本国家にとっては大きな危機を意味した。……日本は、ソ連の破壊工作に対する『冷戦』を戦わなければならなくなったのである」、「日本は戦前、日本共産党が創立された時点からすでに、社会主義ソ連との冷戦を戦っていた」
それにつづけて、「もし、この冷戦において日本共産党の目標が達成されていれば、日本の対外主権はソ連の支配下におかれたであろう」とか、坂本多加雄氏の論をひくかたちで「日本にも収容所群島が出現したであろう」などと書き、「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」だったとして、治安維持法とそれによる弾圧を全面的に肯定するのである。
しかし、“日本共産党の目標が達成されていればソ連のようになった”などというのは、わが党のたたかいを根本からねじ曲げた言いがかりである。戦前、日本共産党が目標としたのは、国民が主人公となる平和で民主的な日本の実現であった。その方向に、日本社会の民主的な発展の道筋があったことは、すでに指摘したとおりである。コミンテルンは、世界の革命運動が未熟な時期にその発展を援助したり、第二次世界大戦での反ファッショ統一戦線の結成の方向づけによって、日独伊枢軸勢力の世界制覇の野望をうちくだくことに貢献するなどの積極面をもっていたが、同時に、レーニン死後はスターリンによる覇権主義的干渉の道具となって深刻な誤りを生んだ。そうしたもとで、社会ファシズム論の誤りなど、日本共産党もコミンテルンの誤りの影響をまぬかれなかったが、全体としては、絶対主義的天皇制の専制支配の打倒という民主的変革の目標をかかげて、日本国民に根ざした社会の合法則的発展のために不滅の役割をはたしたということができる。戦後、わが党が第七回党大会で自主独立の立場を確立し、その後ソ連の党の干渉、破壊活動と断固たたかいぬくことができたのも、こうした戦前いらいの伝統があったからに他ならない。
また、戦前史を冷静に見るならば、日本の「対外主権」をして無謀な侵略戦争につきすすませ、アジア諸国と日本国民に多大な被害をもたらすとともに、国内では治安維持法にもとづく弾圧で「収容所群島」を出現させたのが、戦前の天皇制国家の側であったことは、誰も否定できない事実である。治安維持法による弾圧は、共産党員だけでなく自由主義者や宗教家など多数におよび、送検者だけでも逮捕者をふくめれば数十万人にのぼる人々が犠牲になった。その事実にてらしてみても、“日本共産党の目標が達成されていればソ連のようになっていた”という主張がいかに歴史を偽るものであるかは明白である。
日本国憲法は、「人類普遍の原理」に反する「一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」(前文)ことを宣言したが、治安維持法は、それを待つまでもなく、連合国によって国民の思想、集会、言論の自由を犯す悪法として廃止させられた。その治安維持法を、今ごろになって、「ソ連との冷戦」「ソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」との理由づけで美化するというのは、歴史を五十年以上後戻りさせるものといわざるをえない。それは、戦後日本の“原点”ともいうべき、侵略戦争への真摯な反省と民主主義の擁護、基本的人権の尊重という立場から離反した藤岡氏の時代錯誤の反動的立場を象徴するものといえよう。
藤岡氏はまた、日本の起こした侵略戦争の歴史と責任を明らかにしてきた戦後の民主的な歴史研究、歴史教育を「東京裁判史観」と決めつけ、「コミンテルン史観」とともに「暗黒=自虐史観」のもう一つの「原型」だと主張している。
東京裁判とは、一九四六年五月に始まった極東国際軍事裁判のことで、戦争犯罪人の処罰を規定したポツダム宣言にもとづいて、アメリカ、イギリス、中華民国など十一カ国が原告となって、通例の戦争犯罪だけでなく、国際法に違反して侵略戦争を計画・準備・開始・実行した「平和にたいする罪」から東条英機ら二十五名を有罪とした。東京裁判は、アメリカの思惑から昭和天皇の戦争責任を追及しないなどさまざまな弱点をふくんではいるが、戦争そのものを違法行為とする世界的な流れのなかで侵略戦争の指導者を裁いたものとして大きな意義をもった。
