(2000年7月)
目次
本巻には、不破哲三氏の『経済』誌の連載「レーニンと『資本論』」の第23回から第27回(『経済』1999年8月号から12月号)がまとめられています。
前半(第20章から第22章まで)は、第1次世界大戦の勃発後にレーニンのロシア革命像がどう発展したか、そして1917年の二月革命から十月革命にいたる情勢の展開のなかでレーニンがその認識と指導をどう創造的に発展させていったかを検討した部分です。そして、後半(第23章)では、レーニンの主要著作である『国家と革命』(1917年執筆)での国家論研究が、マルクス、エンゲルスの探求した革命の路線――著者はそれを「議会の多数をえての革命」と名づけています――に照らして検討されています。巻末には、今年1月に「しんぶん赤旗」に載った2つのインタビューがおさめられています。とくに2つ目のインタビューは、著者みずからのことばで本巻各章のポイントが説明されており、本論の前にぜひ読まれることをお薦めします。
不破氏は、昨年(1999年)の日本共産党創立77周年記念講演で、「いま科学的社会主義の大きな流れのなかで、レ−ニンの理論を再吟味し、私たちが肯定できる発展的な部分と、理論的な誤り、あるいは歴史の試練に耐えなかった部分とをきちんと区別して解明することは、私は、21世紀における科学的社会主義の理論的な発展の道を開くためにも、大切な仕事だと考えています」(『現代史のなかで日本共産党を考える』28ページ)とのべました。本巻での『国家と革命』の全体的な検討は、まさに21世紀にむけた科学的社会主義の理論的発展を開くものだと感じています。
ここでは、本巻を読んで、私なりに重要だと思ったこと、あらためて勉強になったところなどをご紹介したいと思います。
1917年の二月革命から十月革命にいたる時期は、ロシア革命のなかでももっとも情勢の激動した時期です。1914年に始まった第1次世界大戦は、ヨーロッパ主要国がドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアの2つの陣営にわかれてたたかわれた初めての世界大戦で、どちらの側からみても帝国主義戦争でした。ツァーリ(皇帝)の専制支配のもとにあったロシアでは、戦争の進展とともに抑圧と混乱が深まり、国民の不満と抗議が広がりました。それがついに、「平和、自由、パン」を求める革命となったのです。私は、古書店で『レーニン全集』を買ったとき、二月革命の知らせを聞いたレーニンがロシア国内に送った「遠方よりの手紙」から真っ先に読みはじめたのですが、情勢のめまぐるしい進展がつかみ切れずとても苦労しました。
著者は、レーニンのロシア革命像が第1次世界大戦の勃発から2年半のあいだに大きく発展したことを強調しています。そのレーニンの探求の道筋をつかむことは、その後のロシア革命の進展を理解するうえで大事なポイントになると私は思いました。
開戦当初、レーニンは、当面するロシアの革命の目標はツァーリの専制権力を打倒して共和制を樹立するブルジョア民主主義革命だと考えていました。帝国主義戦争に民主主義革命で対決するという路線です。ところが、戦争の本質が、侵略的なツァーリズムの軍事的・封建的帝国主義だけでなく、独占資本主義の侵略性、ブルジョア的な帝国主義そのものにあることがはっきりするにしたがって、ツァーリ権力を倒しただけで、はたして帝国主義戦争から抜け出すことができるのか? ということが問題になったのです。
国内の政治的潮流としても、ドイツとの休戦にかたむくツァーリにたいし、ドイツとの戦争に勝ち抜くために、ツァーリズム(軍事的・封建的帝国主義)を取り除いてでも帝国主義戦争をつづけようとする“革命的戦争派”(革命的排外主義)が登場します。ブルジョア的帝国主義の利害を代表する、この「革命的排外主義」の潮流にたいして、どういう態度をとるのかが、実践的にも大きな問題になりました。
「革命的排外主義」の登場は、「2つの帝国主義という問題を、ロシア帝国主義の複雑な性格の解明という理論的な領域から、実際の政治闘争の領域に一挙に引き出した」(57ページ)のです。そしてその結論は、ロシアのような資本主義の発展の遅れた国でも、民主主義革命からもっと先へ、ブルジョア的帝国主義を取り除く社会主義革命にむかってすすむことが必要だというものでした。実際に、二月革命が起こると、レーニンの予想通り、「革命的排外主義」の潮流が政権をになうという事態が生まれました。
