第42段落から第54段落までは、回転時間の相違に関する数式計算。マルクスは一生懸命やってるが、あまり実りがないので、とりあえず省略。
【第55段落】419ページ上段?419ページ下段のお終いまで
ここでは「競争の法則」として、『資本論』第3部で展開されることになる内容が展開されている。
第42段落から第54段落までは、回転時間の相違に関する数式計算。マルクスは一生懸命やってるが、あまり実りがないので、とりあえず省略。
【第55段落】419ページ上段?419ページ下段のお終いまで
ここでは「競争の法則」として、『資本論』第3部で展開されることになる内容が展開されている。
さて、391ページ上段、第26段落から。いよいよ経済学者の批判が始まります。
【第26段落】391ページ上段?392ページ
まず、よく分からないのは、「流動資本との関連における剰余価値は、明らかに、利潤として現われるのであって、固定資本との関連における剰余価値としての利子とは区別される」(391ページ上段、左3行目?)という記述。文脈から見て、これがマルクスの積極的見解の展開だと思われるのだが、意味がよく分からない。
【第10段落】364ページ上段?367ページ上段までの長い段落
ここで出てくる問題は、まず第1に回転。回転が生産される剰余価値の量に与える影響について。
次が、「流通費用そのもの」「本来的な流通費用」について。
さて、続きです。
マルクスは、過程を進行する主体としての「流動資本」、流通しなければならない各局面に固定された「固定資本」という定義を使って、早速、経済学者たちの批判に向かう。
【8】361ページ上段から363ページ上段までの段落。
まず、復習。(^_^;)
流動および固定という規定は、まず第1には、2つの規定のもとに――特殊的種類の2つの資本として、2つの特殊的種類における資本としてではなく、同じ資本の異なった形態上の諸規定として――措定された資本そのもの、すなわち1つには過程の統一として措定され、次には過程の特殊的局面として、統一としての自己からは区別されたものとしての資本そのものとして措定された資本そのもの以外のなにものでもないということ……。
さて、本題に戻ろう。
というのは、『資本論1857-58年草稿』の「固定資本と流動資本」の書き出し。(^_^;) そこまでの剰余価値と利潤にかんする学説史が終わって、ここで、マルクスは、資本の流通にかかわる問題の検討に戻っています(大月書店『資本論草稿集<2>』356ページ下段)。
「固定資本と流動資本」という見出しは、新MEGA編集部のもので、ここでマルクスが取り上げているのは、決して、固定資本と流動資本の問題だけではなくて、流通費の問題や、回転および回転が利潤率に及ぼす影響など、『資本論』第2部で取り上げられているいろいろな問題がごたまぜで出てきます。
しかも困ったことに、「固定資本」「流動資本」という概念そのものが、マルクスの中で、まだ固まっていません。というか、書きながら、だんだんと「固定資本」「流動資本」の概念が固まってゆく、というところに、この部分の面白みがあるということです。
『資本論』第1部第7章「剰余価値率」の第3節、有名な「シーニアの最後の1時間」の終わり近くに、こんなくだりが登場します。
【新日本版】 ……もし諸君が、諸君の「工員たち」から11時間半ではなく13時間を手に入れることに成功し、そして諸君は当然にそうすると思われるのであるが、超過した1時間半を単なる剰余価値につけ足すならば……(上製版Ia、387ページ、新書第2分冊、386ページ)
この下線部分。実は、戦前の河上肇訳では、次のようになっています。(仮名遣い等は、現代通用のものに直してあります)
【河上訳】 ……なお諸君が、諸君の織工を11 1/2時間でなく無理に13時間労働せしめ、かつその余分の1 1/2時間を全部剰余労働に加えるとすれば、――諸君にはそれらが全く同じものにみえるはずだが――……(改造社、616ページ)
ご覧のように、訳文が全く異なるだけでなく、「そうする」とか「それら」で受けているものが全然違っています。一体、どっちが正しいのか? なぜ、こんなふうに違っているのか? ささいな挿入部分で、ここでのマルクスの議論の筋とはなんの関係もないのですが、気になってしまいました。
ドイツ語版とフランス語版との異同について、前回は簡単に結論しか書かなかったので、もう少し詳しく紹介しておきます。
