(2000年3月)
日本共産党の独習指定文献には、10の科学的社会主義の古典があげられています。そのなかで、レーニンの『唯物論と経験批判論』は、科学的社会主義の哲学、とくに認識論といわれる問題を真正面からとりあげた文献として特徴を持っています。
科学的社会主義の哲学については、すでに『空想から科学へ』や『フォイエルバッハ論』、『反デューリング論』などで学ばれた方も多いと思います。『唯物論と経験批判論』は、そうした文献でのマルクス、エンゲルスの指摘をふまえながら、経験批判論、経験一元論あるいはマッハ主義などとよばれた観念論哲学の潮流にたいして徹底した批判をおこなうとともに、その論戦を通じて、物質とはなにか、真理とはなにかなど、弁証法的唯物論の哲学自体を積極的に発展し、前進させています。
そういう意味で、一見すると抽象的な議論をたたかわせているようにみえますが、科学的社会主義の世界観への理解を深めるうえで、欠かすことのできない重要な文献となっています。独習指定文献のなかでも、『資本論』第2巻、第3巻とともに、上級に分類される数少ない文献で、文庫版や「科学的社会主義の古典選書」シリーズでは上下2冊、全集でもほとんどまるまる1冊という大部な著作ですが、ぜひ多くの方に学んでいただきたいと思います。
とはいえ、私自身、はじめて『唯物論と経験批判論』を読んだときにはまったく歯が立たず、訳も分からないままとにかく読みとおしただけに終わりました。しかしその後、『フォイエルバッハ論』や『反デューリング論』などをくり返し読み、また、不破委員長の「『唯物論と経験批判論』によせて」(『「資本論」と今日の時代』新日本出版社に収録)を知って、レーニンが何を批判しているのか、何を言いたいのか、少しずつですが読み取れるようになりました。
そこでまず、私自身の体験もふまえて、この文献を読むうえでどんなところに気をつけたらよいか、どんなふうに読みとおしたらよいかを中心に紹介したいと思います。『唯物論と経験批判論』の各章の構成やポイントは後半でご紹介します。
『唯物論と経験批判論』は論争の書です。ですから、それを読むには、どういう背景のもとで執筆されたのか、論争の相手は何なのかを、多少なりともつかんでおくことが大切です。
まず歴史的な背景ですが、『唯物論と経験批判論』は、1905〜1907年のロシア革命が敗北したあとの反動の時代に登場した哲学上の修正主義にたいする批判として書かれたものです。1908年にレーニンが亡命先のスイスで執筆し、翌年モスクワで出版されました。
当時ロシアは、絶対的な専制権力をもつツァーリ(皇帝)が支配する専制国家でした。1905年の革命(第1次ロシア革命)で、ツァーリ権力は譲歩を余儀なくされ、きわめて限られた権限しかもたなかったとはいえ、はじめて国会が開設されました。しかし、その国会も1907年6月にクーデター的なやり方で解散され、選挙制度も大幅に改悪するなど反動支配が復活していました。この反動支配は、当時の首相の名前から「ストルイピン反動」と呼ばれています。
ロシア社会民主労働党の国会議員は追放され、国内の組織は徹底した弾圧を受けました。レーニンも国外への亡命を余儀なくされ、スイスのジュネーブでボリシェビキ派の機関紙「プロレタリー」を再刊して、ロシア国内の党組織の再建にとりくみました。しかしロシア国内では、一方ではメンシェビキ派を中心に、非合法の革命党の必要性を否定し革命運動を放棄する「解党主義」が強まり、他方では、国会選挙のボイコットを主張する「召還主義」など、反動支配のもとでも残されていた合法的活動の余地を利用して労働者に粘り強く働きかけることを放棄する、見かけだけ「左翼的」な日和見主義も生まれました。革命運動からの離反、士気喪失、観念論への傾斜、さらには神秘主義への転落などが広がった時期でした。
こうした反動期に登場した哲学的観念論の代表が、マッハ主義あるいは経験批判論、経験一元論などと呼ばれた潮流でした。批判の対象の中心となっているのは、『マルクス主義哲学にかんする概説』(1908年)を共同して出版したバザーロフ、ボグダーノフ、ルナチャルスキーたちです。彼らは、当時ヨーロッパで広がっていたマッハ主義とよばれた哲学を「現代の認識論」「最新の哲学」として持ち上げ、マルクスやエンゲルスが確立した弁証法的唯物論を「神秘説」だとか「古くさくなった」などと攻撃しました。
