1860年代いらい、ドイツには社会主義運動の2つの組織が存在していました。1つは、1869年に結成されたドイツ社会民主労働者党で、結成大会のひらかれた都市の名前からアイゼナッハ派と呼ばれます。ベーベル(1840〜1913年)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(1826〜1900年)らを指導者とするアイゼナッハ派は、国際労働者協会(第1インタナショナル)に加盟し、いろいろな弱点ももっていましたが、全体としてマルクス、エンゲルスの立場にもっとも近い潮流でした。
もう1つの潮流は、ラサール(1825〜64年)が1863年に創立した全ドイツ労働者協会で、ラサール派と呼ばれました。この潮流は、資本家が支払う賃金の元本は不変であり、労働者の受けとる賃金はやっと生活できる最低限の水準に釘づけされるとして、賃上げ闘争無用論をとなえる「賃金鉄則」論や、社会的再生産を無視した「労働収益」論など、非科学的で独断的な議論を労働運動にもちこむとともに、国家補助によって労働者の協同組合をつくることを目標として、反動的なビスマルク政権に接近しました。マルクス、エンゲルスは手紙のやりとりをしたり、『経済学批判』(1859年)刊行のさいは出版社の紹介を依頼するなど、ラサールと親交を結んでいましたが、その誤った政治的理論的立場や運動路線にはつねに厳しい態度でのぞんでいました。
1875年、この両派がドイツの都市ゴータで合同大会をひらき、ドイツ社会主義労働者党(のちにドイツ社会民主党と改称)が結成されました。このとき、合同のために準備された綱領草案(ゴータ綱領草案)には、ラサール派に譲歩しすぎて理論的にも政治的にも重大な後退がふくまれていたため、マルクスはアイゼナッハ派の幹部あてに批判の手紙を送りました(→「ゴータ綱領批判」)。
アメリカ大陸のイギリス領の諸植民地は、1775年、イギリスの支配からの独立をめざして戦争を開始しました。そして、翌1776年7月、大陸会議において独立の理由をあきらかにした「独立宣言」を採択しました。そこでは、「すべての人は平等につくられている」ことを明らかにして、政府の権力は「被治者の同意に由来する」と人民主権の原理を明確にうたいました。さらに、人民主権の内容として、政府が人民の権利を踏みにじるような場合は、それを「改廃」し「新たな政府を組織する」ことは人民の「権利であり、また義務である」と、人民の抵抗権、革命権を明記しました。
約百年後、1864年にリンカーンが大統領に再選されたとき、マルクスは、国際労働者協会(第1インタナショナル)中央評議会が送った祝辞を執筆し、アメリカのことを「まだ1世紀もたたぬ昔に1つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言が発せられ、18世紀のヨーロッパの革命に最初の衝撃があたえられたほかならぬその土地」と呼んで、民主主義発祥の地として特徴づけました。
1861〜65年に、アメリカ合衆国の南北両地域のあいだで、南部の奴隷制を認めるかどうかをめぐってたたかわれた戦争。奴隷をつかった大規模な綿花栽培を中心とする南部11州が、奴隷制反対をかかげたリンカーンの大統領当選(1860年)をきっかけに、連邦から脱退してアメリカ南部連合を結成し、翌年、南軍の攻撃で内戦になりました。1863年、リンカーンが「奴隷解放」宣言を発し、戦争は、1865年、北部側の勝利に終わりました。
南北戦争がまだつづいていた1864年11月に、リンカーンが大統領に再選されると、国際労働者協会(第1インタナショナル)中央評議会は、マルクスの起草による祝辞を送りました。そのなかでマルクスは、奴隷制反対の戦争へのヨーロッパ労働者の連帯を表明し、「アメリカ独立戦争が、中間階級(ブルジョアジーのこと)の権力を伸張する新しい時代をひらいたように、アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸張する新しい時代をひらくであろう」とのべました。またマルクスは、社会変革をめざす歴史的発展の過程で、労働者階級が合法的な道で権力についたとき、旧支配勢力がこれに強力をもって反抗するようなことがおきれば、合法的権力にたいする「反逆」としてあつかわれるとし、その例としてアメリカ南北戦争をあげました(「社会主義者取締法にかんする帝国議会討論の概要」)。
宗教、道徳、哲学その他、さまざまな社会的意識や観念のこと。マルクスは、『経済学批判』(1859年)の「序言」で、生産関係の総体が社会の土台をなし、その上に法律的・政治的上部構造が立ち、「社会的意識の諸形態」がこの土台に対応すると指摘しました(→史的唯物論)。この「社会的意識の諸形態」がイデオロギーにあたります。
イデオロギーということばは、18世紀のフランスの哲学者デステユット・ド・トラシー(1754〜1836年)が、みずからの説を「イデオロジー(観念学)」と呼んだことに始まります。ところが、ナポレオンが、彼らを軽蔑して「イデオローグ」(イデオロギーをとなえる人)と呼んだところから、イデオロギーということばは“空論”とか“非現実的な観念体系”といった意味で使われるようになりました。
マルクス、エンゲルスが観念論的議論の枠を出ようとしないへーゲル左派を「ドイツ・イデオロギー」(1845〜46年執筆)とよんで批判したのも、そうした伝統にそったものでした。そのなかで2人は、イデオロギーにおいて人間の現実的な諸関係が逆立ちしてあらわれると指摘しています。またエンゲルスは、『反デューリング論』(1878年)で、現実から出発して原理を導き出すのではなくて、あべこべに事物の概念・観念から出発して現実を導き出そうとするデューリングのやり方を「イデオロギー的方法」と批判しました。
その後、イデオロギーということばは、広く社会的意識一般をさすものとして使われるようになり、レーニンは、科学的社会主義にもとづいた階級意識についても「社会主義的イデオロギー」(『なにをなすべきか』1902年)という表現を用いました。
1820〜1895年。ドイツのライン州バルメン市(現在のヴッパータール市)の紡績工場主の息子として生まれ、1841年、兵役中にベルリンでヘーゲル哲学を学び、ヘーゲル左派として反動的哲学批判の論陣をはりました。1842年、イギリスのマンチェスターにある父親の商会につとめ、イギリスの労働者階級の実態やチャーティスト運動に接し、プロレタリアートこそが「現存社会におけるそれ自身の地位によって社会主義の実現に関心を持つ唯一の社会的な力」(『イギリスにおける労働者階級の状態』1845年)であることを知り、共産主義の立場にすすみました。1844年、ドイツへの帰国の途中、マルクスと会い、科学的社会主義の世界観で一致し共同した活動を開始しました。
1848〜49年の革命では、ドイツに帰国してマルクスとともに活動。革命の敗北後、イギリスに渡り、1850年から20年間にわたってマンチェスターの父親の商会でふたたび働き、マルクスの経済学研究と生活を物心両面にわたって支えました。1870年、ロンドンに戻り、国際労働者協会(第1インタナショナル)の活動に参加するとともに、マルクスと協力して、ドイツの党の内部に生じた誤った理論的傾向を批判するために『住宅間題』(1872〜73年)や『反デューリング論』(1878年)などを執筆。後者の3つの章をまとめた『空想から科学へ』(1880年)は「科学的社会主義の入門書」として広く読まれました。
マルクスの死後は、残された草稿をもとに『資本論』第2部、第3部を刊行するとともに、『家族、私有財産および国家の起源』(1884年)や『フォイエルバッハ論』(1888年)を執筆。さらに、1889年には第2インタナショナルの創設に努力しました。
1771〜1858年。イギリスの社会運動家、空想的社会主義の代表者。資本主義のもっとも発達していたイギリスで、「階級的差別を廃止するための彼の提案を、フランス唯物論と直接むすびつけて、体系的に展開」(『空想から科学へ』)しました。
ウェールズ地方の商人の家に生まれたオウエンは、18OO年、スコットランドのニュー・ラナークの大紡績工場の経営者になると、人道的な立場から、当時1日13〜14時間が当たり前だった労働時間を1日10時間半にするなど、労働者の労働条件、生活環境の改善に努力して、経営上も成功をおさめました。
しかし、彼はそれに満足せず、共産主義的集落の建設を計画し、1825年に、アメリカ・インディアナ州に2万工ーカー(約8100ヘクタール)の土地を買って、共産主義村「ニュー・ハーモニー」を建設しました。しかし計画は失敗し、1828年には撤退しイギリスに帰国。その後も協同組合運動などにとりくみました。
オウエンは、階級闘争の役割を理解できず、資本家にも呼びかけて理想社会の実現をめざすなど空想的な立場にとどまっていました。しかし、「イギリスで労働者の利益のためにおこなわれたすべての社会運動、すべてのほんとうの進歩は、オウエンの名前と結びついている」(同前)といわれるように、工場法の実現(1819年)、労働組合の全国組織の結成(1832年)などに大きな役割をはたしました。
経済生活のなかでの地位、とくに生産手段にたいする関係を基準として区別される人間集団のこと。レーニンは、階級について、(1)歴史的に規定された社会的な生産体制のなかで占める地位、(2)生産手段にたいする関係(その大部分は、法律によって確認され、成文化されている)、(3)社会的労働組織のなかでの役割、(4)したがって、彼らが自由にできる社会的富の分け前の受け取り方と大きさが、他の人びととちがうことをあげ、「階級とは一定の社会経済制度のなかで占めるその地位がちがうことによって、そのうちの一方が他方の労働を我がものとすることができるような、人間の集団を言う」と説明したことがあります(「偉大な創意」1919年)。
人間は、客観的にみてある階級に属しているからといって、自動的にそれにふさわしい意識をもつわけではありません。しかし、人びとの意識からその存在を規定するのではなく、人びとの「社会的存在が彼らの意識を規定する」ととらえるところに、科学的社会主義の階級論の基本があります。
科学的社会主義というのは、空想的社会主義に対応することばで、資本主義の矛盾と害悪を告発、批判し、それにかわる理想的な未来社会を描き出した空想的社会主義をうけつぎながら、マルクス、エンゲルスがそれを科学の基礎のうえにすえなおしたものです。
科学的社会主義ということばをはじめてつかったのはエンゲルスです。エンゲルスは、1860年代に『資本論』について「新しい社会主義的な科学」(「『エルバーフェルト新聞』に掲載された『資本論』第1巻書評」)、「社会主義がはじめて科学的に叙述された」(「力ール・マルクス」)とくりかえし指摘。1870年代になると、さらに1歩すすめて、自分たちがドイツで発展させた理論と運動を「ドイツの科学的社会主義」(「住宅問題」1872〜73年)と呼びました。これが、科学的社会主義という呼称が登場した最初だと考えられます。
マルクスは、フランスでエンゲルスの著作『空想から科学へ』(1880年)が発刊されるとき、「まえがき」を書き、そのなかでエンゲルスが1844年に書いた論文のなかに「すでに科学的社会主義の若干の一般原則が定式化されている」と指摘するとともに、この著作を「科学的社会主義の入門書」と特徴づけました。
日本共産党は、マルクスなどの言説を絶対化し「金科玉条」にしないという立場を呼称のうえでも明確にするために、1976年の第13回臨時党大会で、党の文献上では「科学的社会主義」の呼称をもちいることを決めました。
マルクスの死後、彼の遺稿を整理していたエンゲルスは、アメリカの人類学者ルイス・モーガン『古代社会』(1877年)についての詳細なノートを発見しました。モーガンは、北アメリカのインディアンの社会生活と社会組織の研究によって、人類の原始社会の内部組織を明らかにし、人類の前史を大局的に復元する道をひらいていました。マルクスのノートからその重要性を知ったエンゲルスは、自分でも『古代社会』を研究して、「ある程度まで」マルクスの「遺言」の執行として本書を執筆しました。初版は、社会主義者取締法が施行されていた1884年に発行され、同法の廃止を受けあて、第4版(1891年)で大幅な増補、改定がくわえられました。
本書は、こんにちの階級社会、なかでも家族や私有財産、国家などが歴史をこえた永久不変の存在ではなく、人間社会の発展のなかでかたちづくられたものであることを、人類史の展開そのものに即して証明しました。すなわち原始社会で、人びとは血縁にもとにづく氏族制度のもとで暮らしており、国家の存在やその必要も、私有財産による貧富の対立も、男女の差別もなかったこと、そのような原始共産制社会が人類史の始まりの時期に、長期にわたって存在したことが明らかになりました。
またエンゲルスは、原始共産制の社会では、親子の関係は女性の系統によってたどられ、女性の社会的地位は高かったこと、それが階級社会へとかわったときに、家族関係も男性中心に変わり、女性が差別される存在になったことを跡づけて、これを「女性の世界史的敗北」と呼びました。
そのほか、同書では、民主共和制こそが「プロレタリアートとブルジョアジーとのあいだの最後の決戦」がたたかわれる「最高の国家形態」であることや、国家は階級への社会の分裂の必然的な産物であり、将来、「生産者たちの自由で平等な結合社会を基礎として新たに生産を組織する社会」すなわち共産主義社会の実現とともに、国家も死滅することを解明しています。
さまざまな商品がたがいに等しいものとして交換されるのは、交換される2つの商品に共通の何かあるもの、それぞれの商品とは異なる別の何かある共通のものがふくまれているからにほかなりません。この共通のものが価値です。価値は交換価値の内実であり、価値の大きさの等しい商品どうしが交換されます。
価値は、商品の使用価値とは異なるものです。なぜならば、使用価値は商品によって異なっており、2つの商品が別の使用価値をもっているからこそ人びとはそれを交換するからです。それゆえに商品から、それぞれの使用価値にかかわる性質をとり去ると、商品に残るものは、どの商品も人間の労働の生産物であるという性質だけです。この場合、労働といっても、使用価値に結実する労働の具体的なすがた・かたちは問題にならず、価値は人間労働一般、抽象的人間的労働の結実したものです。
価値の大きさは、この抽象的人間的労働の量によって決まります。それは、その商品を生産するのに必要な社会的な労働時間(社会的必要労働)によってはかられます。
商品生産社会では、人間の労働がほんらいもっている社会的な結びつき、その労働が社会的分業の一部をなしているという性質は、直接目に見えるかたちではあらわれず、市場での物と物との関係としてあらわれるしかありません。このように、物と物、商品と商品の関係というかたちをとってあらわれた人と人との社会的関係が価値の本質です。
商品の生産と交換が始まった当初は物々交換がおこなわれていましたが、商品生産が広がるにつれて、それでは手狭で商品の交換は困難となります。この困難をのりこえるために、すべての商品の価値を統一的に表現する役目をもった特別な商品が選ばれます。それはやがて、少量でたくさんの価値をあらわすことができる、腐食しにくい、小さな量に分割したり再び1つにあわせたりしやすいといった性質から、金などの貴金属に固着するようになります。これが貨幣です。
マルクスは、『資本論』で、貨幣が商品交換の必然的な産物であることを明らかにし、貨幣を廃止することによって資本主義の矛盾をなくそうとしたプルードン派などの社会主義理論の誤りを批判しました。
貨幣が登場すると、物々交換では同一のことであった商品の売り(販売)と買い(購買)とが、時間的にも空間的にも別々におこなわれるようになります。これによって、個々の商品の販売はより容易になりますが、その代わり、社会全体として需要と供給とがつり合う保障が失われることになります。マルクスは、ここに、「恐慌の可能性」が生まれることを解明しました。
カルテルもトラストも、大企業どうしが結びついて独占を形成するやり方です。
カルテルは、ドイツを中心に発達したもので、同じ部門の企業どうしが、独立性を残したまま、生産、販売、原料の割り当て、賃金などにかんする協定を結ぶやり方のこと。もう一歩すすんで、加盟企業が製品を自分自身で売らず、共同販売機構で一括販売するようにしたものをシンジケートといいます。ドイツのライン・ヴェストファーレン石炭シンジケートは、設立当初(1893年)、この地方の石炭の全生産の86・7%を支配しました。
トラストは、アメリカを中心に発展したやり方で、加盟する諸企業が合同して、その産業全体を支配するだけの規模と力を持った単一の巨大企業をつくります。世界で最初のトラストは、1879年に成立したアメリカのスタンダード石油トラストで、約40の石油会社を結合し、設立当時、アメリカの全精油能力の90〜95%を支配しました。
カルテルもトラストも、結合の度合いの強弱にちがいはあっても、同じ産業部門の大生産者たちの「生産の規制を目的とする結合体」であり、「生産されるべき総量を定め、それを相互のあいだに分配し、またあらかじめ決定した販売価格を強制する」(『空想から科学へ』)というはたらきは共通しています。エンゲルスは、トラストなどの形成は「資本主義的生産関係の内部で可能なかぎりで、ますます生産力を社会的生産力として扱うように資本家階級自身に強要」したものであり、「生産力の資本という性質を廃棄するものではない」が、資本関係を「極端にまでおしすすめ」、矛盾をより深刻にするとともに、社会主義的変革による矛盾の根本的解決のための「形式上の手段」「手がかり」をあたえるものだと指摘しました(同前)。
レーニンが、ロシアの出版社の求めに応じて百科辞典の項目の1つとして、1914年に執筆した論文。マルクスの略伝につづけて、「マルクスの学説」(哲学的唯物論、弁証法、唯物史観〔→史的唯物論〕、階級闘争)、「マルクスの経済学説」(価値、剰余価値)、「社会主義」、「プロレタリアート〔→労働者階級〕の階級闘争の戦術」、「文献」の章からなり、マルクスとその学説の全体を簡潔に、かつ体系的に説明した文献として広く親しまれています。
レーニンは、原稿を書くにあたって、辞典としての性格にふさわしく、重要な命題はできるかぎりマルクスのことばを引用して、マルクス自身のことばによって説明することに努力しました。また、1年ほど前におこなったマルクス、エンゲルスの往復書簡の研究の成果を生かしたり、この論文の哲学の項目を執筆するために、あらためてヘーゲル哲学を研究するなど、新しい成果をもりこんでいます。
論文は、1915年に出版された『グラナート百科辞典』第7版第28巻に掲載されましたが、当時の出版事情から、「社会主義」と「プロレタリアートの階級闘争の戦術」の2章は削除せざるをえませんでした。原稿にもとづく全文が発表されたのはレーニン死後、1925年のことです。
1724〜1804年。東プロイセンのケーニヒスベルク(現在ははロシア領カリーニングラード)に生まれ、生涯をその地で過ごした哲学者。理性を重視する大陸の合理主義の立場から出発しながら、1760年代にイギリスの経験論(ヒューム)の影響を受け、両者を批判的に総合して、ドイツ古典哲学の出発点となりました。主著は、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判」(1788年)、『判断力批判』(1790年)など。
初期には、『天体の一般自然史と理論』(1755年)で、太陽とそのまわりを回る惑星が星雲のようなガスの固まりから進化したとする説を提唱。この説は、その後、数学者のラプラスが力学法則にしたがって展開したことから、「カント・ラプラスの星雲説」と呼ばれます。この「星雲説」の提起は、それまで、自然には歴史はなく、永遠の循環運動をくり返しているだけだと考えられていたのにたいし、自然にも歴史的な発展があるということをはじめて明らかにし、弁証法的な自然観の確立に重要な役割をはたしました。
その後、『純粋理性批判』で、カントは、時間と空間は、生まれつき(アプリオリ)にあたえられている人間の認識の枠組(直観形式)であり、人間の認識は、こうしたアプリオリな枠組にしたがって、認識する人間の主観が対象を構成するものだと主張しました。そして、ものごとのさまざまな現象は認識できるが、現象の背後にある客観的な実在そのものは認識できないという不可知論の立場をとり、そうした認識不可能な客観的実在を「物自体」と名づけました。
晩年には、『恒久平和のために』(1795年)を著し、恒久平和の理想の実現のために、平和的な国家連合の結成を提唱しました。
人間の意識や観念、精神を世界の本源的なものとみなし、自然や物質といった私たちがそのなかで生きている客観的な世界を、意識や観念、精神から生じた派生的なものとみる哲学上の立場で、唯物論と根本的に対立する世界観。観念論は、本源としての精神、意識をどのようにとらえるかにしたがって、さらに主観的観念論と客観的観念論に区別されます。
発達した機械は、全体の原動力となる原動機、原動機の動力を作業に伝える伝動機構、労働対象をとらえ、目的に応じてそれを加工・変化させる作業機(または道具機)という3つの部分からなりたっています。このうち作業機こそが、機械のもっとも本質的な部分です。
作業機の部分には、古い装置や道具が再現されていますが、それら道具は人間の手から1つの機構に移され、もはや人間の道具ではなく、1つの機構の道具となっています。その点に道具と機械との決定的なちがいがあります。
機械は労働生産性をいちじるしく高め、それゆえ、ほんらいは労働時間の短縮、労働の軽減に役立つものです。しかし、資本主義のもとでは、機械は、剰余価値の増大のための手段とされます。マルクスは、『資本論』で機械の導入が労働者におよぼす直接的な影響として、従来の成人男性の労働に女性・児童労働がとってかわり、それによって賃金が引き下げられること、機械に合わせて労働時間が延長され、労働の強化がすすむことなどをあげています。
ものごとの仕組みや働きを、機械のように固定した部分・要素の力学的・機械的な構造・運動によって説明しようとした17〜18世紀の唯物論のこと。
世界を固定・不変の究極的要素(「アトム」とよばれた原子のようなもの)からなるとする考え方は、古代ギリシャの哲学者デモクリトス(前460〜390年頃)の原子論にもみられますが、17、18世紀に、自然科学のうちでまずはじめに力学がある程度の完成をみせ、植物や動物などについても、機械のように固定した部分・要素から成り立つもの、純粋に機械的な原因から生じるものとして説明されるようになりました。こうした自然観にもとづいて成立したのが機械論的唯物論です。しかし、17、18世紀の唯物論は、世界を不断に歴史的に発展しつづけるものとして、弁証法的にとらえることができませんでした。そのため、形而上学的唯物論ともいわれます。
代表的な人物は、17世紀イギリスのホッブス(1588〜1679年)、18世紀フランスのラ・メトリ(1709〜1751年)、ドルバック(1723〜1789年)など。ラ・メトリは、当時の解剖学、生理学の成果に依拠しながら、人間は時計のような複雑な機械であるとしました(『人間機械論』1747年)。