ところが藤岡氏は、東京裁判は「日本国家の徹底した破壊」と「日本国民の精神的武装解除」をねらったアメリカの「プロパガンダ」(宣伝)だったとして切り捨ててしまう。そして、次のように主張する。同様のことは、他の論文でもくり返し指摘されており、ここに「自由主義史観」の基本的特徴づけがあるとみなすことができる。
「日本だけが悪かったという『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったという『大東亜戦争肯定史観』もともに一面的である。両者は国家に善玉と悪玉を想定し、その絡み合いで歴史を見ようとする点で、実は同じ観点に立っている。どちらがどれだけ責任があるかはあくまで戦争の経過に即して、実証的に究明されなければならない。その究明に先だち、結論をア・プリオリに決めてはならない」
しかし、まず第一に指摘しなければならないことは、日本のおこなった戦争が侵略戦争であったかどうかという問題は、これから「戦争の経過に即して、実証的に究明」しなければ分からないといった複雑で難しい解明途上の問題ではないということである。そのことは、中国東北部から中国本土、インドシナ、タイ、マレーシア、インドネシア、ビルマなどの東南アジアにとどまらずオーストラリア、ニュージーランド、さらにインドまでを日本の「生存圏」とした当時の政府の決定などを見ても明白である(注)。そして、戦後の歴史研究は、日本の支配層の資料だけでなく、国内外のさまざまな記録や被害を掘り起こし、科学的、実証的な研究を積み重ねて、日本の侵略戦争の実態をより豊かな内容をもって明らかにしてきた。そこでは、「国家に善玉と悪玉を想定し、その絡み合いで歴史をみよう」というような「善玉・悪玉史観」が入り込む余地はない。むしろ、藤岡氏の側こそ、「善玉・悪玉史観」とか「東京裁判史観」などというレッテルを貼ることによって、これまでの歴史研究の蓄積を切り捨てて、自分に都合のよい「歴史」を描き出しているといわざるをえない。
(注)「皇国の大東亜新秩序建設のための生存権について」(外務省編『日本外交年表竝主要文書』下、四五〇ページ)。これは、一九四〇年九月に、四相(首相、外相、陸相、海相)会談、ついで大本営政府連絡会議で決定された「日独伊枢軸強化に関する件」の一部をなしたもの。また、一九四三年五月に大本営政府連絡会議(御前会議)で決定された「大東亜政略指導大綱」では、ビルマやフィリピンには形だけの「独立」をあたえるとしながら、マレーシア、インドネシアなどはそうした形だけの「独立」も認めず、「帝国領土」として「当分軍政を継続す」ことを決めている(同前、五八三〜五八四ページ)。
しかし他方で、藤岡氏は、「大東亜戦争肯定史観」とも異なるとのべ、「大東亜戦争肯定史観」と「自由主義史観」の「分水嶺」は「対外関係における日本国家の非を認めるかどうかの違いである」とも書いている。これは、どういう意味であろうか。それを確かめるために、氏がどういう意味で「日本国家の非を認める」といっているのかを明らかにしておかなければならない。氏は、連載論文のなかで次のように説明している。
「西欧列強がアジアに『侵略』したという用法と同じ意味で、日本もまたアジアに『侵略』したといわざるをえない。その『侵略性』の度合いにおいて、日本は西欧列強と比べればはるかに小さなものであったかも知れないとしても、である」(連載(13))