大谷禎之介氏の翻訳で、ヨハン・モスト著『資本と労働』(第2版)の新訳が出ました。同書を大谷氏は196年に岩波書店から翻訳・出版されていますが、今回はその再刊ではなく、新しい翻訳、編集による新訳となっています。
本書は、ヨハン・モストという人が執筆した、『資本論』第1部のダイジェスト本『資本と労働』(第1版、1874年刊)に、マルクスが手を入れた改訂第2版(1876年)の翻訳です。「マルクス自身の手による資本論入門」というのは、大谷禎之介氏がつけたタイトルで、マルクス自身は、改訂第2版の出版にあたって、自分の名前を一切出さないように求めていました。
しかし、読んでみると、確かになかなかよくできた「資本論入門」になっていると思いました。
唐突ですが、新日本出版社の『資本論』を読んでいると、「自己を発現する労働力」という表現がところどころで出てきます。たとえば、第5章「労働過程と価値増殖過程」の冒頭。
【邦訳1】 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、その売り手を労働させることにより、労働力を消費する。労働力の売り手は、労働することによって、"現実に"自己を発現する労働力、労働者となるが、彼はそれ以前には"潜勢的に"そうであったにすぎない。自分の労働を商品に表わすためには、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくてはならない。(新日本出版社『資本論』上製版、Ia、303ページ。新書版第2分冊、303ページ)
「発現」とは、「実際に現われ出ること。現わし出すこと」です(『新明解国語辞典』第4版)。つまり、労働力が「自己を発現する」というのは、植物の種が(一定の条件さえあれば)ほったらかしておいても、おのずと芽を出し花開いていくように、労働力も、おのずから、他の助けなしに、おのれの力だけで自分自身を表に現わして、労働となっていくかのようです。
しかし、マルクスは、労働力を、こんなふうにヘーゲルばりの「生きた主体」として、本当にとらえていたのでしょうか? この「自己を発現する労働力」というのは、ドイツ語では sich betätigende Arbeitskraft です。そこでまず、『資本論』第1巻のなかで、この表現が出てくる箇所を調べてみました。
『資本論』第13章「機械と大工業」の第8節eで、マルクスは、工場法を導入することによって、かえって生産力の発展が促される、という話をしています。そのなかで、注278がついているところ(ヴェルケ版ページで500ページ)に、陶器の作り方の話が出てきます。
これは、製陶業での技術改良の話を、『工場監督官報告』から引用しているところなのですが、そのなかに、こんな表現が出てきます。(新日本新書<3>820ページ。大月書店全集版620ページ)
蒸気による代わりに圧力によって陶土漿をつくる改良された方法……
陶土漿というのは、陶器用の土に水を混ぜてドロドロにしたものであるとの訳注が、新日本版にはついています。しかし、蒸気で陶土漿をつくるかわりに圧力で陶土漿をつくる、って、いったいどういうことなんでしょうか? どう考えても、よく分かりません。
この部分、大月版では、「蒸発によらないで圧力によって陶土漿(slip)をつくる」となっています。蒸気と蒸発では、全然意味が違ってきますが、それもまた疑問。謎が謎を呼ぶばかりです。
『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」の第3節「貨幣」b「支払手段」の終わり近く、注(107)がついているところで、マルクスは、次のように書いています。(上製版Ia、238ページ、新書版第1分冊、239ページ)
支払手段の通流速度にかんする法則の帰結として、どんな起源をもつ支払いであろうと、すべての周期的支払いにとって必要な支払手段の総量は、諸支払期間の長さに正比例する。
この部分、長谷部文雄氏の翻訳では、次のようになっています。
支払い手段の通流速度にかんする法則からして、その起源のいかんをとわずすべての周期的な支払いにとっては、支払手段の必要分量は支払期間の長さに逆比例する、ということになる。
ご覧のように、新日本訳で「正比例」となっている部分が、長谷部訳では「逆比例」(反比例)と、正反対の意味に訳されています。「正比例」か「反比例」か、 どっちが正しいのでしょうか?