機械論的唯物論は、とくに18世紀のフランス啓蒙思想のなかで重要な役割をはたし、進歩的革命的役割を発揮しました。
世界が客観的に存在していることは認めながら、その世界も自分の意識も、すべて現実の世界の外にある「理念」や「絶対者」といったものが生み出したものだと考える観念論哲学。代表的な哲学者はドイツ古典哲学の代表者であるへーゲル(1770〜1831年)。世界を神が創造したとする宗教も客観的観念論の1つです。
客観的観念論は、「理念」や「絶対者」などが世界を支配しているとみる点では極端な観念論のようですが、客観的な世界が人間の意識から独立して存在することを認めるという点では、唯物論に接近したものといえます。レーニンは、へーゲルの著作からの抜き書きに「客観的観念論の唯物論への転化の“前夜”」(『哲学ノート』)と注記しました。
同じ生産過程において、あるいは関連した生産過程において、多数の働き手が計画的にいっしょに労働すること。協業は、資本主義にかぎられたものではありません。しかし、より多数の労働者が1人の資本家のもとで協業をおこなうというのが、「歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点」(『資本論』)をなしています。
協業は、さまざまな生産手段の節約を可能にし、それによって生産力の発展をもたらします。さらに、1人の労働者ではできなかったような労働を可能にし、「それ自体として集団力であるべき生産力」を創造することによっても、生産力を発展させます。
資本主義経済の景気循環のなかで、景気の過熱(過剰生産)をへて、突然商品が売れなくなり、価格の暴落、生産の停止、企業の倒産、失業の増大などをもたらす局面を恐慌といいます。恐慌は、1825年にイギリスで起こったのが最初で、いらい資本主義経済は、停滞、繁栄、過剰生産、恐慌をおよそ10年周期にくり返してきました。
1929年の世界大恐慌以後、政府が先頭に立って恐慌を防ぐためにあらゆる手だてをつくす体制がつくられました(→国家独占資本主義)。そのため、第2次世界大戦後、恐慌のあらわれ方はある程度緩和されるようになりましたが、それでも周期的な恐慌・不況は避けられないでいます。
マルクスは、恐慌こそ、資本主義の矛盾にみちた運動の集中的なあらわれと考え、『資本論』のなかで、資本主義経済のもとでなぜ恐慌が起こるかという「根拠」「原因」を追求しました。資本主義は「できる限り大きな量の剰余労働を吸収」(『資本論』)することを一番の推進動機としています。そのため資本主義は、一方では、生産力を無制限に発展させようとする傾向をもちますが、他方では、もうけのために労働者に支払う賃金をできる限り低く切りつめようとするため、消費は狭い枠のなかにおさえこまれます。マルクスは、この2つの傾向の矛盾・衝突にこそ、資本主義の根本的な体制的矛盾(→資本主義の根本矛盾)があることを明らかにしました。恐慌は、この矛盾と衝突の結果を劇的なかたちでしめすものです。
1836年ごろ、パリでドイツ人亡命者の急進的部分がつくった「正義者同盟」がその母体。やがてその中心はロンドンに移り、一連の国ぐにに班をもつ国際的組織となりました。1847年、同盟の代表者たちは、マルクスとエンゲルスの考えをうけいれて2人に加盟を求め、その夏にロンドンでひらかれた第1回大会で「共産主義者同盟」に改組。
『共産党宣言』は、同年末の第2回大会の委託をうけて、マルクス、エンゲルスがこの同盟の綱領的文書として起草し、1848年2月に刊行されたものです。
1848年にヨーロッパで革命がおこると、同盟員はドイツ各地で革命の前進のために活動しました。革命の敗北後、1849年秋にロンドンで同盟中央委員会が再建されましたが、ドイツ国内の組織は反動政府の弾圧を受け、その裁判(「ケルン共産党裁判」)の終結後、1852年11月、同盟は解散しました。
『共産党宣言』は、共産主義者同盟の綱領的宣言として、マルクス、エンゲルスが執筆し、1848年2月後半にロンドンにおいてドイツ語で発行されました。これは、1847年11〜12月の同盟第2回大会の決定によって、2人に委託されたものです。
宣言は、短い前書きと4つの章からなっていて、これまでの歴史は階級闘争の歴史であること、資本主義の発展とともに労働者階級の団結と階級闘争も発展し、プロレタリアートの勝利はさけられないこと、また革命運動の当面の目標がプロレタリアートによる政治的権力の獲得であること、勝利したプロレタリアートは生産手段を組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産様式全体を変革すること、そして発展の過程で階級の差異が消滅するとともに公的権力は政治的性格を失い、階級支配そのものが廃止されること、そうして「各人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件である連合体」があらわれることなどを明らかにしました。
『共産党宣言』の日本語訳は、1904年(明治37)が最初で、『平民新聞』第53号に、堺利彦・幸徳秋水によって第3章を除く翻訳が掲載されましたが、そのために同紙は即日発行禁止の処分を受けました。
銀行は、もともと貨幣のかたちでのあらゆる収入を集中して、それを、利潤をもたらす資本に転化するという「仲介者」の役割をになっていますが、産業における独占の形成と並行して、銀行も巨大化し、「仲介者」というひかえめな役割から、企業の貨幣資本や経済活動の大部分を管理する「全能の独占者」に成長転化します。それと同時に、銀行と巨大商工企業とのあいだで人的結合がすすみ、株式の持ち合い、役員の派遣などによって両者の融合・癒着がすすみます。このように、独占的な産業資本と独占的な銀行資本との融合・癒着によって成立するのが金融資本です。「生産の集積、そこから成長してくる独占体、銀行と産業との融合あるいは癒着――これが金融資本の発生の歴史であり、その概念の内容である」(『帝国主義論』)。
さらにレーニンは、ごくひとにぎりの金融資本がさまざまな手段を駆使して、社会全体に経済的支配の網の目をはりめぐらせていることを明らかにして、それを「金融寡頭制」(「寡頭制」とは少数者の支配のこと)と呼びました。
『空想から科学へ』は、1880年、エンゲルスが『反デューリング論』の序説と3つの章を組み合わせて編集・執筆したもので、まずフランス語で、雑誌『ルヴュ・ソシアリスト』に連載され、同じ年に『空想的社会主義と科学的社会主義』という題名で単行本として発行されました。さらに1883年、ドイツ語版が『空想から科学への社会主義の発展』という題名で出版されたところから、『空想から科学へ』の通称で親しまれています。
第1章は、社会主義思想の最初のあらわれとなった空想的社会主義とは何だったのか、その歴史的意義とのりこえられなければならなかった問題点はどこにあったのかを解明。第2章では、社会主義を空想から科学に変えたものは何だったのかを研究しています。形而上学と対比しながら弁証法の豊かな内容を紹介するとともに、現代の自然観に裏打ちされた唯物論の見地を解明し、さらに史的唯物論と剰余価値による資本主義的搾取の秘密の暴露というマルクスの「2つの偉大な発見」によって社会主義が科学になったことを明らかにしています。
第3章では、史的唯物論の見地から資本主義社会をとらえ、どんな矛盾が進行しつつあるかを解明(→資本主義の根本矛盾)。その矛盾が最後には社会主義的な変革を避けられないものにすること、この変革の主要な内容が生産手段の社会化にあること、それによって人類は、人間がほんとうの意味で社会や自然の主人公となる人類史の新しい段階にすすむことをしめしています。
マルクスは、本書のフランス語版のために序文を書き、そのなかで、この本を「科学的社会主義の入門書」と呼びました。
マルクス、エンゲルスに先立つ社会主義の潮流のこと。代表的な人物は、フランス人のサン=シモンとフーリエ、イギリス人のオウエン。彼らは、労働者の生活苦や貧富の対立の拡大などを目の当たりにして、資本主義の矛盾を告発し、資本主義にかわる理想社会をえがきだし、最初の社会主義思想をうみだしました。
しかし、空想的社会主義の登場した時代は、資本主義も、それにともなうブルジョアジーとプロレタリアートの対立もなおひじょうに未発達でした。そのため、空想的社会主義は、運動の目標をはっきりとのべはしましたが、「社会そのものの内部に社会改造の物質的諸条件をみいだすことも、また労働者階級のうちに運動の組織的な力と意識をみいだすこともなかった」(マルクス「フランスにおける内乱」第1草稿)のであり、「社会制度の新しい、いっそう完全な体系を考案し、これを宣伝により、可能な場合には模範的実験の実例によって、外から社会におしつけ」(『空想から科学へ』)ようとしました。そのため、彼らの思想や運動は、「空想的社会主義」と呼ばれました。
エンゲルスは、『空想から科学へ』(188O年)のなかで、空想的社会主義の思想をうけつぎながら、マルクスの「2つの偉大な発見」、すなわち史的唯物論と剰余価値による資本主義の搾取のしくみの暴露によって、社会主義が科学になったと指摘しています。
商品は、使用価値と価値という2つの要因をもっていますが、これに対応して、商品にふくまれる労働も2重の性格をもっています。すなわち、特定の使用価値(たとえば布、服)をつくりだす労働は、その目的、作業様式、対象、手段および結果によって決められた労働(織布労働、裁縫労働)であり、これを具体的有用的労働といいます。
それにたいして、価値の場合、使用価値にかかわる性質はとり去られており、同様に、価値に結実する労働は、労働の具体的な姿、労働の有用性は度外視され、人間的労働力一般の支出をあらわしています。これを、抽象的人間的労働といいます。
マルクスは、「商品にふくまれる労働のこの2面的性質は、私によってはじめて批判的に指摘されたものである」(『資本論』)と強調しています。
弁証法にたいして、ものごとを個々ばらばらに、静止した不変のものとして、固定的にとらえる古い、ものの見方、考え方のこと。
「メタフィジカ」ということばの訳語で、アリストテレスの弟子たちが残された師の原稿を整理したときに、自然学にかんする著作の後に、アリストテレスが「第一哲学」とよんだ哲学の最高原理にかんする著作を配列し、これに「自然学(フュシカ)の後(メタ)」という意味の表題をつけたことに由来します。その後、このことばは個々の経験をこえた「存在」を論じる学問といった内容で使われるようになりましたが、ヘーゲルが弁証法に対立する古い思考方法、研究方法を「形而上学的」と名づけていらい、その意味で広く使われるようになりました。
なお、「形而上学」という訳語は、中国の古典『易経』にある「形而上」ということばに「学」をつけて、明治時代に造語されたものです。
封建的な専制体制を批判し、理性の尊重、自由、平等の理想などを説いた17、18世紀のヨーロッパ思想。当時のブルジョアジーの勃興を背景に、自然科学の発展とも結びついて、イギリス市民革命とともに生まれ、フランス革命(1789年)を思想的に準備する役割をはたしました。
代表的な人物は、モンテスキュー(1689〜1755年)、ヴォルテール(1694〜1778年)、ルソー(1712〜1778年)、ディドロ(1713〜1784年)、ダランベール(1717〜1783年)、コンディヤック(1715〜1780年)、エルヴェシウス(1715〜1771年)、コンドルセ(1743〜1794年)など。そのなかでも、ディドロ、ダランベールが中心となって編集した『百科全書』(1751〜1780年)にあつまって、自由・平等思想、理性にもとづく社会の建設を説いた思想家たちは「百科全書派」とよばれ、そのなかには唯物論の立場に立った思想家が多数含まれています。
啓蒙思想家たちは、封建的な宗教、自然観、社会、国家制度に容赦のない批判をくわえ、「永遠の真理、永遠の正義、自然にもとづく平等、およびゆずり渡すことのできない人権」(『空想から科学へ』)を強調しました。しかし、「この理性の王国はブルジョアジー〔→資本家階級〕の王国を理想化したもの」(同)にすぎなかったことがやがて明らかとなり、啓蒙思想を受け継ぐかたちで空想的社会主義が登場しました。
人びとが生産手段を共有し、共同で働き、労働の成果もすべて共有した原始時代の経済のしくみ(生産関係)のこと。原始共産制の社会は基本的に貧富の差はなく、階級は生じていませんでした。したがって、階級対立を抑制する役割をになう国家も存在しませんでした。しかし、その後、徐々に生産力が発展すると、私有財産が発生し、階級対立が生まれるようになり、原始共産制はくずれていきました。
商品は、使用価値とは別に、種類のちがうほかの商品と交換されるという性質をもっています。それを交換価値といいます。
交換価値は、さしあたり、1つの商品が他のさまざまな商品と交換される割合としてはかられます。その割合はたえず変動しています。しかし、たとえば1キログラムの米は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などというように、さまざまな比率で他の商品と交換されます。しかし、これらはすべて、1つの商品の交換価値をあらわしているのであり、1つの共通なものを表現しています。この共通のもの、交換価値の内実が価値です。
経済学の対象はなにかという問題について、エンゲルスは、『反デューリング論』(1878年)のなかで、まず「経済学は、最も広い意味では、人間社会における物質的な生活維持手段の生産と交換とを支配している諸法則についての科学である」と定義しています。そして、生産・交換・分配の条件や具体的なあり方は国や時代によって異なることを指摘したうえで、あらためて経済学とはなにかという問題について、歴史のさまざまな発展段階にある人間社会を対象とする「広義の経済学」と、資本主義を対象とする「狭義の経済学」とを区別しなければならないと指摘して、次のようにのべました,
「さまざまな人間社会が生産し交換し、またそれにおうじてそのときどきに生産物を分配してきた、その諸条件と諸形態とについての科学としての経済学――こういう広義の経済学は、これからはじめてつくりだされなければならない。今日までにわれわれがもっている経済科学は、ほとんどもっばら、資本主義的生産様式の発生と発展とに限られている」
「広義の経済学」と「狭義の経済学」という区別は、科学的社会主義の立場でこそ、はじめて問題にすることができる重要な区別です。それ以前の経済学は、資本主義社会が永遠につづくものとみて、その経済法則を人間社会の永久不変の自然法則としてあつかっていたため、資本主義を対象とした経済学以外の経済学など問題になりませんでした。
工場労働者の保護を目的とした法律のことを、一般に工場法とよびます。産業革命をへて工場生産が本格化するにつれて、児童・年少者や女性労働者の長時間労働、夜間労働や労働災害が広がりました。こうした弊害を除くために、労働者階級の闘争によって、1日の労働時間(→労働日・労働時間)を制限するなど、19世紀にはいって工場法が制定されるようになりました。
イギリスでは、最初に工場法が制定された1802年いらい5つの工場法が公布されていましたが、法律を実施する手だてがとられず、ほとんど守られませんでした。実効ある最初の工場法は1833年のもので、9歳未満の就業禁止、年少者の1日12時間労働などの規制をくわえるとともに、実施状況を調査・監督する工場監督官制度を設けました。1844年の工場法には、保健と安全の規定がはじめて設けられ、安全装置を欠いた機械での事故に賠償規定が定められました。
日本では、1911(明治44)年に、はじめて工場法が公布され、児童の、雇用禁止、年少者・女性の就業時間の制限などを規定しました。この法律は1916(大正5)年9月にようやく施行されましたが、第2次世界大戦中の1943年、工場法戦時特例によって、わずかな規制も撤廃されてしまいました。戦後、1947年に現在の労働基準法が施行され、戦前の工場法は廃止されました。
マルクスは、『資本論』のなかで、工場法の意義について、「労働者たちは結集し、階級として1つの国法を、資本との自由意志的契約によって自分たちとその同族とを売って死と奴隷状態とにおとしいれることを彼らみずから阻止する強力な社会的防止手段を、奪取しなければならない」(第1部第8章)と指摘しています。また、工場法は、それまで資本家のやりたい放題だった生産過程に社会があたえた「最初の意識的かつ計画的な反作用」(第1部第22章)だと指摘するとともに、「工場立法の一般化」は「新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(同前)とのべています。
1864年9月、ロンドンで、イギリス、フランス、ドイツ、ポーランドなどの代表者が参加した国際労働者集会が開かれ、その決議にもとづいて創立された労働者階級の最初の公然とした国際組織。ヨーロッパと北アメリカの労働運動、社会主義運動のさまざまな潮流に属する個人や団体が参加し、1866年当時で2万5000人ほどの会員がいました。
マルクスは、はじめドイツ人労働者の代表としてこの活動にくわわりましたが、「創立宣言」や「暫定規約」を起草する過程で、参加者の信頼と支持をかちとり、その全活動に指導的役割を発揮するようになりました。1871年のパリ・コミューンにはマルクスの起草による決議「フランスにおける内乱」を採択し、断固とした支持をあたえました。1872年のハーグ大会で本部をアメリカに移すことを決定し、ヨーロッパでの活動を事実上終え、1876年に正式に解散しました。
のちに第2インタナショナルが誕生したことで、第1インタナショナルと呼ばれるようになりました。
1875年5月、ドイツ社会民主労働者党(アイゼナッハ派)と全ドイツ労働者協会(ラサール派)が、合同し、ドイツ社会主義労働者党が誕生しました。大会がドイツの都市ゴータでひらかれたことから、このとき採択された綱領は「ゴータ綱領」と呼ばれました。
合同に先立ち、この綱領の草案が発表されましたが、労働者階級の権力の確立という立場を放棄し、社会変革における農民の役割を否定し、社会主義にすすむ手段として国家の援助によった生産協同組合の創設を要求するなど、その内容はラサール派に大きく譲歩したものでした。そのため、マルクスは、草案への詳細な批判を書いて、アイゼナッハ派の幹部の1人に送り、指導部への回覧を求めました。マルクスは、その当時、この批判を公開しませんでしたが、1891年になってゴータ綱領の改定がドイツの党の日程にのぼったとき、エンゲルスが新しい綱領の検討の一助として公表しました。いらい、「ゴータ綱領批判」と呼ばれ、広く読まれてきました。
「ゴータ綱領批判」のなかで、マルクスは、資本主義社会から共産主義社会のあいだには、「革命的転化」の時期があり、それに対応する政治的な過渡期においては、労働者階級が国家の全権力を掌握しなければならないことを指摘しています(→労働者階級の権力)。また、ラサール主義的な誤った見解を批判し、共産主義の未来社会のあり方について、資本主義社会から生まれたばかりの「共産主義社会の第1段階」と「それ自身の基礎のうえで発展」した「共産主義のより高い段階」とを区別し、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」段階から「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」段階へ発展すると指摘しましたが、これは、ラサール派の誤った分配論を綱領的展望に持ち込むとどんな混乱を生じるかを論じたもので、マルクス自身は、分配のあり方を基準にして未来社会の発展段階を区別する見地には反対でした。
『家族、私有財産および国家の起源』(1884年)で、エンゲルスは、アテネ、ローマ、ゲルマンの国家の成立過程をふり返り、国家が社会の外部からおしつけられたものでも社会の理想的な発展のあらわれでもなく、社会が搾取階級と被搾取階級という「和解できない諸対立物に分裂したことの告白」にほかならないことを明らかにしました。このように、国家を階級に分裂した社会の歴史的な発展の産物としてとらえるところに科学的社会主義の国家観の基本があります。
原始共産制社会の諸機関がその社会の成員全体が参加する社会的自治の機関であったのにたいして、国家は、「外見上社会の上に立って」階級衝突を抑制、緩和し「それを『秩序』の枠内にとどめておくため」の権力として、「社会から生まれながら社会の上に立ち、社会にとってますます疎遠なものになっていく権力」という性格をもちます。
エンゲルスは、このような国家の特徴を、原始共産制社会の「古い氏族組織」と対比して、(1)血縁を基礎とした氏族制社会にたいして、国家は住民を地域によって区分すること、(2)「自分自身を武装力として組織する住民とはもはや直接には一致しない、一個の公的権力」をうちたてること、(3)その公的権力を維持するための租税の徴収、(4)社会の機関でありながら社会の上に立つこと、(5)階級的な支配と抑圧の機関になること、の5点にまとめています。このようにエンゲルスは、国家が最初から階級支配の手段として意図的につくられたという単純な見地にはたたず、階級的に分裂した新しい状況に対応するために氏族制度にとってかわったもので、その最初の役割は「階級対立の抑制」にあったとしました。
国家が巨大な独占体(→独占・独占体)の利益を代表して経済に介入する体制のこと。「資本主義の巨大な力と国家の巨大な力を単一の機構に」結合したもの(レーニン「戦争と革命の問題」)。
レーニンが「国家独占資本主義」の語をはじめてもちいたのは、1917年9月に執筆した「さしせまる破局、それとどうたたかうか」で、それ以前は「国家資本主義」などの表現がもちいられていました。
レーニンが、国家独占資本主義という認識に到達するきっかけとなったのは、第1次世界大戦にさいして各国で戦争に勝利するために国民生活や経済活動を大規模に動員する戦時統制のしくみが大々的につくられたことでした。その後、この体制は戦時だけでなく日常的な体制となり、こんにちでは、さまざまな産業政策や景気対策、金融政策などをもって国家が経済に介入する手段や機構ができあがっています。
日本共産党が提唱する大企業の民主的規制は、現在は大企業の利益のためにつかわれているこうした手段や機構を、民主的政権のもとで逆転させ、国民の権利や利益のために活用しようというものです。
生産過程に投下された資本のうち、労働手段(機械や道具、あるいは工場建物など)に投下された部分を固定資本といいます。これら労働手段は、生産過程で1度に全部使い切られてしまうのではなく、繰り返し使用されて少しずつ損耗し、やがて使いつくされます。したがって、たとえば10年間もつ機械は、毎年10分の1ずつその価値を商品に引き渡していきます。
それにたいして、原料に投下された部分は、毎回の生産においてすべて使いつくされ、そのつどすべて新しく補填されなければなりません。したがって、その価値も1度にすべて生産物に移転します。このような資本部分を流動資本といいます。
労働力に投下された資本部分(可変資本)は、価値増殖過程においてはたす役割は、労働手段や原料など不変資本とはまったく異なっていますが、原料の場合と同じように、毎回、使いつくされ、そのつど更新されなければなりません。それゆえ、資本の回転の見地からは、可変資本は、固定資本に対立して、原料などと同じ流動資本の一部としてあらわれます。