要するに、“日本もアジアを「侵略」したが、西欧列強もアジアを「侵略」したではないか。侵略性の「度合い」はむしろ日本の方が小さい”という主張である。これは、日本の「植民地支配」と「侵略的行為」を「世界の近代史上」のさまざまな事例の一つとして、“どっちもどっち”論を唱えた自民・社会・さきがけ与党三党の「戦後五十年国会決議」と同じか、あるいはもっと日本の責任を小さくしようとするものである。こうした議論が、第二次世界大戦の侵略国家である日本の責任をあいまいにするものとして、大きな国際的な批判を招いたことはいうまでもない。
このように、「日本国家の非を認める」という氏の立場は、けっして日本の侵略戦争の歴史と責任を認めたものではなく、むしろ日本の「侵略性」を否定したものである。それは、侵略戦争の実態を解明してきた戦後の歴史研究を「東京裁判史観」「暗黒=自虐史観」と否定したところから必然的に生まれた結論だといえる。
連載論文では、藤岡氏は、南京大虐殺(一九三七年)の犠牲者の「数の問題」に固執しつつ、「東京裁判史観」批判を展開している。南京大虐殺の実態は、これまで多くの研究者によって掘り起こされてきたが、藤岡氏は、二十万人とも三十万人ともいわれるその犠牲者の数を「根拠の乏しいもの」と決めつけ、教科書での南京大虐殺をとりあげ方に「日本は大陸で犯罪を犯したのだから被害者の言い分はすべて真実として受け入れるべきだ、という卑屈な見方」が「集約的に表現されている」と論じている。そのさい、藤岡氏はさまざまな「反証」を持ち出しているが、特徴的なことは、藤岡氏の議論が、田中正明氏や板倉由明氏、冨士信夫氏など、これまで南京大虐殺そのものを否定してきた名うての論者からの引用で組み立てられていることである。これらの論者の持ち出す「論点」は、これまでにも歴史研究者によって詳細な批判がくわえられ、すでに論破され、破綻したものであるが、そうした歴史研究者の批判を検討した様子は、藤岡氏の論文からはうかがうことができない(注)。南京大虐殺は、日本軍の中国侵略という歴史の“大逆流”のなかで生じた残虐な事件であるが、そうした大きな位置づけから切り離して犠牲者の「数の問題」だけを論じるやり方自体、日本の中国侵略という歴史の前にはまったく無力である。
(注)南京大虐殺を否定する論者の持ち出す「反証」について、たとえば南京大虐殺の調査を早くからすすめてきた洞富雄氏の『決定版・南京大虐殺』(徳間書店、一九八二年)や『南京大虐殺の証明』(朝日新聞社、一九八六年)などが詳細な資料の検討と反論をおこなっている。二十万人という犠牲者の数も、そうした検討のうえに出されたものである。南京大虐殺をめぐる論争や研究状況は、笠原十九司氏が「南京大虐殺と歴史研究」(同著『アジアの中の日本軍』大月書店、一九九四年)のなかで簡潔にまとめている。
むしろ、そうした議論のなかで藤岡氏が展開している考え方こそ問題である。「兵士が民間人を殺すのは『虐殺』とよべるが、兵士が敵を殺すのは普通の戦闘行為であって『虐殺』とはよべない」(連載18)とか、「軍隊が敵国の首都を占領した際に非行を働くことは古今東西における一般的な事実である」(連載20)などといって、氏は「大」虐殺であったことを否定するばかりか、殺りく行為そのものを合理化さえしている。しかし、日本軍の南京侵攻にさいしておきたことは、非戦闘員の無差別な虐殺や大規模な略奪、放火、女性への暴行などであった。また、捕虜になった中国兵だけでなく、「便衣兵」(武器をすて民間人の衣服に着替えた兵士のこと。日本軍は不正規兵とみなし、徹底的な掃蕩をおこなった)と疑われた多数の成年男性が日本軍によって連行され、殺害された。これらの行為が、戦時国際法に反する戦争犯罪であったことは紛れもない事実である。それを合法的な戦闘行為であるかのようにいつわる氏の言説は、“戦争で敵兵を殺すのは当たり前”“占領時の多少の非行は当然だ”といって日本軍の行動を当然視するものであり、日本の侵略戦争という根本問題を否定する議論に他ならない。
「日本国家の非を認める」といいながら、藤岡氏は、このような口実をもちだして、日本の「侵略性」を一方的に切り縮めるのである。氏は、自国の歴史を書く場合、「自国に対しても他国に対しても史実に忠実なフェアな態度を堅持」(連載(5))しなければならないとするが、史実に反して日本の「侵略性」を切り縮めてしまう氏のやり方こそ、「フェアな態度」とは外れた暴論であることを指摘しておきたい。
