生物のからだは、さまざまな周期にしたがって活動しています。その代表は1日24時間の活動周期でしょう。海外旅行で時差ボケに悩まされるとき、人間の体が1日24時間の周期に支配されていることを誰もが痛感することでしょう。真っ暗な環境でも、マウスは決まった時間になると、活発に活動し始めます。セミや蝶は、明け方の早い時間にさなぎから羽化しますが、そのための活動は、深夜真っ暗なうちから始まります。。それどころか、1日に数回細胞分裂をおこなう原始的なバクテリアのなかにさえ、24時間の活動周期が発見されました。生物は、いったいどうやって1日の周期を計っているのでしょうか?
本書は、そういう生物の体内時計(バクテリアの場合は「体内」という概念がなりたたないが)の仕組みを、分子生物学の立場から探求したものです。その結果、ある遺伝子とそれがつくり出すタンパク質の増減が24時間の周期をつくり出していることが分かりました。さらに、その仕組みは、マウスもショウジョウバエもほとんど同じようであることも分かってきました。
しかし、本書は、生物の体内時計の仕組みを生み出している遺伝子やタンパク質の働きが全面的に書かれているわけではありません。サブタイトルにあるとおり、そこから話は睡眠の話にすすんでいきます。
睡眠とはいったい何か? 気絶して意識をなくしている状態と、どこが違うのか? 麻酔で眠っているのは睡眠か? じつは、生理学的な「睡眠」の概念は、レム睡眠とノンレム睡眠によって定義づけられていて、したがって、それらが観察されるほ乳類や鳥類など、高等な生物に限られているそうです。ならば、ハエは、「睡眠」するのか? そんなところから、著者はショウジョウバエの観察を始め、ショウジョウバエも活動を止めてじっとしている時間があること、それが外見的に「睡眠」と似ていることをふまえて、生物の「原始的睡眠」という仮説を提唱。生物の「原始的睡眠」と、ほ乳類や人間の睡眠との関連も探っています。
長時間労働、深夜労働が広がって、睡眠障害を訴える人が増えているとき、そもそも睡眠とは何かを自然科学的に考えてみるのもいいかも知れません。睡眠という身近なところから、生物と進化の不思議が浮かびあがってくる一冊です。
2003年3月20日、アメリカはイラクにたいする一方的な武力攻撃を開始しました。このイラク戦争中、「毎日新聞」に、一つの従軍取材記が連載されました。それは、韓国の朝鮮日報社の姜仁仙(カン・インソン)記者の記事でした。私は、現に兵役制度があり、北朝鮮と軍事的に対峙している国の新聞記者の短い記事に、戦後60年近く戦争と無関係に暮らしてきた日本人の記事にはないものを感じましたのですが、この本を読むまで、その記事を書いた記者が女性だということに気がつきませんでした。ということで、兵役を体験した記者の記事だという“思いこみ”は、まったくの私の勘違いによるものでした。
しかし、イラク戦争従軍取材を終えて帰国した記者が、「エンベッド」による従軍取材という体験を振り返って書き下ろした本書を読んでみると、現実に戦争を戦うとはどういうことかをリアルに、しかし冷静に観察している一人の外国人記者の記事に不思議な親近感を感じました。日本人記者の記事が、米軍の戦果や砲弾飛び交う最前線の様子ばかりをさも重大事件のように報じていたのとは、まったく違う一面を見せてくれます。もちろん、“戦争”という巨大な渦に巻き込まれる人間として登場するのは米軍の兵士ばかりで、攻撃された側のイラク人は登場しません。それでも、確かに一人一人の米軍兵が悪魔のごとき侵略者である訳ではなく、家族もいれば悩みもあるし、夢もある普通のアメリカ人なのでしょう。そういう人たちが“戦争”をおこなうという“不条理さ”を感じさせてくれました。
アメリカの一方的な武力攻撃の開始(2003年3月20日)から、米英軍の占領下のイラクに暮らす普通の人々をとらえた写真集です。こういう写真を前にすると、圧倒されずにはいられません。文字では伝わりきらない、現に今、そこに生きている人々の、生きている表情が、問題がどこにあるかを雄弁に物語っています。もちろん、そうした作品は、一朝一夕に撮られたものではなく、1990年の湾岸戦争のとき以来、繰り返しイラクを訪問してきた作者の努力の結晶です。写真というのは、被写体にカメラを向けてシャッターを押しさえすれば誰にでも撮影できるものですが、しかし、問題の所在を物語る作品は、ただシャッターを数多く押しさえすれば移るというものではありません。写真には写らない、被写体の背後で起こっている問題についての作者の理解が、作品を通じて、実は写し出されるのかも知れません。マスメディアでは、問題はイラクの“治安”と“復興”であって、アメリカの武力攻撃はすでに“過去”のものになった感がありますが、この写真集は、そうしたマスメディアの報道に対抗して、私たちに“現実”を気づかせてくれます。