固定資本・流動資本は、資本の回転の仕方のちがいにもとづいて区別されるもので、マルクス以前のスミスやリカードウもつかった用語です。しかし、定義がまちまちで混乱していました。マルクスは、生産物の価値形成過程においてはたす役割のちがいにもとづいて、はじめて不変資本・可変資本という科学的な概念を明らかにするとともに、固定資本・流動資本についても正確な定義を仕上げました。
17世紀後半から19世紀前半にかけて、イギリスとフランスで生まれ、当時資本主義がもっともすすんでいたイギリスで発展した経済学説。代表的な経済学者は、アダム・スミス(1723〜1790年)とデビッド・リカードウ(1772〜1823年)などです。
古典派経済学は、商品の価値がその商品にふくまれる労働の量によって規定されるとする労働価値説をはじめて体系的に展開し、資本主義経済の科学的研究の出発点となりました。マルクスは、こうした経済学を、経済の外観的な現象を記述するだけの俗流経済学にたいして、「ブルジョア的生産諸関係の内的連関を探求する」ものとして古典派経済学と呼びました。
古典派経済学は、封建制が崩れ、資本主義が誕生、発展しはじめた時代に、新興の産業資本家階級を代表するものとして登場。そのため資本主義を「社会的生産の絶対的で究極的な姿態」ととらえていました。そのなかでも、古典派経済学の「最後の偉大な代表者」であるリカードウは、資本主義社会の基本階級である資本家と労働者、地主階級との「階級的科害の対立」を「研究の出発点」にすえました。しかし、古典派経済学が科学的であったのは「階級闘争が未成熟」な時代のことでした。資本主義の発展にともなって階級闘争が激しくなると、ブルジョア経済学は科学的な態度を放棄して、俗流化していきました。
マルクスは、スミスやリカードウの論文を徹底的に研究し、労働価値説の基礎のうえに剰余価値の理論を完成させました。
社会全体の資本(総資本)の再生産がとどこおりなくすすむうえで、どのような条件が必要かを明らかにするためにマルクスが示した表式のこと。
個々の資本の再生産を考えるかぎりでは、生産された商品は市場で販売されて、ふたたび必要な生産手段、労働力を手に入れるものと想定されていました。しかし、社会全体の資本の再生産を考えた場合には、それだけでは十分ではありません。すなわち、社会全体の総生産物の一部は生産手段として資本に再転化しなければならず、他の部分は消費手段として資本家や労働者の個人的消費にはいりこんでいきます。したがって、この運動全体(社会的総資本の再生産)は、生産された商品を全部販売して、その価値をきちんとうけとることができるというだけでなく、素材(使用価値)の面でも必要なものが必要なだけ生産されてきちんと交換されるということが必要です。
そこでマルクスは、社会の総生産を使用価値の視点から生産手段生産部門(第I部門)と消費手段生産部門(第II部門)とにわけ、それぞれの部門の生産物を価値の視点からさらに不変資本(c)、可変資本(v)、剰余価値(m)に分けて、使用価値と価値の2つの観点から社会的総資本の再生産のためにはどのような関係がなりたっていなければならないかを究明しました。そのために、マルクスが考えた表式が再生産表式です。
単純再生産の場合、マルクスは、次のような数字を仮定しました(それぞれの数字は「理解しやすくするため」にマルクスが仮においたものです)。
I 4000c+1000v+1000m = 6000
II 2000c+ 500v+ 500m = 3000
Iの4000cは、第I部門の不変資本に相当する商品をあらわしています。
IIの500vと500mは、それぞれ第II部門の労働者の賃金および資本家のもうけにあたります。彼らは、それらによって消費手段を買わなければなりませんが、その消費手段はすでに第II部門に、II(500v+500m)の商品として目の前に存在しています。したがって、この部分は、そのまま第II部門の労働者および資本家によって消費されることになります。
他方、Iの4000cは、第I部門でしか使用されない生産手段というかたちで存在しています。これは、第I部門の不変資本の補填に役立ち、それゆえ第I部門に属するさまざまな資本家のあいだの交換によって決着をつけられます。
残りは、次のようになります。第I部門のvとm、つまり第I部門の労働者の賃金と資本家のもうけの部分は、実際の商品としては生産手段として存在しているので、第I部門の労働者や資本家は、それをそのまま消費することはできません。他方、第II部門のcは、新しい生産手段によって補填されなければなりませんが、資本家の手元にあるのは消費手段である商品だけです。
したがって、社会全体で再生産が正常にすすむためには、第I部門の(v+m)と第II部門のcとがきちんと交換されることが必要です。すなわち、I(v+m)=IIcが、単純再生産が正常にすすむための条件です。
拡大再生産の場合は、Iのmの一部を拡大再生産のために第I部門内部で再投下しなければならないので、I(v+m)>IIcが条件となります。
生産手段の所有者が、直接的生産者の労働あるいは労働の成果を対価なしに取得すること。
生産力がきわめて低い原始共産制社会では、全員で働き、労働の成果も全員に平等に分配しなければならず、それゆえ、搾取は存在しませんでした。しかし生産力が高まると、自分たちの生命・生活の維持・再生産に必要な分量以上の富(剰余生産物)が生産されるようになります。それとともに、そこから私的所有と財産上のちがいが生じ、剰余生産物を自分のものとする搾取階級と、他人に剰余生産物をとりあげられる被搾取階級との対立が生まれてきました。
資本主義社会では、資本家が、労働者を、その再生産費に相当する労働時間を超えて働かせることによって剰余価値を対価なしに手に入れるというかたちで搾取しています。
機械の発明、普及によって引き起こされた経済上の変革。産業革命は、18世紀後半から19世紀初めにかけてイギリスに起こり、つづいでヨーロッパやアメリカに広がりました。イギリスでは、1760年代のジェニー紡績機の発明などから始まって、繊維産業における生産機械の自動化がすすみ、さらに蒸気機関の普及と大出力化、鉄鋼の大量生産、生産機械を製造する機械工業の発達、鉄道・大型汽船など大量輸送網の展開などへと広がりました。
産業革命によって、資本主義は、道具にもとづいたマニュファクチュア(工場制手工業)の段階から機械制大工業の段階へ、本格的な発展をとげました。
マルクスは、『資本論』のなかで、機械のなかでも、労働対象をとらえ、目的に応じてそれを加工・変化させる作業機(道具機)の発明こそが「18世紀産業革命の出発点をなすものである」と指摘しています。
1760〜1825年。フランスの空想的社会主義者。貴族の出身で、19歳のとき、アメリカ独立戦争(1775〜1783年、→アメリカ独立宣言)に参加。その後、スペインで運河開設の計画をすすめたりしていましたが、フランス革命(1789年)がおきると帰国し、国有地売却をめぐる投機に熱中。そのため、一時、革命政府によって逮捕されたこともあります。その後、投機でえた資金をもとに将来の理想社会についての研究をすすめ、『ジュネーブの一住民の手紙』(1802年)などでその成果を発表しました。
エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、サン−シモンについて、フランス革命を貴族と商工市民層の対立だけでなく、貴族と商工市民層と無産者の対立ととらえたことを「きわめて天才的な発見」と指摘。さらに、政治学は「生産の科学」であるというサン−シモンの言明には、「経済状態が政治制度の土台であるという認識」の芽生えがあるだけでなく、将来の共産主義社会では「人間にたいする政治的統治が物の管理と生産過程の指導」にかわり、国家はなくなるという「国家の廃止」が明らかにされていると高く評価しました。
エンゲルスの残した自然科学にかんする草稿集。1873年初頭から1882年にかけて執筆されたもので、自然科学にかんする約200編あまりの論文やその下書き、メモなどからなります。エンゲルスは、これらをもとに著作をまとめるつもりでしたが、1883年にマルクスが亡くなったあと、残されたマルクスの原稿から『資本論』第2部、第3部を完成させるという仕事にとりくまなければならなくなったため、この構想は断念されました。
残された草稿は、エンゲルスの死後、その一部は1890年代に公表されましたが、全体の刊行はようやく1925年になってのことでした。『自然の弁証法』という書名は、1935年に刊行された『マルクス・エンゲルス全集』(「旧メガ」)に収録されたさいにつけられたものです。
人間の知識、認識が正しいかどうか(→真理)は、実験や実際の行動など、実践をつうじて検証されるという科学的社会主義の考え方。
エンゲルスは、人間の認識が正しいかどうか分からないとする不可知論にたいして、『フォイエルバッハ論」のなかで、「もっとも痛烈な反駁は、実践、すなわち実験と産業である」と指摘しています。同じことを、『空想から科学へ』では、“プディングの味をためすことは食べてみることだ”と表現しました。
つまり、事物についての知識が正しいかどうかは、その知識にもとづいて、対象となっている事物を作りだしたり、目的にしたがって自分たちの必要に役立てたりすることができたかどうかで検証することができます。成功したとすれば、それはわれわれの知識が正しかったことを証明しており、逆に失敗するならば、われわれの知識が不完全であったことを示しています。このように、実践による検証をつうじて、人間の認識は無限に発展していきます。
資本主義のもとで、必要労働部分は賃金としてその対価が支払われるのにたいして、剰余労働部分はなんの対価もなしに資本家のものになります。そのため、必要労働は支払労働、剰余労働は不払労働ともよばれます。資本による不払労働の取得が資本主義の搾取の秘密です。
資本主義ということばの名づけ親はマルクスです。
「資本主義」ということばは、マルクスが、1861年から63年にかけて執筆した『資本論』の2番目の草稿(ノート23冊にもおよぶものです)のなかで、資本の支配する社会の生産を「資本主義的生産」とか「資本主義的生産様式」と呼んだのが最初でした。それ以前の『共産党宣言』(1848年)や『経済学批判』(1859年)では、「近代ブルジョア社会」とか「ブルジョア的生産様式」ということばが使われていました。
『資本論』(第1巻、初版は1867年刊)が出版されると、資本主義ということばは急速に広がり、やがてウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904〜05年)やゾンバルト『近代資本主義』(第1部・第2部1902年、第3部1927年)など、ブルジョア経済学や政治学の世界でも、当たり前の用語として使われるようになりました。
歴史と社会にたいする科学的社会主義の見方。唯物史観(唯物論的歴史観)ともいいます。
マルクス、エンゲルスはさまざまな角度から史的唯物論の基本的な考え方を説明しています。たとえば『経済学批判』(1859年)の「序言」のなかで、マルクスは、経済を基本とした社会のとらえ方を、建築物になぞらえて、土台と上部構造ということばで説明しました。すなわち、人間は、社会的生産において「一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係」、生産力の一定の発展段階に対応する生産関係をとりむすぶこと、これらの生産関係の総休が社会の経済的構造をかたちづくるが、これが社会の「実在的土台」であること、法律的・政治的諸制度はこの土台のうえに立つ上部構造であり、宗教的・哲学的・その他の社会的意識(→イデオロギー)もこの土台に照応していることを明らかにし、その全体を社会構成体(あるいは経済的社会構成体)と呼びました。
このように、経済を土台として社会をとらえるところに、史的唯物論の基本的な見地があります。もちろん、史的唯物論は、社会の動きはすべて経済で決まるという経済決定論ではありません。マルクス、エンゲルスは、「これまでのすべての歴史は、原始状態を例外として、階級闘争の歴史であった」(『空想から科学へ』)と、歴史を階級と階級の闘争という角度からとらえることの重要性を強調するとともに、自分たちの発見は、階級の存在が「生産の一定の歴史的発展段階とのみ結びついていること」にあると語りました(マルクスからヴァイデマイアーへの手紙、1852年3月5日付)。
生産手段を所有し、労働者に賃金を支払って雇い入れ、その労働力を使って生産をおこない、剰余価値を搾取している階級のこと。マルクスは『資本論』のなかで、資本家というのはより多くの剰余価値を獲得するという資本の運動の「意識的な担い手」、「人格化された」資本のことだとのべています(第1部第4章)。
資本家階級のことをブルジョアジーともいいます。このことばは、語源的には「都市の住民」を意味し、中世ヨーロッパの都市で、租税を支払えるだけの富裕な商工業者などをさしていました。やがて、資本主義の発展とともに資本家階級として成長し、封建領主の支配をうちやぶって支配階級となりました。封建貴族が長く残ったイギリスでは、「中産階級(ミドルクラス)」といわれたりもしました。
こんにちでは、資本主義はさらに発展して独占資本主義の段階にはいっています。資本家階級のなかでも、少数の巨大な独占体が登場して経済全体を支配するようになる一方で、その他の中小資本家は独占体に支配され、収奪される存在になっています。
マルクスは、資本主義の推進力が「できるだけ大きな剰余価値の生産」であることを明らかにするとともに、それによって資本主義の経済体制にこれまでのいかなる生産様式ももたなかった深刻な矛盾をかかえていることを解明しました。
すなわち、資本は、より多くの剰余価値を搾取するために、社会全体を「生産のための生産」という道にかりたて、生産と生産力のかぎりない絶対的な拡大に突きすすんでいきます。このような社会的生産力の発展は、客観的には、「より高度な社会形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造」(『資本論』第1部第22章)する役割をはたすものです。しかし、資本主義のもとでは、できるだけ賃金を低くおさえるなど労働者を犠牲にしてすすめられます。そのため、資本家階級と労働者階級の階級闘争が発展せざるをえないだけでなく、経済体制としても、恐慌がさけられないなど深刻な矛盾・衝突が生じます。
このように、マルクスは、「生産のための生産」を旗印にした、はてしない生産力の発展、経済拡大への傾向と、資本主義の生産関係の狭い枠組みとの矛盾・衝突にこそ、資本主義の全歴史をつらぬく根本的な矛盾をみました。「資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させ、かつこの生産力に照応する世界市場をつくり出すための歴史的な手段であるとすれば、この資本主義的生産様式は同時に、その歴史的任務とこれに照応する社会的生産諸関係とのあいだの恒常的矛盾である」(『資本論』第3部第15章)。
エンゲルスは、『資本論』第1部での解明をふまえつつ、『反デューリング論』(1878年)および『空想から科学へ』(1880年)で、資本主義のもとで、生産手段は私的個人的なものから社会的な生産手段へ、多数の労働者によって共同して使用される生産手段へ変化すること、それにもかかわらず、生産物は、その生産手段を実際に動かした生産者(労働者)たちのものにはならず、あいかわらず資本家が私的に自分のものにしていることを明らかにして、この「社会的生産と資本主義的取得」の矛盾を、資本主義の「根本矛盾」と呼びました。
資本は、たとえば一定金額の貨幣として前貸しされ、労働力や生産手段を購入して新たな商品を生産し、その商品を販売して、ふたたび貨幣として回収されるというように、循環しています。この循環を「資本の回転」といいます。1回の回転に必要な時間が資本の回転時間で、資本の生産時間(資本が生産過程にあって、新たな商品が生産されるための時間)と流通時間(貨幣を投じて生産手段と労働力を購入するまでの期間、および生産された商品を販売するための時間)の合計です。
資本の構成要素によって回転時間は異なってきます。マルクスは『資本論』第2部第2篇で「資本の回転」という角度からみた場合、流通過程への入り方のちがいによって、固定資本と流動資本という2つの区別が生じることを明らかにしています。
資本の蓄積の具体的なあらわれとして、マルクスは、『資本論』フランス語版において、資本の「集積」と「集中」という2つの概念を区別して解明しました。
「資本の集積」というのは、とくに資本の集中と区別していう場合は、個々の資本家が労働者を搾取・収奪して剰余価値を生産し、その一部をみずから蓄積して、資本がより大きく成長していくことを指します。それにたいして、「資本の集中」は、企業の合併のように、すでに存在している複数の資本を1つに合体して、より大きな資本をつくりだすことをいいます。それゆえマルクスは、「集積と区別された本来的集中」のことを、「すでに形成されている諸資本の集積」「資本の個別的自立性の廃棄」「資本家による資本家の収奪」「群小の資本家のより大きな少数の資本家への転化」(『資本論』第1部第24章)などと表現しています。
資本の集積というかたちでは、資本の蓄積は徐々にしかすすまないのにたいし、資本の集中の場合は、「社会的富の絶対的増大、または蓄積の絶対的限界によって制限されてはいない」(同前)ので、一挙に巨大な資本がうみだされることになります。
できる限り大きな量の剰余価値の搾取を目的とする資本家は、労働者を搾取して手に入れた剰余価値をすべて自分や家族の個人的欲望のために消費してしまうのでなく、その一部を資本として再投下して生産を拡大し、より多くの労働力を搾取して、より多くの剰余価値を手に入れようとします。このように、剰余価値を資本として用いること、剰余価値を資本に再転化することを「資本の蓄積」といいます。したがって、資本の蓄積は、資本の拡大再生産のことです。
資本家が資本の蓄積として新たに追加する資本は、もとをたどれば、労働者から搾取して手に入れた剰余価値にほかなりません。それゆえ、資本家は、過去に労働者から搾取した剰余価値の一部分をより多くの生きた労働ととりかえているだけであって、ここでは、資本家と労働者との平等な等価交換というのは、たんなる「外観」にすぎないものになり、資本家がたえず等価なしに労働者を搾取していることが明白になります。
マルクスは、資本主義的搾取は「商品生産の本来の諸法則とどんなに矛盾するように見えるとしても、それらは決してこれらの法則の侵害から生じるのではなく、むしろ反対にその適用から生じる」ことを明らかにしたうえで、「このことは、資本主義的蓄積を終結点とする一連の運動諸段階の順序を簡単にふり返ってみれば、さらに明らかになる」と指摘しています(『資本論』第1部第22章)。
資本主義の前提条件である資本家と賃金労働者を生み出す歴史的な過程を、資本の「本源的蓄積」(あるいは「原始的蓄積」)といいます。
資本主義が生まれるためには、一方では資本に転化するための一定額の貨幣が蓄積されなければならず、他方では、生産手段を持たず、したがって生活のために自分の労働力を売る以外にない自由な労働者(→労働者階級)が存在しなければなりません。そのためには、「労働者を自分の労働諸条件から分離する過程」「生産者と生産手段の歴史的分離過程」(『資本論』第1部第24章)が必要です。この過程こそが資本の本源的蓄積過程にほかなりません。
マルクスは、『資本論』で、イギリス資本主義を題材として、農村の生産者である農民から土地を奪い取り、彼らを「鳥のように自由なプロレタリア」(同前)として労働市場に投げ出していった歴史を詳しくえがきだしています。そして、この歴史的過程を封建制度からの「解放」として美化する議論にたいして、「この新たに解放された人々は、彼らからすべての生産手段が奪い取られ、古い封建的諸制度によって与えられていた彼らの生存上のすべての保証を奪い取られてしまったのちに、はじめて自分自身の売り手になる。そして、このような彼らの収奪の歴史は、血と火の文字で人類の年代記に書き込まれている」(同前)と厳しく批判しました。
資本の有機的構成というのは、マルクスが『資本論』第1部第23章で明らかにした概念です。
資本の構成は、使用価値(素材)の面からみると、生産過程で使用される生産手段の総量とそれに必要な労働量との比率によってあらわされ、価値の面からみると、不変資本と可変資本の比率としてあらわされます。前者を「資本の技術的構成」といい、後者を「資本の価値構成」といいます。この2つの資本の構成には密接な関係があって、マルクスは、資本の技術的構成の変化を反映したかぎりでの資本の価値構成のことを「資本の有機的構成」と名づけました。
一般に、資本主義の発展にともなって、生産規模の拡大、新しい生産技術の応用や機械の改良・大型化などがすすみ、生産力が高まります。それとともに資本の技術的構成が高度化(労働力の量にくらべて生産手段の量が増加すること)し、価値構成も高度化(可変資本にくらべて不変資本の割合が大きくなる)します。したがって、生産力が発展するとともに、資本の有機的構成が高度化することになります。資本の有機的構成の高度化にともなって、利潤率は低下する傾向をもっています(→利潤率の傾向的低下の法則)。
資本の輸出には、海外に直接資本を投資して企業を設立したり、工場や子会社・支店を設けたりする直接投資と、海外の株式や国債などに投資する間接投資(証券投資)とがあります。
独占が支配する時代になると、国内では資本が過剰となり、余った資本は、地価や賃金が安く、原料などが安価で入手できて、より大きな利潤をあげられる海外への投資にふり向けられるようになります。レーニンは、『帝国主義論』(1917年)で、帝国主義段階では、商品の輸出にかわって資本の輸出が典型的になると指摘。さらに、当時の主要な帝国主義国を資本輸出のあり方から、(1)巨大な資本輸出が広大な植民地と結びついていた「イギリスの植民地的帝国主義」、(2)ヨーロッパ、とくにロシアの国債への投資が中心となったフランスの「高利貸的帝国主義」、および(3)その中間のドイツの「第3の変種」(植民地は大きくなく、海外投下資本はヨーロッパとアメリカに均等に配分されている)に区別しています。
資本の輸出は、「資本が向けられる国々で資本主義の発展に影響をあたえ、いちじるしくその発展を促進する」役割をはたします。当時は、植民地では「資本主義が発展し始めたばかり」でしたが、レーニンは、資本主義が「植民地と海外諸国で何よりも急速に成長している」こと、そのなかでたとえば日本が「新しい帝国主義的諸強国」として登場していることに注目しました。
こんにちでは、巨大企業のほとんどが多国籍企業のかたちをとっていて、資本輸出はレーニンのころよりいっそう大規模になっています。同時に、途上国の側でも、積極的に外国資本の投資を受け入れ、国民経済の発展を実現させている国もあり、資本輸出=経済的帝国主義と単純にはいえない状況が生まれています。