藤岡氏は、「コミンテルン史観」や「東京裁判史観」が明治期から敗戦までの日本を「暗黒」一色に描くのにたいし、「戦前の日本が行った戦争についてまさに性格の異なる二つの段階に分けるべきだ」(連載(4))と主張する。そして、明治期の日清・日露戦争は侵略戦争ではなく、「ロシアの脅威」という「極東の戦略環境に強制された日本が戦わざるを得なかった自衛戦争」だという論を展開している。日清・日露戦争、とくに日露戦争が「自衛戦争」だというのは、「自由主義史観」にもとづく「授業改革」のカナメのような問題で、『「近現代史」の授業改革』第二号の特集テーマともなっている。
しかし、日清戦争(一八九四〜九五年)および日露戦争(一九〇四〜〇五年)を、日本の自衛戦争だとするのは、歴史を無視した議論である。日清戦争も日露戦争も、日本が、朝鮮(韓国)の支配権を、旧宗主国の清やロシアとあらそった戦争である。とくに日露戦争の場合、表向き「朝鮮の独立」をかかげた日清戦争の場合とちがって、その目的が韓国の保護国化にあったことは、戦後の講和条約からも明らか(注)で、ロシアの側からだけでなく、日本の側からみても帝国主義的な領土獲得戦争であったことは歴然としている。
(注) 日露講和条約の第二条で日本は、ロシアにたいして、「日本国ガ韓国ニ於テ事実上、軍事上及経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ日本帝国政府ガ韓国ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙シ又ハ之ニ干渉セザルコト」を約束させた。
藤岡氏は、「明治のはじめから日本は一路大陸侵略に乗り出し、近隣諸国を踏み荒した」というのは「自虐史観」だと非難している。しかし、日本と朝鮮との歴史をふりかえるならば、日本が明治のはじめから侵略にのりだしたことは、争いようのない事実である。日本は、明治維新からわずか七年後の一八七五(明治八)年に、江華島事件を口実に武力を背景に朝鮮政府に「開国」をせまり、朝鮮への侵略を開始した。その後、日清・日露戦争という二つの戦争と、その過程で朝鮮に強要された「日韓議定書」(一九〇四年)や「第二次日韓協約」(一九〇五年)で、朝鮮の内政への支配や外交権の剥奪を実現し、韓国・朝鮮の属国化をすすめた。その結末が、一九一〇年の日韓併合条約による完全な植民地化であった。その過程では、朝鮮側から攻撃されたという口実で朝鮮王宮を占拠(一八九四年七月、注)するとか、朝鮮王妃(閔妃)を反日運動の中心人物とみなして殺害(一八九五年十月)するなど、謀略的な手段までつかって強引に侵略政策をすすめた。
藤岡氏は、日露戦争後「日本は戦略的な選択の誤りを犯した。朝鮮半島に対する対応は別の選択肢がなかったかどうか、十分な検討の余地がある」と書いているが、これは、日露戦争は「自衛戦争」だとする氏の立場からしても、日露戦争から韓国併合にいたる歴史の「誤り」は否定しがたいことを示している。
(注) 従来この事件は、たまたま王宮近くをとおりかかった日本軍に、王宮守衛の朝鮮兵が発砲したため、日本軍はやむをえず応戦し王宮に入ったとされていた。しかし、実際は日本軍側の周到な準備のもとにすすめられた事件であったことが、最近、見つかった日本側史料(参謀本部『日清戦史』草案)によって明らかにされた。中塚明「日清戦争から百年、敗戦から五十年――新たに見つかった参謀本部『日清戦史』草案から考える」(『前衛』一九九四年九月号)参照。