しかし、ややこしいのは、彼らが真っ向からマルクスらの見解を攻撃、否定するのを避けて「ひざまずきながらの反抗」(これは「ロシア・マルクス主義の父」と呼ばれながら、当時はレーニンと政治方針のうえで敵対していたメンシェビキ派に属したプレハーノフの言葉です)をおこなったことです。レーニンは、こうしたやり方は「典型的な哲学上の修正主義」だと言っています。「修正主義」というのは、「マルクス主義の基本的見解」を「放棄」しておきながら、それを「公然と、率直に、きっぱりと」主張せず、あたかもあれこれの部分的な「修正」をはかっているかのように装っているからです。
さらに重大だったことは、誤った理論的潮流の中心人物の一人ボグダーノフが、レーニンを含め3人しかいない「プロレタリー」の編集局員の一人だったことです。当時、「プロレタリー」編集局がボリシェビキ派の事実上の指導部となっていたので、これは、革命党の指導部の中枢で、科学的社会主義の哲学的唯物論からの根本的離反が起こったといえるものでした。レーニンがこの事態をどれほど重大に考えたかが分かるでしょう。
しかしレーニンが、ボグダーノフらの批判にじっさいに踏み切るまでは、なかなか複雑な経過がありました。それは、レーニンが1908年2月25日付で作家のゴーリキーに送った手紙から知ることができます(全集第13巻、461〜466ページ)。
レーニンは、ボグダーノフの哲学上の見解への批判は明確にしながらも、政治路線の問題ではボグダーノフと一致し、共同行動をすすめるために、哲学での意見の違いは「中立地帯」として脇に置く「暗黙のブロック」を結び、「プロレタリー」の編集にあたっては、「哲学上のわれわれのあらゆる意見の不一致に絶対的に中立」の立場をまもりました。ボグダーノフとの哲学をめぐる意見の対立がはげしくなったあとも、そうした意見の相違がボリシェビキ派の分裂に結びつくことのないように配慮し、「プロレタリー」の編集やボリシェビキ派の活動とは厳格に区別する態度をつらぬきました。
しかし、このことはレーニンがこの論争を軽視していたことを意味するものではありません。レーニンは、ジュネーブの図書館だけでなく、ロンドンにも出かけ大英博物館にも通うなどして、この哲学問題にとりくんでいました。そしてボグダーノフが、国会ボイコット問題(注)を持ち出し、それを経験批判論と結びつけてボリシェビキ派の分裂をひきおこすと、『唯物論と経験批判論』の執筆に踏み切ったのでした。ここには、ボグダーノフらの誤った哲学的見解をうちやぶることを、科学的社会主義の事業にとって決定的な意義をもつ仕事と考えたレーニンの姿勢がよくあらわれていると思います。
(注) 当時のロシアの国会は、ツァーリ任命議員が半数を占める参議院の賛成やツァーリ自身の承認がなければ、法律一つ制定することができないという非常に限られた権限しかもっていませんでした。また選挙制度も、大地主、ブルジョアジー、農民、労働者と四つの階層に分かれた不平等で、何重にもわたる間接選挙というものでした。そのため、最初に国会がつくられたときの選挙では、ボリシェビキ派は、このような国会への幻想を批判するために、ボイコットを呼びかけました。しかし、いったん国会ができ上がったあとは、ボイコット戦術をやめ、たとえきわめて制限された国会であっても、それに参加し、議会活動の合法的舞台を最大限に活用する方針をとりました。当時のロシア国会とその活用については、不破哲三『人民的議会主義』(新日本新書、上、62〜65ページ)、『レーニンと「資本論」』第5巻(347〜349ページ)を参照のこと。
このような事情のため、レーニンは、ボグダーノフらロシアの「経験批判論者」だけを批判して事足れりとするのではなく、彼らが持ち出したマッハ主義についても深い検討をくわえ、さらにマッハ主義が生まれる背景となった19世紀末から20世紀初頭の「物理学の危機」についても解明をあたえるなど、文字どおり徹底した批判をおこなったのです。
そのために、批判のすすめ方でも、『反デューリング論』や『フォイエルバッハ論』などマルクス、エンゲルスの命題を、経験批判論やマッハ主義に対置してすませるのではなく、各所で、弁証法的唯物論の立場から踏み込んだ解明をおこない、科学的社会主義の哲学を発展、前進させています。
マッハ主義は、一方で唯物論を批判、攻撃しておきながら、他方で、みずからは唯物論と観念論の対立を超えたと主張したり、基本的なところで唯物論を批判しておきながら、別の部分ではこっそりと唯物論的見地を取り入れるなどしていました。ボグダーノフらが、マッハ主義にはまってしまったのも、そういうごまかしを見抜けなかったからにほかなりません。それゆえ、ロシアの経験批判論者は、唯物論とは相容れないマッハ主義の主張を取り入れながら、それが唯物論に反しないものであるかのように描き出したのです。それだけに、レーニンの批判は、こうした首尾一貫しない、ある意味で捕らえどころのない彼らの主張にたいして、唯物論からの離反という太い筋での批判をつらぬきながら、同時に、その矛盾した内容もとりあげて、ごまかしの手法をくわしく解き明かしています。こうした批判の徹底ぶりと、そのなかで随所で展開される弁証法的唯物論についてのレーニンの深い展開も、ぜひ丹念に読み取りたいものです。