資本主義社会の「経済的運動法則」(『資本論』初版序言)を解明するとともに、マルクスの「経済学的・社会主義的見解の基礎」や資本主義にたいする「批判の大綱」(エンゲルス「力ール・マルクス」)をあらわした主著。
マルクスは、1844年ごろ、「ブルジョア社会の解剖は経済学のうちに求められなければならない」(『経済学批判』序言)という結論に達し、経済学の研究に着手しました。そして1848〜49年の革命が敗北したあと、亡命先のロンドンでエンゲルスの協力をえながら研究をつづけました。その成果は、1859年の『経済学批判』をへて、『資本論』(第1部、初版1867年)に結実しました。
1865年末ごろまでに、マルクスは、『資本論』全3部の原稿をいちおう完成させていましたが、生前に出版にこぎつけたのは第1部「資本の生産過程」だけでした。第1部は、労働価値説にもとづいて商品生産社会の運動法則を究明するとともに、そこから、いかにして資本が生まれるかを解明。剰余価値による資本主義的搾取の原理的な関係とその具体的なすがたを全面的に分析し、資本主義の発展の歴史と、より高度な社会への移行の必然性とを明らかにしています。第1部は、1872〜73年に第2版、1872〜75年にフランス語版が刊行され、マルクスの没後、エンゲルスの手によって、フランス語版の成果を取り入れた第3版(1883年)、第4版(1890年)が出されました。
第2部「資本の流通過程」(1885年刊)、第3部「資本主義的生産の総過程」(1894年刊)は、マルクスの残した草稿をもとにエンゲルスが整理・編集して発行したものです。マルクスはさらに、経済学の理論の歴史をとりあつかった巻を『資本論』第4部として予定していましたが、これはエンゲルスの没後、『剰余価値学説史』(1905年刊)の名前で刊行されました。
『資本論』の出現は、文字どおり、経済学の革命という意味を持ちました。それまでの古典派経済学が解決できなかったり、混乱に落ち込んでいたりした問題にたいしても、マルクスははじめて科学的で全面的な解決をあたえました。資本主義ということばも、『資本論』の普及とともに一般に広まったものです。
エンゲルスは、『空想から科学へ』(1880年)で、史的唯物論と「剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」をマルクスの「2つの偉大な発見」と呼び、これによって社会主義は科学になったと指摘しています。また、レーニンは、『「人民の友」とはなにか』(1894年)で、マルクスが『資本論』で資本主義経済の「骨組み」の解明にとどまらず、資本主義社会全体を「生きた構成体」として描き出したことを指摘し、『資本論』の出現によって、もはや史的唯物論は「仮説でなくて、科学的に証明ずみの命題」になったと強調しました。
史的唯物論で、一定の歴史的な発展段階にある社会全体をあらわすものとして、マルクスによって導入された概念。経済的社会構成体ともいいます。『経済学批判』(1859年)の「序言」で、マルクスは、経済的土台(→生産関係)と法律的政治的上部構造、社会的意識諸形態(→イデオロギー)など史的唯物論の基礎的概念を説明したあと、人類社会の発展、ある社会から別の社会への移行・交代を世界史的に論じるなかで、それぞれの歴史的な発展段階にある社会全体をさすことばとして社会構成体の語を用いました。
これまでの人類社会の発展段階としては、大づかみにいって原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義の4つの型があり、より高度な段階である社会主義・共産主義の社会をくわえて5つの型があると考えられています。
社会主義も共産主義も、資本主義にかわる「未来社会」論をあらわすことばとして、資本主義とともに1830年ごろに生まれました。「社会主義」という用語は、イギリスでは1827年に空想的社会主義のオウエン派の機関誌上で自分たちを「社会主義者」と呼んだのが、フランスでは1832年にはやはり空想的社会主義のサン・シモン派の機関紙で自分たちの思想を「社会主義」と表現したのが最初です。
「共産主義」の語も、やはり1830年代に登場したといわれています。フランスでは、『イカリア旅行記』(1840年)で共産主義の理想社会の様子をえがいたカベー(1788〜1856年)が、ドイツでは仕立屋職人だったヴァイトリング(1808〜1871)の共産主義が知られていました。これらは、「全般的な禁欲および粗野な平等化」を主張する「粗野な共産主義」(『共産党宣言」1890年ドイツ語版序文)でした。
社会主義も共産主義も、はじめは同じような意味でつかわれていました。しかし、1847年ごろには、社会主義は、イギリスのオウエン主義者やフランスのフーリエ主義者など「種々の空想主義的体系の信奉者」、あるいは「資本および利潤をすこしも傷つけることなしに」社会的弊害をなくそうとするブルジョア的な改良主義を指すものとされ、これにたいし「労働者のうちで、たんなる政治的変革の不十分さを確信し、社会の根本的改造を要求した部分」はみずから共産主義と名のるようになっていました(同前)。
その後、労働者階級の運動が1848〜49年のヨーロッパ革命の敗北から立ち直り、第1インタナショナルの活動をへて、各国に独自の労働者政党が組織されるようになった時期には、そうした政党の多くは「社会主義」あるいは「社会民主主義」を名乗り、マルクスたちの理論も社会主義と呼ばれました。マルクス、エンゲルスたちは、自分たちの理論やそれにもとづく運動を、共産主義あるいは科学的社会主義と呼びあらわしています。
1878年から90年にドイツの社会主義運動にくわえられた弾圧法「公共に危害を及ぼす社会民主主義の志向を取り締まる法律」の略称。社会主義者鎮圧法と訳されたり、たんに「例外法」と呼ばれることもあります。
1875年のアイゼナッハ派とラサール派の合同いらい勢力をのばしていたドイツ社会主義労働者党(のちのドイツ社会民主党)を弾圧するために、ドイツ帝国の宰相ビスマルク(1815〜1898年)が制定させた法律で、「社会民主主義的、社会主義的ないし共産主義的活動」をおこなう団体や、そのような「傾向」があらわれる集会、出版物をすべて禁止し、活動家の追放、さらには社会主義政党の影響力の強い地域への戒厳令実施もできるというものでした。その結果、ドイツの党は、議員団の議会活動をのぞいて、合法的な活動を否定され、同法が撤廃されるまでのあいだに1300の刊行物、332の労働者組織が禁止され、900件近くの追放と1500人の活動家にあわせて1000年をこえる禁固刑が科されるなどの弾圧をこうむりました。
当初、ドイツの党は大きな混乱に見舞われましたが、1879年に国外で機関紙を発行してドイツ国内にひそかに持ち込むとともに、合法的活動を認められた議会選挙を利用してたたかい、弾圧前の9議席(1878年)から1890年の帝国議会選挙では35議席に前進し、弾圧をうちやぶりました。ビスマルクはいっそうの改悪をはかりましたが、議会の保守勢力からも反対され、同法は1890年10月廃止されました。
商品の価値は、その商品の生産に必要な労働時間によって決まりますが、それは、1つ1つの商品をそれぞれの労働者がつくるのに実際にかかった労働時間ではなく、その商品を生産するのに社会的平均的に必要とされる労働時間によって決まります。なぜなら、同じ商品を生産するのに、ある労働者は優れた熟練と生産条件をもって短時間で生産し、別の労働者は熟練不足、劣悪な生産条件のためにより長い時間がかかるとしたときに、個々の具体的な労働時間で価値が決まるとしたら、後者の労働者の生産した商品の方が価値が大きいという不合理な結果になってしまうからです。このように、価値の大きさを決める社会的に平均的に必要とされる労働を、社会的必要労働と呼びます。
外界の事物は、客観的に実在しているようにみえるが、実は、自分の頭のなかにあるさまざまな感覚、観念の組み合わせであって、自分の意識から独立した客観的な存在というものは実在しないと考える観念論哲学。代表的な哲学者は、イギリス国教会の僧侶でもあったバークリ(1684〜1753年)です。
この考え方をつきつめると、世界中に存在するのは自分の意識だけであり、他人の存在も、自分の感覚の組み合わせでしかないという極端な立場に行き着きます。このような主観的観念論は、唯我論あるいは独我論とよばれます。
ドイツ語のアウフヘーベンの訳語。「揚棄」と訳される場合もあります。もともとドイツ語のアウフヘーベンには、「廃止する、捨てる」という意味と、「高める、保存する」という意味と、二様の意味があります。そこからへーゲルは、弁証法的な発展をあらわすことばとして、このことばを用いました。
ものごとの発展においては、古いものはただ否定され、捨て去られるのではなくて、古いもののなかにある積極的なもの・要素・側面は、新しいもののなかに保持され、いっそう充実、成長、展開させられます。このような弁証法的な関係をあらわすのに、止揚ということばがつかわれます。
商品は、人間の何らかの種類の欲求を満たすという性質(有用性)をもっています。ある物の有用性は、その物を使用価値にします。どのような社会であっても、およそあらゆる労働生産物は何らかの使用価値をもっています。したがって使用価値は「富の素材的内容」をなしています。さらに商品生産社会では、使用価値は「交換価値の素材的な担い手」ともなっています。
たとえば布、服といった特定の使用価値をつくりだすためには、それにふさわしい生産労働(布を織る紡織労働、服をつくる裁縫労働)が必要です。このように、その有用性が生産物の使用価値にあらわされる労働のことを、具体的有用的労働といいます。
マルクスは、『資本論』の冒頭で、資本主義社会では、社会の富は「商品の巨大な集まり」としてあらわれると指摘しています。商品は、自分が消費するためではなく、交換を目的として生産された労働生産物です。商品は、使用価値とともに交換価値(価値)をもっています。
資本主義社会では、ほとんどのものが商品として生産され、交換されています。しかし、このようにほとんどの生産物が商品のかたちをとるのは資本主義になってからのことで、それ以前は、商品そのものは存在していましたが、それは社会のごく一部に限られていました。
資本主義社会では、商品が社会の富の基本となっています。そのため、『資本論』において、マルクスは、資本主義の運動法則を解明する出発点を商品交換の法則――価値法則の究明におきました。
商品生産の最大の特徴は、社会的分業の広がりのもとで、生産手段の所有者が、他人の使用価値のために、交換を目的として生産するところにあります。商品生産のもとでは、人びとは、自分のつくった生産物を市場に出して、商品として販売し、代わりに自分の必要な商品を買う必要があります。それゆえ、商品生産の支配する経済を「市場経済」と呼ぶこともあります。
商品生産のもとでは、生産は、1人ひとりの生産者が独立しておこなうため、生産された商品がほんとうに社会的に必要とされる生産物なのかどうか、あるいは必要とされる量をこえてつくりすぎていないかどうかといったことは、市場に出して、実際に売れてみなければ分かりません。そのため、大量の商品が売れ残る一方で、必要なものが生産されないとか、商品が売れずに倒産したりということが起こりします。これが、商品生産のもとでの生産の無政府性です。
このような商品生産は、人類の歴史の早い時期から社会の一部としておこなわれていましたが、それが社会を全面的におおうようになったのは資本主義になってからです。同時に「商品生産および発達した商業は、資本主義の歴史的前提」(マルクス『資本論』)です。
生産者が自分の土地や自分の道具をつかって、自分自身と家族の労働力だけで商品を生産しているような場合を、単純商品生産といいます。それにたいして資本主義のもとでは、資本家が大規模な生産手段を所有し、労働者を雇い入れて他人の労働力をつかって大量の商品を生産しています。このような商品生産は、資本主義的商品生産といわれます。
農民や手工業者、零細な町工場や小商店などを営んでいる自営業者のこと。土地や道具、機械や工場、店舗など生産手段を自分で所有していますが、資本家のように他人を雇って搾取しているわけではなく、自分やその家族の労働によって生計をえていることが特徴です。そのため、生活状態も、労働者階級とあまりかわらない場合があります。小生産者、小所有者の訳語があてられたりします。
現代では、右のような伝統的な自営業者のほかに、開業医師、弁護士、税理士など新しい都市勤労市民層も生まれています。
資本が貨幣を取り引きに投入して、増加分をあわせてそれを回収できたとき、その増加分を「剰余価値」といいます。剰余価値という呼び方は、マルクスが名づけたものです。
剰余価値の実体は、資本による、労働者の不払労働の取得にあります。
等しい価値の商品と商品を価値どおりに交換するという価値法則のルールのうえで、資本家は、どのようにして、どこから“もうけ”を手に入れることができるのか? これがマルクス以前の経済学、社会主義の最大の難問でした。この問題にはじめて科学的な解答をあたえたのが、マルクスの剰余価値理論です。
資本家は、労働者を雇うとき、価値法則どおりに、労働力の再生産に必要な費用(必要生活費)を賃金として支払います。いまかりに、その賃金が4時間分の労働が生みだす価値に等しいとします。しかし、資本家は丸1日分の労働力を買ったのであり、労働者を働かせるのを4時間でやめなければならないということにはなりません。そこで、たとえば資本家が労働者を8時間働かせるとすると、労働者は、自分の賃金に相当する最初の4時間をこえて、さらにあと4時間労働したことになります。このあとの4時間の労働によって生みだされた価値が剰余価値です。
資本家は、労働者にはすでに労働力の価値に相当する賃金を支払っており、この剰余価値部分については、なんの対価も支払わずに、そのままみずからのものにします(→不払労働)。これが、資本主義の搾取の秘密であり、「できるだけ大きな剰余価値の生産」が資本主義の推進動機です。
なお、『資本論』の数式などでは、剰余価値はドイツ語の頭文字をとってmと略記されます。
資本主義の搾取の度合いをあらわす割合。搾取率ともいいます。剰余価値は、可変資本の増加分なので、搾取の度合いは、可変資本にたいする剰余価値の割合によってあらわされます(m/v×100%)。
これにたいして、前貸しされた資本額全体にたいする利潤の割合を利潤率といいます。この場合、前貸しされた資本額には、可変資本だけでなく不変資本もふくまれています。
植民地は、帝国主義国がその国の主権を完全にとりあげて、名実ともに自分の支配下においてしまうことです。しかし、帝国主義国が他国、他民族を従属させるやり方はそれだけでなく、レーニンは、それ以外にも「国家的従属の一連の過渡的形態」があるとして、ペルシア、中国、トルコなどの半植民地や、アルゼンチン、ポルトガルのように「政治的独立をたもちながら金融的および外交的には従属している」国をあげました(『帝国主義論』)。
またレーニンは、帝国主義が「農業地域だけではなく、もっとも工業的な地域をも併合しようとする」と指摘。帝国主義の対外侵略・植民地獲得は、「金融資本によって『好んで用いられる』政策」などではなく、帝国主義のもとで世界の領土的分割と再分割は経済から必然的にもたらされることを強調しました。
1921年から、ソビエト政権が導入した経済政策のこと。ネップは「新経済政策」の頭文字をとった略称です。
1920年、反革命勢力の内戦や革命に反対する諸外国の干渉戦争に基本的に勝利すると、食糧徴発を基本とした「戦時共産主義」と農民との矛盾が拡大しました。レーニンは、食糧の割当徴発を現物による食糧税に変え、その税額を引き下げて、農民の手元に「余剰」が残るようにする方向へと政策転換をはかりました。この転換は、やがて「余剰」を地方的な市場での自由販売を認める方向に一歩進められ、試行錯誤をへながら、市場経済を正面から認め、市場経済のなかで社会主義的な前進の道を探究する方針へと発展させられました。
このように、市場経済をつうじた社会主義建設の道をめざしたところに、「新経済政策」の重要な特徴があります。しかし、レーニンの死後、この道はスターリンによって投げすてられ、1929年から33年にかけて、強制的な「農業集団化」が強行されました。
1848〜49年の革命のあいだに、マルクス、エンゲルスが、ドイツ・ライン地方の中心地ケルンに本拠をかまえて発行した日刊新聞。1848年6月1日付の創刊号(5月31日発行)から翌年5月19日付最終号(301号)まで、ほぼ1年間にわたって発行されました。緊急の場合には、通常号のほかに、同じ日付で第2版や付録、特別付録なども出されました。
「新ライン新聞」は、「民主主義の旗」という副題をかかげて発行されました。それは、民主主義の徹底した実現を要求する労働者階級の革命的立場をあらわしています。マルクス、エンゲルスは、革命を体現すべきフランクフルトの国民議会が、人民主権を公然とかかげることをためらい、封建王権に屈服、妥協したことを痛烈に批判するなど、革命のすすむべき方向をしめす論戦をくりひろげました。
発行部数は1848年9月には約5000部、翌年5月に発行停止を余儀なくされたときにも約6000人の予約購読者があり、保守派の有力紙に対抗するほどの影響力をもったといわれています。
事物についての人間の認識や判断が、対象となる客観的な事物と一致している場合、それは真理であるといいます。
唯物論は、事物が人間の意識から独立して客観的に存在することを認めており、したがって客観的な真理が存在することも承認します。しかし、人間が、そのような客観的真理を一挙に、完全に、無条件・絶対的に認識するというのは不可能なことです。人間の認識は、個人の認識においても、また人類全体の知識という点でも、不完全な、一面的な、低い段階から、より高い、より正確な、より全面的な認識へと弁証法的に発展していきます。
したがって、認識がさらにいっそう発展することによって、真理の妥当する範囲はいっそう広がったり、逆に狭められたりします。その意味で、真理はつねに相対的なものです(相対的真理)。たとえばニュートン力学は、素粒子の世界や、光速に近い速度で運動する物体には当てはまらないという意味では相対的真理です。しかし、日常の世界における物体の運動という範囲で適切な条件をあたえれば、絶対的に成り立つ真理です(絶対的真理)。
1878〜1953年。1898年にロシア社会民主労働党〔→ボリシェビキ〕に入党、1912年に党中央委員に補充され、1922年の党大会で新設された書記長のポストに選ばれました。
スターリンは、レーニン死後、ほかの党幹部を排除して、党と国家の指導部を支配。その後、国内では、「新経済政策」の路線を転換し、1929年から強制的な「農業集団化」をすすめ、30年代には党や政府の幹部をはじめ、大量弾圧をくわえ、人間抑圧の専制的支配体制有つくりあげました。また、対外関係では1939年に、独ソ不可侵条約とともにナチス・ドイツとのあいだで東ヨーロッパを分けあう秘密協定を結び、それにもとづいて東部ポーランド、バルト3国などを併合、大国主義・覇権主義をむき出しにしました。その結果、ソ連社会は、社会主義とも社会主義への過渡期とも無縁の社会へと変質、転落していきました。
スターリンは、レーニンの死後、“レーニンの忠実な弟子”をよそおい、そのために、レーニンに批判された事実を抹殺するなど歴史の偽造さえおこないました。実際には、レーニンはその晩年に、民族問題でのスターリンの大国主義的態度や粗暴なふるまいをきびしく批判し、党書記長からの解任を提案する手紙を党大会にあてて残していました。この手紙も、スターリン死後までは一般には公開されませんでした。
1723〜1790年。イギリスの経済学者。スコットランド出身。古典派経済学の代表者で、主著は『諸国民の富』(1776年、『国富論』と訳されることもあります)など。
スミスは、労働一般が富の唯一の源泉であると宣言するとともに、「労働の等しい量はいつでもどんなところでも、労働する者にとって等しい価値をもつといってよいであろう」(『諸国民の富』)といって、労働価値説をとなえました。しかし彼は、労働価値説をつらぬきとおすことができず、単純商品生産をとりあつかう限りでは労働価値説に立っていながら、資本主義のもとで展開されるより複雑な問題をとりあつかうようになると、労働価値説が成り立つかどうかあいまいな議論になってしまいました。
マルクスは、『資本論』第4部として経済学の歴史をとりあつかった『剰余価値学説史』のなかで、スミスについて、“彼は、一方では、科学的な精神をもって、「ブルジョア社会の内的生理学に突入しよう」、資本主義経済の隠れた構造を明らかにしようとするが、他方では、資本主義経済の表面にあらわれている外観的な現象を「それが現われ現象するとおりに、記述し、分類し、物語り」「専門用語」をつくりだしてはその現象を「言葉で再生産」しようとするだけだ”と指摘。スミスにあっては、この2つの側面がたえず入り交じって矛盾しあっていると記しています。
生産にあたって、人間と人間とがとりむすぶ社会的関係。そのなかでも、直接生産にたずさわる人間(直接的生産者)と生産手段との関係、直接的生産者が生産手段を所有しみずから働くのか、他人の所有する生産手段をつかって働かされるのかが決定的な意味をもちます。
1つの社会には、さまざまな生産関係がありますが、それらの総体が社会の経済構造(土台)をかたちづくり、法律や政治制度、あるいは、宗教や哲学などさまざまな社会的意識(→イデオロギー)は、この土台に照応しています(→史的唯物論)。
生産のための原料、および道具・機械などを総称して生産手段といいます。原料は、人間が労働によって働きかける対象という意味で「労働対象」とよばれ、道具や機械などは、労働対象に働きかけるための手段であるという意味で「労働手段」とよばれます。労働するうえで必要な土地や建物なども労働手段の一部です。生産手段は、労働対象と労働手段とをふくんでいます。主として生産手段を誰が所有しているかにしたがって、階級が決定されます。
資本主義では、労働者は生産手段をもたず、生きていくためにみずからの労働力を資本家に売って、賃金をえます。資本家は生産手段を所有し、賃金を支払うかわりに労働者を 働かせ、できあがった生産物は、生産手段の所有者である資本家のものになります。
生産手段の社会化とは、資本主義のもとで「社会がみずから管理する以外にはどのような管理も手におえないまでに発達した生産力を、社会が公然と、率直に掌握する」(エンゲルス『空想から科学へ』)ことです。これによって、少数の私企業、資本家の利潤第一主義が生み出していたさまざまな矛盾と害悪を解決し、社会全体のための生産が可能になります。
生産手段の社会化とともに階級の差異がなくなり、階級対立の消滅とともに国家は死滅へとむかい、やがて社会関係への国家の干渉は余計なものとしてひとりでに眠り込んでいきます。それゆえマルクス、エンゲルスは、共産主義の将来社会では、人びとは国家なしで生産手段を管理し、生産過程を管理するというのが経済活動の一般的なあり方になると考えました。こうした将来社会を、マルクスは『資本論』で「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に1つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(第1章)と特徴づけています。
