(1998年11月)
レーニンのこの論文は、一九一三年、マルクスの没後三十周年を記念して、『プロスヴェシテェーニエ(啓蒙)』という雑誌に発表されたものです。当時のロシアは、ツァーリとよばれた皇帝が専制的な権力をもち、レーニンらボリシェビキ派(注)は、非合法状態での活動をよぎなくされていました。それでもボリシェビキ派は、ロシア国内でいくつかの合法的な出版物を発行していました。この雑誌もその一つで、一九一一年から一四年まで、ロシアの首都ペテルブルグで発刊されていました。国外にいたレーニンは、この雑誌に重要な論文をいくつも発表していますが、そのなかの一つがこの「三つの源泉……」です。
(注) レーニンが指導するロシア社会民主労働党の革命的潮流は、一九〇二年の第二回党大会で多数をしめたため、ロシア語で「多数派」を意味する「ボリシェビキ」と呼ばれました。
合法雑誌に発表されたものですから、この論文でレーニンは、直接に党や革命の事業にふれることはしていません。しかし、冒頭から、マルクスの学説を「有害な宗派」のようにいうブルジョア科学の攻撃をとりあげていることをみても、当時のロシア国内でのさまざまな攻撃から科学的社会主義の学説を擁護し、その革命的精神を明らかにするために書かれたものであることが分かります。
八十年余りたった今でも、私たちが、マルクスの学説の現代的意義をつかむうえで、この論文が重要な役割をなおもっているとすれば、それは、レーニンが、科学的社会主義を生きた「活動の指針」としてつかみ、ほんとうに何が大事かを現実のたたかいのなかからつかみ取っていたからにほかなりません。
この論文については、不破哲三氏が『古典学習のすすめ』で紹介しているほか、同氏が以前に書かれた解説「レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』にふれて」があります。後者では、「三つの源泉……」の順序にしたがって、マルクス、エンゲルスの論文やレーニンの他の文献にもふれながら、科学的社会主義の学説全体が分かりやすく解説されており、学習に役立つものと思います。私も、この解説をもとにしながら、みなさんといっしょに「三つの源泉……」を読んでいくことにしたいと思います。なおこの解説は、不破哲三著『レーニン「カール・マルクス」を読む』(新日本出版社)に収録されているほか、「三つの源泉……」といっしょにパンフレット『科学的社会主義の基礎』という題名で日本共産党中央委員会出版局からも発行されています。
日本語訳は、『レーニン全集』第十九巻や『レーニン十巻選集』第五巻(大月書店)で読めるほか、新日本文庫や「大月センチュリーズ」(大月書店)などから、レーニンの他の論文とともに『カール・マルクス』という題名で出版されています。ここでは新日本文庫の翻訳をもとに紹介しますが、文庫本で約八ページという短い論文ですから、他の翻訳でも該当箇所は簡単に見つけられると思います。
なお、レーニンは、この論文では、マルクスたちの学説や運動を「マルクス主義」と表現しています。マルクスたちが自分たちの学説をそう呼んだことはありませんでしたが、やがて「マルクス主義」という言葉が一般的になり、レーニンもそれに従っています。
しかし、この学説の確立にどんなにマルクスの果たした役割が大きかったとしても、それを「マルクス主義」というように、個人の名前を冠して呼ぶことは、マルクスの学説ほんらいの立場からしても正しいものとは言えません。それは、そうしたやり方は、結局のところ、マルクスやエンゲルスのあれこれの言明や行動を絶対化することにつながるからです。日本共産党は、第十三回臨時党大会(一九七六年)で、綱領など党の文献では「科学的社会主義」という呼称を用いると決めましたが、それもそういう理由にもとづくものです。そのことをふまえた上で、ここではレーニンの古典に即して、マルクス主義の呼称も使うことにします。
さて、「三つの源泉……」は、はじめの短い序文と三つの章からなっています。まず、この序文が重要です。
レーニンは、科学的社会主義の学説を「有害な宗派」のようにみなす「ブルジョア科学」の攻撃をとりあげ、それへの反撃からこの論文をはじめています。ここでのレーニンの反撃は、実にみごとなものです。まずレーニンは、科学的社会主義が「賃金奴隷制」(資本主義のこと)にたいして容赦ないたたかいを宣言した以上、根本において資本主義擁護の立場にたつブルジョア科学の側から攻撃をうけるのは当然であることを指摘しています。資本主義の搾取制度を擁護するのか、それともその廃止をめざすのか――この点で、中立的な態度をとる「公平無私の」社会科学というものはありえないというのです。 しかし反撃はそこにとどまらず、レーニンはさらに、科学的社会主義の学説が人類の思想の発展のなかでどんな位置を占めているかという問題をとりあげて、次のように述べています。
「哲学の歴史と社会科学の歴史とが、まったく明白にしめしているとおり、マルクス主義には、世界文明の発展の大道のそとで発生した、なにか閉鎖的で硬化した学説という意味での『宗派主義』に似たものはなにもない。反対に、そもそもマルクスの天才は、ほかでもなく、人類の先進的な思想がもう提起してきた問題に答えをあたえたという点にある」(新日本文庫、一三七〜一三八ページ)
すなわち、科学的社会主義の学説は、「有害な宗派」でないばかりでなく、この学説こそ「世界文明の発展の大道」にそって生まれたものであること、そして、そのもっとも優れた意義は、人類がそれまでに到達していた先進的思想の成果を発展的にうけつぎ、それらが提起しながら解決できなかった問題に解答をあたえたところにもっとも優れた意義がある。レーニンは、このことをなによりもまず強調しているのです。
ところでここで、レーニンが「宗派」とか「宗派主義」とかいっているのは、運動論などで統一戦線の立場を否定する「セクト主義」のことではありません。レーニンが「なにか閉鎖的で硬化した学説」と説明しているように、あれこれの“教祖”が考えついた独断的な命題を金科玉条としてふりかざして、その教条を押しつけようとする排他的な学説とでもいうべきもののことです。マルクス自身、科学的社会主義の学説が労働運動、革命運動のなかにその影響力を広げていく過程で、社会主義の看板をかかげて、プルードン、ラサール、バクーニン(注)などが唱えた誤った「理論」との闘争を精力的にすすめましたが、そのとき、彼らを?教祖?としてかつぎまわり、その「理論」を運動に押しつけようとした勢力を「宗派的」とよんできびしい批判をくわえています。ここでレーニンがいっているのも、そういう意味での「宗派主義」のことです。