不破委員長は、『古典学習のすすめ』のなかで、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』にふれて、科学的社会主義の世界観の問題が教科書的な組み立てではなく「波を打つような形で展開」しており、それが苦労ではあっても、古典そのものを読むおもしろさでもあると指摘しています(『古典学習のすすめ』新日本出版社、118ページ)。この指摘は、論争の書である本書にもそのままあてはまるものです。大部な哲学書を読み解く苦労は大きいけれども、その波打つ全体をつかみながら読みすすめるならば、弁証法的唯物論の生きた真髄をつかむことができるにちがいありません。
同時に、レーニンが批判をロシア国内の経験批判論者にとどめなかった背景には、さらに当時の国際的な背景がありました。
その一つは、社会主義運動の内部での修正主義の大きな流れでした。哲学の分野では、この修正主義の流れは、ヨーロッパで「カントに帰れ」という合言葉のもとに起こった新カント派の隆盛をうけて、哲学的唯物論への攻撃という形をとりました。そのため、レーニンは『唯物論と経験批判論』のなかでも、くり返し、カントの哲学的立場について詳細な検討をくわえています。
もう一つは、「物理学の危機」とよばれる事態です。19世紀末から20世紀はじめにかけて物理学の新しい発見が相次ぎました。レーニンは、エックス線やラジウムの発見、「電子理論」などを上げていますが、エックス線の発見は1895年、ラジウムの発見は1898年のことでした。しかし、こうした発見とともに、従来の物理学の法則では説明できないさまざまな現象も明らかとなりました。ラジウムは、それまでの物理学が基礎においていた「エネルギー保存の法則」をくつがえすかのように見えました。また、1903年には電子の質量が電子の速度とともに変化することが観測され、「質量不変の法則」にたいする疑惑を引き起こしました。
そこから、一部の物理学者は「物質は消滅した」とか「物質は消滅して、方程式だけが残る」などといって、物質の存在を否定する観念論の潮流が生まれました。マッハもそうした物理学者の一人です。彼は、こんにち音速の単位としてその名前が知られている物理学者でしたが、感覚の外にある実在を否定する彼の哲学はマッハ主義とよばれました。 そのため、レーニンは、『唯物論と経験批判論』で、第5章「自然科学における最近の革命と哲学的観念論」全体をこの問題にあて、「物理学の危機」の哲学的本質を明らかにするとともに、弁証法的唯物論の見地に立ってこそその打開がはかれることを示しました。
レーニン自身は物理学の専門家ではなく、また『唯物論と経験批判論』の執筆は物理学の新しい発見がまだ続いているさなかでしたが、そこでのレーニンの解明は、その後の物理学の発展の方向を正しく見透すものでした。日本を代表する物理学者である故坂田昌一氏(名古屋大学教授)は、戦後すぐの時期に、そのことを次のように述べました。
「今世紀〔20世紀〕の初頭、物理学者の陥ったこのような混乱に対しその性格をみごとに分析し物理学のすすむべき正しい方向を指し示したのはレーニンである」「自然科学の研究は自然の客観的実在性を確信した見地、すなわち唯物論に立脚しなければ行なうことが出来ない。自然科学者が初期に抱いていた世界観は機械論的な唯物論であったが、自然科学のその後の発展はこの世界観を崩壊せしめた。しかしこの見地の偏狭性はその唯物論的見解にあるのではなく、その形而上学的性格にあり、科学の進歩を包括するためには弁証法的唯物論にまで上昇することが必要であった。物理学のその後の著しい発展は彼の見透しが正しかったことを完全に証明し、唯物弁証法の有効性が如実に示された」(「原子物理学の発展とその方法」1946年、『物理学と方法』岩波書店、所収)
坂田氏はまた、原子の構造にとどまらず、原子を構成する素粒子の内部の構造にまで研究をすすめようとしたとき、エンゲルスの『自然の弁証法』の言葉とともに、『唯物論と経験批判論』での「電子は、原子と同じように、くみつくすことのできないもの」(下、108ページ)というレーニンの指摘にはげまされたとも語っています(「私の古典――エンゲルスの『自然弁証法』」1969年、同前所収)。