社会化の対象となるのは生産手段だけであり、消費手段は個人の私有が認められるだけでなく、ますます豊かに保障される――これがマルクスたちの見地でした。『資本論』においても、社会主義への変革によって「協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有」を基礎として「個人的所有を再建する」(第1部第24章)と指摘されています。“国際労働者協会(第1インタナショナル)は労働者の財産を取り上げようとしている”という攻撃にたいして、エンゲルスも、「インタナショナルは、個々人に彼自身の労働の果実を保障する個人的な財産を廃止する意図はなく、反対にそれを確立しようと意図している」(「マッツィーニのインタナショナルにたいする関係についてのエンゲルスの演説の報道」)と答えています。
かつてのソ連でおこなわれた生産手段の国有化・集団化なるものは、労働者を経済の管理から締め出し、抑圧するものでした。したがって、国有化したからといって生産手段の社会化が実現されたとみなすことができないことは明らかです。
商品生産社会では、何をどれだけ生産するのかは、個々の生産者が独自に決め、生産をおこないます。そのため、社会全体としては何がどれだけ生産されるかは無計画的、無政府的にならざるをえません。これを、生産の無政府性といいます。
生産の無政府性のもとでは、それぞれの商品が、社会的に必要な生産物であるかどうか、需要に裏づけられた生産物であるかどうかは、市場に売りに出したあと、その商品が実際に売れたかどうかによってしか分かりません。そのため、一方では必要なものが生産されなかったり、他方では商品が売れ残ったり、売れ行き不振で企業が倒産したりすることもおこります。
人間が、自然に働きかけ、自然を加工・変革して、人間に必要な生産物をつくりだす能力のこと。広くとらえた場合は、生産力には、「土地の豊度などのような自然的条件」もふくまれますが、そうした自然的条件も人間の労働と結びつかなければ、規実のものとはなりません。その意味で、生産力の中心をなすのは、自然に働きかける人間の主体的な力としての労働の生産力(労働の生産性)です。その場合、生産力の大きさは、1人の労働者が所定の時間内にどれだけの量の生産手段を生産物に転化することができるかによってあらわされます。
労働の社会的生産力の発展は、大規模な協業を前提とし、そのもとで、分業にもとづく協業の組織、生産手段の節約、機械のように共同でしか使用できないような労働手段の利用、生産過程への科学・技術の応用などによって発展させられます。
生産力は、つねに具体的有用的労働の生産力です。それゆえ、生産力が2倍になれば、同じ労働時間で生産される使用価値の量も2倍になります。
これにたいして、価値について考える場合には、労働の具体的有用的なすがたは度外視されている(→抽象的人間的労働)ので、生産力の変化は価値の大きさにはまったく影響しません。それゆえ、生産力がどんなに変動しても、同じ時間内に労働が生み出す価値の総量は変化しません。したがって生産力が2倍になった場合は、商品1個の生産に必要な労働時間は半分になるため、商品1個の価直は半分になります。
自然や社会、人間を全体としてどう見るかという、ものの見方、考え方のこと。哲学で「世界」という場合、地理上の世界のことでなく、人間をとりまくすべての自然、社会をさしています。すべての人は、意識しているかいないか、科学的かそうでないかのちがいはあっても、なんらかの世界観をもっています。哲学は、この世界観をきちんと整理し、系統だて、理論的に考えることを課題としています。
哲学としての世界観にとって、いちばん根本の問題は、世界の根源をなすものは物質、自然、存在なのか、それとも精神、意識、思考なのかという問題です。エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』のなかで、これが「哲学の根本問題」だと指摘しました。
レーニンは、『帝国主義論』(1917年)のなかで、(カルテル、トラストなど独占の形成は、資本輸出の増大とも結びついて、各国の独占団体のあいだの国際的協定、国際的カルテルの形成をもたらすと指摘し、これを資本家団体のあいだでの「世界の経済的分割」と呼びました。
レーニンはまた、このような国際的カルテルを「超独占」と呼び、「資本と生産との世界的集積の新しい段階であり、これまでのものとは比較にならないほど高い段階」であると指摘。同時に、この「超独占」はけっして各国の独占体のあいだの対立や闘争を排除するものでないことを強調し、国際的カルテルの形成を「資本主義のもとでの諸国民の平和」と結びつけるカウツキーの主張を批判するとともに、力関係が変化したときには「再分割」がさけられず、それをめぐる闘争がいかに激化するかを解明しました(→世界の領土的分割)。
レーニンは、『帝国主義論』(1917年)のなかで、資本家団体のあいだの世界の経済的分割は、それを基礎として、各国のあいだでの領土的分割、植民地獲得、「経済的領土」獲得のための闘争をもたらすと指摘しました。
植民地獲得の侵略政策は、帝国主義の段階になってはじめて起こってきた問題ではありません。しかし、19世紀末までに資本主義諸国による植民地獲得競争は地球全体をおおいつくし、「占取されていない土地の占拠を完了した」という意味で「地球の最終的分割」を完了しました。これが帝国主義段階の特徴です。この事実から、世界の「再分割」のためには、「ある『領有者』から他の『領有者』への移行」、すなわち植民地獲得をめぐる帝国主義戦争がさけられないという結論がみちびかれます。「全世界が分割されたとき、植民地の独占的領有の時代、したがってまた、世界の分割のためと再分割のためのとくに先鋭化した闘争の時代が不可避的にやってきた」(『帝国主義論』)。
しかし第2次世界大戦後は、植民地体制が崩壊し、第1次大戦当時の「世界の領土的分割の完了」といわれた状況とは大きく異なっています。世界政治のルールとして、民族自決権が公認され、世界的にも、またそれぞれの国においても帝国主義・独占資本主義の領土的野望に反対する世論と運動が広がりました。そうした状況のもとで、今日では、独占資本主義の本来的な侵略性、領土欲が必ず帝国主義的な世界の領土分割をもたらすとはいえなくなっています。
労働力の価値が変わらないとすれば、資本家は、労働日すなわち1日の労働時間を延長することによって、より多くの剰余価値を獲得することができます。このようなやり方を「絶対的剰余価値生産」といいます。
たとえば、労働者の1日の生活に必要なものを生産するのに4時間の労働が必要だとすると、この場合、必要労働時間は4時間です。このとき、資本家が1日の労働時間を8時間から10時間に延長すれば、剰余労働時間は4時間から6時間に増え、剰余価値の量は1・5倍に増えることになります。
絶対的剰余価値生産は、相対的剰余価値生産とともに、資本家が搾取を強めるための方法の1つです。
1918年夏から1920年にかけて、外国帝国主義の干渉戦争と国内の反革命勢力の内戦とのなかで、ソビエト政権がとった経済政策。1918年はじめごろから食糧危機、飢餓が深刻化し、ソビエト政権は、事態を打開するために農民の手元から穀物を徴発する非常措置をとらざるをえませんでした。しかし、この措置は、当時、レーニンやボリシェビキによって、一時的な非常措置ではなく、まっすぐに「共産主義的な分配」にすすむ直線コースだと位置づけられ、市場経済(→商品生産)を敵視し、商品経済の絶滅が社会主義への前進の課題とされました。
「戦時共産主義」は、干渉戦争と内戦の終結後、農民との矛盾を拡大し、1921年3月には、農民の不満を背景に、クロンシュタット軍港の兵士の反乱まで起こる事態となりました。相前後して、レーニンは「新経済政策」への転換をはかりましたが、「戦時共産主義」という名前は、この「新経済政策」への転換の第一歩となった論文「食糧税について」(1921年)のなかで、レーニン自身によって用いられたものです。
1848年2月にフランスで革命(2月革命)がおこり、つづいて3月に、ドイツ、オーストリアなどでも革命(3月革命)がおこり、翌49年にかけて、ヨーロッパのほとんどの国に影響をあたえました。
フランスでは、いわゆる7月王政が倒され、普通選挙権にもとづく共和制が宣言されました。2月革命で、労働者階級ははじめて独自の勢力として登場し、革命の推進力の役割をはたしました。多数の封建的君主国に分かれていたドイツでは、封建君主制の廃止、民族統一を求めて、ブルジョアジーとともに労働者、農民が立ち上がり、反動の主柱であったオーストリア帝国の宰相メッテルニッヒの辞任や男子普通選挙権による憲法制定議会(国民議会)をかちとりました。
マルクス、エンゲルスは革命の知らせを聞くと、ただちにドイツに帰国し、1848年6月から翌年5月まで「新ライン新聞」を発行し、民主主義の徹底した実現を要求する労働者階級の革命的な立場を明らかにしました。しかし、1849年7月に革命は敗北。マルクス、エンゲルスはイギリスに亡命しました。
資本主義の好況・恐慌・不況の景気循環のなかで、労働者の一部は、たえず失業者、半失業者になる運命にあります。マルクスは、こうした失業状態、半失業状態にある労働者を「相対的過剰人口」と規定し、「産業予備軍」とも呼んでいます。
相対的過剰人日が生まれるのは、資本主義が発展すればするほど、資本の総額にしめる不変資本の割合(→資本の有機的構成)が高まり、その分、労働力にたいする需要(=可変資本の割合)が相対的に減少していくためです。
相対的過剰人口は、資本にとっては、生産を拡大するときに「いつでも使える搾取可能な人間材料」(『資本論』第1部第23章)を提供するとともに、労働者に低賃金、過密労働などを強制し、資本に縛りつける“くさび”の役割をはたします。マルクスは、相対的過剰人口は、資本主義的蓄積のテコであり、資本主義の「存在条件」(同前)であると指摘しています。
なお「相対的」というのは、あくまで資本の必要にくらべてという意味です。マルクスは、「あすにでも全般的に労働が合理的な程度に制限され、労働者階級のさまざまな層にたいして労働が年齢と性とにふさわしく等級別に再配分されるならば、現在の規模で国民的生産を継続していくには、現存の労働者人口では絶対的に不十分であろう」(同前)と指摘しています。
ソビエトというのは、ロシア語でもともと「助言、会議」などを意味することばでした。
1905年の第1次ロシア革命で、全国的な10月ストライキがたたかわれたときに、ストライキを指導する工場のストライキ委員会から発展し、首都ペテルブルグをはじめ、全国の多くの都市に、労働者代表ソビエトというかたちで人民の代表組織がつくられました。モスクワでは、労働者ソビエトとならんで、兵士代表ソビエトも組織され、農村にも農民代表ソビエトが広がりました。ソビエト創設の知らせを亡命先スイスからの帰国途上聞いたレーニンは、ソビエトに「臨時革命政府の萌芽」との意義づけをあたえました。
ソビエトは、1917年の2月革命で復活。臨時政府との「2重権力」のもとで、事実上、労働者・農民の革命的民主主義的権力の機関となり、10月革命によって、労働者・兵士・農民ソビエトが国家権力をにぎりました。
ソビエトは、工場などの生産単位や兵営ごとの選挙人集会において、公開投票で選出された代議員が市・村ソビエトを構成し、その代表が地方ソビエト大会、全ロシア・ソビエト大会を構成しました。なお、ソビエト制度は、ロシア革命の独自の条件のもとに生まれたもので、資本家など搾取階級から選挙権・被選挙権を取り上げる措置なども、革命の具体的な経過のなかでとられた措置です。
必要労働時間を減らすことによって、同じ労働日のなかでも、剰余価値を増やすやり方を「相対的剰余価値生産」といいます。
社会全体の生産力が高くなるのにつれて、商品の価値は低下し、労働者の生活手段もより安くなります。それにともなって、労働力の価値(=労働力の再生産費)も低下します。その結果、たとえば、必要労働時間が4時間から3時間に減ったとすると、同じ1日8時間の労働でも、剰余労働時間は4時間から5時間に増え、したがって剰余価値も1・25倍に増えることになります。これが相対的剰余価値生産です。
これにたいし、労働日を延長することによって剰余価値を増やすやり方を絶対的剰余価値生産といいます。
マルクスは、古典派経済学に対比して、経済の表面にあらわれた外観上の現象を分類したり並べたてたりして、目の前にあらわれるままに記述するだけの非科学的な経済学のことを、俗流経済学とよびました。
「俗流経済学というのは、外見上の連関のなかだけをうろつき回り、いわばもっとも粗雑な現象のもっともらしい解説とブルジョア的自家需要とのために、科学的経済学によってとうの昔に与えられた材料を絶えずあらためて反芻し、それ以外には、自分たち自身の最善の世界についてのブルジョア的生産当事者〔資本家〕たちの平凡で独りよがりな諸観念を体系づけ、学問めかし、永遠の真理だと宣言するだけにとどまる経済学をさしている」(『資本論』)。
社会全体の生産の再生産がとどこおりなくすすむうえではどんな条件が必要かを明らかにするために、マルクスは、社会的生産をどんな使用価値を生産しているかという視点から2つの部門に大きく分けました。すなわち、生産手段(機械、道具や原材料)を生産する第I部門(生産手段生産部門)と、資本家や労働者の生活手段として消費される商品を生産する第II部門(消費手段生産部門)です。
第I部門で生産されるのは生産手段ですから、第I部門の資本家および労働者は直接それを消費することはできません。つまり、第I部門の資本家と労働者は、彼らの生活に必要な消費手段を、第II部門との交換をつうじて手に入れなければなりません。これにたいし第II部門では、消費手段が生産されるだけなので、第II部門の資本家は、生産に必要な機械・道具や原料を、交換によって第I部門から入手しなければなりません。
マルクスは、『資本論』第2部第3篇「社会的総資本の生産と再生産」のなかで、素材(使用価値)と価値の両面からこのような再生産がなりたつための条件を、再生産表式をつかって究明しました。
1889年7月、フランス革命百年を記念してパリで国際社会主義労働者大会がひらかれ、20カ国約400人の社会主義者が参加。これが、事実上、第2インタナショナルの創立大会となり、その後、3年ないし4年ごとに大会がひらかれるようになりました。1900年の第5回大会いらい「国際社会主義者大会」と称し、事務局が置かれました。
第2インタナショナルは、多くの国ぐにの労働者政党のゆるやかな連携をつくり、科学的社会主義と労働運動を大衆的にひろめる役割をはたしました。しかし、エンゲルスの死後(1895年)、しだいに支配階級との対決を避ける日和見主義的な傾向が強くなりました。とくに1914年、第1次世界大戦が起こったとき、参加していた各国の党の多くが帝国主義戦争に賛成したことによって、事実上崩壊しました。
なおパリ大会は、8時間労働日の法制化などを決議し、翌1890年5月1日を期して国際的なデモンストレーションをおこなうことを呼びかけ、これがメーデーの始まりとなったことでも知られています。
肯定と否定、生と死、原因と結果というように対立した2つのものが、対立していると同時に、じつはたがいに切り離せないものであり、対立しあっているにもかかわらずたがいに相手をふくみあっている関係にあることを示す弁証法の法則の1つ。
エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、生と死の問題をとりあげ、生と死は日常的には明確に区別されるが、生理学的には死は一定の段階をへて進行する過程であり、したがって生から死へ移り変わる瞬間を確定することは不可能であると指摘しています。また、どの生物も、各瞬間に外部から新たな物質を取り入れて消化し、他の物質を排泄しており、その身体を構成する細胞も各瞬間に死滅し、新しく生まれ、しばらくすれば身体を構成する物質はすっかりいれかわってしまうという事実を指摘して、「どの生物もつねに同一のものであり、しかもなお他のものである」とのべています。
対立物の相互浸透の法則は、ものごとの変化・発展を全面的にとらえようとしたとき、「白は白、黒は黒」といった絶対的・固定的な対立、境界線にあてはめるような形而上学的なやり方ではとらえきれないことを示しています。
多数者革命という考え方は、エンゲルスが、最晩年、マルクスと2人で革命運動にはじめて参加していらいの半世紀をふり返り、その結論として指摘したものです。すなわち、1895年、亡くなる直前に、エンゲルスは、マルクスの『フランスにおける階級闘争』を編集し、そのドイツ語版序文のなかで、それまでの革命運動をふりかえり、革命の歴史的な型として次のように論じました。
(1)ブルジョア革命のように、これまでの革命は、少数の指導者たちが、「多数者のための革命」だといって大衆を率いながら、実際には、少数者の利益のための革命だった(少数者の利益のための少数者の革命)。
(2)1848〜49年の革命のころ、マルクスたちは、ほんとうに多数者の利益のための革命をめざしたが、実際には革命の必要性を自覚した人はほんの少数だったために、革命は多数者のための革命ではあったが、自覚した少数者によって指導されざるをえないと考えていた(多数者の利益ための少数者革命)。
(3)しかし、いまや「無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行した革命の時代は過ぎ去った」のであり、「社会組織の完全な改造」のためには、多数者自身が参加し、多数者自身がその目的を理解していることが必要になった。この「多数者の利益のための多数者の革命」こそが革命の本道である。
どんな社会でも、生産は、1度きりで終わる過程ではなく、たえずくり返される継続的な過程です。したがって、あらゆる社会的な生産は同時に再生産です。この再生産が同じ規模でくり返される場合、それを「単純再生産」といい、前よりも大きな規模でおこなわれる場合を「拡大再生産」といいます。
マルクスは、資本主義のもとでの単純再生産は「同じ規模での生産の単なる繰り返し」にすぎないようにみえるが、じつは「その過程が単なる孤立的な過程の経過であるような外観上の性格を消滅させる」と指摘し、たとえば、賃金というものは、資本家が労働者を雇い入れたときに資本家が自分の元本から支払っているように見えるが、再生産のなかで考えると、労働者は、じつは自分たちが再生産している生産物の一部分を、賃金で買い戻しているにすぎないことが明らかになると説明しています。
再生産の繰り返しによって、最初の出発点は資本主義的生産の結果としてたえず新たに生産され、永久化されます。労働者は賃労働者として再生産され、資本家は資本家として再生産されます。つまり、資本主義的生産は、商品、剰余価値を生産するだけでなく、資本関係そのもの、すなわち資本家と賃労働者を再生産しているのです。
現実の資本主義経済では、まったく生産の規模が拡大しないというのは現実的ではありませんが、「蓄積がおこなわれる限りでは、単純再生産はつねに蓄積の一部分を形成」しており、「蓄積の現実的一要因」をなすものです(『資本論』第2部第20章)。
価値をかたちづくる抽象的人間的労働は、「平均的に、普通の人間ならだれでも、特別な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出(『資本論』)です。このような労働を単純労働といいます。
それにたいし、より複雑で、より高度な技術や熟練を必要とする労働を複雑労働といいます。価値の大きさを決める場合、複雑労働は、「何乗かされた、あるいはむしろ何倍かされた単純労働としてのみ通用」(同前)します。さまざまな複雑労働が単純労働に還元される比率は、「生産者たちの背後で1つの社会的過程」(同前)すなわち市場での交換をつうじて確定されます。
賃金とは、労働力の価値、あるいはそれを価格であらわしたもののことです。労働力の価値には、労働者自身を維持するために必要な生活費のほか、子どもを育てるための費用、労働者の技能修得のための費用などがふくまれます。
資本家は、労働力の価値を支払って労働者を雇い入れ、1日働かせます。そのさい、賃金に相当する価値を生みだすだけの時間(必要労働時間)をこえて、労働者を働かせることによって剰余価値を手に入れます。したがって、剰余価値を生産する労働部分は、対価を支払われていない不払労働です。
ところが、資本主義経済においては、賃金は労働力の価値としてではなく、「労働の価格」という姿をとり、不払労働をふくめ1日の労働全体にたいして賃金が支払われているような外見を生み出します。このように、賃金(労賃)という形態は、資本主義の搾取を覆い隠す役割をはたしています。
なお、かつて銀貨で支払われていたところから、「賃銀」という書き方をすることもあります。
イギリスでは、1832年に選挙法が改正されましたが、労働者の選挙権は認められませんでした。そのため、労働者をふくむ国民全体に選挙権をあたえよという運動がおこりました。この運動は、1838年に、(1)成年男子の普通選挙権、(2)秘密投票、(3)毎年選ばれる1年任期の議会、(4)議員にたいする財産資格の廃止、(5)議員への歳費の支給、(6)10年ごとの国勢調査にもとづいて調整される平等選挙区、という6カ条の要求を「人民憲章」(ピープルズ・チャーター)としてかかげたところから、「チャーティスト運動」と呼ばれました。
運動は、1839年、42年、48年に大きな高まりを見せ、政府・議会に実現をせまりました。しかし、ヨーロッパ大陸での1848〜49年の革命の敗北とともに退潮に向かいました。マルクスは、チャーティスト運動の意義を高く評価し、普通選挙権の実現はイギリスの労働者階級にとって政治的権力の獲得と同意義であると論じました。
1865年、マルクスは国際労働者協会(第1インタナショナル)の指導部の会議(中央評議会)で講演し、労働組合による賃金引き上げ闘争を否定するウェストンの誤りを批判しました。マルクスの没後、娘のトゥッシ(エリナ)はこの講演の原稿を発見し、1898年にそれを刊行しました。これが『賃金、価格および利潤』です。
全体は14の章からなり、前半の5章はウェストンへの反論で、後半の9章は、その批判のもととなった経済学の理論的な説明にあてられています。すでに『資本論』のいちおうの原稿を完成させるところまで研究を進めていたマルクスは、その成果を本書にも存分に生かしています。マルクスがこの講演で解明した見地は、やがてインタナショナル全体の理論的・実践的な財産となり、翌1866年にジュネーブで開かれたインタナショナル第1回大会での決議「労働組合。その過去、現在、未来」(マルクスが起草)に結実しました。
マルクスは、経済学の研究をはじめて間もない1847年に、ベルギーのブリュッセルにあったドイツ人労働者協会で、労働者のための平易な経済学の講義をおこないました。その講義をもとに、マルクスは、1849年、『新ライン新聞』に「賃労働と資本」と題する連続論説を掲載しました。しかし、1848〜49年の革命が敗北に向かうなかで、『新ライン新聞』自体が発行禁止となり、連載は5回で未完に終わりました。これをまとめたのが『賃労働と資本』です。