ところで、藤岡氏が日露戦争を「自衛戦争」と考えるようになったきっかけは、作家・司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』を読んだことだいう。『坂の上の雲』を読んで、「日露戦争期の国家指導者の良質の部分が、いかに渾身の力をふりしぼってこの民族的危機を防いだか、その事蹟に接して、私は彼ら〔山県有朋や伊藤博文〕をならずものの一味のようにイメージしていたことを誠にはずかしく、申し訳ないことであったと感じた」(連載7)というのである。
小説を読んでどういう感想をもつかは自由であるが、それを理由に「日露戦争は自衛戦争だ」と結論づけるというのは、歴史研究の学問的な手続きを無視した暴論である。藤岡氏は、「満州と朝鮮は陸続きであり、満州にロシアの勢力が根を下ろせば、いずれ朝鮮半島をも手中におさめる。そうなれば、島国日本は自国を有効に防衛する手段がない」という「情勢認識」は「常識であったらしい」と書いているが、朝鮮を一方的に「自国を有効に防衛する手段」にしてしまう発想そのものが、帝国主義的な勢力圏思想であり、侵略主義のあらわれである。そうした「情勢認識」や発想を資料に即して再検討するところに歴史研究の意義があるのであって、それをおこなわないで、帝国主義的な「情勢認識」を「常識だった」としてすませ、そこから「日露戦争は自衛戦争だった」と結論を下すようなやり方は、歴史学とも歴史教育とも相いれない議論といわざるをえない。
以上、藤岡氏のいう「自由主義史観」がどんなものであるかを検討したが、それは、一言でいえば、侵略戦争への真摯な反省という戦後史の原点からの「自由」をかかげたものに他ならない。平和憲法の立場をうけて、教育基本法は、戦後教育の目的が「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」(前文)にあることを明らかにしているが、「自由主義史観」は、まさにこの戦後教育の原点からも「自由」になり、それを否定する「自由」を求める「史観」であるといってよいだろう。
ところで、かつて民主的な教育運動にもかかわったことのある藤岡氏が、なぜこのような立場に落ち込んだのであろうか。そこにはさまざまな要因が考えられるが、決定的な契機となったのは、ソ連崩壊などを利用した「社会主義崩壊」論への屈服である。
藤岡氏は、次のようにくり返しのべている。
「一九九二年末のソ連邦の解体は、二十世紀の人類の夢の一つであった社会主義が、決して人間に幸せをもたらす制度でないことを疑問の余地なく示しました。社会主義体制の消滅は、米ソ冷戦構造の日本国内への反映であった思想対立をも無意味なものとしました。思想界におけるマルクス主義の影響力は決定的に凋落しました」(藤岡「近現代史教育をいかに見直すか」『週刊教育資料』一九九五年十月九日号)「ソ連の社会主義が崩壊した今、潔癖な知識人の高邁な理想主義よりも、薄汚い株屋の金儲けを許容する自由主義の方が結局国民の幸せをもたらすものであることが、幾多の犠牲を伴って証明されてしまった。マルクス主義は歴史の検証に耐えられなかった」(連載(3))
「社会主義体制の崩壊によってマルクス主義の評価に最終的な結着がついた今、自由主義の時代が日本歴史上はじめて『到来』した」(連載(12))
このようにいって、藤岡氏は、ソ連の崩壊を科学的社会主義の破綻に結びつけ、「自由主義史観」にもとづく歴史の「見直し」の理由としている。
しかし、旧ソ連社会は、スターリンが「レーニン時代の探求の結論である過渡期の軌道をくつがえし、社会主義は無縁な社会への転落の道をつきすすんだ」結果、「社会の実態として社会主義社会に到達しえないまま、崩壊」(日本共産党第二十回大会決定)をむかえたものであった。わが党は、そのことを、旧ソ連社会の実態をしめす新たな資料の分析をおこないつつ、明らかにしたが、そのことは、ソ連の崩壊をもって科学的社会主義の破綻などといえないことを、決定的に明らかにした。わが党とは見解を異にする人々のあいだでも、崩壊したソ連社会とは何だったのかを真摯に探求する学問的努力が始まっている。少なくともそうしたまともな研究の努力をおこなうこともなく、ソ連解体から「社会主義崩壊」を即断するようなやり方は学問的とはいえないであろう。