こんにち、物理学の研究は、原子を構成する電子や陽子といった素粒子のレベルから、その素粒子を構成するクォークのレベルへとすすみ、六つのクォークの存在が確かめられています。最先端で研究をすすめる物理学者の研究をはげまし、その後の物理学の発展によって大いに検証されたレーニンの解明は、『唯物論と経験批判論』の大きな魅力の一つといえます。
そうはいっても、本書には、たくさんの哲学者、物理学者が登場します。そのうえなれない哲学の問題だということもあって、大変難しく思われる方も多いと思います。私自身、はじめて読んだときは、話の筋が読み取れず、批判の細部に迷いこんでしまって方向を見失ったように感じました。
そういうとき、不破委員長が「『唯物論と経験批判論』によせて」で、登場する哲学者を4つのグループに分けて、その大まかな傾向(「政治地図」)をしめし、この4つのグループ分けとそれに関連したレーニンの論証の方法をのみこんでおくことが大事だとの指摘を読み、ようやく議論の筋道を追いかけることができるようになりました。委員長のこの指摘は、これから『唯物論と経験批判論』に挑戦しようという方にもきっと役立つにちがいありませんので、ぜひご紹介をしておきたいと思います。
第1のグループは、唯物論者のグループです。もちろん代表はマルクス、エンゲルスです。それだけでなく、18世紀のフランスの思想家ディドロ、マルクスらが唯物論の立場にすすむときに大きな影響をあたえた19世紀のドイツの哲学者フォイエルバッハ、マルクスやエンゲルスと同時代に独自に弁証法的唯物論の見地に到達したドイツの労働者出身の手う学者ディーツゲン、それに前出のプレハーノフなども登場します。彼らは、唯物論の立場に立つという点でマルクス、エンゲルスと共通していますが、さまざまな弱点ももっていて、そこをマッハ主義に突かれたりもしています。ですから、レーニンは、そういう弱点についてもくわしく解明しています。
第2のグループは、観念論者のグループです。観念論者のなかには、客観的観念論の立場に立つヘーゲル(ドイツ古典哲学の代表者)もいますが、ここで問題になるのは主観的観念論や不可知論の哲学者です。その代表的人物として、18世紀のイギリスの哲学者バークリ(「序論にかえて」に登場)、同じくヒューム、18世紀にドイツで活躍した哲学者カントをあげています。それぞれの哲学的立場の特徴については、あとで紹介しますが、レーニンは、マッハ主義の主張を批判するさいに、くり返しバークリ、ヒューム、カントなどの主張と照らし合わせて、彼らが観念論の立場に立っていることを反論の余地のないまでに明らかにするというやり方をとっています。そういう批判のための「基準」としての役割を、これらの哲学者がはたしているといえます。
第3は、ヨーロッパのマッハ主義者のグループです。代表者は、マッハ、アヴェナリウスですが、ほかに、ウィリー、ペツォルト(独)、ピアスン(英)、ポアンカレ(仏)なども登場します。マッハ主義の特徴は、みずからは観念論、不可知論の立場にたっているにもかかわらず、自分では“観念論と唯物論の対立をのりこえた”と主張しているところにあります。そこで、レーニンは、彼らの主張を、第二のグループの主張と照らし合わせることで、その主張が観念論、不可知論の立場にほかならないことを暴露しています。
同時に、ピアスンやポアンカレは、哲学的にはマッハと共通する立場にたっているのですが、自分たちでは、唯物論を乗り越えたなどと主張することなく、ある意味で“堂々と”観念論の立場を表明していますので、レーニンは、彼らを引き合いに出すことによって、マッハ主義が観念論そのものにほかならないことを証明しています。次々といろいろな哲学者、物理学者が登場するのには、こういう理由があります。
最後に、第4のグループですが、ボグダーノフ、バザーロフ、ルナチャルスキーなどロシアのマッハ主義者、経験批判論者、経験一元論者のグループです。レーニンが批判の中心的な相手としたのはこのグループですが、彼らは、哲学的にはマッハ主義を基礎においているにもかかわらず、それを「マルクス主義」の哲学そのものだと主張しているところに特徴があります。そのために、レーニンは、ボグダーノフらの主張が観念論であることを明らかにして批判するだけでなく、マッハらの主張にまでさかのぼって徹底して批判したのです。そしてさらに、ボグダーノフらがどういうところでマッハ主義のごまかしの手法にはまったかまでくわしく解き明かしています。