当時、マルクスはまだ経済学研究をはじめたばかりで、商品の価値や搾取の本質の解明に迫っていますが、また剰余価値の理論に到達していなかったため、剰余価値による搾取の説明は登場していません。
1891年に労働者向けの「宣伝用」として新しい版が出版されるときに、エンゲルスは、その後のマルクスの研究の発展に照らして最低限の補足と変更が必要だとして、原本では労働者が賃金とひきかえに「労働」を売る、となっていたものを、「労働力」を売る、とあらためました。こんにちでは、この改訂にもとづいた版で広く親しまれています。
16世紀以降、ロシアを支配した皇帝の専制的支配体制のこと。ロシア語で皇帝がツァーリと呼ばれたところから、ツァーリズムといいます。戦前の日本の天皇制などとならぶ絶対主義的君主制の1つ。広範な農奴制とロシア正教会を基盤として、強大な軍事・警察力をもち、ロシア人民を支配、収奪するだけでなく、ロシア帝国内の他民族抑圧、対外侵略の政治をおこないました。19世紀には、国内の革命運動・民族運動への弾圧とともに、東ヨーロッパのブルジョア的な自由主義、民族独立の運動にも弾圧をくわえました。
ツァーリズムの専制体制は、1905年の第1次ロシア革命で、国会開設などの譲歩を余儀なくされましたが、1907年にはクーデター的手法で反動支配をたてなおしました。1917年、2月革命によって打倒されました。
20世紀をむかえて独占資本主義の時代に入り、個々の国ではなく、資本主義の主だった国ぐにのすべてが、他国にたいする侵略主義や植民地政策を基本的な特質とするようになった発展段階の資本主義のこと。これを、レーニンは、「資本主義の最後の段階」としての「帝国主義の段階」ととらえました。もちろん、帝国主義は独占資本主義に固有のものではなく、一般に他国にたいする侵略主義や他国を植民地として支配することをさしています。そのような帝国主義は、古代ローマ帝国のように、資本主義以前の時代にも存在しました。
レーニンは、『帝国主義論』(1917年)において、帝国主義の経済的特徴として、次のような5つの標識をあげました。
「帝国主義とは、独占体と金融資本の支配が形成され、資本輸出が卓越した意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、そして最大の資本主義諸国による地球の全領土の分割が完了した、そういう発展段階の資本主義である」。
また、論文「帝国主義と社会主義の分裂」(1916年)では、帝国主義を、「資本主義の特殊な歴史的段階」であり、(1)独占資本主義、(2)「寄生的な、または腐敗しつつある資本主義」、(3)「死滅しつつある資本主義」であると定義しました。
このように、レーニンの『帝国主義論』は、帝国主義列強が植民地の獲得合戦を繰り返し、帝国主義戦争が不可避であるという時代において、独占資本主義諸国の帝国主義的侵略を厳しく告発したものです。しかし第2次世界大戦後は、中国革命やベトナム革命の勝利、民族解放運動の高まりなどによって植民地体制が基本的に崩壊し、20世紀前半のように、資本主義列強が世界の領土的分割を完了し、再分割のための帝国主義戦争がさけられないという状況は大きく変化しています。それゆえ、世界の資本主義が独占資本主義の段階にあるという基本には変わりはないものの、独占資本主義国のすべてにおいて、独占資本主義が本来もっている侵略性、支配欲がそのまま他国への侵略や抑圧となってあらわれているかどうかは具体的に検証することが求められます。
帝国主義国による植民地獲得のための戦争のこと。レーニンは、『帝国主義論』(1917年)において、20世紀初頭において、世界の領土的分割は完了しているため、帝国主義諸国間の力関係の変化におうじて、植民地・勢力圏の再分割のための帝国主義戦争は不可避であると指摘しました。
事実、第1次世界大戦は、主要な資本主義諸国がイギリス・フランス・ロシア陣営とドイツ・オーストリア陣営に分かれて対決しあった最初の世界戦争で、どちらの側からも植民地、勢力圏の分け取りをねらう帝国主義戦争でした。「1914〜1918年の戦争は、どちらの側からしても帝国主義戦争(すなわち、侵略的、強盗的、略奪的な戦争)であり、世界の分け取りのための、植民地や金融資本の『勢力範囲』等々の分割と再分割のための戦争であった」(レーニン『帝国主義論』)。
ほかに、代表的な帝国主義戦争としては、1898年のスペイン=アメリカ戦争(アメリカがスペインに戦争をしかけ、キューバ、グアムを獲得し、フィリピンを勢力下に)、1899〜1902年のボーア戦争(イギリスが南アフリカを植民地に)、1904〜05年の日露戦争(日本とロシアが朝鮮、中国東北部の支配権をめぐってたたかった)などがあります。
第2次世界大戦後は、植民地諸国が独立を達成して植民地体制が崩壊し、帝国主義諸国による領土的再分割=帝国主義戦争は不可避であるというレーニンが『帝国主義論』で指摘したような状況とは大きく異なってきています。
原題は『資本主義の最高の段階としての帝国主義(平易な概説)』。レーニンが、第1次世界大戦のさなかである1916年に執筆し、2月革命後の1917年なかばごろに出版されました。
レーニンが『帝国主義論』を書いた直接の動機は、第1次世界大戦の本当の性格を明らかにすることでした。第1次世界大戦は、主要な資本主義諸国が2つの陣営に分かれて対決しあった帝国主義戦争でしたが、各国の政府・支配階級は「祖国防衛」の正義の戦争だと主張しました。戦争前には、各国の社会主義政党は戦争反対の立場を表明していましたが、開戦とともに、その多くは「祖国防衛」論に賛成し、戦争支持の立場に転落しました(第2インタナショナルの崩壊)。
それにたいし、レーニンは、どちらの側からも帝国主義戦争であるという戦争の本当の性格をだれも反論できないかたちで明らかにするという課題にとりくみました。そのために執筆されたのが『帝国主義論』です。レーニンが努力したのは、「すべての交戦列強の指揮者階級の客観的立場」を、「すべての交戦列強と全世界の経済生活の基礎にかんする資料の総体」にもとづいて明らかにすることでした。そのために亡命先のチューリヒ(スイス)の図書館を利用して、148冊の著書と49種類の定期刊行物に掲載された232の論文からの抜粋をふくむ15冊ものノートをつくり、世界資本主義の現状にかんする膨大な材料を徹底的に研究し、それにもとづいて『帝国主義論』を書き上げました。
『帝国主義論』の出版そのものは、1917年の2月革命でロシア・ツァーリズムが倒されたあとでしたが、合法的な出版を意図していたため、執筆はもっばら理論的、経済的な分析に限定し、ツァーリズムの検閲を考慮した表現で書かざるをえませんでした。
レーニンが『帝国主義論』で力点を置いたもう1つの問題は、カウツキーの誤った理論的・政治的立場への批判でした。当時、カウツキーは、国際的にもマルクス主義の代表的な理論家とされていましたが、開戦後、各国の社会主義政党が「祖国擁護」論へと変節したときに、それとたたかうどころか「祖国擁護」派の仲間入りをし、国際的な社会主義勢力に大きな打撃をあたえていたのです。しかし、このカウツキー批判の部分は、出版社のメンシェビキたちによって一部はレーニンに無断で削除されてしまいました。その結果、『帝国主義論』の初版は、レーニンの原稿からは大きく改ざんされたかたちで出版されました。『帝国主義論』がレーニンの原稿どおり出版されたのは、レーニン死後の1929年のことでした。
18世紀末から19世紀初めにかけてドイツで花開いた哲学の流れ。カント(1724〜1804年)にはじまり、フィヒテ(1762〜1814年)、シェリング(1775〜1854年)をへて、へーゲル(1770〜1831年)において完結に達しました。
資本主義の発展が遅れ、封建制を色濃く残していたドイツの専制的政治体制のもとで、この哲学は、当時の支配体制やそれを擁護する宗教的世界観に妥協、譲歩し、観念論哲学というかたちをとりました。しかし他方で、当時のもっともすすんだ自然科学の成果や合理的、科学的思想を集大成するという進歩的な役割をになうことになりました。ここに、ドイツ古典哲学の矛盾した二重の性格がありました。へーゲルが、あらゆるものの変化、発展という弁証法をとなえながら、それを自分の哲学で完結する観念論の体系に閉じこめてしまったのは、そのことを端的にあらわしています。
このようなドイツ古典哲学は、資本主義の発展とともに解体にむかわざるをえませんでした。へーゲル哲学から出発して唯物論に到達したフォイエルバッハ(1804〜1872年)は、この哲学の終結をあらわしています。
ドイツ古典哲学は、イギリスの古典派経済学、フランスの社会主義思想とともに、科学的社会主義の3つの源泉の1つです(→「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」)。「もし、ドイツ哲学、とくにへーゲル哲学というものがさきだって存在していなかったなら、ドイツの科学的社会主義……は、けっして生まれてこなかったであろう」(エンゲルス「『ドイツ農民戦争』1870年版の序文への追記」)。
各国の経済と国民生活にたいして支配的な力をふるっている大企業の集団のこと。
資本主義の発展、とくに工業の巨大な成長にともなって、大企業への生産の集中と集積がすすみ、やがてその発展の一定の段階で、大企業どうしがカルテル、トラストなどで結びつき、独占団体を生み出していきます。レーニンは、『帝国主義論』(1917年)において、ヨーロッパでは20世紀はじめに「古い資本主義が新しい資本主義によって最終的にとってかわられた」ことを明らかにしています。
競争の独占への転化は、(1)生産の社会化の大規模な発展をもたらし、資本家たちの意志に反して、「競争の完全な自由から完全な社会へ移行する」(『帝国主義論』)新しい社会秩序にひきずりこみます。(2)また、生産の社会化と私的資本主義的取得との矛盾という資本主義の根本矛盾をいっそう深化させ、「わずかばかりの独占者の他の住民にたいする抑圧は100倍も重く、……いっそう耐えがたいもの」になります。大企業と小企業の関係も「独占に、その抑圧に、その横暴に服従しないものにたいする独占者による絞め殺し」の関係となります。(3)同時にレーニンは、独占が成立したからといって、資本主義全体を独占一色にぬりつぶすような機械的な見方をとらず、恐慌をなくすどころか、経済的発展の不均衡と混沌状態をいっそう激しくすることを強調しました。
独占・独占体が支配的となった段階の資本主義のこと。独占資本主義は、帝国主義の経済的基礎をなしています。
独占資本主義という概念はレーニンがつくりあげたもので、レーニンは、「帝国主義のできるかぎり簡単な定義をあたえなければならないとすると、帝国主義とは資本主義の独占段階である、と言うべきであろう」、「帝国主義のもっとも深い経済的基礎は、独占である。これは資本主義から成長し、資本主義、商品生産、競争という一般的環境のもとにあり、この一般的環境との恒常的で出口のない矛盾のなかにある資本主義的独占である」(『帝国主義論』)と指摘しました。
帝国主義を資本主義の発展における新しい段階=独占資本主義の段階としてとらえる見地は、先行する帝国主義や金融資本にかんする研究に欠けていたものであり、「死滅しつつある資本主義」として把握することを可能にしたものです。
しかし、レーニンの『帝国主義論』は、帝国主義列強が植民地の獲得合戦を繰り返し、帝国主義戦争が避けられないという時代のものです。第2次世界大戦後は、植民地体制が基本的に崩壊し、20世紀前半のように、資本主義列強が植民地獲得合戦をくりひろげ、そのための帝国主義戦争は不可避であるという状況は大きく変化しました。それゆえ、今日では、独占資本主義国だからといってただちに帝国主義国であるということはできません。独占資本主義が本来もつ侵略性、支配欲が実際に他国への侵略や抑圧となってあらわれているかどうかは、具体的に検証することが求められます。
生産力の発展は、ほんらいは人間の労働力の支出を減らし、より少ない労働力の支出でますます大量の生産手段を動かし、よりたくさんの使用価値をつくりだすことができるようになるはずです。ところが、資本主義の基礎のうえでは、労働の生産力の発展は、資本家による支配と搾取の手段に転化し、労働者を「機械の付属物」におとしめ、労働苦を強め、労働条件を悪化させ、労働者の生活時間をますます奪い去る結果になります。
マルクスは、こうした資本主義的蓄積の現実を「資本の蓄積に照応する貧困の蓄積」と呼び、「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級〔労働者階級〕における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である」(『資本論』第1部第23章)と指摘しました。
原始共産制が解体したあとに生まれた人類最初の階級社会。奴隷所有者(奴隷主)が、生産手段だけでなく、実際に生産労働をおこなう人間そのものを奴隷として人格的に所有していたことが特徴で、奴隷は奴隷所有者の「ものをいう道具」として売買・譲渡の対象とされました。
古代のギリシャ、ローマでは、奴隷1人1人が奴隷主の持ち物となり、使役されました。これにたいし東洋では、古い共同体が、全体として中央政府の支配のもとに置かれて、現物による税とともに直接労働力を提供させられました。マルクスは、このように共同体をまるごと隷属させた奴隷制を「総体的奴隷制」とよびました。
奴隷制そのものは、たとえば、黒人奴隷を使役したアメリカ南部の大規模農園のように、資本主義のもとでもおこなわれることがあります。
農業の分野では、農民が協同組合をつくって経営を大規模化していくことが社会主義化の主要な形態になると予想されますが、その場合、協同組合化は、農民の自由意志によっておこなわれることであって、上からの命令や強制に訴えることは絶対にやってはならないというのが基本です。エンゲルスは、この問題について、「小農にたいするわれわれの任務は、なによりも、力ずくではなく、実例とその社会的援助の提供によって、小農の私的経営と私的所有を協同組合的なものに移行させることである」(「フランスとドイツにおける農民問題」1894年)と言明。レーニンも、この言明を科学的社会主義の原則だとして堅持しました。
ところが、スターリンは、レーニンの死後、この原則を投げすて、1929年から33年にかけて、何千万もの農民をその自由意志に反して「農業集団化」と称して強制的にコルホーズ(集団農場)に追い込みました。これは、国の経済のなかに、勤労人民にたいする抑圧的な体制をうちたてる大きな1歩となりました。
コミューンは、フランス語で市町村の自治体のことです。1870年9月、フランスの皇帝ルイ・ボナパルト(ナポレオン3世)がみずからしかけたプロイセン(ドイツ)との戦争に敗れ捕虜になると、パリで帝政打倒の革命がおき、共和制が宣言されました。やがてパリはプロイセン軍に包囲され、フランスは1871年1月降伏。しかし、パリの労働者、民衆は国民軍としてみずから武器をとってパリをまもろうとしましたが、逆に、帝政にかわった新しい共和政府が、ベルサイユに陣取って、国民軍の武装解除をくわだてました。そのために、パリは一致して反撃に立ち上がり、1871年2月18日、パリ・コミューンを成立させ、市の行政権をにぎって、労働者、人民の立場にたった統治をおこないました。これにたいし、ブルジョア政府軍はパリ攻撃を開始し、激しい戦闘ののち、5月28日、コミューンは崩壊させられました。
コミューンを構成したのは、3月26日の普通選挙によって選ばれた評議員たちでした。彼らは、パリ市内の20の選挙区から、人口に応じてそれぞれ3〜5人ずつ選ばれました。この選挙にはブルジョア派といわれた人たちも参加し、当選者のなかには、のちにコミューンの弾圧側にまわった人物もふくまれていました。
マルクスは、このパリ・コミューンを世界史的な壮挙として高く評価。国際労働者協会(第1インタナショナル)の呼びかけとして書かれた『フランスにおける内乱』(1871年)のなかで、パリ・コミューンは「本質的に労働者階級の政府」であり、「労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」と指摘しました。
1870年代後半に登場したデューリングという人物のマルクス攻撃や誤った社会主義論を批判したエンゲルスの著作。正式には『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』といいます。
デューリング(1833〜1921年)は、1863年からベルリン大学の私講師(正規の教師ではないが、大学の許可をえて講義し、受講者からの聴講料を収入とした)となり、哲学や経済学の著作をあらわしていましたが、1870年代に入って、突如、社会主義の看板をかかげた著作をあいついで出版し、「社会主義の大家」として華々しく登場しました。そしてドイツの社会主義党内にもデューリングの影響が広がり、彼の著作を『資本論』につぐものと礼賛するような動きも生まれるほどでした。しかし、実際の著作の内容は、誇大に自分の「新発見」を持ち上げながら理論的にはまったく混乱したもので、マルクスとその理論にたいする敵意をかくさず、口汚く攻撃していました。
そのころ、ドイツでは、1875年に2つの労働者党(アイゼナッハ派とラサール派)が合同し、ドイツ社会主義労働者党(のちのドイツ社会民主党)が結成されました。この合同には、マルクス、エンゲルスが批判したように、理論的、政治的な無原則さ(→「ゴータ綱領批判」)がふくまれていただけに、デューリング熱の危険はいっそう重大でした。この状況に危機を感じたドイツの党幹部の求めに、エンゲルスは、自然科学にかんする研究(→『自然の弁証法』)を中断して、マルクスの協力を得ながら、デューリングへの反論を決意。論文は、1877年から、機関紙「フォアヴェルツ」あるいはその「学術付録」に連載され、1878年に単行本として発刊されました。デューリングの著作が広い分野にわたっていたため、エンゲルスの反論も、哲学、経済学、社会主義にわたって科学的社会主義の基本的な見地を積極的、系統的に展開するものとなりました。
同書は、科学的社会主義の学説を普及し、理論的影響を広げるうえで大きな役割をはたし、こんにちも科学的社会主義の「百科事典」として親しまれています。また、『反デューリング論』の序論と3つの章をもとに、1880年に『空想から科学へ』が出版されましたが、これも「科学的社会主義への入門書」(マルクス)として普及しています。
1日の労働のうち、働き手が自分や家族の生活を維持・再生産するために必要な労働を「必要労働」といい、それをこえる労働を「剰余労働」といいます。生産力がきわめて低かった原始共産制社会をのぞくと、どんな社会でも剰余労働が存在しています。
奴隷制社会では、奴隷の労働は、必要労働部分をふくめてすべて奴隷主(奴隷所有者)のための剰余労働であるかのようにみえます。封建制社会では、剰余労働は夫役(賦役)という強制労働のかたちをとるか、年貢として剰余労働部分に相当する労働の成果を一方的にとりあげられるかするため、搾取は目に見えるかたちをとってあらわれます。
資本主義社会においても、労働者の1日の労働は、労働力の価値に等しい価値を生みだす必要労働と、剰余価値を生産する剰余労働とからなっているにもかかわらず、全体として対価が支払われているかのような外観をとるため、剰余労働部分までふくめて必要労働であるかのようにみえることになります。
発展の新しいより高い段階において、すでに経過した古い段階で廃棄されたものの要素や形状、性質がふたたびあらわれ、一見すると、その古いものに復帰したかのように見えることがあります。このような弁証法的な発展を否定の否定といいます。
エンゲルスは、『反デューリング論』のなかで、つぎのような例をあげています。1粒の麦は、好適な地面に落ちれば発芽し、麦が生長します(最初の否定)。やがて花をひらき、受精し、最後に穂をつけて麦の粒が実り、かわりに茎は枯れます(2度目の否定)。こういう否定の否定の結果、はじめ1粒だった麦は何十倍にもなって復活します。
マルクスは、『資本論』で、「資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す」とのべて、「これは否定の否定である」と指摘しています。そして、この「否定の否定」の結果、「個人所有」が「再建」されるが、それは最初の「私的所有」の「再建」ではなく、「資本主義時代の成果――すなわち、協業と、土地ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有とを基礎」とした「個人所有」の「再建」であることを明らかにしています。
1772〜1837年。フランスの空想的社会主義者。フランス東部のブザンソンの富裕な商人の息子として生まれました。幼少の時から家業の手伝いをさせられ、7歳のときに、客の買った商品の傷を正直に教えて父親の不興を買ったことから、「商業にたいする永遠の憎悪を誓った」といわれています。1793年、21歳のときに、商工業の中心地リヨンで商店を開設しましたが、ちょうどフランス革命のさなかで、反革命派に店を徴発されたうえ、彼自身も革命軍とたたかわされました。そのため、反革命派の敗北後逮捕され投獄されました。
匿名で主著『四運動および一般的運命の理論』(18O8年)を発表し、商業社会の「放縦」を批判。1829年に発表した『産業的組合的新世界』では、「ファランジュ」を基礎とする協同社会の実現を提唱。「ファランジュ」は、1500人ないし1600人の人びとが「ファランステール」と呼ばれる共同宿舎で生活しながら、1人あたり1エーカーの土地で農業を基礎とした共同生活をいとなむというものです。1830年代には、弟子たちが資本家議員の支持をえて「ファランジュ」の建設をくわだて失敗。フーリエ自身も『偽産業論』(1835〜36年)などで、国王ルイ・フィリップや金融家、外国の元首たちに自説の適用を呼びかけました。
エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、「ある社会における女性の解放の度合いが全般的な解放の自然の尺度である」というフーリエの批評を高く評価。また、社会を歴史的に発展するものとしてとらえたこと、「文明時代には貧困は過剰そのものから生じる」というように弁証法をたくみにつかって資本主義の矛盾をするどく告発したことなどを紹介しています。
1804〜1872年。ドイツ南部のランツフート生まれ。父親は著名な刑法学者。ハイデルベルク大学で神学を学び、ベルリン大学に移ってへーゲル哲学を学びました。1829年に、エルランゲン大学の私講師となりましたが、匿名で出版した『死と不死についての考察』(1830年)が原因で、大学の職から閉め出され、南ドイツのブルックベルクという農村に住んで、著述活動を続けました。彼は、熱烈なへーゲル学徒からへーゲル批判にすすみ、1830年代末に唯物論に到達。『キリスト教の本質』(1841年)や『将来の哲学の根本命題』(1843年)などで宗教やへーゲル観念論哲学にたいする批判を展開し、マルクス、エンゲルスの思想形成にも大きな影響をあたえました。その様子を、エンゲルスはのちに「われわれすべて、一時的には、フォイエルバッハ主義者になった」と回想しています(『フォイエルバッハ論』)。
