ヘーゲル『小論理学』 概念論を読む(2)

第163節?第164節。

まず「A 主観的概念」。第162節でいえば、形式論理学の概念。分類としては形式論理学の概念にあたるが、内容は、決して形式論理学の概念ではない。そこに注意。

a 概念そのもの

【第163節】

 ここで、普遍・特殊・個別が出てくる。普遍が、「規定態」として現れ出たのが特殊。その特殊がもういっぺん反省されたのが「個別」。個別は、概念の否定的統一。否定的統一というのは、一度自分を否定して特殊へ行って、もういっぺん戻ってきたものという意味。
 この否定の動きは、一方では現実(客観)の運動であり、他方では認識の働き(主観の動き)なのだが、ヘーゲルの場合、それが区別されていないことに注意。ヘーゲルの弁証法が観念論だという場合、それは、「理念」が主体に据えられているという意味とともに、このように、事物の客観的な発展と、主観的な人間の認識の発展とが区別されない、という意味がある。

 個別的なものは、現実的なものと同じだ、とヘーゲルは言っている。しかし、現実的なものは「即自的にのみ、すなわち直接的にのみ、本質と現存在の統一である」。ちなみに、ヘーゲルにとって、「現実」(現実的なもの)は、本質と現存在との統一。「現実的なもの」では、それらが「直接的な統一」であるのにたいして、個別は「否定的統一」になっている。「現実的なもの」で、それが「直接的統一」になっているというのは、「現実的なもの」にあっては、認識によって、その「現実的なもの」を成り立たせている「本質」はこれこれである、「現存在」はこれこれである、というように明確にされてはいない、ただあるがままに「現実的なもの」を「現実的なもの」として受け取っている、という意味。それにたいして、「現実的なもの」を「本質と現存在の統一」というふうに分析してとらえ返したものが「個別」。その場合、本質=普遍、現存在=特殊、ということになるが、それぞれ単なるイコールではなくて、概念は「本質と現存在の統一」として反省的にと捉えられた本質である、という意味。ヘーゲルにあっては、概念論の見地からみれば、本質も一面的な認識。これは本質論のところで明らかにされている。

【第163節 補遺1】

 概念というとき、人々は、「抽象的普遍」をイメージする。この「抽象的普遍」というのは、たとえば、松や杉などの樹木、あるいはさまざまな草や花から、それらの特殊性を取り除いていって、共通なものだけを残していったもの。ヘーゲルは、こうしたやり方は「悟性が概念を理解する仕方」だと言い、「感情」が、こうした「概念」すなわち「抽象的普遍」を「空虚なもの、単なる図式、影にすぎないもの」といって批判するのは正しい、と言っている。

 実際、この世に存在している犬は、タローであったりポチであったり、ハチであったりする、あるいは、スピッツであったり、ダックスフントであったり、ゴールデンレトリバーであったり、雑種であったりするのであって、「イヌ」そのものが歩き回っていたりはしない。だから、「イヌ」なるものは「抽象的普遍」であり、「空虚なもの、単なる図式、影にすぎない」というヘーゲルの批判は一面では当たっている。

 それにたいして、ヘーゲルは、「自ら特殊化するもの」「他者のうちにありながら、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっているもの」としての普遍(具体的普遍)を強調する。この具体的普遍は、現実的なものからその特殊性を取り去っていって、残った共通性のような抽象的普遍ではなくて、「絶対的に自分自身を産出するもの」だという。こういう「具体的普遍」としては、たとえば生命とか資本とかいったものをイメージすればわかりやすい。

 生命は、親となって、子を産む。子は親とは異なるものであるが、しかし生命として自己同一性を貫いている。一見すると「他者」に行ってしまったように見えるけれども、あくまで「自分自身のもとにとどまっている」、というわけだ。

 資本の場合も同じ。最初、資本はG-W-G'として与えられる。さらに進むと、Gは、可変資本と不変資本に分かれ、可変資本こそが剰余価値を生むということが明らかにされる。また、第二部、第三部へすすむと、商業資本、利子生み資本が明らかにされ、最初、資本一般と思われたG-W-G'は、産業資本であることが明らかになる。しかし、これらの規定は、どこまでいっても、G-W-G'という資本の概念の中での展開。つまり、どこまでいっても「自分自身のもとにとどまっている」わけだ。こういうものが普遍的概念。