(注) プルードン(一八〇九〜六五年)――フランスの代表的な小ブルジョア的社会主義者。マルクスは、『哲学の貧困』(一八四七年)で全面的に批判しました。
ラサール(一八二五〜六四年)――ドイツの労働運動の指導者。反動的なビスマルク政権への接近戦略をとったため、マルクス、エンゲルスは、ドイツの労働運動、社会主義運動から、その有害な影響を取り除くために一貫して努力しました。
バクーニン(一八一四〜七六年)――ロシア出身の革命家で、無政府主義の主唱者。国際労働者協会(第一インターナショナル)の内部で「社会民主同盟」を組織し分派活動をおこなったため、マルクスの批判をうけ、一八七二年に除名されました。
ついでレーニンは、マルクスの学説が「哲学、経済学、社会主義のもっとも偉大な代表者たちの学説をまっすぐに直接に継続させたもの」、「人類が一九世紀のドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正当な継承者である」(一三八ページ)ことを明らかにしています。
科学的社会主義の学説について、哲学、経済学、社会主義という三つの柱からなり、それが十九世紀のドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義を源泉としているとよく説明されますが、そうした定式化をはじめておこなったのがこの論文です。マルクス、エンゲルスたちも、直接このようなかたちでのべたことはありませんが、実質的には同じ内容のことをいっていると思います。
たとえば、『空想から科学へ』のドイツ語第三版を出すさいに、エンゲルスは、ドイツ語版序文に次のような注を書きくわえました。
「科学的社会主義の発生にあたって、一方でドイツの弁証法が欠くことのできないものであったと同様に、その場合、イギリスやフランスの発達した経済的および政治的関係も欠くことのできないものであった。……イギリスとフランスでつくりだされた経済的および政治的状態にドイツの弁証法的批判がくわえられることによってはじめて、そのとき現実の結果が得られたのである」(『空想から科学へ』新日本文庫、十四ページ)
エンゲルスは、直接イギリス古典派経済学やフランス社会主義とは書いていませんが、レーニンは、こうした指摘をもとにしたのではないでしょうか。レーニンが三つの源泉としてあげたドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義がどういうものか、マルクスがそこから何をどのように継承したのかは、以下の三つの章で明らかにされていることなので、順次見ていくことにします。
序文のなかでレーニンはさらに、「マルクスの学説は正しいから、全能である」(一三八ページ)と指摘しています。
これは、予言者のようにマルクスの書いたものを読めば、あらゆる問題にたいする解答があらかじめあたえられているということではありません。そんなことをいっているのだとしたら、マルクスの学説自体が、レーニンが批判した「閉鎖的な硬化した学説」になってしまいます。“どんな問題にもあてはまる万能の答え”というとらえ方こそ、マルクスやエンゲルスがもっともきびしく退けたものです。
それでは、「マルクスの学説は正しいから、全能である」というのはどういう意味でしょうか。そのことをレーニン自身が説明した文章があります。
「マルクスの理論は客観的真理であるという、マルクス主義者がともに分かちもっている、その意見からでてくる唯一の結論は、つぎのことにある、すなわち、マルクスの理論の道にそっていくことによって、われわれは、いよいよますます客観的真理に近づくであろう(この真理はけっしてきわめつくすことはないが)、これとは別のどのような道にそっていっても、われわれは、混乱といつわり以外のなにものにもいたることができないであろう」(レーニン『唯物論と経験批判論』新日本文庫、二〇七ページ)
つまり、マルクスの「理論の道」にそって探求をすすめてこそ、私たちは客観的な真理に接近することができる――それが、レーニンの考え方です。マルクスの学説が「全能だ」というのは、そういう意味です。
レーニンはまた、科学的社会主義の学説は「完全で均整がとれており」、迷信や反動と妥協したり、資本主義社会の「抑圧」を擁護したりすることのできない「一つのまとまった世界観」を提供していると書いています(一三八ページ)。「一つのまとまった世界観」という表現は、「全一的な世界観」と訳されていることもあり、むしろこちらの方がよく知られているかもしれません。「一つのまとまった」も「全一的」も翻訳のちがいだけで同じことです。「世界観」というのは、私たち人間をとりまく自然や社会にたいする基本的な見方、考え方のことです。
「全一的な世界観」というのは、要するに、科学的社会主義は、哲学、経済学、政治学などという自然や社会のあれこれの部分についてのものの見方、考え方にとどまらず、自然や社会にかかわる全体的、統一的な「世界観」だということです。ですから私たちが科学的社会主義の古典を学ぶ場合には、哲学や経済学など一つ一つの学習が重要なことはいうまでもありませんが、それに終わらず科学的社会主義の世界観を全体として理解することが重要になります。
以上が序文の中身です。それでは、つづいて科学的社会主義の三つの源泉、三つの構成部分についての説明にすすみましょう。
第一章は、科学的社会主義の哲学についてです。
レーニンは、まず「マルクス主義の哲学は唯物論である」(一三八ページ)と指摘しています。しかしこの論文では、唯物論とはなにかということは、とくに説明されていません。それは、この論文が科学的社会主義の学説の基本的な性格、特徴づけを明らかにすることを目的としたもので、学説の内容を一つ一つ説明することはしていないからです。ですから、こうした点は、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』や『反デューリング論』などを読んで、学習することが必要です。レーニンも、これらの文献を「意識をもつ労働者のだれもがかならず手もとにおかなければならない書物」としてあげています。
その『フォイエルバッハ論』(一八八八年)のなかで、エンゲルスは、唯物論か観念論かという問題について、つぎのようにのべています。
「すべての哲学、とくに近代の哲学の大きな根本問題は、思考と存在との関係にかんする問題である。……存在にたいする思考の、自然に対する精神の関係という問題、すなわち哲学全体の最高の問題……。……本源的なものはなんであるか、精神かそれとも自然かという問題、この問題は、教会との関係でいうと、神が世界を創造したのか、それとも世界は永遠の昔から存在しているのか、というふうに先鋭化された。