こういうグループ分けをのみこんでおけば、レーニンの議論の展開がぐっとつかみやすくなります。たとえば第1章でレーニンは、まず第1節で、マッハとアヴェナリウスの主張をエンゲルスの主張と対照して観念論としての正体を明らかにし、ついで第2節、第3節で、ボグダーノフらがはまり込んだマッハ主義のごまかしの手法(「世界要素」「原理的同格」など)を批判する、というように展開しています。一見非常に細かい問題を論じているように見えても、実は縦横に議論を展開して、ボグダーノフらの理論的誤りを、文字どおり反論の余地のないところまで追い詰めています。そこが本書のおもしろさでもあり、レーニンが展開している哲学問題の内容とともに、そういう批判の徹底ぶりについても大いに学びたいものです。
これまで、『唯物論と経験批判論』を読むときに気をつけたいことやどんなふうに読んだらよいかをご紹介しました。こんどは、全体の構成を簡単にみておきたいと思います。『唯物論と経験批判論』のような大部な著作を読むときには、全体の構成を大づかみにでも頭に入れておいて、自分がいま読んでいるところでは何が問題になっているかをにぎって離さないことが大切です。
まず「序論にかえて」です。ここでは、1710年のバークリが登場します。バークリは、18世紀の哲学者で、イギリス国教会の監督の地位にあった聖職者でもありました。バークリは、物は「感覚の集まり」であって、われわれの感覚の外に「外的物体」の存在を「仮定」するのは「不条理な」学説だと主張しました。これをつきつめると、世界に存在するのは自分の感覚だけであって、たとえば他人の存在も自分の「感覚の集まり」に過ぎないということになります。これを「主観的観念論」といいますが、“世界中に存在するのは自分だけだ”という意味で「唯我論」とも呼ばれます。主観的観念論、唯我論の立場がどれだけ不合理なものであるかは、第1章でくわしく明らかにされています。
レーニンはなぜバークリから始めたのでしょうか。それは、ロシアのマッハ主義者たちが自分たちは「最新の科学」「現代の認識論」「最新の実証主義」にもとづいていると主張しているのにたいして、その唯物論批判のやり方が、実は十八世紀のバークリの唯物論攻撃と同じだということをまず明らかにすることによって、ロシアのマッハ主義者の主張がほんとうは少しも新しくないことをはっきりさせるためです。同時に、主観的観念論の代表としてバークリの立場をまず明確にさせておくことで、第1章以下で、マッハ主義者たちの議論がバークリと変わらないことが、反論の余地なく明らかになるという仕組みにもなっています。
次に第1章から第3章ですが、これら3つの章は、「経験批判論の認識論と弁証法的唯物論の認識論」という共通の表題のもとにあって、本書でのマッハ主義批判の中心をなす部分といえます。そこでは、マッハ主義、経験批判論の理論的基礎と弁証法的唯物論の理論的基礎とが、認識論のあらゆる分野の問題について比較され、マッハ主義、経験批判論の正体が明らかにされています。
まず第1章では、物質が根源的か感覚、意識が根源的かという「哲学の根本問題」を駆使して、マッハ主義哲学の正体が観念論であることを暴露しています。
「哲学の根本問題」というのは、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』で明らかにしたものです(古典選書版、30〜33ページ)。そこでエンゲルスは、「すべての哲学の、とくに近代の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在との関係にかんする問題である」と指摘し、本源的なものは精神、感覚、意識なのか、自然、存在、物質なのかという「この問題に答える立場にしたがって、哲学者たちは二つの大きな陣営に分かれた」と言っています。そして、物質にたいして「精神の本源性を主張し」た人びとは観念論の陣営をつくり、物質を本源的なものとみとめた人びとは唯物論の陣営をかたちづくったと指摘しています。レーニンは、このエンゲルスの指摘を駆使して、第一章では、くりかえし経験から物質へ向かうのか、物質から経験に向かうのかと問いかけ、経験から物質に向かうマッハ主義が観念論にほかならないことを明らかにします。