このレーニンの革命像の発展がみえてくると、レーニンが「遠方からの手紙」や、帰国直後のいわゆる「4月テーゼ」で提起した問題――すなわち、臨時政府をいっさい支持せず、社会主義的な改造は直接の任務としないものの、民主主義革命からさらに次の段階への前進をめざすという方針の意義がよくわかってきます。
そしてそれは、十月革命そのものの性格の理解にもっながるものです。よく二月革命は民主主義革命、十月革命は社会主義革命といわれます。しかし、一般に社会主義革命の条件の成熟が、資本主義の発展がかなり高度にすすみ、その内部的な矛盾や危機が社会主義への前進によってしか打開できないところまで深化していることにあるとすれば、当時のロシアにその条件がなかったことは明らかです。そこから、“十月革命は、社会主義の条件がなかったのに、レーニンらが強行した”とする議論が出されたりするのですが、それでは、はじめから十月革命はまちがいだったということになってしまいます。20世紀の世界の流れのなかで十月革命がもつ意義を正しくつかむためにも、十月革命とはどういう革命だったのかを正確に理解することが大切になっています。
その問題を、著者は、第22章でとりあげています。十月革命は「樹立すべき権力としては、プロレタリアートの執権、社会主義の国家をめざすが、その権力が実行すべき社会的変革の内容としては、ブルジョア民主主義的な変革+『社会主義の一歩』(崩壊との闘争のため)の実現をめざす」(217ページ)というものだった――著者は、こう結論づけています。つまり、「樹立すべき革命権力の性格(社会主義)と実行すべき社会的変革の性格(ブルジョア民主主義)とのあいだに、大きな区別が生まれてきた」(同前)のです。こういう独特な情勢を生み出したのは、帝国主義戦争でした。
この点は、「4月テーゼ」をめぐって当時のボリシェビキ内部でも論争となった点ですが、第20章、第21章での整理によって、ポイントがどこにあるのか非常にわかりやすくなっていると思います。
同時に、このレーニンの革命戦略には、多数者革命の見地から見たときに「一つの大きな問題」をはらんでいたことが指摘されています(222ページ)。十月革命にあたって、ボリシェビキは、人民の多数者に支持されて国家権力をにぎったのですが、革命を支持したのは、社会主義の実現をめざす社会主義的多数派ではなく、「平和、自由、パン」という革命のスローガンに象徴される民主主義的課題を支持する民主主義的多数派でした。社会主義的多数派を発展させる課題は、十月革命後に残されたわけです。それがどうなったかは、まだ単行本になっていませんが、連載第31回、第32回(『経済』4月号、5月号)でとりあげられています(補注)。
(補注)その後、2000年9月に『レーニンと「資本論」 第6巻〈干渉戦争の時代〉』の第27章、第28章に収録、刊行されました。
もう1つ、著者が重視しているのは、「革命の平和的発展」の問題です。これは、「4月テーゼ」ではじめて提起された問題でした。
二月革命によって、ツァーリ権力は崩壊し、労働者・兵士代表ソビエトと、旧ロシア帝国時代の国会「改革派」による臨時政府とが併存するいわゆる「二重権力」状態が出現します。「二重権力」ということから、たんに2つの政府、2つの権力の併存と理解されがちですが、実際には、ソビエトが人民の圧倒的な支持をえ、軍隊もその指導下におさめて、首都ペトログラードを支配していました。しかし、そのソビエトの多数が社会革命党やメンシェビキなど「革命的排外主義」の潮流に占められ、その結果、自発的に権力を臨時政府にゆずっていました。これが「二重権力」です。臨時政府は、人民のあいだに何の基盤ももたず、また直接権力機構をにぎっていたわけでもなく、ソビエトの支持によってのみ政権についたのでした。
レーニンが「4月テーゼ」で提起した「革命の平和的発展」の道は、「二重権力」状態の正確な認識にもとづくものでした。すなわち、「大衆にたいする強力的な支配が存在しない」という情勢のもとで、ソビエト内部で、事態の真相を大衆に「説明」する活動を通じてボリシェビキが多数派になる、そのことを通じて権力を平和的にソビエトの手に移し、革命の第2段階の諸任務を遂行する――これがレーニンの方針でした。
その後、十月革命までのわずかのあいだに、ロシアの政治情勢は激動し、レーニンの理論と実践はめまぐるしく発展します。とくに、臨時政府が武力弾圧に乗り出した「7月事件」を境に、革命は平和的発展の時期を終え、新しい局面が始まりました。その概略が第22章で整理されています。