 こういう「具体的普遍」の重要性を明らかにしたのは、ヘーゲルの重要な功績。「認識にとっても実践にとっても、単に共通なもの(抽象的普遍)を真の普遍(具体的普遍)と混同しないことが大切である」

 しかし、では翻って考えてみると、たとえば「イヌ」というものは、まったく主観が作り出した抽象的なものか? といえば、そんなことはなく、イヌにはイヌの種としての実体がある。つまり、具体的普遍ではないが、単なる抽象でもない、そういう普遍的なものがある、ということ。これをどう考えるかは、弁証法的論理学が考えなければならない課題。

【第163節 補遺2】

 「注意すべきことは、概念は決してわれわれが作るものではなく、また概念はまったく発生したものではないということである」。
 具体的普遍としての概念というのものは、事物の外から、その事物とは無縁なものを人間が基準としてあてがって導き出すようなものではない、という意味で、「概念は決してわれわれが作るものではない」という見地は大事。
 しかし、他方で、では、事物が自ずとその概念を明らかにするかというと、そういうことはあり得ない。G-W-G'という資本の本質にしても、可変資本・不変資本の区別にしても、こうしたものはすべて人間の分析によって明らかにされるものであって、そうした人間の認識作用抜きに、自然と資本が可変資本と不変資本の区別を明らかにする、などということはあり得ない。その意味では、概念は「われわれが作るもの」であって、それを完全に否定するヘーゲルは観念論の立場に立つものだと言わなければならない。

【第164節】

 「概念は具体的なものである」。これも、ヘーゲル弁証法の重要な見地。たとえば、剰余労働の搾取によるG-W-G'という資本のとらえ方は、一見すると、これは産業資本についてしか当てはまらない規定だから、抽象的なもののようにみえる。しかし、そういう面はありつつも、剰余労働の搾取による価値の自己増殖というのは、資本の本質をとらえたものであり、現実に起こっている資本主義の諸現象をつらぬく具体的な規定である。

 昔々、僕が初めて科学的社会主義を勉強し始めた頃、マルクス経済学のごくごく基本的な学習会があって、そこで、搾取の仕組みについての基本的な説明があった。その学習会のあと、ある職場の青年が「僕は、今日初めて自分が搾取されていることが分かった」と言っていたが、この彼がつかんだ認識は、確かに、まだまだいろいろな補足をしなければ現実の資本主義の諸現象のすべてを説明し尽くすことはできない、という意味では、抽象的、端緒的なものだけれども、しかし、それでもやっぱり彼は、具体的な真理をつかんだのであり、そのことは人間の認識の発展にとって非常に重要だと思う。彼にとっては、搾取の「現実」があって、その現実が「搾取の仕組み」を知ることによってつかみ直されたのであって、それは、学生として字面からしかマルクスを勉強したことのなかった僕なんかより、よっぽど具体的な真理をつかんだと言わなければならない。

 普遍・特殊・個別と同一・区別・根拠について。ヘーゲルは、普遍・特殊・個別と同一・区別・根拠は「同じものである」と言っている。ただし、同一・区別・根拠という場合、同一の中には区別が含まれているにもかかわらず、そのことは表には表われていないし、特殊についても、自分の中に同一を含んでいるにもかかわらず、そのことを表に表わしていない。それにたいして、普遍・特殊・個別という場合には、普遍は、特殊と個別を自分自身の中に含んでいるということが、普遍そのものの概念として明確にされている。

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ヘーゲル『小論理学』 概念論を読む(2)」への8件のフィードバック

  1. GAKUさん。今日は。

    GAKUさんのblogを手がかりにさせていただきながら、ヘーゲルを摘み食いしながら、読んでおります。ヘーゲルの歴史を通して、今の日本の選挙情勢を見ていると、成る程なぁと思えるところがあります。「知は力なり」。肝に銘じて、一歩、一歩と心がけております。宜しくお願いします。

  2. hamhamさん、こんばんは。

    ヘーゲル小論理学のノートは完全に停滞してしまっていて、恐縮至極です。

    ヘーゲル弁証法から私たちが何を受け継ぐべきか。これは、まだまだ汲み尽くされたとは言えないテーマだと思います。私自身も、焦らず、弛まず、ヘーゲルそのものと取り組んで、何とか勉強していきたいと思います。