ところで不破委員長は、“観念論にたいする3つの質問”というものをよく紹介しています。三つの質問というのは、「他人の存在を認めるか?」、「自然は人間以前に存在したか?」、「人間は脳の助けを借りて考えるか?」という3つです。唯物論の立場からは、この三つの質問にはいずれも「イエス」と答えることができますし、それは私たちの常識にかなったものです。ところが、存在するのは自分の観念、感覚であって、物というのは感覚の「寄せ集め」だと考える観念論の立場からは、いずれもイエスと答えることができず、苦しい弁解が必要な矛盾に直面してしまいます。不破委員長がいうとおり、まさに観念論の致命的弱点を突く質問となっています。
この3つの質問は、『唯物論と経験批判論』第1章でのレーニンの批判を、委員長なりに非常にわかりやすくまとめたものです。第1の質問は、おもに第1章第1節と第6節で展開されていますし、あとの2つの質問は、第4節と第5節の表題そのものです。3つの質問を頭において、そのもとになったレーニンの議論がどう展開されているかを読みすすめてみるのも、第1章の読み方として興味深いかも知れません。
第2章では、世界の認識の可能性、すなわち人間は世界を正しく認識できるのか、真理とはなにか、真理は認識できるのかといった問題が論じられています。これは、エンゲルスが哲学の根本問題の「もう一つの側面」としてとりあげた問題です。弁証法的唯物論はもちろん、多くの哲学者も、世界の認識可能性を認めるのにたいして、世界を正しく認識できることに異論を唱える哲学的立場があります。後者は一般に「不可知論」とよばれています。不可知論の代表的な哲学者は、デイヴィッド・ヒューム(イギリス、1711〜1776年)とエマヌエル・カント(ドイツ、1724〜1804年)です。
ヒュームはイギリスの哲学者で、その考え方は「序論にかえて」で紹介されています。それによると、一般の人びとは「外的物体」の存在にたいする「信念」を保持しているが、われわれの心に現前しているのは「心像」にほかならず、「この家」とか「あの木」とかいう場合に、われわれが考えている対象は「心のなかの知覚にほかならない」。したがって、「心の知覚」が、外的対象によってひきおこされるという考え方は「どんな論拠によって証明されることができようか」。外的物体が存在しそれによって感覚が引起こされるという「仮定には、推理する根拠がなにもない」というものです。
もう一人のカントは、ドイツ古典哲学の出発点となった哲学者です。カントは、ヒュームとは違って、われわれの「感覚」の外に「なんらかの物自体」が存在することは認めています。しかし、その「物自体」がなんであるかは認識できないとするのです。つまり、外界とわれわれとの認識をまったく切り離してしまったところに特徴があります。外的実在を認めるという点では唯物論的ですが、認識不可能とする点では観念論的です。レーニンは、「カント哲学の基本的特徴は、唯物論と観念論との調停、両者のあいだの妥協、種類のちがった相互に対立する哲学的方向を一つの体系のうちで結び合わせることである」と指摘しています(下、14ページ)。ヒュームの立場からすれば、「物自体」は認識できないといいながら、その存在は認めるのですから、不可知論としては中途半端だということになります。
不可知論については、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』と『空想から科学へ』英語版序文でくわしく論じています。そこでエンゲルスは、不可知論への最大の反論は、実践(「実験と産業」)であることを明らかにしています。そのとき、「プディングをためすことは食ってみることである」(『空想から科学へ』古典選書版、一一一ページ)と述べたことは有名です。レーニンは、そうしたエンゲルスの指摘にもとづいて、マッハ主義がこの不可知論にほかならないことを明らかにしています。
第2章では続いて、「客観的真理は存在するか」(第4節)、「絶対的真理と相対的真理」(第5節)の関係、「認識論における実践の基準」(第6節)について、弁証法的唯物論の立場から基本的な考え方を多面的に深めています。このなかでは、弁証法的唯物論の立場から、物質とはなにかという問題にたいする定義も明らかにされています。
「物質とは、人間にその感覚においてあたえられており、われわれの感覚からは独立して存在しながら、われわれの感覚によって模写され、撮影され、反映される客観的実在を表示するための哲学的カテゴリーである」(上、170ページ)
物質の哲学的概念については、第五章でもさらにくわしく論じられていますが、物質の哲学的定義を明確にしたことは本書の重要な成果であり、ぜひみなさんにもよく学んでいただきたいところでもあります。
なお、不可知論の代表的な哲学者であるカントの哲学とマッハ主義の関係については、第四章でもくわしく論じられています。