この問題にこたえる立場にしたがって、哲学者たちは二つの大きな陣営に分れた。自然たいして精神の本源性を主張し、したがって結局のところ、なんらかの仕方の世界創造をみとめた人びとは、……観念論の陣営を形づくった。自然を本源的なものとみた他の人びとは、唯物論の種々の学派にぞくする」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』新日本文庫、二十九〜三十一ページ)
私たちが、自分たちをとりまく世界について考えたとき、いちばん基本的な問題は、自然や物質の存在と、それらについての私たちの意識(思考、精神)と、どちらがより基本的、根源的かという問題です。そして、自然や物質の存在を根源的なものとみなし、私たちの意識をその反映とみなすのが、唯物論の立場です。逆に、意識を根源的なものとみなし、自然や物質を意識や何らかの「精神」から説明するのが観念論です。
マルクス、エンゲルスの時代には、生命や人間の精神活動は科学の解明のおよばない領域として残され、そこから観念論的な議論が生まれる余地が広く存在しました。しかしその後の自然科学の進歩は、遺伝子の仕組みや、われわれがものを見たり、考えたりするときの神経細胞のはたらきまで詳しく明らかにしています。もちろん、まだすべて解明しつくされたなどということは出来ませんが、今日では、唯物論の正しさは、いっそうゆたかな内容をもって証明されているといえるでしょう。
ソ連など「社会主義」を看板にした国々の崩壊で、その誤りを科学的社会主義や唯物論に求める議論が一部に生まれました。また、マルクスとエンゲルス、レーニンを切り離して、唯物論か観念論かという「哲学の根本問題」を軽視ないしはあいまい化する傾向もあります。それだけに、「マルクスとエンゲルスは、哲学的唯物論をもっとも断固としてまもりぬき、この基礎から逸脱するどんな偏向でも、ふかいあやまりであることを、いくども説明してる」(一三九ページ)というレーニンの指摘は、今日でも重要な意義をもっています。
「三つの源泉……」にもどりましょう。レーニンは、ヨーロッパ近代の歴史、とくに封建制度に反対する闘争が徹底してたたかいぬかれたフランスの歴史をふまえて、唯物論が、科学的社会主義の独り善がりな立場などでなく、自然科学の成果にもとづきながら、封建制度を擁護しようとする「迷信や偽善等々に敵対するただ一つの終始一貫した哲学」であったことを指摘しています。
実際、十八世紀のフランス社会思想の歴史は、レーニンの指摘を裏づけています。たとえば、『人間機械論』を著わしたラ・メトリ(一七〇九〜五一年)や、『百科全書』(一七五一〜七二年)の監修者の一人であるディドロ(一七一三〜八四年)など、十八世紀のフランス唯物論は、自然科学の成果をふまえて、封建的な絶対王政やその精神的支柱であるカトリック教会の支配に反対し、フランス革命(一七八九年)を思想的に準備するうえで重要な役割をはたしました。レーニンは、こうした事実をふまえて、社会進歩と結びついた唯物論の意義を強調しています。
しかし、マルクスの唯物論は、十八世紀の唯物論と同じものではありません。レーニンは、「マルクスは十八世紀の唯物論にたちどまってはいないで、哲学をさらに前進させた。彼は、ドイツ古典哲学、とくにヘーゲルの体系の諸成果によって哲学を豊かにした」(一三九ページ)と指摘しています。
ヘーゲルは、マルクスより四十八年前、エンゲルスよりちょうど五十年前に生まれたドイツの哲学者(一七七〇〜一八三一年)です。ベルリン大学で教授をしたこともあり、カント(一七二四〜一八〇四年)以来のドイツ古典哲学の完成者といわれています。マルクスがベルリン大学に進学したときには、すでに大学を離れていましたが、マルクス自身、法律学の勉強のかたわらヘーゲル哲学を熱心に勉強しました。
ヘーゲル哲学の主要な成果は、弁証法です。弁証法について、レーニンは「もっとも完全な、ふかい、一面性をまぬかれたかたちでの発展の学説」(一三九ページ)と、やはりごく簡単な説明ですませていますので、ぜひ『空想から科学へ』(とくに第二章)や『フォイエルバッハ論』などで学んでいただきたいと思います。ここでは、『空想から科学へ』のなかで、エンゲルスがヘーゲル哲学の意義を指摘した部分を紹介します。
「この近代のドイツ哲学はヘーゲルの体系において完結に達したが、このヘーゲルの体系においてはじめて――そしてこのことがこの体系の大きな功績であるが――自然的、歴史的、および精神的世界全体が一つの過程として、すなわち、不断に運動し、変化し、改造され、発展しているものとしてとらえられ、叙述され、そして、この運動と発展のうちにある内的な連関を指摘する試みがなされた。」(『空想から科学へ』新日本文庫、四二ページ)
つまり、自然であれ、社会であれ、人間の意識・認識であれ、事物を固定した、個々ばらばらな不変のものとみるのでなく、相互に関連し、たえず運動し、変化し、発展するものとしてとらえること――これらが弁証法の基本的見地です。
ところで、ヘーゲル自身は観念論の立場にたつ哲学者でした。そのため、ヘーゲル弁証法から「合理的な核心」を取り出すには、それを「ひっくり返さなければならない」とマルクスも指摘しています(「『資本論』第二版へのあと書き」、社会科学研究所監修『資本論』?、二八ページ)。
重要なことは、それにもかかわらず、ここでレーニンが、マルクスを十八世紀の唯物論の継承者としてではなく、ヘーゲルに代表されるドイツ古典哲学の継承者としていることです。つまり、ドイツ古典哲学、とりわけヘーゲル哲学の成果である弁証法をもとにして、はじめて、十八世紀の唯物論の限界(注)をこえた科学的世界観(哲学的唯物論)への前進が可能になったということです。
(注) 十八世紀の唯物論の根本的な欠陥について、レーニンは論文「カール・マルクス」で、次の三点をあげています(『カール・マルクス』新日本文庫、二十ページ)。(1)「主として機械論的」で、その後の自然科学の発展を考慮に入れていなかったこと。 (2)「非歴史的、非弁証法的」で、弁証法的な発展の見地をつらぬけなかったこと。(3)「人間の本質」を歴史的、具体的にとらえられず、そのため世界を「変革する」ことが重要であったのに、世界を「解釈していた」だけであったこと。
つづいてレーニンは、弁証法について「永遠に発展していく物質の反映をわれわれにあたえる、人間の知識の相対性についての学説」であると指摘し、そのことは、「自然科学の最近の諸発見――ラジウム、電子、元素の変換」によって確証されたと言っています(一三九ページ)。
レーニンが活躍していた十九世紀の終わりから二〇世紀のはじめにかけて、物理学の分野では、電子の存在確認(一八九七年)、ラジウムの発見(一八九八年)など重要な発見がつづきました。それと同時に、旧来の物理学の「常識」がやぶられるような事実が明らかになり、「物理学の危機」といわれる事態が生じていました。