  3. Gakuさん だいぶ前に投稿し丁寧なお返事をいただいた、田渕と申します。こんにちは。今回、意見ではなく、質問でもなく、自分の見つけたことを嬉しくてお伝えしたい、という気持ちです。

     ヘーゲルの小論理学の予備概念24節の補遺三の「人間はまた確かにその傾向や感情のうちに、利己的な個別性を越えた、他人の幸福を欲する社会的諸傾向、同情、愛、等々を持っている」(岩波文庫、松村一人訳では上巻の132ページ)前後の議論は、アダム・スミスの『道徳感情論』の冒頭の議論を踏まえている!—-ということを発見し(たぶん再発見し)喜んでおります。

     と言っても、ヘーゲルのほうはともかく、アダム・スミスのほうはその部分だけ読んだだけです。(はじめ、中公新書『アダム・スミス』で、『道徳感情論』の冒頭を抜粋してあるのを見て知りました。もともと、哲学史の本で、ヘーゲルがアダム・スミスの著作を学んだ、という知識は仕入れていました。)じゃあどういうふうに受け継がれているのか? は今後考えていこうと思っています。

     ここらへんの議論は中学生・高校生の時期に多くの人が悩むであろう問題でもあるし、僕も悩んだし、じっくり考えてみます。

     何かご存知のことがあったら、ご教示いただけると幸いです。(だれだれ先生のしかじかという論文でそんなようなことをとりあげていた、というようなことで十分ありがたいです。)
     どうぞよろしくお願いします。
     
         田渕 大樹(ぶっさん)
           7月23日(金)記す

  4. ぶっさん様

    ヘーゲルがアダム・スミスを学んでいたことは有名ですが、果たして「道徳感情論」を読んでいたかどうかは寡聞にして知りません。調べてみる必要がありそうですね。

    ところで、ヘーゲルのいう「利己的な個別性を超える社会的傾向」ですが、アダム・スミスの影響も考えられますが、より一般的には、ヘーゲルがあらゆるものを区別と同一との統一としてとらえていたことが考えられるのではないでしょうか。人間性あるいは人間社会というものを考えたときに、利己的な利害が「区別」であり、それを超える社会的傾向とか愛とかが「同一性」になると思います。

    ただ、傍観者的になんでも「区別と同一」を当てはめてみても、現実社会の生きた矛盾をとらえることにはなりません。むしろ、資本主義社会の階級対立にたいして、「利己的な個別性を超える社会的傾向、同情、愛」を持ち出すところに、矛盾を統一して、社会を調和させようとするヘーゲルの保守的な見方が現れている、ということもできるのではないでしょうか。

    もちろん、人間という生物種が、本来的に社会的な生物である以上、本来的に「利己的な個別性」だけにはとどまらない「社会的諸傾向」を有している、ということは十分考えられると思いますが、それをアプリオリに前提において議論してよいかどうかは慎重に考えるべきでしょう。少なくとも、アダム・スミスやヘーゲルなどを社会思想史的にたどるのではなく、たとえば人間の人格形成のプロセスの中で、その社会性がどのような形で獲得・形成されるか、もっと具体的・科学的な研究が必要だろうと思います。

    僕も、高校生の頃から、こういう問題を考えたことがありますが、しかしその後いろいろ勉強してみて、いまはこういうふうに考えています。いかがでしょうか。

  5. GAKUさん 今回も丁寧なお返事、ありがとうございます。あれこれ考えさせられました。お返事をいただいてから
    島崎隆『ヘーゲル弁証法と近代認識—-哲学への問い』未来社、1993年3月
    を、久しぶりにぱらぱらとめくってみました。(買ったのはかなり前の二十代のころです。高価な本で、古本でも新品同様の状態で買ったので3000円はしたはずです。)
     
     ヘーゲル、気持ちが若いなあ、と思いました。
     この間の投稿で引いた箇所は、ヘーゲルの考え続けた重要な点であったようです。島崎先生の著書に次のような記述があります。《個人の幸福追求と社会のこととをどう調和させられるのかが、ヘーゲルの哲学の中心課題といってよい。》(《 》内は、島崎先生の著書の、僕の要約です。以下同じ。)

