頭から順番に読んでいても仕方がないので、ちょっと気づいたことをメモ。メモの中味はぐちゃぐちゃ… (-_-;)
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マルクス『1857-58年草稿』を読み始めてみる
マルクスの『1857-58年草稿』を読み始めてみることにします。もちろん、以前にも読んだことはありますが、今回は少しずつでもノートをとりながら読んでゆくことにします。テキストは、大月書店の『資本論草稿集』の<1>と<2>。
まずは、目次の整理。
まだまだ続く『蟹工船』
何かと話題の小林多喜二『蟹工船』。まだまだ、メディアの企画は続いています。
新潮文庫の『蟹工船』が今年に入って5万7000部の増刷になったということは前に紹介しましたが、『週刊新潮』の記事によると、今月3万部の増刷をした後、さらに5万部の増刷を決めたようで、合計10万冊を超える大増刷になります。1996?2007年の12年間の総増刷部数が4万8000部だったのに、今年半年ですでにその2倍以上!! ホントにすごいブームです。
面白かったのは、これ↓。『週刊朝日』最新号(2008年6月6日号)に載った「週刊朝日“腐女子部”の『蟹工船』読書会@かに道楽」。『週刊朝日』編集部の20代?30代の女性4人が『蟹工船』をテーマに、かに道楽で読書会をやったという記事です。(^_^;)
置塩信雄編『景気循環』
置塩信雄編『景気循環』(青木書店、1988年=絶版)のノート。
「毎日」夕刊「特集ワイド」に共産党・志位委員長!!
今日の「毎日新聞」夕刊の2面「特集ワイド」欄に、共産党の志位和夫委員長が登場しました!!
「『派遣労働』国会質問 若者の声代弁」「ネットでモテモテ」「ウルトラCなるか!?」という見出しで、志位委員長がインターネット上で人気となっていることを紹介しています。
共産党・志位委員長がサンプロでマルクスを語る!!
共産党の志位和夫委員長が、今朝のサンデープロジェクトに出演。
「なぜいまマルクスか」、「資本主義は限界か?」、「日本経済の問題点」、「カール・マルクス『資本論』の精神」、「投機の問題点」、「ルールなき日本の資本主義」、「貧困・投機・環境」など、約25分間にわたって、田原総一郎氏の質問に答えました。
日本のテレビで、共産党の委員長を相手に、マルクスをここまで取り上げた番組は初めてではないでしょうか。いや?、面白かったです。田原氏も自分なりのマルクス論を展開して、投機マネーや格差の問題で、けっこう志位さんと議論が噛み合ってました。
長島誠一『現代マルクス経済学』
書店でパラパラとめくってみたときにちょっと面白そうと思って買ってきた本。どこが面白いかというと、『資本論』にそった経済原論的な本のようでありながら、随所に、現代の日本および世界の資本主義経済、資本主義企業がどうなっているか、という具体的な問題が挟み込まれているところです。例えば、第2章「貨幣経済」で、金本位制度の停止から始めて、現在の通貨制度のもとで価値尺度機能がどうなっているかなどが論じられています。
田原総一朗氏、マルクスを語る?!
今週の『週刊朝日』(5月23日号)で、サンプロでお馴染みの田原総一朗氏が、伊藤忠の丹羽宇一郎会長を前に、こんなふうにマルクスを語っています。
田原 マルクスは、資本主義が金融資本主義になり、その信用がダメになって経済は破綻する、と書いています。
資本主義のもとでの搾取
吉原直毅氏の『労働搾取の厚生理論序説』(岩波書店、2008年2月刊)を読んでいたら、こういう議論が出てきた。
1日8時間労働によってある財を8単位生産したとして、そのうちの4単位が労働者に賃金として支払われるのは、財8単位生産における労働の貢献度は財4単位の価値に等しいという「社会的合意」があり、他方、残る4単位は資本財の生産への貢献度に等しいという「社会的合意」があるのだという話になれば、8時間労働に対して財4単位の報酬は単なる等価交換にすぎない。こうした「社会的合意」を成立させるのが市場の需給調整メカニズムであるならば、剰余労働時間の生産成果が労働者に帰属しないとしても、そこに「剰余労働の搾取」の「不当性」を読み取るのは困難になるだろう。実際、いわゆる「限界生産力説」的分配理論は、そうした解釈を正当化する。(同書、75ページ)
これに対して、吉原氏は、「この限界生産力的分配理論を超克するためのマルクス経済学の概念装置」が「労働力商品に固有な使用価値としての『価値生成機能(=価値増殖機能)』論であった」と指摘したうえで、「しかしながら、『唯一の価値生成的生産要素としての労働』論自体、1つのレトリックに過ぎず、それは論証できる様な性質の言明ではない」、「それ自体では形而上学的言明」もしくは「せいぜい『科学的仮説』でしかない」と主張する。
吉原氏の意図は、近代経済学のツールを使ってマルクスの資本主義批判の「厚生理論」的な救出をはかりたいというもので、現代の搾取や「格差と貧困」の問題に関心を向ける姿勢は大いに評価したいのだが、しかし、この言明はマルクスの理解として見過ごせない問題を含んでいるように思われる。
価値論と実際の価格競争について
商品の価値の大きさは、その商品を生産するのに必要な社会的な労働量(=労働時間)によって決まる、という話をすると、たいてい、「では、実際には値引きをしたり、安売りをしたりしていることはどう理解したらよいのか」という疑問が出される。
これについては、次のように答えること。
出ました!! 『経済』5月号
雑誌『経済』5月号が出ました。ヽ(^o^)/
1冊丸ごと、「マルクスの経済学のすすめ」の大特集です。なんで「マルクス経済学のすすめ」でなく「マルクスの経済学のすすめ」なのかは分かりませんが… (^_^;)
さっそくパラパラと読んでみました。私のようなロートルには、石川康宏大先生と学生たちの座談会「大学生活と学び」が面白かったです。いまどきの学生さんたちが、どういうところからマルクスに関心をもつのか、あるいは、マルクスのどこに魅力を感じるのか、ということが分かって、とても新鮮でした。
Marx Bon appetit!