たとえば、それまで元素は不変と考えられていましたが、ラジウムなど放射性元素は自然に崩壊して、別の元素に変わることが分かりました。そのさい放出される放射線がもっている大きなエネルギーも、当時の物理学の知識では「エネルギー保存の法則」を破るように思われました。また、電子の質量が速度によって変化し、静止した状態ではゼロになると考えられたため、「質量不変の法則」も否定されたと受けとめられました。こうして、「物質は消滅した」と唱える物理学者があらわれるなど、大きな混乱が生まれたのです。
レーニンが「腐朽した観念論へ『あらたに』もどっているいろいろのブルジョア哲学者たちの学説」(一三九ページ)といっているのは、こうした自然科学の事態から生まれた哲学の混乱を指しています。
しかし実際には、こうしたさまざまな発見は、物質についての人間の認識が原子の内部構造のレベルへと発展するきっかけとなるものでした。この発展は、レーニンの没後もつづくのですが、その激動の渦中でレーニンは、「『物質が消滅する』ということは、これまでわれわれが物質をそこまで知っていたその限界が消滅するということであり、われわれの知識がいっそう深くすすむということである」(『唯物論と経験批判論』新日本文庫、一一四ページ)と、ことがらの本質をみごとに指摘しました。そして、こうした混乱が生じたのは自然科学者が弁証法的なものの見方を身につけていないからだと指摘し、弁証法的見地の重要性を強調しています。
今日では、科学の探求は、素粒子のレベルからさらにその奥にすすんでいます。こうした物理学の発展は、「マルクスの弁証法的唯物論の正しさをみごとに確証した」(一三九ページ)といえます。
次にレーニンは、「マルクスは哲学的唯物論をふかめ発展させて、それを徹底させて、その自然認識を人間社会の認識へとひろげた」(一三九ページ)とのべて、史的唯物論の意義をとりあげています。
ここでレーニンが強調しているのは、第一に、「これまでの歴史観と政治観」は、歴史や政治の変化の根本的な理由を明らかにできなかったため、根本的なところになると「混沌や気まぐれ」にたよらざるをえなかったのにたいし、史的唯物論が、はじめて、社会と歴史についての「まとまった整然とした科学的理論」をあたえたことです。
二つには、史的唯物論が、「生産力の発展の結果」として、封建社会から資本主義社会へというように「社会生活の一つの制度から、他の、より高度の制度が発展してくること」を証明したという点です。
史的唯物論の基本的な考え方について、マルクス、エンゲルス、それにレーニン自身もさまざまな角度から説明をおこなっています。ここでレーニンは、人間の認識のあり方――認識論の角度から問題をとりあげています。
「人間の認識が、人間とは独立して存在する自然、すなわち発展しつつある物質を発展するのとまったくおなじように、人間の社会的認識(すなわち哲学的、宗教的、政治的などのさまざまな見解や学説)は、社会の経済的構造を反映する。政治的諸制度は経済的基礎の上にたつ上部構造である」(一四〇ページ)
人間は、社会的生産をおこなう場合に、たがいに一定の生産関係を結びます。その全体が、「社会の経済的構造」をかたちづくっています。この生産関係のなかで占める地位によって区別される人間の集団が、「階級」です。生産関係や階級は、たとえば労働者が「資本家に搾取されている」ということを自覚しているかどうかにかかわりのない、人間の意識から独立した客観的な社会関係です。それにたいして、哲学や宗教などさまざまな「見解や学説」や、政治諸制度は、全体として、「社会の経済的構造」によって、その内容が決まってくるものです。その関係を、レーニンは、マルクスにしたがって建築物になぞらえて、経済的基礎(「土台」という言い方もされます)のうえにたつ「上部構造」と説明しています。
たとえば上部構造の一つである政治制度をとってみると、日本は国会で首相を選ぶ議院内閣制であるのにたいして、アメリカは大統領制というように、国によってその仕組みはさまざまです。しかし、そうしたちがいにもかかわらず、資本主義を基礎とする政治制度は、根本的には「プロレタリアートにたいするブルジョアジーの支配の強化に役立」つという共通の内容をもっています。そうとらえることによって、はじめて資本主義国家の仕組みを解明することが可能になります。レーニンが「混沌と気まぐれ」にたいして「整然とした科学的理論」があらわれるといったのは、このことをさしています。
マルクスたちが、史的唯物論の見地で支配階級と国家の結びつきを明らかにするには、歴史や経済の大変な研究が必要でした。しかし今日では、自民党や官僚と財界・大企業の結びつきは誰の目にも明らかなことであり、それをみれば、政治諸制度が「経済的基礎の上にたつ上部構造」だということは一目瞭然ではないでしょうか。
「社会主義」を看板にした国々の崩壊で、“資本主義から社会主義へという史的唯物論の誤りは明白になった”などという議論が、いまなお論壇の一部に見られますが、今日の日本と世界の直面する矛盾の深刻さは、人類社会が資本主義の現状にけっして甘んじることができないことを示しています。この矛盾の解決は人々の自覚的な運動なしには実現できませんが、そうした人々の自覚は、資本主義の仕組みそのものが生み出す矛盾が基礎となって必然的にうまれるものであり、その矛盾がなくならないかぎり、人類はより高度な社会へすすまざるをえないし、すすむことができる――そのことを史的唯物論は明らかにしているのです。
哲学の章の最後に、レーニンは、あらためてマルクスの哲学の意義を強調しています。すなわち、マルクスの哲学は「完成された哲学的唯物論」であり、「それは人類に、とくに労働者階級に」、人類社会がいつまでも資本主義社会にとどまるのではなく、その矛盾をのりこえてより高度に発展した次の社会=社会主義社会にすすんでいくのだということ、そして労働者階級こそそうした人類史的な歴史的使命をになう階級であるということを自覚する「偉大な認識の道具をあたえた」(一四〇ページ)というのです。
私たちも、科学的社会主義の古典の学習をつうじて、ぜひともこの「偉大な認識の道具」を身につけるように心がけたいものです。
第二章は、マルクスの経済学の理論についてです。
前章、哲学のところで史的唯物論の基本的考え方を学びましたが、その見地にたつなら、社会のしくみを解き明かそうとしたときに、その経済的構造の研究――経済学が非常に重要な役割をもつことは当然のことです。