第3章は、物質と経験、因果性と必然性、世界の統一性、空間と時間、自由と必然性など、哲学上の基本的概念をとりあげて、弁証法的唯物論の立場から積極的にその内容を明らかにしています。ここでも第二章と同様に、レーニンは、『反デューリング論』でエンゲルスが展開した問題を、さらに深め、発展させています。
ここでは、エンゲルスの哲学の根本問題の見地からマッハ主義は念論だとするレーニンらの批判にたいし、マッハ主義者が、そのような批判は古い「定式」の繰りかえしに過ぎないといって反論していることが取り上げられています。そのなかで、レーニンは、物質と精神という概念は認識論上もっとも広い概念であって、どちらを第一次的なものとみなすかという以外の定義をあたえることができないということをくわしく明らかにしています(上、194〜195ページ)。
同時に、レーニンは、「物質と意識の対立」が「基本的な認識論的問題の限界内でだけ、絶対的意義をもっている。この限界のそとでは、この対立が相対的であることは疑う余地がない」(上、196ページ)と指摘することを忘れていません。これは、“唯物論は物質万能論だ”“唯物論は、人間の意識の役割を無視している”などといった唯物論攻撃があいかわらず繰りかえされているなかで、大事な指摘だといえます。
また第3章では、さらに自然における因果性、必然性とはなにか、世界の統一性をどうとらえるか、空間と時間、自由と必然性の関係をどうみるか、など哲学上の基本的概念をとりあげて、マッハ主義と弁証法的唯物論の2つの立場の違いを克明に明らかにしています。
ここでの議論は、一見するとかなり抽象的なもののようにも見えますが、たとえば、“21世紀の早い時期に民主的政権を実現することには、国民的な必然性がある”と言うとき、その「必然性」とはどういう意味か、その基礎理論的な内容がここで解明されています。また、第6節「自由と必然性」では、「自由とは必然性の洞察である」という命題(これは、エンゲルスが『反デューリング論』のなかでヘーゲルの主張としてのべたものです)の意味をくわしく明らかにしています(上、253〜256ページ)。
第4章は、マッハ主義の観念論としての本性を、観念論の他の潮流との関係をみることで明確にした章です。とくに、カント哲学との関係でマッハ主義の位置が論じられていて、弁証法的唯物論がカント哲学の観念論的側面を批判するのにたいして、マッハ主義がカント哲学を主観的観念論の立場にさらに徹底する方向で批判していることが明らかにされています。同時に、マッハ主義によって利用されたプレハーノフやディーツゲンの弱点も解明されていています。
第5章は、マッハ主義などの潮流を生み出した背景にある「物理学の危機」の哲学的本質を明らかにしたところで、本書のいちばんおもしろい部分でもあります。
マッハらが自然科学者でありながら、自然、物質の実在性を否定する観念論に落ち込んだ背景に、「物理学の危機」とよばれる事態があったことは、はじめに紹介しました。レーニンは、マッハ主義が登場した背景に、そうした「危機」から生まれた「物理学的」観念論ともいうべき国際的な観念論哲学の潮流であることを明らかにしています。そして、「物理学の危機」の哲学的本質が「古い諸法則や基本的諸原理の崩壊に、意識の外の客観的実在を捨て去ったことに、すなわち唯物論を観念論や不可知論にとりかえたことにある」と指摘しています(下、102ページ)。
それを象徴するのが「物質は消滅した」(これは、フランスの物理学者ウルヴィーグの言葉です)という言葉ですが、レーニンは、その意味を明快に明らかにしました。
「『物質が消滅する』ということは、われわれが従来、物質についてそこまで知っていたというその限界が消滅したこと、われわれの知識がさらに深くすすんだことを意味している。以前には絶対的、不変的、本源的と思われていた物質の性質(不可入性、慣性、質量、その他)が消滅し、いまではそれは、物質のある状態にだけそなわっている相対的なものだということが明らかにされている」(下、105ページ)
新しい物理学のさまざまな発見は、実は「弁証法的唯物論をかさねて検証するものにほかならない」のに、物理学者たちは「弁証法を知らなかった」ために、観念論に落ち込んでしまったのです(下、106〜107ページ)。
「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」で、レーニンが弁証法を「永遠に発展していく物質の反映をわれわれにあたえる、人間の知識の相対性についての学説」と特徴づけていることは、すでにみなさんも学習されたことと思います。「三つの源泉」ではごく簡単にしかのべられていませんが、短い論文のなかでわざわざこの問題に言及したのも、マッハ主義との論争をつうじて、この問題の重要性を痛感していたからでしょう。