カミザワさんのコメントから、さらに問題意識が発展。そもそも「章標」って何? という話です。もちろん、マルクスが『資本論』でどういう意味で使ったのかということではなくて、「章標」という言葉は日本語としてどうなのよ、という話です。
ちなみに「章標」という言葉は、手元にあるいろいろな国語辞典を引いても、どれも載っていません(三省堂『大辞林』、岩波『広辞苑』、小学館『大辞泉』、三省堂『新明解』、太修館『明鏡』など)。似ている言葉としては、「章票」、あるいは「標章」は出てきますが、「章標」というのは、どうやら広く世間で使われている言葉ではなさそうです(もちろん、そうしたことは学術用語にはしばしばあるものですが)。
だからこそ、「章標」ってなによ? ということになるわけです。で、またまた電子辞書を駆使して、いろいろ調べてみました。(^_^;)
『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」の第1節「価値の尺度」に、こんなくだりが出てきます。
ある物の名称は、その本性にとってまったく外的なものである。ある人の名がヤコブであると知っても、私はその人物についてはなにもわからない。同じように、ポンド、ターレル、フラン、ドゥカートなどの貨幣名においては、価値関係のすべての痕跡が消え失せている。これらの秘教的章標の奥義をめぐる混乱は、貨幣名が商品の価値を表現すると同時に、ある金属重量の、すなわち貨幣の度量基準の、可除部分をも表現するだけに、なおさら大きくなる。(新日本新書版『資本論』第1分冊、171ページ)
この「秘教的章標の奥義」という部分。いくら読んでも、これだけでは???だらけ。「秘教」の部分には「カバラ」とルビがふってあるのですが、「カバラって何?」と、ますます疑問符が増えるだけです。(^^;)
すでに出ていることは知っていたのですが、書店のマルクス・コーナーをいくら探しても見つからず途方に暮れていました。それもそのはず、実はマルクス・コーナーではなく、マンガ売り場にならんでおりました。(^_^;)
前作『まんがで読破 資本論』は、「蟹工船」をヨーロッパのどこかのチーズ工場に置き換えただけみたいなストーリーで、いまひとつの出来だったのですが、『続・資本論』の方は、読み応えもあって、なるほどこれが資本論かと思わせる、なかなか面白い内容になっています。
毎日新聞客員編集委員の岩見隆夫氏が、今朝の「毎日新聞」の「近聞遠見」で、「不破哲三とマルクス」と題して、不破さんの最新著『マルクスは生きている』(平凡社新書)の感想を書かれています。
今日、書店へ行ったら、こんな本を見つけてしまいました。
咲木英和『誰もが読める「資本論」』(新生出版)。著者は奥付によれば元中学校の先生。出版社はいわゆる自費出版系の会社です。「『資本論』は労働者のために書かれた」けれども、「このままではこの大著は歴史の中に埋もれてしまう」という危機感から、『資本論』第1部の内容を分かりやすく紹介したものです。
ぱらぱらとめくった限りでは、長谷部文雄氏の翻訳をベースに、『資本論』の太い筋をきちんと追いかけているように思います。あまり『資本論」からの引用を多用せず、『資本論』の内容を自分の言葉で説明しながら、そこに日本の歴史や現状をおりまぜて、現在の読者が近づきやすく読みやすくなるような工夫をしているようです。
井村喜代子氏の『「資本論」の理論的展開』の続きです。
まず、第8章「『商品過剰論』と『資本過剰論』との区分の誤りについて」から。これは、論争史的には面白いところですが、こんにちではすでに過去の問題になってしまっているので、井村さんがいくつか指摘している面白いところだけを抜き出しておきます。
不破さんが新著『マルクスは生きている』(平凡社新書)の中で、イギリスの10時間労働法に関連して、『資本論』の一節を「社会的バリケードを奪取する」と大胆に――しかし、マルクスの本意にぴったりくる――意訳されていることは、前回紹介したところですが、あらためて考えてみると、この不破さんの「意訳」は、なかなか重要な問題を提起していると思いました。
問題は、『資本論』第1部第3篇第8章「労働日」の一番最後の、「わが労働者は生産過程に入ったときとは違うものとなって、そこから出てくる」(新日本新書版、第2分冊、524ページ)で始まる段落です。
以下、繰り返しになりますが、まず、この部分が従来どう訳されてきたか、ドイツ語原文がどうなっているか、不破さんはそれをどう「意訳」しかた、をまずふり返っておきたいと思います。
たとえば新日本訳では、この部分は次のように訳されています。