レーニンは、第二章の冒頭で、「マルクスは、経済的構造がその上に政治的上部構造がそびえたつ基礎であることをみとめてから、もっとも大きな注意をこの経済的構造の研究にはらった」と強調しています。これは、マルクス自身が歩んだ道でもありました。はじめて経済学の著作を出版したとき、マルクスは、みずからの研究をふりかえって次のように述べています。
「私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、……私の研究の到達した結果は次のことだった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的な諸生活関係に根ざしているものであって、これらの諸生活関係の総体をヘーゲルは、一八世紀のイギリス人およびフランス人の先例にならって、『市民社会』という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求めなければならない、ということであった。パリで始めた経済学の研究を私はブリュッセルでつづけた」(『経済学批判』の「序言」、一八五九年、国民文庫、十五ページ)
一八四八〜四九年の革命が敗北したあと、マルクスは、イギリスに亡命しロンドンでこの経済学の研究を続けました。
レーニンが、マルクスの学説を「哲学、経済学、社会主義のもっとも偉大な代表者たちの学説をまっすぐに直接に継続させたもの」、「人類が一九世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統な継承者」と位置づけていたことは前回紹介しました。ロンドンでのマルクスの経済学の研究ぶりを知ると、この指摘がけっしてレーニンの誇張でないことがよく分かります。
マルクスは、ロンドンにある大英博物館に毎日通い、それまでの経済学者たちの著作を研究しました。その様子を、マルクス自身、ドイツにすむ友人への手紙で「僕はたいてい朝の九時から晩の七時まで大英博物館に行っている」と書いています(一八五一年七月二十七日付のマルクスからヴァイデマイアーへの手紙、『全集』第二十七巻、四百七十三ページ)。
こうしてマルクスが書き残したノート類は、今日分かっているだけでも、二万ページを超えています。マルクスは、こうした作業をつうじてその到達点を徹底的に自分のものにして、科学的な経済学をきずきあげたのでした。当時、世界中で資本主義がもっとも発展していたイギリスが、マルクスの経済学研究にかっこうの材料を提供したこともちがいありません。
マルクスは、『経済学批判』(一八五九年)につづいて、一八六七年に「近代社会の経済的運動法則を暴露する」(第一巻初版への序言、社会科学研究所監修版『資本論』?一二ページ、新日本出版社)ことを目的とした『資本論』第一部を完成させ、出版しました。その後も、『資本論』を仕上げる仕事は続けられましたが、『資本論』第二部(一八八五年)、第三部(一八九四年)の編集と出版は、マルクスの死後、エンゲルスの手によらなければなりませんでした。『資本論』は、文字どおりマルクスの生涯をかけた著作ということができます。
「資本主義」といういまではごく当たり前に使われる言葉も、この経済学研究のなかでマルクスによってはじめて科学的な内容があたえられた言葉であり、『資本論』とともに広まったものです。
レーニンは次に、マルクスが、アダム・スミスやデイヴィッド・リカードなどイギリスの古典派経済学(注)の成果を受け継いで、労働価値説を「厳密に基礎づけ、それを終始一貫して発展」させ、「すべての商品の価値はその商品の生産に支出される社会的に必要な労働時間の量によって決定されることを証明した」と指摘しています。
(注) 新日本文庫の訳では「古典経済学」となっていますが、「古典派経済学」と訳される場合もあります。どちらも同じですが、ここでは「古典派経済学」に統一しておきます。
アダム・スミス(一七二三〜九〇年)も、デイヴィッド・リカード(一七七二〜一八二三年)も、イギリスの古典派経済学の代表的な経済学者です。スミスは、一七七六年に『諸国民の富』(『国富論』と訳されることもあります)を出版し、労働が富の「唯一の源泉」であることを指摘するなど、古典派経済学の最初の体系的な創設者とされています。リカードは、『経済学および課税の諸原理』(一八一七年)を著わした人物で、マルクスは、彼のことを「古典派経済学の完成者」(『経済学批判』国民文庫、七三ページ)と評しています。
マルクスは、それまでの経済学についてのみずからの研究をふまえて、スミスやリカードに代表される経済学を「古典派経済学」と呼び、それは「ブルジョア的生産諸関係の内的連関を探求する……すべての経済学」をさすとのべ、資本主義経済の「内的連関」、その本質的なしくみを探究し、科学的な経済学の基礎をすえたその意義を高く評価しました。それにたいして、同じブルジョア経済学でも、「外見上の連関」のなかをうろつき回るだけで「もっとも粗雑な現象のもっともらしい解説」をくりかえすだけの経済学を「俗流経済学」と呼び、区別したのです(『資本論』第1分冊百三十八ページ)。
それでは、古典派経済学によってはじめてとなえられ、マルクスが完成させたという「労働価値説」とは、どういうものでしょうか。 実際の商品は、さまざまな理由で――農作物なら、豊作か不作かによってというように――価格が上下します。しかし長期的にみれば、ある一定水準の価格を中心にして上下していることが分かります。それでは、この平均的な価格の水準はなにによって決まるのでしょうか。それを決めるのが商品の価値です。労働価値説は、商品の価値が、その商品を生産するのに費やされる労働の量によって決まるとする経済学説で、マルクスによって、より正確に「社会的必要労働時間」、すなわちそれぞれの時代の標準的な生産のやり方によって必要とされる平均的な労働時間によって決まることが明らかにされました。
しかし、古典派経済学は、労働価値説を「終始一貫して発展」させることができませんでした。その理由は、古典派経済学も、ブルジョア経済学の一つとして、資本主義を「社会的生産の永遠の自然的形態」(『資本論』?百三十八ページ)と見なしていたためです。マルクスは、リカードは「階級的利害の対立」を「意識的に」自分の研究の「出発点」にしたと指摘していますが、それは、その対立を「素朴にも社会的な自然法則ととらえることによって」そうしたのだといっています(『資本論』第二版へのあと書き、第1分冊、十八ページ)。またマルクスは、古典派経済学は「階級闘争が未発展の時期」(同前)のものであり、階級闘争の発展とともに、真理かどうかが問題なのではなく、「資本にとって有益か有害か、好都合か不都合か」が問題とされるようになり、「科学的探究」が「弁護論」にとってかわられたとものべています(同、十九ページ)。