そこで重視されている点の1つは、レーニンが「7月事件」以後、武装蜂起の準備をすすめながら、そういう情勢のもとにおいても革命の平和的発展の道を回復する可能性が生まれたときには、その機会をとらえる最大限の努力をしたということです(178ページ)。
後半の『国家と革命』の検討を終えたあとで、著者は、レーニンが『国家と革命』では強力革命必然論を展開しながら、革命の平和的発展の問題では「きわめて柔軟性、弾力性を発揮して、みごとな指導をおこなってきた」(347ページ)事実は見逃してはならない、「レーニン自身は、平和的手段よりも強力的手段をよしとする、強力・絶対主義者ではなかった」(362ページ)とも指摘しています。これは、私たちがレーニンの活動をとらえるさいに見失ってはならない視点だと思います。
もう1つは、レーニンが、武装蜂起の準備をすすめるさいに、「人民の多数者が革命を支持する情勢が発展してきていることの確認」をつねに「第一の出発点」においたという点です(189ページ)。第2回全ロシア・ソビエト大会の直前に蜂起した問題についても、ボリシェビキがペトログラードとモスクワという2つの首都をはじめ、各地のソビエトで多数の地位をえていたこと、それにもかかわらず、ソビエト中央部は社会革命党やメンシェビキなど右派勢力がひきつづき多数を占め、ソビエト大会の開催をいったんは延期するなど緊追した情勢にあり、そのもとで蜂起を大会後に延ばせば、革命に反対する勢力の対抗措置を許し、革命全体を失敗させる危険性があったこと、そこにレーニンが蜂起を急いだ理由がありました。著者の整理から、そのことが、非常にわかりやすく浮かび上がってきます。なお、多数者の獲得という問題では、革命後、「戦時共産主義」の時期になってレーニンが、“革命以前にあらかじめ勤労大衆の多数者を革命の側に獲得することは不可能だ”として、科学的社会主義の多数者革命の見地から大きく後退したことが、連載第32回(『経済』5月号)で検討がされていることをつけ加えておきます(補注)。
(補注)『レーニンと「資本論」』第6巻第28章。
このほかに、著者は、この時期のレーニンの理論・政治活動の分野として、(1)きたるべき革命の任務を明らかにする仕事、(2)ソビエト権力、ソビエト革命の理論的な基礎づけをあげています(181ページ)。(1)にかんしては「労働者統制」の問題に言及しているだけですが、くわしくは連載第28回、第29回(『経済』1月号、2月号)で検討されています(補注)。(2)の仕事として具体化されたのが、『国家と革命』の執筆です。それが、本巻後半部分のテーマとなっています。
(補注)『レーニンと「資本論」』第6巻の第24章、第25章として収録、刊行されています。
本巻前半では、ロシア革命の経過とかかわって、スターリンによる歴史の歪典ねつ造がきびしく批判されています。“スターリンはレーニンの忠実な後継者だった”とする「スターリン神話」の虚構は、すでに1990年の「赤旗」連載「スターリンはレーニンの道にいかに背いたか」(『科学的社会主義における民主主義の探求』所収)でくわしく批判されています。しかし、いまでも“スターリン体制を生み出したのはレーニンだった”とする議論があるだけに、その告発はひきつづき重要な課題であると思います。
本巻後半部分は、レーニンの『国家と革命』の全体的考察にあてられています。
『国家と革命』は、マルクス、エンゲルスの国家理論を整理し、その精髄を明らかにした労作とされてきました。しかし、そこでレーニンが明らかにした革命論は、「ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの執権)と交代するのは……通例、強力革命によってのみ可能である」「プロレタリア国家のブルジョア国家との交代は、強力革命なしには不可能である」(『レーニン全集』第25巻、432ページ)など、一般には社会主義革命は強力革命のかたちをとるというものです。それは、選挙での国民多数の支持にもとついて「国会で安定した過半数をしめる」ことを、革命の勝利の欠かせない重要な条件としている日本共産党綱領の見地とは大きく対立しています。
また、議会制度についても、将来にわたって普通選挙権にもとづく議会制民主主義、選挙による政権交代制、複数政党制などをまもるという日本共産党の立場と、「支配階級のどの成員が、議会で、人民を抑圧し、ふみにじるかを数年に一度きめること、――議会主義的立憲君主制ばかりでなく、もっとも民主的な共和制のばあいにも、ブルジョア議会制度の本質はここにある」(同、456ページ)、「自覚した全プロレタリアートは、ブルジョアジー打倒のため、ブルジョア議会制度の破壊のため、コミューン型の民主的共和制あるいは労働者・兵士ソビエトの共和制のため、プロレタリアートの革命的執権のための闘争においてわれわれと行動をともにするであろう」(同、522ページ)というレーニンの態度とはまったく対立しています。