    《ヘーゲルの論理学に登場する諸概念・諸規定は、ヘーゲルが同時代の社会の問題と格闘した中で生まれたもの。そこをはずしては、諸概念・諸規定も理解しそこなう。》このようなことも記してありました。論理学そのものはまだ勉強したとは言えないのですが(字面だけ)、数か月前にヘーゲル『政治論文集』(岩波文庫)の(こんなに長いのは珍しいのではないか、というくらい長い)解説を読んでいましたので、「島崎先生の言うことは言えていそうだ」と思いました。
     GAKUさんのおっしゃるように、人格形成の過程の具体的・科学的な探求を自分なりにする、というのが堅実な気がします。その中でヘーゲルの言うことの意味がより深くわかるかもしれません。
     このように、島崎先生の著書の記述をふまえて考えました。(なお、もとの文を引用しないのは、片付けのため、本がどこかの箱に入って、出てこないからです。こういうわけで、記憶にもとづいて記しています。大きくはズレていないとは思います。)

     ヘーゲルがアダム・スミスの『道徳感情論』を読んでいたか? という問題については、いまのところ単なる思いつきですが、このような思いつきが毎日とは行かずとも週に一つくらいあったらいいなあ、と思っています。

     申し遅れましたが僕は医者になる勉強をしています。二十代終わりごろ医学科に入りなおしました。(哲学は、専門ではありません。)このごろは内田樹先生の影響でレヴィナス先生の本を読んでいます。
     では、また。
               田渕 大樹(ぶっさん)
                8月14日(土)記す
        

  6. GAKU さん 島崎先生の著書のご紹介した箇所は12ページ、146ページでした。記憶をひっぱりだしてご紹介しましたが、原文の趣旨とそれほど隔たってはいませんでした。ただ、二つめの《 》内にあたる箇所では、先行する研究者たちから得られた考えである旨が記されていましたので、そのことを付け加えます。

     ご紹介した箇所とその前後だけでも、いつか図書館等でお読みくださると幸いです。

             田渕 大樹(ぶっさん)
               8月19日(木曜日)記す

  7. 田渕さん、こんばんは。

    島崎先生の『ヘーゲル弁証法と近代認識』は、出版当時、僕も買って読みました。いまでも部屋のどこかにはあるはずですが、なにせ本がうずたかく積み上がってしまっているので、探し出すのは至難の業です。(^_^;)

    ヘーゲルが決して単なる保守的な思想家でなかったことは、学生のときに上妻精先生(岩波文庫『ヘーゲル政治論文集』下の訳者)の授業でさんざん教わりました。この先生、私が通っていた大学の哲学を勉強しようという学生はみんなマルクス主義者で、ヘーゲルを反動的な観念論哲学者だと考えていると信じ込んでいて、授業を通じて、必死にそれに反論していました。(^_^;)

    上妻先生は、きっぷがよく、大きな声でがんがん授業をされるので、僕ら学生が教室の後ろの方に座っていると、教壇から降りてきて、さらに口角泡を飛ばす勢いで、ヘーゲルは革新的な思想家だったんだ、と力説されるんですよ。あれには閉口しました。(^_^;)

    それはともかく、おかげで、若きヘーゲルが、時代と格闘しながらその思想を作り上げていったことを詳しく教わることができました。しかし、逆も真なりで、若い頃のヘーゲルが必死で時代と格闘してその思想を作り上げたからといって、できあがった思想が丸ごと革新的だというわけではありません。それは、それこそエンゲルスが『フォイエルバッハ論』で指摘したとおりです。

    部屋の本は、崩れる前に片づけないといけないので、そのときぜひ島崎先生の本も発掘したいと思います。

  8. GAKUさん 上妻先生にじかに教わった、そのときの講義の模様を読み、うらやましくなりました。得がたい機会を得られたのですね。
     上妻先生、島崎隆先生の読み方は、「ヘーゲルを歴史のなかで読む」と言えると思います。僕は『ヘーゲル政治論文集』を手に取るまでは、(島崎先生の著書を読んではいましたが字面だけで)そのような接近方法がありうるはずだ、という感じは抱けませんでした。
     繰り返しになりますが、GAKUさんは、恵まれた学生時代でしたね。うらやましいです。
                 田渕 大樹(ぶっさん)
                   8月31日(火曜日)記す

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