労働価値説を終始一貫させ、完成させることができたのは、マルクスの功績でした。マルクスが古典派経済学の労働価値説のどこをどう発展させたのかというのは、非常に興味深い点ですが、マルクス自身そのために、あの長大な『資本論』を書き表したのですから、ここで簡単に紹介することはできません。しかし、次の手紙は、マルクス自身によるその説明の一つといえると思います。
「僕の本(『資本論』のことです――引用者)のなかの最良の点は、次の二点だ。(1)(これは実際のいっさいの理解にもとづいている)第一章ですぐに強調されているような、使用価値で表わされるか交換価値で表わされるかに従っての労働の二重性、(2)剰余価値を利潤や利子や地代などというその特殊な諸形態から独立に取り扱っているということ」(一八六七年八月二十四日付のマルクスからエンゲルスへの手紙、『全集』第三十一巻、二百七十三ページ)
(1)でマルクスが言っている「労働の二重性」は、現在の『資本論』第一章第二節でとりあげられている問題です。商品というものが人間にとっての有用性=使用価値とともに、交換できるという性質=価値をもっているという商品の二重性に対応して、商品をつくる人間の労働も、使用価値に結実する具体的有用的労働と、その成果が価値として結実する抽象的人間的労働という二重の性質を持つということです。(2)についていえば、剰余価値と利潤、利子、地代のちがいは、『資本論』第三部にいたってはじめて全面的に明らかにされる問題です。ここではその説明を省略せざるをえませんが、学問的には、それだけの分析と展開の積み重ねが必要なことだということです。リカードは、そうした積み重ねなしに剰余価値を直接、利潤と同じものと見なしたところから、混乱に陥ってしまいました。
「三つの源泉……」に戻りましょう。次の段落で、レーニンは、マルクスの経済学の意義を、こう指摘しています。「ブルジョア経済学者たちが、物と物との関係(商品と商品との交換)をみたところ、そこでマルクスは人間と人間との関係をあばきだした」(百四十一ページ)。
資本主義の社会では、私たちの目に直接あらわれるのは、さまざまな労働生産物が商品として市場に現われ、他の商品と売買・交換されていく姿です。ブルジョア経済学者は、このうわべの「物と物との関係」しか見ませんでした。ところがマルクスは、この商品交換(「物と物との関係」)のなかに、「人間と人間の関係」すなわち「市場を媒介(――仲立ち)とする個々の生産者たちの結びつき」が表されていることを明らかにしたのです。この「個々の生産者たちの結びつき」は、商品から貨幣へ、さらに資本へと経済関係が発展するのにつれて、いっそう緊密でいっそう広いものとなります。
ほんらい「人間と人間の関係」であるはずのものが「物と物との関係」となってあらわれるこのしくみを、マルクスは、『資本論』のなかで「物神崇拝」と名づけました(第一章第四節「商品の物神的性格とその秘密」)。「物神崇拝」の秘密は、マルクスがはじめて明らかにしたものです。
つづいてレーニンの説明は、剰余価値の秘密にすすみます。
資本は、人間の労働力が商品となるときに成立します(「資本は、この結びつきのいっそうの発展を意味している。つまり人間の労働力が商品になっているのである」)。労働者は、自分の労働力を一定の価格(賃金)で資本家に売り渡します。資本家は、この労働者たちを、自分の所有する「土地、工場」で、資本家の所有する「労働用具」を使って働かせることになります。
こうやって労働者は、一日働らかされるのですが、一日の労働時間(労働日)のうち、ある時間までは、労働者が「自分と家族との生活費」(賃金)に相当する価値を生み出すために費やされます。それを超える残りの時間(「労働日の他の部分」)では、労働者は――すでに賃金に相当する価値を受けとったのだから――資本家のためにただ働きすることになります。このただ働きの部分が「資本家のために剰余価値」をつくりだし、資本家の利潤と富の源泉となります。
この剰余価値の解明によって、はじめて資本主義的搾取の秘密が明らかになりました。レーニンは、「剰余価値の学説は、マルクスの経済理論の土台石である」と位置づけています。エンゲルスも、剰余価値の秘密の解明を「マルクスの著作の最も画期的な功績である」(『反デューリング論』国民文庫、三八六ページ)と指摘しています。それだけ、マルクスによる剰余価値の解明は重要だということです。
以上、商品、貨幣、剰余価値の説明は、翻訳でわずか一ページ余りですが、『資本論』第一部、とくに「第一篇 商品と貨幣」「第二篇 貨幣の資本への転化」の内容のみごとな要約となっています。もちろん、そうはいっても、これで『資本論』の内容が全部分かったというわけにはいきません。ここで学んだことを手がかりにして、さらにマルクス『賃金、価格および利潤』や『資本論』に挑戦して、ぜひ学習をすすめていただきたいと思います。
ついでレーニンは、資本主義の発展が社会にどのような矛盾をもたらすかという問題を明らかにしています。そのさい、レーニンは、問題を二つの側面からとりあげています。
一つは、資本主義の発展が、資本主義社会における階級矛盾をどのように激化させるかという側面です。レーニンは、資本主義の発展が労働者にたいする「圧迫」を強めることを指摘するとともに、工業の分野でも農業の分野でも小経営主・小規模生産の衰退、破滅がもたらされること、「生産の無政府性」が拡大し、恐慌や市場の奪いあいをめぐる異常な競争が強まること、「住民大衆の生活の不安が増大する」ことをあげています。レーニンが、労働と資本のあいだの矛盾だけに視野をかぎらず、社会全体のさまざまな矛盾に注目していることは、いま私たちが日本と世界の経済問題や国民生活をとらえるうえでも、大切な視点だといえます。
さらに、資本主義の発展は「労働者の資本への隷属を増大」させますが、同時に、そうした資本の圧迫にたいする「結合された労働の偉大な力」――階級的に自覚し団結した労働者階級をつくりだします。階級矛盾の激化とともに、それをうちやぶる主体的条件もひろがるのです。
もう一つは、資本主義の発展にともなって「生産の社会化」がすすむという側面です。レーニンは、資本主義の発展が、一方では「巨大資本家たちの連合の独占的地位」を生み出すとともに、「生産そのものはますます社会的になっていき、――いく十万、いく百万の労働者が計画的な経済有機体にむすびつけられてゆく」と指摘し、資本主義のもとでの生産の社会化に着目しています。資本主義以前の社会では、生産はごく小規模で、親方や職人が自分のもっている道具や材料を使って、みずからの労働によって生産していました。それにたいして、資本主義が発展するにつれて、生産はますます大規模化し、多数の労働者の「共同労働」(「社会的生産」)になっていきます。社会的生産のこうした発展は、客観的には、資本主義をのりこえる未来社会への発展の物質的準備という意義をもつものです。