日本共産党は、これまでも、国民多数の支持にもとづいて一段一段社会変革をすすめるという綱領路線の立場から、『国家と革命』の命題はけっして科学的社会主義の国家論、革命論として、あらゆる時代、あらゆる国に一般化できるものでないことをくり返し明らかにしてきました。
本巻でも、「極左日和見主義者の中傷と挑発――党綱領にたいする対外盲従分子のデマを粉砕する」(「赤旗」1967年4月29日、以下「4・29論文」)、不破氏の論文「科学的社会主義と執権問題――マルクス、エンゲルス研究」(「赤旗」1976年4月27日〜5月8日、新日本文庫『科学的社会主義と執権問題』所収)があげられています。これらの文献は、私も入党してすぐに読みましたが、国民多数の支持にもとづいて社会進歩の道をすすむ綱領路線への確信を強めるとともに、科学的社会主義の学説を大切にする党の態度に強い感銘を受けたことを思い出します。
「4・29論文」は、社会主義革命は「通例、強力革命によってのみ可能である」というレーニンの命題を持ち出しての党攻撃にたいして、マルクス、エンゲルスが、その条件のあるときには議会の多数をえての革命をめざしたことを、マルクス、エンゲルスおよびそれ以後の科学的社会主義の理論の流れをふくめて明らかにして反撃しています。しかし、あらためて読み返してみると、レーニンの命題そのものについては、「通例」という限定に着目して、“レーニンも一定の条件の組みあわせのもとでは強力革命の不可避性に「例外」が生まれることを否定しなかった”と反論するにとどまっていることに気がつきます。
今回の研究では、『国家と革命』が全体としてとりあげられ、そこでレーニンが結論づけた命題――強力革命を「通例」とする強力革命必然論や、民主的共和制のもとでの議会をふくめ旧国家機構を「破壊・粉砕」して新しい国家機構とおきかえなければならないとする国家機構粉砕論、民主的共和制のもとでの議会とは異なるソビエト型を社会主義国家の唯一のモデルとする主張など――が、マルクス、エンゲルスの探求した社会変革の道筋とはまったく相容れない結論であることが、『国家論ノート』から『国家と革命』にいたるレーニンの研究をたどることによって、また、マルクス、エンゲルスの「議会の多数をえての革命」の道の探求の歴史をふり返ることによって、説得力をもって明らかにされています。著者がくりかえし強調する“レーニン自身の歴史のなかでレーニンを読む”いう方法がいかんなく発揮されたところです。
著者が注目した第1の点は、『国家論ノート』から『国家と革命』にいたる国家論研究の過程で、レーニンの国家論、革命論に「根本的な転回」(235ページ)があったという点です。強力革命必然論や国家機構粉砕論を「マルクス主義国家論、革命論の普遍的原則」にするというのは、『国家論ノート』に残された国家論研究をはじめる「1916年の末」以前のレーニンの見解のなかには存在しなかったものであり、「明らかに、レーニン自身が、新しい理論的・政治的境地に飛び移った」(264ページ)ものだと指摘されています。
著者は、その「理論的な転回の基軸」が、マルクス「フランスにおける内乱」の「労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」という命題へのレーニンの着眼にあったことを明らかにしています。この命題は、マルクス、エンゲルスによって『共産党宣言』の1872年ドイツ語版序文にも引用されたものですが、レーニンは、そこから、「できあいの国家機構」を「粉砕」して、これを新しい国家機構に「おきかえる」のがマルクス本来の立場だと結論を下し、さらに粉砕の対象を官僚的・軍事的機構から国家機構一般へ、議会をふくむ国家機構全体をソビエト型の国家におきかえるという命題へと拡大してゆきました。
『国家と革命』は、こうした国家論研究の結論にもとづいて、国家機構粉砕論およびそれと一体の強力革命必然論を、マルクス、エンゲルスの国家学説の「わすれさられた」あるいは「歪曲をこうむっている」側面として復活させることを意図したものでした(252ページ)。「こうして、強力革命必然論が、あれこれの革命の情勢分析からではなく、マルクス主義の国家論からの理論的な結論として提唱されたところに、とリわけ重大な問題がありました」(255ページ)。