マルクスを読んで「戦略思考」を鍛えよう
いささか古い話になってしまいましたが、『週刊エコノミスト』新年号(1/1・8合併号)がおこなった特集「激動の2008年を生き抜くために読みたい 『戦略思考』を鍛える本」のなかで、「戦略思考的原点」の謎解きをした大著として、マルクスの『資本論』が紹介されています。
君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956
見たい見たいと思っていた映画「君の涙ドナウに流れ」を、ようやくシネカノン有楽町2丁目で見てきました。
1956年のハンガリー事件をテーマにした映画です。ソ連への従属から抜けだして自主的な国づくりを目指したハンガリーの改革の動きが、ソ連軍の侵攻によって踏みにじられた事件です。
ヘーゲル弁証法のお勉強
弁証法について、唯一体系的に叙述したといわれるヘーゲル。マルクスが、ヘーゲルから弁証法の真髄として何を受け継いだかは、なおこれからの研究課題だとされています。それだけに、ヘーゲル自身が弁証法について何を明らかにしたか、その合理的核心とは何であるのかを研究することが必要。
ということで、ヘーゲルの『小論理学』を少しずつ読んでみることにします。(ページ数は、松村一人訳『小論理学』岩波文庫)
「ボナパルティズム」の使用例(続き)
引き続き、マルクスが「ボナパルティズム」(Bonapartism、Bonapartismus)という言葉を使っている例を調べてみました。調べてみると、いろいろと見つかるものです。
ただし、前にも書いたように、邦訳『マルクス・エンゲルス全集』では、「ボナパルティズム」となっていても原語はBonapartistだったり、逆に、原語がBonapartismなのに「ボナパルト派」とか「ボナパルト主義」と訳されていたりと、翻訳が一定しません。ここで問題にしているのは、あくまでBonapartism、Bonapartismusという言葉をマルクスが使った例という意味です。
「合唱隊」はなぜ削られたか
マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、フランスの農民について次のように書いている。
ナポレオンの王政復古に絶望するとき、フランスの農民は自分の分割地にたいする信仰を捨てる。この分割地のうえに建てられた国家構築物全体が崩壊し、プロレタリア革命は合唱隊を受け取る。この合唱隊のいないプロレタリア革命の独唱は、あらゆる農民国で弔いの歌となるであろう。(『マルクス・エンゲルス全集』第8巻、200ページ)
この部分は、マルクスが、プロレタリアートと農民との階級的な同盟(いわゆる「労農同盟」)の必要を最初に指摘した箇所として有名なのだが、しかし、1852年にニューヨークで発行された初版にあったこの箇所を、1869年にドイツで第2版が出版されるとき、マルクスは削除している。マルクスは、第2版の出版に当たって、「誤植を訂正し、いまではもう通じなくなった暗示をけずるだけにとどめた」と第2版の序文で書いている(同前、543ページ)。事実、「合唱隊」とか「独唱」「弔いの歌」など、暗示めいた文章ではあるが、しかし、プロレタリアートと農民の同盟という問題は、その後もマルクス、エンゲルスが追究し続けた課題で、なぜ削除されたのか解せないところが残る。
そう思っていたときに、『フランスにおける階級闘争』を読んでいて、そこにも農民階級を指して「合唱隊」と呼んでいることを発見したのは、前にもここに書いた。
12月10日は、農民のクーデターであり、それは現存の政府を倒した。そして彼らがフランスから1つの政府を奪いとって、1つの政府を与えたこの日以後、彼らの目はじっとパリに向けられていた。一瞬間農民は革命劇の主役となったからには、もう以前のように、合唱隊の、行動も意志もない役に押しもどされはしなかった。(全集第7巻41ページ下段?42ページ上段)
ここでは、「合唱隊」というのは、「行動も意志もない役」、他の階級の後ろを着いていくだけの存在という否定的な意味で使われている。もし「合唱隊」(ドイツ語では das Chor )という言葉の使用に、そうした否定的・非主体的なニュアンスがあるとしたら、マルクスが『ブリュメール18日』の再版にあたって、そうした表現を削った理由になるのではないだろうか。そう思って、他に「合唱隊」 das Chor の用法はないか、調べてみた。
『ブリュメール18日』続き
マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の続き。
富塚良三氏の「均衡拡大再生産」論について
富塚良三『経済原論』(有斐閣、1976年刊)から。
『ブリュメール18日』
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』。全集や国民文庫は1869年の第2版を底本にしているが、初版を底本にして読んだ方がいいのかも知れない。しかし、初版はアメリカにいたヴァイデマイヤーの雑誌に発表されたため、「ヨーロッパには、ごく少部数が供給されたにとどまった」。第2版はハンブルクで発行。