しかし、このように生産はますます社会的になるにもかかわらず、その生産物はあいかわらず「ひと握りの資本家たち」によって取得されます。エンゲルスはこれを「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」として定式化し、資本主義の「根本矛盾」と呼びました(『空想から科学へ』新日本文庫、七三ページ、注)。レーニンは、マルクス以後の資本主義のいっそうの発展のなかで、あらためてこの社会的生産と生産物の資本主義的取得との矛盾がいっそう深刻なものとなっていることを強調しています。
「資本主義の根本矛盾」というこの見地は、こんにちの日本と世界の資本主義の動きを見るうえでも重要な視点です。私たちは、日本と世界の資本主義の現状をとりあげ、失業の増大や貧富の格差の拡大、地球環境の破壊など、もうけ第一主義の“ルールなき資本主義”の現状をするどく告発するとともに、大企業の横暴を許さず「その経済力にふさわしい社会的責任をはたさせる」という民主的規制の展望を明らかにしました。そこには、「資本主義の根本矛盾」という見地が全面的に生かされています。
また論壇などで、マルクス以後の資本主義の発展を持ち出して、「『資本論』は間違っていた」とする議論にお目にかかることがありますが、科学的社会主義は、資本主義が一路衰退し、その先に社会主義を展望したのではありません。マルクスたちは、資本主義の生産力が上向きに発展していくなかでこそ、新しい社会の交代を避けられないものとする矛盾が成熟するととらえました。「資本主義の根本矛盾」というこの見地には、その科学的社会主義の発展的な見地が表現されています。
(注) なお、資本主義の根本矛盾については、最近の不破哲三氏の研究を参照のこと。
第三章は、社会主義論です。レーニンは、第三章の冒頭でまず、資本主義社会の成立と社会主義思想が生まれた理由を、次のように説明しています。
「農奴制が打倒されて、『自由な』資本主義社会がこの世にあらわれたとき、この自由が勤労者の抑圧と搾取との新しい制度であることが、すぐさまあきらかになった。この抑圧の反映として、またそれにたいする抗議として、ただちにさまざまな社会主義学説が発生しはじめた。」
「自由、平等、友愛」をかかげて絶対王政を倒したフランス革命のように、資本主義は「自由」の旗をかかげて誕生しました。しかし、その新しい資本主義社会は、勤労者に「自由」を保証するどころか、「勤労者の抑圧と搾取の新しい制度」であることが、たちどころに明らかになりました。社会主義学説は、この抑圧と搾取の「反映」として、資本主義への「抗議」として登場したのです。そして、これら「初期の社会主義」は、のちに「空想的社会主義」と呼ばれるようになります。
エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、その最初の社会主義のあらわれである空想的社会主義の代表的な人物として、フランスのサン‐シモン(一七六〇〜一八二五年)とフーリエ(一七七二〜一八三七年)、それにイギリスのオーエン(一七七一〜一八五八年)の三人をあげています。サン‐シモン、フーリエは資本主義の矛盾をするどく告発しました。オーエンは、「共産主義的集落」の計画書というべき著書を提出して、ヨーロッパ各国の政府や支配層に支持を訴え、彼らの協力で「共産主義」を実現しようとしました。
ところで、レーニンが、科学的社会主義の三つの源泉の一つを「フランス社会主義」としていたことは、最初にも紹介しましたが、空想的社会主義の代表的三人のうち、オーエンはイギリス人です。それにもかかわらず、レーニンが、空想的社会主義を「フランス社会主義」と特徴づけたのは、どうしてでしょうか。それは、三人のうち二人までがフランス人だったということもあるでしょうが、そのほかに、若いマルクス、エンゲルスが、パリで、この空想的社会主義の流れをくむ革命的グループと交流し、それとの対決を通じて科学的社会主義の学説を完成させていったという経過があるからだと思います。
空想的社会主義は、つぎに述べるような大きな弱点をもっていましたが、それでも、マルクスやエンゲルスは、彼らの果たした役割を高く評価しました。のちにエンゲルスは、「ドイツの理論的社会主義は、サン・シモン、フーリエ、オーエンという三人の人物、どんなに空想的でユートピア的であろうと、やはりすべての時代を通じて最も傑出した思想家に属し、今日その正しさが科学的に立証されつつある無数の事柄を天才的に予見したこの三人の人物の仕事に、自分が支えられていることを、けっして忘れない」(「『ドイツ農民戦争』一八七〇年版の序文への追記」、全集第十八巻、五〇八〜五〇九ページ)と書いていますが、これはマルクス、エンゲルスたちの実感だったと思われます。
しかし、彼らの社会主義は「空想的社会主義」だったとレーニンは指摘しています。なぜ、この社会主義思想は「空想的」といわれるのでしょうか。
それは、資本主義を批判する最初の社会主義思想ではあっても、資本主義社会をのりこえる道筋、「じっさいの活路」を示すことができなかったからです。空想的社会主義は、資本主義社会を「批判」「非難」したり、資本主義の廃止を「夢想」し、よりよい社会の?青写真?を描いてみせたりしましたが、資本主義の害悪がなぜ生まれてくるのかというしくみ――「資本主義のもとでの賃金奴隷制の本質」を説明することも「資本主義の発展法則」を明らかにすることができませんでした。また、運動としても、「富者にたいして搾取の不道徳であることを説明しよう」とするだけで、社会主義の実現をめざして資本主義の害悪とたたかう実際の勢力――「新しい社会の創造者となることのできる社会的勢力」――、すなわち労働者階級の役割を発見することができなかったのです。
空想的社会主義のこの弱点を全面的に克服して、科学的社会主義の学説と運動をつくりあげたのは、マルクスでした。マルクスによる「唯物史観」(史的唯物論)と「剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」によって、社会主義は科学になったと、エンゲルスは『空想から科学へ』のなかで指摘していますので、ぜひ参照してください(新日本文庫、四八ページ)。
大事なことは、「空想から科学へ」のこの社会主義の発展にとって、階級闘争の学説がもっとも重要な役割をはたしたということです。