第6章は、社会科学の分野に持ち込まれたマッハ主義の理論を批判した章です。レーニンは、あらためて史的唯物論の意義を明らかにしていますが、そのさい、認識論という角度から問題を論じているのが特徴です。
また、第4節で、「哲学における党派性」の問題が取り上げられていて、思想闘争、理論闘争における原則的な立場が明らかにされています。このなかで、レーニンは、問題が認識論や経済学の一般理論といった「党派的科学」の分野になった場合は、断固として党派性をつらぬかなければならないことを強調するとともに、「事実にかんする専門的研究分野」では、科学的社会主義とは異なる立場に立つ専門研究者が「このうえもなく価値ある仕事をする」ことを評価し、その業績を「わがものに」することなしに研究を一歩もすすめることができないと指摘しています。
これは、レーニン自身も実践してきた研究態度でした。『帝国主義論』(1916年)の執筆にあたって、レーニンは、さまざまな立場の研究者の著作や統計資料を徹底的に調べぬいて、そこから議論の余地のない「国際的な相互関係における世界資本主義経済の外観図」を描き出すことに全力をあげました。そのためにレーニンが残したノート類は、いま『帝国主義論ノート』(レーニン全集第39巻)としてまとめられていますが、そこには148冊の単行本、49種類の定期刊行物に載った232本の論文、統計資料からの抜き書きが収められているということです。
レーニンは、「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(独習指定文献初級)で、科学的社会主義は「世界文明の発展の大道」にそったものであり、人類が生み出した「最良のものの正統な継承者」であると強調していますが、それは、このような人類知識の発展の成果を「わがもの」にする努力のうえになりたつものであり、私たちも、それをみずから実践したレーニンの態度に学ぶ必要があります。
以上、『唯物論と経験批判論』の魅力や特徴を紹介してきました。『唯物論と経験批判論』は、観念論哲学との論争をつうじて、弁証法的唯物論の見地を前進、発展させた重要な文献ですが、同時に、レーニンの哲学研究はそれで終わったわけではありません。とくに、『カール・マルクス』執筆にあたって、レーニンは、ヘーゲルの『大論理学』を読み返すなどさらに哲学の研究をすすめています。
不破委員長は、『レーニンと「資本論」』第3巻(マルク主義論)のなかで、そうしたレーニンの哲学研究の成果を明らかにしながら、観念論や不可知論の哲学批判の新しい方向を取り上げています。
委員長はそのなかで、エンゲルスが不可知論者を「はずかしがりの唯物論」と呼んだ意味合いに触れ、不可知論が哲学の分野ではけっして観念論の反動的なかたちではなく、唯物論を事実上うけいれざるをえなくなっていて、それゆえに「物自体」の認識不可能性というところに最後の逃げ道を求める哲学、「唯物論への接近の形態ともいうべき性質をもっている」こと、その点でレーニンの『唯物論と経験批判論』での批判が、不可知論を反動哲学として一括されるなどの弱点をもっていたことなどを指摘しています(同書、113、117ページ)。
私自身、「はずかしがりの唯物論」というエンゲルスの指摘を、もっぱら不可知論者にたいする一種のののしり言葉のように理解していただけに、この委員長の指摘は非常に新鮮に受けとめ、自分の理解の至らなさを反省させられました。不可知論が唯物論への接近の形態としての性格を持つことをきちんとふまえたうえで、不可知論を批判するにあたっては、「実践的には、唯物論をかげでうけいれていながら、人まえではこれを否認する」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』新日本出版社、古典選書シリーズ、36ページ)という不可知論の「矛盾の解明をふくめた、内在的、論理的な批判」(不破『レーニンと「資本論」』第三巻、114ページ)が必要だという指摘は、不可知論批判をさらに発展させるうえで重要な提起だと思いました。
同書では、『唯物論と経験批判論』の内容やそこでのレーニンの解明の意義がくわしく明らかにされていますので、右に紹介した委員長の提起を含め、こんにち『唯物論と経験批判論』の学習を志されるみなさんが、ぜひ参考にされることをお薦めします。
(おわり)