しかしフォイエルバッハは、世界観としての唯物論を、当時の俗流化された唯物論と取り違えて、「私は、後方にむかっては唯物論者に同意するが、前方にむかってはそうではない」と唯物論という名称に反対する態度をとりました。また彼は、「キリスト教の神がたんに人間の空想的反映」にすぎないことを証明し、哲学が具体的なもの・現実的なものにむかわなければならないことを強調しながら、社会の領域については従来の観念論の枠内にとどまり、具体的な現実の社会関係をとりあげるのではなく、抽象的に人間と人間の結びつきや「愛」を強調するだけにとどまりました。マルクス、エンゲルスは、こうしたフォイエルバッハの弱点をのりこえて、科学的社会主義の世界観、歴史観(→史的唯物論)の確立にむかいました。
晩年、フォイエルバッハは、『資本論』を読み、1868年に執筆した論文のなかでは注に『資本論』を上げ、その参照を求めています。さらに、彼が生活費にも事欠くようになると、それを知ったドイツ社会民主労働者党の党員たちがカンパを寄せてその生活を支え、彼はそうした党員のすすめでドイツ社会民主労働者党に籍をおきました。
正式な題名は『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』といい、エンゲルスが1886年に執筆した論文。ドイツ社会主義労働者党(のちのドイツ社会民主党)の機関誌『ノイエ・ツァイト(新時代)』第4・5号に発表され、1888年に単行本として出版されました。
執筆の直接のきっかけは、『ノイエ・ツァイト』編集部から、デンマークの哲学者シュタルケ(1858〜1925年)の書いた『ルートヴィヒ・フォイエルバッハ』という本の書評を依頼されたことでした。しかし、できあがった論文は、シュタルケの本の書評を目的としたものではなく、マルクスやエンゲルスが、へーゲルやフォイエルバッハから何を受け継ぎ、何をのりこえ、何を発展させたかに目を向けながら、科学的社会主義の世界観を全体としてまとまって解明するものとなっています。
第2章では、「哲学の根本問題」をとりあげ、唯物論と観念論の根本的な対立点がどこにあるかが解明されています。また、第4章では科学的社会主義の世界観が積極的に展開され、弁証法的唯物論や史的唯物論の見地が詳しく明らかにされています。
私たちの意識は現実の世界を認識できない、あるいは少なくとも正しく認識できるかどうかわからないとする哲学的立場。代表的哲学者は、イギリスの哲学者で経済学者でもあったヒューム(1711〜1776年)、ドイツ古典哲学の創始者である力ント(1724〜1804年)など。
ヒュームは、一般の人びとは、われわれの意識の外に客観的な物体が存在していると思っているが、われわれが認識できるのは感覚だけであって、その感覚の背後に客観的な事物が存在するという「仮定」は証明できないし根拠もないと主張し、感覚の背後にある物体については何もわからないという立場をとりました。それにたいしカントは、われわれの感覚のもとに何かが存在していることは一応認めながら、それが何であるかはわからないと主張しました。そして、感覚のもとにあるそうした認識できない何かあるもののことを「物自体」とよびました。
「不可知論」ということばをはじめて用いたのは、イギリスの生物学者ハックスリー(1825〜1895年)でした。ハックスリーは、ダーウィンのあとをうけついで生命現象を物質的基礎から解明する内容を説きましたが、唯物論だという非難に、自分の説は物自体とは関係のない話だと言い訳し、そのような自分の立場を「不可知論」と呼びました。
このように唯物論を事実上受け入れざるをえないところまで追いつめられながら、「物自体」の認識不可能性というところに観念論の最後の逃げ道を求める「不可知論」の立場を、エンゲルスは、「唯物論をかげでは受けいれていながら、人まえではこれを否認するという、はにかみ屋のやり方」(『フォイエルバッハ論』)、「『恥ずかしがりやの』唯物論」(『空想から科学へ』英語版への特別の序文)と呼びました。そして、不可知論にたいする「もっとも痛烈な反駁は、実践、すなわち実験と産業である」(『フォイエルバッハ論』)と指摘しました(→実践による検証)。
人間の意識から独立に存在し、人間の感覚器官に作用して感覚をひきおこし、人間の意識によって模写され、反映される客観的実在のこと。
20世紀はじめに、自然科学の分野は「物理学の危機」といわれる深刻な状況に落ち込みました。物理学はそれまで、ニュートン力学など、ほぼ完成された体系を仕上げていて、これは不動のものと考えられていました。その根本には「質量保存の法則」すなわち物質は消滅することも生まれることもありえないという法則がありました。
ところが、物理学の探究が原子の世界にまですすむようになると、たとえばラジウムが崩壊して質量のより少ない物質に変わることが明らかになり、不動のものと思われていた質量保存の法則がゆらぎだしました。そこから「物質は消滅した」といって、観念論に救いの道を求めようとする研究者もあらわれるほどでした。
そのとき、レーニンは、『唯物論と経験批判論』(1909年)のなかで、「物理学の危機」の本質を見抜き、それから抜け出す方向を明らかにするとともに、物質概念の唯物論的な定義を明らかにして、物質の客観的実在を否定するマッハ主義などに反論しました。
投下資本のうち、生産手段に投下された部分を不変資本と呼び、労働力に支払われた部分を可変資本といいます。
生産手段に投下された資本の価値は、生産過程において、新しくつくりだされた労働生産物(商品)のなかに移転され、それによって価値の大きさは維持されます。それゆえ、この部分は、生産過程で価値の大きさが変わらない資本部分という意味で、「不変資本」と呼ばれます。
それにたいして、労働力に支払われた部分は、生産過程において、その価値の大きさを変え、それ自体の価値を再生産するだけでなく、それを超える新しい価値(剰余価値)を生みだし、労働生産物に新たな価値をつけくわえます。それゆえ、この部分は、生産過程においてその価値の大きさを変えるという意味で、「可変資本」と名づけられました。
なお、剰余価値率をあらわす式などで、可変資本はv、不変資本はcと表記されます。
フランス革命は、1789年7月、パリの民衆によるバスティーユ監獄の襲撃から始まり、ブルジョアジーを中心とする憲法制定国民議会が封建制度の廃止を宣言、さらに人間の自由と権利の平等を宣言し、国民主権の原則を明らかにした人権宣言(「人および市民の権利宣言」)の採択へと発展しました。
1792年、革命に反対する諸外国との戦争の危機がせまるなか、ふたたび勤労大衆が武装蜂起して、王政を廃止し、男子普通選挙制にもとづく共和制が樹立されました。さらに、小ブルジョアジーを代表するジャコバン派(山岳派)の独裁のもとで、封建的土地所有を撤廃その他の民主的改革が実現されましたが、1794年7月のクーデターで、ブルジョアジーがふたたび政権をにぎり、革命の前進をおしとどめました(「テルミドールの反動」)。
1795年8月に制定された憲法では、普通選挙制も廃止され、さらに1799年11月、クーデターによってナポレオンの軍事的独裁がうちたてられました。
1つの生産工程や社会的生産がさまざまな生産工程、労働過程に分かれていることを「分業」(労働の分割)といいます。分業の発展は、生産力の発展をもたらします。
社会全体としてみると、生産は、農業、工業などさまざまな産業に分かれ、さらにそのなかも多数の部門、業種に分かれています。これを「社会的分業」といいます。それにたいして、1つの作業場での生産工程が、さまざまな生産工程、生産段階に分かれている場合、それを「工場内分業」(あるいは作業場内分業)といいます。
資本主義のさまざまな生産部門のあいだでは、資本の有機的構成や回転速度のちがいによって、利潤率にちがいが生まれます。
そこで、利潤率の低い部門の資本家は、競争に負けないために利潤率の高い部門へ移動します。その結果、それまで利潤率の高かった部門では、生産が増え供給が増えるために、商品の価格は下がり、利潤率も低下します。逆に、利潤率の低かった部門では、生産が減って供給も減るために、価格が上がり、その結果、利潤率も高まります。このように、より高い利潤率をもとめて資本が競争し、移動する結果として、各部門の利潤率は平均化されるようになります。このようにしてなりたつのが「平均利潤率」です。平均利潤率がなりたつためには、資本主義がより高度に発達していることが必要です。
平均利潤率が成立するようになると、資本家は、それぞれの投下資本に平均利潤率をかけた額を利潤(平均利潤)として受け取るようになります。このようにして個々の資本家が受け取る利潤額は、彼が自分の労働者たちから搾取した剰余価値の総量とは直接には一致しなくなります。しかし、社会全体でみれば、資本家階級が受け取る利潤は、労働者階級から搾取した剰余価値に由来しており、平均利潤率の成立は、資本家階級が全体として労働者階級全体を搾取していること、「総資本による……労働の総搾取」(『資本論』第3部第9章)を表わしています。
同時に、平均利潤率の成立したあとでは、投下された資本はおのずと一定割合の利潤をもたらす性質をもっているかのように見えます。そのため、搾取の本質はいっそうおおい隠されるようになります。
ものごとを全般的な関連、生成と消滅、運動と変化のなかでとらえるものの見方。
エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、弁証法の特徴として、(1)ものごとを世界の全般的な関連のなかでとらえる、(2)すべてを生成と消滅、運動と変化のなかでとらえる、(3)固定的な境界線や「不動の対立」にとらわれない、という3点を強調しています。そして、「世界全体、その発展と人類の発展、ならびにこの発展の人間の頭のなかでの映像を正確に叙述することは、ただ弁証法的な道によって、生成と消滅、前進的または後退的変化の全般的な交互作用にたえず注目することによってのみ、達成できる」とのべ、弁証法的なものの見方を身につけることの重要性を強調しました。
弁証法(ディアレクティーク)ということばは、「対話する」という意味のギリシャ語(ディアレクティケー)から生まれたもので、古代ギリシャでは、それは、対立する意見をたたかわせて、ものごとの真理に到達するやり方のことを意味しました。それを、へーゲルがたんなる議論の方法としてではなく、古い形而上学的な考え方にたいして、世界および人間の思考のもっとも一般的な法則をあらわすものとしてとりあげ、マルクス、エンゲルスもそれをうけつぎました。
エンゲルスは、『自然の弁証法』のなかで、弁証法の諸法則は「実質的につぎの3つの法則に帰着する」として、(1)量から質への転化およびその逆の転化の法則、(2)対立物の相互浸透の法則、(3)否定の否定の法則をあげていますが、これは弁証法がこの3つの法則につきるという意味ではありません。たとえばレーニンは『哲学ノート』のなかで、弁証法の要素として16項目あげています。
1770〜1831年。ドイツ古典哲学を代表する哲学者。チュービンゲン大学で神学を学んでいた19歳のとき、フランス革命の知らせを聞き「自由の樹」を立てて熱狂的に歓迎しましたが、その後フランス革命を導いた啓蒙思想に満足できなくなり、独自の哲学体系をきずきあげました。1818年からベルリン大学の哲学教授になり、1829〜1830年には総長をつとめ、へーゲルの哲学体系は当時のプロイセン王国の「国定哲学」といわれるほどの地位を占めました。
彼によれば、世界は精神のあらわれであり、精神そのものです。彼は、この精神を「絶対理念」とよびました。そして、永遠の昔から世界のどこかに存在する絶対理念がみずからをくりひろげると考えました。その過程がへーゲルの哲学体系をなしています。すなわち絶対理念は、純粋な「存在」(ただあるというだけのこと)から出発して自己を展開し、最後に「絶対理念」そのものに到達します。そこで、こんどはみずからを外化して自然となり、自然のなかから生命が生まれ、人間があらわれ、人間の精神の発展においてふたたび絶対理念に復帰するとされました。
このように、あらゆるものが変化、発展するとしたへーゲルの弁証法は、「人間の思考と行為のあらゆる産物の究極性」に一挙にとどめを刺すものであり、自然も社会もたえず発展していて、人間の認識も、科学の長い歴史的な発展のなかで低い段階からより高い段階へと発展していくことを明らかにしました。この見地からすれば、現存の社会体制は、どんなに堅固にみえたとしても、より高度な社会に席を譲らなければならないことは明らかです。この点にこそへーゲル哲学の「真の意義とその革命的性格がある」と、エンゲルスは指摘しています(『フォイエルバッハ論』)。
へーゲル哲学の最大の功績は、弁証法の一般的な運動形態をはじめて包括的なかたちでとりあげたところにあります。しかし、その弁証法は、客観的観念論という彼の哲学的立場によってゆがめられており、マルクスは、へーゲル弁証法の「神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくりかえさなければならない」(マルクス『資本論』第2版あと書き)と指摘しています。
へーゲルの哲学思想をうけついだ学派は、へーゲルの死(1831年)後、30年代後半までに、右派、左派、中央派に分裂しました。へーゲルの体系に重点をおいた人びとは、へーゲル右派あるいは「老へーゲル派」とよばれ、政治的には保守的反動的なグループをかたちづくりました。これにたいし、弁証法的方法を主要なものとみた人たちは、へーゲル左派もしくは「青年へーゲル派」とよばれ、両者のあいだに、哲学史を主な仕事とした中間派(中央派)が位置を占めました。
へーゲル左派には、シュトラウス(1808〜1874年)、ルーゲ(1802〜1880年)、バウアー(1809〜1882年)、シュティルナー(1806〜1856年)らがおり、マルクス、エンゲルスも、青年時代にこの派に属して社会的活動を始めました。
へーゲル左派は、おもに宗教批判にたずさわりますが、それは実質的には当時の封建体制への批判を意味しました。とくにマルクスが編集を担当した『ライン新聞』が主要な活動の舞台となるにしたがって、急進的ブルジョアジーの要求をより鮮明に代弁するようになりました。
しかし、プロイセンの反動支配が強化されるなかで、フォイエルバッハが『キリスト教の本質』(1841年)を発表して公然と唯物論を主張。マルクス、エンゲルスは、フォイエルバッハの唯物論をふまえて、観念的な議論に終始するへーゲル左派にたいするきびしい批判をおこないつつ、科学的社会主義の世界観、歴史観(→史的唯物論)の確立へとすすみました。
奴隷制社会のあとに成立する階級社会。領主が、基本的な生産手段てある土地を所有し、農民にその土地を耕作させて、年貢などのかたちで搾取しました。奴隷制とちがうのは、農民は農具などの労働手段を所有し、みずからの責任で生産をおこなった点です。このような農民を搾取するために、領主は農民を身分制度のもとで土地に縛りつけるなど、さまざまな強制をくわえました。
1903年、ロシア社会民主労働者党の第2回大会がひらかれました。このとき、レーニンをふくむ党大会の準備で指導的な役割をはたしてきた勢力のなかに、党の組織問題、党規約をめぐって対立が生まれました。そして、その採決のさいにレーニンを中心とした潮流が多数を占めたところから、ロシア語で「多数派」を意味する「ボリシェビキ」と呼ばれ、反対した勢力は「少数派」を意味する「メンシェビキ」と呼ばれました。レーニンは、メンシェビキの主張を「組織問題における日和見主義」と名づけています。
ボリシェビキとメンシェビキは、1905〜07年の第1次ロシア革命の時期の方針でも、その後の反動期の党建設、党活動をめぐっても政治的組織的に対立しました。しかし、1912年にボリシェビキが党大会にかわる協議会をひらいて、メンシェビキと組織的に絶縁するまで、1つの党のなかで、2つの政治的・組織的潮流として併存する状態がつづきました。
その後、ボリシェビキは、10月革命を成功させたのち、1918年の第7回党大会で「ロシア共産党(ボリシェビキ)」と改称しました。
レーニンが『唯物論と経験批判論』で批判の対象とした観念論哲学の一潮流。オーストリアの物理学者・哲学者のマッハ(1838〜1916年)が普及させたので、この名があります。ドイツの哲学者アベナリウス(1843〜1896年)たちが説いた経験批判論も、同じ立場にたつ哲学です。
認識は感覚にもとづくもので、外界にあると思われる事物は、この感覚(「世界要素」)の複合であり、物理法則は客観的な事物の法則ではなく、感覚と感覚の関連をしめすものでしかないと主張しました。そして「世界要素」(感覚)は主観でも客観でもなく、したがって観念論と唯物論の対立をのりこえたと称しました。しかし実際には主観的観念論、不可知論にほかなりません。
なおマッハは、音速の単位マッハ(秒速約340メートル)に名を残すなど、物理学者としては業績を残しましたが、ほんらいの専門分野をこえた哲学の分野では、主観的観念論者、不可知論者でした。
同じ作業場のなかで、多数の労働者が道具をもちいて分業しながら、協業すること。マニュは「手」、ファクチュアは「製造する」という意味。手工業を基盤とした工場制度であることから、工場制手工業と訳されます。
マニュファクチュアは、資本主義的生産のあり方としては、「分業にもとづく協業」として、たんなる協業(単純協業)の次の段階、機械制大工業の前の段階に位置づけられるもので、16世紀半ばから18世紀後半にいたる時期に支配的でした。マニュファクチュアのもとで、生産過程は細分化され、道具が高度に分化するとともに、労働者は、細分化された1つ1つの労働過程に適応し専門化しました。たとえば時計の生産について、マルクスは『資本論』で35もの専門工に分かれていたことを紹介しています。
1818〜1883年。ドイツのライン州トリールに生まれ、ボン大学、ベルリン大学で法学のかたわらヘーゲル哲学を学び、ヘーゲル左派に属しました。大学卒業後、1842年から、ライン州の急進ブルジョアジーが創刊した「ライン新聞」の寄稿者、のちに編集長として、革命的民主主義の立場から反動的なプロイセン政府批判を展開。1843年、同紙を去りパリに移住。経済学と哲学の研究にとりくみながら、フランスの社会主義者と交わり、観念論から唯物論へ、革命的民主主義から共産主義へとすすみました。1844年には、エンゲルスと2度目の出会いをはたし、生まれつつあった科学的社会主義の世界観で一致。生涯にわたる共同がはじまりました。1845年、パリを追放され、ベルギーのブリュッセルに移り、共産主義通信委員会を組織して実践活動を開始。1847年、共産主義者同盟にくわわり、同盟第2回大会の委託を受けて『共産党宣書』(発行は1848年)を執筆しました。
1848年、ヨーロッパに革命が起こると、ドイツに帰国し、ケルンに本拠をかまえて「新ライン新聞」を発刊し、民主主義革命の徹底を求める論陣を展開しました。
革命の敗北後、イギリスに亡命。ロンドンで、エンゲルスの援助を受けながら経済学の研究にとりくみ、1859年に『経済学批判』、1867年に『資本論』第1部を刊行しました。
その間、マルクスは、1864年に国際労働者協会(第1インタナショナル)が結成されると、さまざまな立場の労働運動、社会主義の潮流をふくむインタナショナルのなかで指導的な役割を発揮。その一方で、『資本論』の完成に生涯をかたむけましたが、生前に完成したのは第一部だけでした。『資本論』第2部(1885年)、第3部(1894年)は、その死後、残された草稿をもとに、エンゲルスの手によって刊行されました。
レーニンが、1913年に執筆した論文で、マルクス没後30周年を記念した雑誌『プロスヴェシチェーニエ(啓蒙)』第3号に発表されました。同誌は、当時、ロシアで非合法の状態に置かれていたポリシェビキ派が発行していた合法出版物の1つで、1911年から1914年までペテルブルグで発行されました。
この論文でレーニンは、科学的社会主義がドイツ古典哲学、イギリス古典派経済学、フランス社会主義という人類の先進的思想の成果を発展的に受け継いでいることを明らかにするとともに、科学的社会主義の学説が、大きくいって哲学(→世界観)、経済学、社会主義(あるいは階級闘争の理論)という3つの部分から構成されるというとらえ方をはじめて定式化しました。
マルクス、エンゲルスは、革命運動に参加した1840年代いらい、「議会の多数をえての革命」という革命論を追求してきました。当時、ヨーロッパには主権在民の民主共和制も、労働者階級が参加できる普通選挙権もまったく存在しなかったため、『共産党宣言』(1848年)では議会の多数をえての革命という方針は書かれていません。しかし、その最初の下書きといえるエンゲルスの『共産主義の諸原理』(1847年、当時は公表されず)では、プロレタリアートはまず「民主主義的国家体制」をかちとり、そこで人民の多数の支持をえて「プロレタリアートの政治的支配を樹立する」という展望を明らかにしていました。その後も、マルクス、エンゲルスは、普通選挙権を要求するイギリス労働者の全国的な運動(チャーティスト運動)に注目し、1870年代に、普通選挙権や選挙権の拡大が実現すると、イギリス、フランス、アメリカのように議会が国政の最高機関としての権限をもつ国では、普通選挙権こそが、労働者階級が政権につく道筋となりうることをくりかえし強調しました。
さらにエンゲルスは、1884年には、民主共和制こそが労働者階級と資本家階級の階級闘争が最後までたたかいぬかれる「最高の国家形態」(『家族、私有財産および国家の起源』)であると指摘し、さらに、1894年には、民主共和制は「プロレタリアートの将来の支配にとってすっかりできあがった政治形態である」とのべて、議会制民主主義にもとづく民主共和制が新しい社会主義権力の政治形態になるという展望を明らかにしました(ポール・ラファルグへの手紙、1894年3月6日付)。
それぞれの民族は、独立の国家をつくることをふくめて、自分たちの社会体制や政治制度、国の進路などを外部から干渉されずに自主的に決定する権利を持っています。これを民族自決の原則といいます。「マルクス主義者の綱領における『民族の自決』とは、歴史的=経済的見地からいって、政治的自決、国家的自立、民族国家の形成以外のどんな意味ももちえない」(レーニン「民族自決権について」1914年)。
1869年、当時イギリスの植民地だったアイルランドで、民族独立運動の先頭にたってきた政治囚の大赦を要求する運動が盛り上がりました。マルクスは、国際労働者協会(第1インタナショナル)の会議で、この運動を支持する演説をおこない、インタナショナル総評議会はマルクスが起草した決議案を採択しました。この研究と討論のなかで、マルクスは、民族自決権にたいする立場をより明確なものに発展させ、アイルランドの民族的解放こそがイギリス労働者階級の解放の「第1条件」だと考えるようになりました。レーニンは、この時期のアイルランド問題についてのマルクス、エンゲルスの往復書簡を研究し、それを民族自決論の根底にすえました。