それでは、このような「理論的な飛躍」(263ページ)の結論は、マルクス、エンゲルスの国家論、革命論と合致していたのか――。著者は、レーニンが議論の出発点においたマルクス「フランスにおける内乱」の命題をとりあげ、それは「労働者階級は、できあいの国家機構をそのままでは使えない、これを労働者階級の利益のために行使できるようにするには、必要な『変革』あるいは『改造』の措置をくわえなければならない」、こう理解するのがマルクス、エンゲルスの見地にしたがったいちばん素直な読み方であることを明らかにします。そしてそれを裏づけるものとして、革命後の国家が新しい役割を果たすためには「改造を必要とする」(268ページ)、あるいは「旧来の官僚的、行政的・中央集権的な国家権力をまずもってつくりかえてから」でなければ「自分の目的のために使用することはできない」(270ページ)とのべたエンゲルスの2通の手紙などを紹介しています。
こうしたマルクス、エンゲルスの見地からすると、レーニンの結論は「研究の出発点で、マルクスの命題の誤った解釈から出発したもの」(273ページ)でした。著者は、出発点での誤りがマルクス、エンゲルスの立場に反する「マルクス主義国家論」の「一面的な定式化」(287ページ)につながったと結論づけています。レーニンがこのような「一面的な定式化」におちいった背景には、当時の歴史的情勢もありますが、「理論面での歴史的な制約」として「レーニンが、革命の平和的発展につ小てのマルクス、エンゲルスの見解、立場をまとまった形では知らなかった、知りうる条件がなかった」(289ページ)ことが明らかにされています。
次に著者は、マルクス、エンゲルスが「議会の多数をえての革命」の道をどのように探求してきたかをあとづけています。
マルクス、エンゲルスの革命論、民主主義と革命の路線・展望との関係については、これまでも不破氏が「科学的社会主義と執権問題」や「自由と国民主権の旗――マルクス、エンゲルスと現代の革命」(1976年)、および、「自由と民主主義の先駆的な推進者――マルクス、エンゲルスの理論的実践から」(1990年、『科学的社会主義における民主主義の探求』所収)でくり返し解明してきたところです。
今度の研究では、『国家と革命』でのレーニンの“学説史的な”叙述との対比に、新しい探索の角度を置きながらふり返っているところが特徴です。『共産党宣言』の前年に、エンゲルスが『共産主義の諸原理』(1847年、当時は未刊)で民主主義的国家体制のもとで多数をえて社会主義にすすむという革命路線を提起していたこと、1852年にマルクスがイギリスでの「議会の多数をえての革命」路線をおおやけに理論化したこと、パリ・コミューンのあとでもマルクスが、イギリス、アメリカなどで平和的手段で政治権力をにぎる可能性があることを指摘していたこと、エンゲルスが民主的共和制について、労働者階級の階級闘争を最後までたたかい抜くことのできる「唯一の国家形態」という1880年代の評価から、90年代には確立した新しい社会主義権力の「特有な形態」という規定へと評価を大きく前進させたことなど、マルクス、エンゲルスが生涯をかけて「議会の多数をえての革命」の道を探求してきたことがくわしく明らかにされています。
最後に不破氏は、『国家と革命』の全体的歴史的な検討をふまえて、次のようにのべています。
「レーニンが『国家論ノート』および『国家と革命』であたえたマルクス主義国家論の総括は、マルクス、エンゲルスがその生涯を通じてその可能性を追求し、豊かな肉づけを与えてきた『議会の多数をえての革命』という展望をまったく欠いたものになり、そのために、それぞれの国の情勢にふさわしい多様性を本来の特質としてきたマルクス、エンゲルスの革命論を、強力革命一色に染めあげられた硬直的なものに変形してしまったのです」。「そのことは、世界の共産主義運動に長いあいだ根深い否定的な影響を与えました」。「この問題は、レーニンがおかした理論的な誤りのなかでも最大のものの1つだと思います」(346ページ)
私は、21世紀に科学的社会主義の事業を受け継ぐ一員として、委員長のこの指摘を深く受けとめるとともに、選挙での国民の多数の支持にもとづいで「国会で安定した過半数をしめる」ことによって社会発展の階段を一段一段のぼっていくという、日本共産党が綱領確定いらい一貫して明らかにしてきた社会進歩の道筋の正しさに、いっそうの確信を深めることができました。