階級闘争それ自体は、マルクスがはじめて発見したというものではありません。みなさんも世界史の授業で習われたかも知れませんが、中世から近代へのヨーロッパの歴史は、ドイツ農民戦争(一五二四〜二五年)、イギリス清教徒革命(一六四二〜四九年)、フランス革命(一七八九〜九三年)、フランス二月革命とドイツ三月革命(一八四八〜四九年)など、数多くの革命の記録によって埋められています。近代の自由と民主主義、あるいは資本主義の経済活動の自由は、こうした人民のたたかいによってかちとられたものです。こうした歴史は、レーニンの指摘するとおり、「嵐のような諸革命は、階級闘争があらゆる発展の基礎であり推進力である」ことを示しています。
実際、こうした事実にみちびかれて、階級や階級闘争について論じた歴史家や経済学者は、マルクス以前にも何人もいました。マルクス自身、階級や階級闘争を発見したのは「僕の功績ではない」と友人への手紙のなかで語っています(一八五二年三月五日付のマルクスからヴァイデマイアーへの手紙、全集第二十八巻、四〇七ページ)。
それでは、この問題でのマルクスのもっとも優れた点とはなんだったのでしょうか。レーニンは、マルクスが「世界史の教える結論」――つまり、「階級闘争があらゆる発展の基礎であり推進力である」という結論を「だれよりもはやくここからひきだし、この結論を終始一貫したものにすることができた」と指摘しています。「この結論が階級闘争についての学説である」との指摘は、マルクスの社会主義理論における階級闘争の学説の重要性を示しています。
マルクスは、この階級闘争の学説を、社会主義の理論の柱としました。マルクスとエンゲルスが執筆した『共産党宣言』(一八四八年)――科学的社会主義、共産主義の最初の綱領的文書です――は、「これまでのすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という有名な文言で始まっています(新日本文庫、四二ページ)。エンゲルスは、これが『共産党宣言』をつらぬく「根本思想」だとのべています(一八八三年ドイツ語版への序文、同十三ページなど)。
では、階級闘争の学説を社会主義の理論の柱にするとはどういうことでしょうか。つづいての部分で、レーニンは、この問題を明らかにしています。
一つには、社会や政治を階級闘争の視点からとらえるということです。レーニンは、「人びとがあらゆる道徳的、宗教的、政治的、社会的なから文句や、声明や、約束のかげに、あれこれの階級の利害をみつけだすことを学びとらないうちは、彼らはいつも、政治における欺瞞や自己欺瞞のおろかな犠牲者となったし、これからもそうなるだろう」とのべて、政治や社会の諸問題を階級闘争の視点からとらえることの重要性を強調しています。
レーニンはまた、「すべてのふるい制度というものは、どんなに野蕃で腐朽しているようにみえても、いろいろの支配階級の力によって維持されている」ことを理解することの必要性も強調しています。資本主義制度がどんなに矛盾にみちて、時代遅れで不合理な制度のようにみえたとしても、それは支配階級の力によって維持されているのだから、それをよりよい制度に変革するためには、この制度を支えている「階級の抵抗」をうちやぶることが必要です。したがって、資本主義制度の害悪をなくし、より高度な新しい社会をきずくためには、そのための社会変革の「力」となる階級を、私たちのこの社会のなかに見いだし、これを実際の社会変革の勢力として組織することが必要です。空想的社会主義は、この点が理解できず、当時の政府や支配層にたいし協力を呼びかけたオーエンのように、「搾取の不道徳」を説得し、資本家たちの協力で社会主義を実現しようとするしかなかったのです。これが階級闘争の学説を社会主義の理論の柱にするということのもう一つの意味です。
私たちは、いま日本が直面する社会進歩の課題は、ただちに社会主義へすすむことではなく、資本主義の枠内での民主主義的変革であるとの綱領的展望にたっています。その展望にたって日本共産党第二十一回大会は、大企業とアメリカべったりの自民党政治にかわる民主連合政府を二十一世紀の早い時期に実現するとの目標を明らかにし、それにむけた民主的改革の多数派をどう結集するかという問題を大胆に提起しました。ここに、現代日本の社会進歩の道を切り開くもっとも重要な課題があることがお分かりいただけると思います。
階級闘争の見地は、社会主義論だけでなく、三つの構成部分すべてにつらぬかれているものです。第三章の最後の二つの段落は、その見地から、マルクスの哲学、経済学、そして階級闘争の学説が労働者階級の解放の理論としてどんな意味をもっているかをあらためて明らかにしたものといえます。
そこでレーニンは、マルクスの哲学的唯物論だけが、労働者階級に、支配階級のさまざまなイデオロギー的支配(「精神的奴隷状態」)から抜けだす道をしめしたこと、マルクスの経済理論だけが、資本主義の現状に甘んじることなく社会進歩をきりひらいていく労働者階級の「ほんとうの地位」を明らかにしたことを強調しています。ここまで学習されてきたみなさんには、その内容をあらためて説明する必要はないと思います。それは、最初にふれた、マルクスの哲学が「完成された哲学的唯物論」であり、それが「人類に、とくに労働者階級に、偉大な認識の道具をあたえた」とのレーニンの指摘と相通じるものだと思います。また、歴史の進歩において人民大衆がはたす役割をはじめて明らかにした史的唯物論の意義も重要です。
最後に、レーニンは、労働者階級のたたかいの世界的なひろがりを指摘して、科学的社会主義と社会進歩の事業の発展を強調しています。この論文が書かれてから、八四年がたちました。レーニン死後、スターリンの重大な誤りによってソ連社会が社会主義へ向かう道からはずれ、社会主義とは無縁の体制に変質し、最終的に崩壊するという重大な事件が起こり、「科学的社会主義は時代遅れ」とする攻撃も広がりました。
しかし、二十一世紀をひかえて、発達した資本主義国の全体が矛盾と困難を深めているところに、こんにちの情勢の新しい特徴の一つがあり、二十一世紀が、資本主義をのりこえていく社会進歩の諸条件が――すくなくとも潜在的には――世界的な規模で成熟にむかう世紀となることはまちがいありません。そういう歴史的な時期に、日本での科学的社会主義の事業を前進させている私たちの活動は、文字どおり「世界史的な意義」をもつものです。
私たちは、科学的社会主義の古典の学習をつうじて、その意義をいっそう深くつかむことができると思います。科学的社会主義の学説の意義を分端的に解明したレーニンの「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」が、その古典学習の第一歩として大いに役立つことを期待しています。
(おわり)