1917年、ロシア革命で誕生したばかりのソビエト政権は、「平和についての布告」「ロシア諸民族の権利宣言」で、民族自決の原則をかかげ、それにもとづいてロシア帝国に併合されていたバルト3国などが独立したことは、国際政治に大きな影響をあたえました。第2次大戦後、民族自決の原則は、国際人権規約(1976年発効)にも「人民の自決権」(第1条)として盛り込まれました。
「矛盾」ということばは、日常的には、“辻つまが合わない”“筋が通らない”“前と後のことが食い違う”といった意味に使われます。これはもともと、“昔、楚の国に矛(ほこ)と盾(たて)を売る武器商人がいて、あるとき、「この矛はどんな盾をも貫き通すことができる」といって矛を売り、こんどは「この盾はどんな矛も防ぐことができる」といって盾を売っていたところ、それを聞いていた客から主では、その矛でその盾を突いたらどうなるか」と問われて答えられずに困った”という中国の故事(『韓非子』)にもとづいたものです。
形而上学は、矛盾はあってはならないもの、背理であるとみなします。「ある物が、その物であると同時にその物でないということはありえない」(A≠非A)というのは、ものごとは矛盾してはならないという意味で「矛盾律」(あるいは「無矛盾律」)とよばれ、形式論理学の基本原則の1つとされています。
弁証法の立場では、矛盾は、あらゆるものごとの変化・発展の原動力として重要な意義をもっています。たとえば、生物の体では、たえず古い細胞が死に新しい細胞が生まれ、生物体を構成する物質は絶えずいれかわっています。つまり、生物体は「同一のものであると同時に他のものである」ことになります。このように、ものごとの生きた運動、変化・発展をとらえる弁証法の見地からすると、ものごとの根底には対立しあう2つの要素・側面があり、それらはたがいに切り離しがたく結びついていながら、たがいに対立しあい、闘争しあっており、そのことをつうじてものごとは変化・発展しているのです。
マルクスは、資本主義を全面的にとらえるうえで弁証法の意義にふれ、弁証法は「現存するものの肯定的理解のうちに、同時に、その否定、その必然的没落の理解をふく」むものであり、これがものごとを運動、変化のなかでとらえるうえで重要であることを強調しました(『資本論』第2版へのあと書き)。
1917年、10月革命で誕生したソビエト政権は、ただちに「平和についての布告」を採択し、第1次世界大戦で交戦中のすべての国の政府と国民にむかって、「公正な民主主義的講和」についてすみやかに協議を始めるように呼びかけました。そのなかで、無併合(他国の領土を略奪したり、他民族を強制的に併合しない)、無賠償の即時の講和を提起するとともに、すべての民族が国家の存立をふくめ民族自決権をもつことを指摘し、秘密外交の撤廃を宣言しました。
私たちがそのなかで生きている自然や社会は、人間の意識から独立して客観的に実在するものであり、人間もその自然の一部であり社会の一部であるとみる哲学的世界観。
エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』のなかで、哲学の「根本問題」は「思考と存在との関係にかんする問題」、思考と存在とのどちらがより本源的かという問題だとして、次のように指摘しています。
「この問題に答える立場にしたがって、哲学者たちは2つの大きな陣営に分かれた。自然にたいして精神の本源性を主張し、したがって結局のところ、なんらかの仕方の世界創造をみとめた人びとは……観念論の陣営を形づくった。自然を本源的なものと見た他の人びとは、唯物論の種々の学派に属する」
エンゲルスは、このように説明したうえで、唯物論への誤解・偏見を念頭において、「観念論と唯物論という2つの言いあらわしは、本来、これ以外の意味をもっておらず」、これ以外の意味をもちこむことは混乱を生み出すだけだと指摘しました。
唯物論とは、「感覚的に知覚される物質的世界」が、「唯一の現実的なもの」であって、われわれの意識や思考は、「それがどんなに超感覚的にみえようとも、物質的な身体器官、つまり脳髄の産物」であり、「物質は精神の産物ではなくて、かえって精神そのものが物質の最高の産物にほかならない」と考えます。このような唯物論の立場は、なんら特別なものではなくて、「現実の世界――自然および歴史――を、どんな先入見的な観念論的気まぐれもなしにそれら自然および歴史に近づく者のだれにでもあらわれるままの姿で、とらえよう」とするものであり、「なんらの空想的な関連においてではなく、それ自体の関連においてとらえられる事実と一致しないところの、どのような観念論的な気まぐれ」も認めない立場です(『フォイエルバッハ論』)。
レーニンが、1908年に執筆し、1909年5月、モスクワで刊行された著書。唯物論の立場を放棄した経験批判論やマッハ主義を批判し、弁証法的唯物論を擁護・発展させました。
1905年から1907年の革命が敗北に終わった後、ロシア国内では、「凋落、士気阻喪、分裂、離散、背教」が広がり、革命運動の一部に唯物論の立場をあいまいにし、哲学的観念論への傾きが強くなりました。その代表的な人物の一人が、ボリシェビキ派の指導部の一員でもあったボグダーノフ(1873〜1928年)で、彼は、経験批判論、マッハ主義を唯物論だと称して、科学的社会主義の哲学的な基礎に置こうとしました。そのため、レーニンは、ロシアの経験批判論者だけでなく、そのおおもとにあるヨーロッパのマッハ主義にまでさかのぼって、その哲学的立場が主観的観念論、不可知論にほかならないことを徹底して批判しました。
マッハ主義などが生まれた背景に、当時、物理学のそれまでの考え方を根底からゆるがすような発見があいつぎ、「物理学の危機」とよばれる状況にぶつかっていたという問題がありました。レーニンは、第5章で、この問題にとりくみ、「物理学の危機」の実態を明らかにして、その解決の道が弁証法的唯物論の方向にあることを示しました。
1772〜1823年。イギリス古典派経済学の最高の到達点をしめす経済学者。主著『経済学および課税の原理』(1817年)。株式仲買人として活躍していたリカードウは、30歳ごろ、偶然スミスの『諸国民の富』を読み、経済学の研究をこころざしたといわれています。
リカードウは、「古典派経済学の完成者として、労働時間による交換価値の規定をもっとも純粋に定式化し展開」(マルクス『経済学批判』)しました。
リカードウは、「価値の大きさは労働時間によって規定される」ということから出発し、資本主義経済のさまざまな関係や労賃、資本、利潤、地代などのカテゴリーがこの価値の規定に矛盾するかどうか、この価値の規定をどの程度修正するかを明らかにしようとしました。マルクスは、こうしたリカードウの方法を、「それは必要な諸中間項を飛び越えて直接的な仕方で経済学的諸範疇の相互の整合を証明しようとする」(『剰余価値学説史』)ものだと批判しています。
剰余価値は、前貸しされた資本のうち可変資本の増加分です。ところが、資本家にとっては、不変資本も可変資本もともに商品の生産のために支出されたものであり、剰余価値は、支出した資本全体から生じたもののようにみえます。このようにとらえられた剰余価値のことを、利潤といいます。
したがって、利潤率は、前貸しされた資本全体(=不変資本〔c〕と可変資本〔v〕の合計)にたいする剰余価値(m)の割合、すなわちm/(c+v)×100%であらわされます。
利潤は、さしあたり剰余価値と同じものです。しかし、利潤というかたちにおいては、可変資本と不変資本の区別が隠されているため、利潤(剰余価値)がどこから生まれるか、搾取の仕組みが覆い隠されてしまっています。そのため、資本は、そもそも利潤を生む性質をもっているかのような神秘的な外観が生まれます。また資本家(産業資本家)が、他人から資金や土地を借りていた場合には、この利潤のなかから、利子や地代を支払い、残りが産業資本家の取り分(産業利潤)になります。
マルクスは、エンゲルスへの手紙(1867年8月)のなかで、『資本論』の「最良の点の1つ」として、「剰余価値を利潤や利子や地代などというその特殊な形態から独立に取り扱っているということ。……これらの特殊な諸形態をいつでも一般的な形態と混同している古典派経済学におけるこれらの形態の取り扱いは、ごった煮のようなものだ」と指摘しています。
資本主義の発展とともに、生産力も高まっていきますが、それにともなって工場や機械が大規模化していきます。マルクスは、機械が大規模化するほどには必要とされる労働力の量は増えないため、投下された資本全体に占める不変資本の割合が大きくなり、可変資本の割合は相対的に減少する、その結果、剰余価値率が変わらなかったとしても、投下された資本全体にたいする剰余価値の割合(利潤率)は、だんだんと小さくなると考え、これを利潤率の傾向的低下の法則と呼びました。
同時に、労働日の延長や労働の強化によって搾取度を強めることや、労働者の賃金を労働力の価値以下にひきさげること、あるいは不変資本のさまざまな要素の低廉化など、この法則とは反対に作用するさまざまな要因が実際にははたらくため、この法則はそのまま直接、実際の利潤率の低下としてあらわれるわけではないとしました。
マルクスは、利潤率の傾向的・法則的な低下は「資本主義的生産様式の発展をおびやかすもの」であり、資本主義の「歴史的な一時的な性格」、すなわち「資本主義的生産様式が富の生産にとって絶対的な生産様式ではなくて、むしろ一定の段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明する」(『資本論』第3部第15章)と意義づけました。
しかし、マルクスが期待したような顕著な利潤率の低下が統計的に見られないことから、この法則が実際に妥当するかどうかをめぐっては論争が続いています。なお、利潤率の傾向的低下という場合、社会的総資本についての利潤率の低下をいうのであって、総資本の絶対量の増加にともなって搾取される労働の絶対量や搾取された剰余価値の絶対量が増え、したがって利潤の絶対額が増える場合がありうるのは当然です。また、個々の資本家がよりたくさんの労働を搾取し、よりたくさんの利潤を手に入れることもありうることです。
量的な変化がある一定の点で質的な転換をひきおこすこと。『自然の弁証法』のなかでエンゲルスが弁証法の3つ法則の1つにあげました。
たとえば、水は、1気圧のもとでは、摂氏0度で液体の状態から固休の状態(氷)に変化し、摂氏100度で液体の状態から気体の状態(水蒸気)に変化します。つまり、この摂氏0度と100度という2つの転換点で、たんなる温度の変化(量的変化)が水の状態の変化(質的変化)をよびおこしています。
この「量から質への転化」を、弁証法の法則として、すなわち事物の変化の一般的な法則としてはっきりと指摘したのは、ヘーゲルです。エンゲルスは、「量から質への転化」の法則は、観念論的なやり方ではあるが、へーゲルの著書『大論理学』第1篇「存在論」のなかですでに展開されていると指摘しています。
1870〜1924年。本名はウラジミール・イリイチ・ウリヤーノフ。レーニンは筆名の1つで、1901年末ごろから使われました。
レーニンは、18歳で『資本論』を読み、19歳ごろからマルクス主義サークルにくわわり、1895年には、首都ペテルブルグで、「労働者階級解放闘争同盟」を結成。同年12月に逮捕され、1897年から3年間シベリアに流刑となりましたが、そのあいだに「ロシアにおける資本主義の発展」(1899年)を発表。流刑から戻ると、党建設の推進者となるべき全国的政治新聞の創刊を準備し、国外に出て、亡命中のプレハーノフらと協力して「イスクラ」を発刊しました。
1903年、ロシア社会民主労働党第2回大会に参加。大会は、レーニンの提起した綱領、規約などを採択。このとき、党規約の問題をめぐって、レーニンを中心とするボリシェビキとメンシェビキという2つの潮流の対立が明らかになりました。
1905年、ロシア革命が起きると、レーニンは、社会民主労働党が他の革命勢力と連合して臨時革命政府を樹立する方針を提起しました。一時ロシアに帰国しましたが、革命の後退とともにふたたび亡命。反動の強まりのなかで、弾圧に屈せず革命党の活動をつらぬくために努力するとともに、哲学の分野で唯物論の立場を擁護する『唯物論と経験批判論』(1908年)や、「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」(1913年)、「力ール・マルクス」などを執筆し、科学的社会主義の世界観を擁護しました。
1914年に第1次世界大戦が始まると、自国の帝国主義戦争に賛成して崩壊した第2インタナショナルにたいして、帝国主義戦争と社会排外主義に反対する潮流の国際的結集に努力。同時に、帝国主義戦争としての本質を明らかにするために膨大な資料にもとづいて『帝国主義論』を執筆しました(刊行は1917年)。
1917年、2月革命がおこり、4月にレーニンは帰国。「4月テーゼ」を発表して、ボリシェビキと革命運動を指導し、10月革命によってソビエトが権力をにぎりました(→ロシア革命)。レーニンは、その直後の第2回全ロシア・ソビエト大会で人民委員会議議長(首相にあたる)に選出され、以後、反革命勢力の内乱と外国帝国主義の干渉戦争とたたかいました。しかし、この時期の活動のなかには、いかなる議会制度も破壊の対象とする議会否定論や、革命以前にあらかじめ労働者階級や勤労者の多数の支持をえることは不可能だとする多数者革命否定論など、マルクス、エンゲルスが探求してきた「議会の多数をえての革命」という革命論、国家論からの重大な後退もふくまれています。
1920年、内戦と干渉戦争に勝利すると、レーニンは、農民から強制的に穀物を徴発する「戦時共産主義」からの転換をはかり、市場経済をつうじた社会主義建設の道を探究しました(→「新経済政策」)。その途中、1922年にレーニンは、最初の発作を起こして倒れました。しかし、その後も、限られた活動のなかで、スターリンの粗暴な態度と民族問題にたいする大国主義的なやり方を厳しく批判し、党大会にむけてスターリンの書記長解任を提案する手紙を口述しました。
商品の価値は、その商品を生産するのに必要な労働の量(労働時間)によって規定されるという学説。こういう見解を体系的に述べたのは、イギリス古典派経済学のスミスとリカードウです。しかし、資本主義経済を永久不変の経済体制とみなしていた彼らは、労働価値説を首尾一貫して最後まで仕上げることができませんでした。
それをなしとげたのは、マルクスです。マルクスは、商品の使用価値と価値にあらわされた労働の2重の性格(→具体的有用的労働、抽象的人間的労働)を指摘するとともに、労働者が資本家に売るのは「労働」ではなく「労働力」であることを明らかにすることによって、資本家による剰余価値の取得という資本主義的搾取の秘密を解明しました。
人間は、自然に働きかけて、自然のさまざまな素材を自分自身の生活に必要なかたちで手に入れなければなりません。そのために、自分自身の体と頭脳を使って、自然に働きかける過程が労働です。「労働は、まず第1に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である」(『資本論』第5章)。
この労働過程は、(1)目的にかなった人間の活動・労働そのもの(→労働力)、(2)労働対象、(3)労働手段の3つの要素から成り立っています。そして、労働対象と労働手段の両者をあわせて、生産手段といいます。
生産手段を持たず、自分の労働力を資本家に売り、賃金をえることによってしか生活することができない階級のこと。プロレタリアートともいいます。
エンゲルスは、『共産党宣言』1888年英語版への注で、「プロレタリアートとは、自分自身の生産手段をもたないで、生活するためにその労働力を売ることを余儀なくされている近代的賃金労働者の階級を意味する」と書いています。
資本家が生産をおこなうには、市場で「自由な労働者」を見いださなければなりませんが、「自由な」というのは、「自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分するという意味」と「他面では、売るべき他の商品をもっておらず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいのものから解き放たれて自由であるという意味」と、「2重の意味」で自由な労働者ということです(『資本論』第1部第4章)。
なおプロレタリアートということばは、古代ローマにおける最下層民を指す「プロレタリウス」というラテン語に由来することばです。
革命によって労働者階級が国家権力をにぎり、生産手段の社会化をすすめるという思想は、マルクス、エンゲルスによってはじめて社会主義運動にもちこまれたもので、科学的社会主義の革命理論の1つの核心をなすものです。このことをマルクスは、1848〜49年のヨーロッパ革命を総括した論文「フランスにおける階級闘争」(1850年)のなかで、はじめて「プロレタリアート執権」と定式化しました。これは、革命において労働者階級が国家機関のあれこれの部分をにぎるだけでなく、国家権力全体を掌握しなければならないことを表わしたもので、「労働者階級の権力」と同義です。
この「執権」(原語はディクタツーラ)の語が、かつて「独裁」と訳されたことから、「一党独裁」など共産党攻撃の口実につかわれたことがありました。しかし、「執権」の語は、国家権力をどの階級や階級連合がにぎっているかという国家権力の階級的性格をあらわすものとして、あるいは、立法や行政という国家機関のあれこれの部分だけでなく、文字どおり国家権力全体を掌握していることを表現するものとして用いられたものです。これは、「一党独裁」などとはまったく無関係であり、マルクス、エンゲルスは、民主共和制こそがもっともふさわしい政治形態だと考えていました。
「労働者階級の権力」というのは、「労働者階級だけの政権」という意味ではありません。労働者階級が資本家階級から「自分を解放することは、同時に全社会を永久に搾取、抑圧および階級闘争から解放することなしにはもはやありえない」(エンゲルス『共産党宣言』1883年ドイツ語版序文)という労働者階級の歴史的使命を表現したものです。
道具や機械など、労働者と労働対象のあいだにもち込まれて、労働者が労働対象に働きかけるのに役立つ物のこと。労働手段の使用と創造は、萌芽的にはある種の動物にもみられるとはいえ、独自の人間的労働過程を特徴づけるものです。
マルクスは、過去の労働手段の遺物は“絶滅した昔の動物の身体組織を調べるのに化石が役立つのと同hように、過去の経済的社会構成体を判断するのに役立つ”とのべ、「かにがつくられるかではなく、どのようにして、どのような労働手段をむってつくられるかが、経済的諸時代を区別する。労働諸手段は、人間労働力の発達の測定器であるばかりでなく、労働がそこにおいておこなわれる社会的諸関係の指標でもある」(『資本論』第5章)と指摘しています。
なお、より広い意味では、労働対象に直接働きかける道具・機械だけでなく、労働がおこなわれるために必要なさまざまな条件・環境を提供するもの(たとえば作業の場所、空間を提供する土地や建物、さらに道路や運河など)も労働手段にふくまれます。
人間が労働をもって働きかける対象を労働対象といいます。食糧やさまざまな生活手段を提供する自然のままの大地や水は、天然に存在する労働対象です(たとえば、自然のなかにいる動植物、未開拓の大地、原生林、地下に埋もれたままの鉱物資源など)。それとは反対に、労働対象が、すでに人間の労働がくわわっている労働生産物である場合、それらは原料といわれます(→労働過程、労働手段)。
1日の労働時間のことを「労働日」と呼びます。日本では、現在、標準労働日は1日8時間とされています。
このような標準労働日は、労働者の長いたたかいによってかちとられてきたものです。資本家は、1日分の賃金を支払った以上、労働者をできるかぎり長く働かせようとします。他方、労働者は、休息、睡眠、食事など肉体的生理的欲求のための時間だけでなく、さまざまな知的・社会的な欲求を満たすための時間も必要としています。これら2つの条件は、きわめて弾力的に変動しうるものです。したがって、実際の労働日は、資本家と労働者の力関係によって決まってきます。
「労働日の標準化は、労働日の諸制限をめぐる闘争――総資本家すなわち資本家階級と、総労働者すなわち労働者階級とのあいだの一闘争――として現われる」(『資本論』第8章)
そしてマルクスは、『資本論』のなかで、1日10時間の標準労働日をかちとるまでのイギリス労働者階級のたたかいを歴史的にえがきだしています。
労働力は、人間が、なにかある使用価値を生産しようとするたびに、はたらかせる「人間の肉体、生きた人格性のうちに」存在する「肉体的および精神的諸能力の総体」(『資本論』第4章)のことです。その労働力を実際にはたらかせること、つまり「労働力の使用」が労働です。
マルクスは、資本主義の搾取の秘密を解明するさい、労働者が資本家に売るのは「労働」ではなく「労働力」であることを明らかにしました。エンゲルスは、マルクス『賃労働と資本』への序文(1891年)のなかで、労働と労働力の区別は「たんなる字句のせんさく」ではなく「経済学全体のなかでもっとも重要な点の1つ」と強調しています。
ロシアでは、1905年に、憲法制定議会の招集などを求める請願書をもって皇帝(ツァーリ)の住む「冬宮」にむかった労働者にたいして、軍隊が発砲し弾圧した「血の日曜日事件」をきっかけに労働者、農民、さらに兵士の一部もくわわって革命運動が広がり、皇帝も国会開設など譲歩を余儀なくされました。このときはじめてソビエト(評議会)が組織されました。これを第1次ロシア革命といいます。第1次革命は、1907年6月、反動勢力がクーデター的に国会を解散したことによって終わりを告げました。
その後、第1次世界大戦のさなかの1917年3月(ロシア暦2月)、労働者、農民の闘争が広がるなかでツァーリズムの専制政治を倒す民主主義革命がおごりました。これを2月革命といいます。2月革命によって、ふたたび労働者・兵士代表ソビエトが組織され、ソビエトが実際には権力を掌握していたにもかかわらず、自発的にその権力をブルジョア的な臨時政府に譲り、ソビエトと臨時政府が併存する「2重権力」状態が生まれました。臨時政府は、帝国主義戦争を継続する立場をとったことから、即時講和、食料、土地を求める世論が高まり、11月(ロシア暦10月)には、レーニンの率いるボリシェビキの指導のもと臨時政府は倒され、労働者・兵士・農民ソビエトが政権をにぎりました(10月革命)。これら1917年の2つの革命を、1905年の革命にたいして第2次ロシア革命という場合もあります。
ソビエト政権は、ただちに「平和についての布告」を発表して、無併合・無賠償の講和をよびかけるとともに、「ロシア諸民族の権利宣言」でロシア帝国内の諸民族に民族自決権を認め、旧ロシア帝国に併合されていたバルト3国などが独立しました。また、ソビエト政権は、8時間労働制や社会保障制度を世界ではじめて導入したり、農民への土地の配分、政治・経済分野での男女同権を宣言するなどして、世界の歴史の流れに巨大な影響をあたえました。