まして、住専問題など日本の「ルールなき資本主義」が国民的な争点になっているときに、「薄汚い金儲けを許容する自由主義」の方が「国民の幸せ」をもたらすというのは、国民に悪政に甘んじることを強要する「社会主義崩壊・階級対立消滅」論の最悪の見本というべきものである。
藤岡氏の転落のもう一つの契機となったのは、湾岸戦争を機に自民党などがもちだした「一国平和主義」論への屈服であった。連載論文の冒頭で、氏は次のように書いている。
「私が『近現代史』教育の欠陥を今のような形で強く意識するようになったのは、一九九〇〜九一年の湾岸戦争以来のことだ。湾岸戦争はそれ以前の私自身のものの見方・考え方を根底からゆるがす衝撃的な事件であった」、「それは何よりも私を含む日本人の『一国平和主義』の信仰の枠組を決定的に破壊することで、日本の『近現代史』への見方をも変えさせる効果をもたらした」(連載(1))
藤岡氏は、湾岸戦争で問われたのは「イラクによるクウェート侵略・併合を追認するのか、それとも武力によってでもイラクの無法を排除し国際秩序を守るか」の二者択一だとし、そこからアメリカの軍事力行使を全面的に容認する立場につきすすんだ。しかしながら、アメリカの武力行使への反対は、即「イラクの侵略行為を肯定すること」(単行本十二ページ)というのは、当時の国際社会の動きを歪曲したものといわざるをえない。
当時、国際社会は、イラクの侵略を断固認めない態度を一致して表明し、経済制裁などの手段による事態の解決をはかる努力をすすめていた。ところがアメリカが、自らの世界戦略の思惑から、平和的解決の努力をつくさないままにイラクへの武力行使に突入したのである。そのさい、アメリカの「多国籍軍」に自衛隊を参加させようとしてもちだされたのが「一国平和主義」論であった。
日本国憲法の立場は、世界平和のために国際社会に積極的にはたらきかけるが、あくまで平和的手段に徹して貢献するというものである。ところが、自民党などは、それを“日本だけが平和であればよい”とする態度であるかのように歪曲し、自衛隊派兵を強行しようとしたのであった。藤岡氏は、この「一国平和主義」論の攻撃に屈服し、そこから逆に、憲法の平和原則を擁護する側に「無責任」「知性も理性も欠如」(単行本十二ページ)など悪罵をなげつける立場に転落したのである。
藤岡氏は、このように「一国平和主義」論と「社会主義崩壊」論という二つのイデオロギー攻撃に屈服し、戦後の民主的な教育運動や歴史研究、さらには日本共産党攻撃をもっぱらにする立場に自ら転落した。
同時にそれは、藤岡氏の学問的な「荒廃」へとつづく道でもあった。たとえば、日露戦争に関連してすでに指摘したように、氏は司馬遼太郎氏の小説を読んだことから一足飛びに「日露戦争は自衛戦争だった」という結論にいたっている。そのさい、関連する資料を具体的に検討するという学問的な手続きはとられていない。また、戦後の歴史研究をひとまとめにして「善玉・悪玉史観」とするのも、まったく非学問的な決めつけである。
そもそも、学問にとって、事実にもとづいて、それを具体的に分析し、いかに客観的な真実を明らかするかということ以外に基準はない。それは、科学的社会主義の見地でもある。マルクスやエンゲルスは、歴史や社会を分析するさいに、何か特別な「型紙」にもとづいて現実を都合よく裁断するようなやり方を厳しくしりぞけてきた。ところが、藤岡氏は、従来の歴史研究に「東京裁判史観」「コミンテルン史観」などのレッテルを張って、その豊かな学問研究の内容を切り捨てる一方で、「自由主義史観」なる新たな「型紙」をかかげて、それにあう「事実」やさまざまな論者の主張をひろいあつめることに血道をあげている。しかし、そうした氏の議論が学問的な検討にたえるものでないことは、もはや明らかであろう。
これらは、侵略戦争への反省という戦後の“出発点”を否定し、社会進歩に敵対する立場に転落した藤岡氏が必然的に行き着いた末路をしめすものである。
(終わり)