岩波アクティブ新書の1冊。この“岩波アクティブ新書”というのは、あの岩波が、他の出版社のハウツーものに負けないようにと新しく出したシリーズなんですが、どうも中途半端で・・・・。
本書もタイトルは魅力的ですが、内容は、いたって平凡。エクスプローラはシステムファイル、隠しファイルなども表示させよ、拡張子は表示させる、Outlook Expressは使うな、エディタを使いこなそう、などなど、在り来たりな話ばかりです。まあ、この程度でも使いこなせればたいしたもんですが、初心者向けならもっと丁寧に説明しないと理解できないでしょう。逆に、この本を読んで、著者の言いたいことが分かるような人なら、たぶん、とっくの昔にこの程度のことはこなしているはずです。それにしても、他人のアイデア無断借用本「『超』整理術」で有名な某野口悠紀雄大先生も、テキストファイルの拡張子を .txt から書き換えて使うと便利と主張していましたが、どうしてこういう勝手なことをみなさん自慢げに書くんでしょうねえ。ともかく、この程度の“パソコン力”で本を書こうというのに驚いてしまいます。(^^;)
それからもう1つ。パソコンを使いこなす上で一番大事なことは、パソコンを使って何をするか?です。“とりあえず、買ってみようかな”という程度では、とうていパソコンは使いこなせません。ひさびさの“買ってはいけない本”です。
子安宣邦氏は、本居宣長研究で知られる日本思想史研究の第一人者。その著者が、近世国学思想の研究から、対象を、日本近代に移して最初にまとめられた『近代知のアルケオロジー』(岩波書店、1996年)をもとに、大幅に増補、新編編集されたのが本書。とりあげられるのは、柳田国夫の民俗学、内藤湖南の「支那学」、和辻哲郎の「日本思想史」、丸山真男に代表される日本の近代主義思想など。日本のアカデミズムの“定番”とも言える「知」の問題機制そのものを根本から問いかけています。子安氏は、本居宣長など近世国学思想をとりあげていたときから、国学者によって、そしてその後も繰り返し「知識人」によって見出される“日本の伝統”とか“日本思想”、“日本精神”といった問題の立てられ方という、いわば“隠された”問題を鋭くえぐり出していましたが、本書では、それがより直接に、今日に続く問題として、明治以降のアカデミズム(柳田国男をアカデミズムというのは語弊があるが、戦後は柳田民俗学も立派なアカデミズムの一部となったので、そこに含ませておく)における「知」のあり方そのものが検討されていきます。近著『アジアはどう語られてきたか』(藤原書店、2003年)に繋がる重要な一書。
アメリカのイラク攻撃開始に最後まで反対したことで、フランスは俄然注目された。しかも、同じように反対したドイツが社民党政権であるのにたいし、シラクは、ばりばりの保守政治家。なぜ? との疑問は誰しも持つだろう。「イラクの石油利権をめぐる思惑の違いからだ」という説もあるが、果たしてその程度のことなんだろうか? フランスが平和志向の国家でないことは言うまでもない。それにしても、フランスの態度は一時の便法とは思えないものがある。
もう1つ注目されるのは、去年の大統領選挙で、右翼のルペンが決選投票に残ったこと。そのあおりを食って、シラクのもとで首相を務めていた社会党のジョスパンは政界引退を宣言してしまった。また、この大統領選では、共産党の候補者が泡沫候補並みの得票しかできなかったことでも注目される。もちろん決選投票では、ルペン拒否のためにシラクが圧勝。国民議会選挙でも、与党勢力が圧勝した。こうした政治の流れをもたらしているものは何か? この点で、本書の説明は一つの興味ある結論を示している。いずれにせよ、時宜にかなった好書である。
約7億円前に地球は全面的に凍結していた。――最近、こういう仮説が提唱され、それを裏づける証拠も次々に見つかっているといいます。氷河が発達し、海洋も凍結し、ツンツルリンと地球全体が凍っていたというのです。どうですか?
かつては、そんなふうに地球全体が凍結すると、太陽からの放射が反射されてしまって、再び地球が暖まることができなくなる・・・・と言われ、現在地球が凍結していない以上、地球が全面凍結したことはなかったと言われていました(これ自体は、僕も昔聞いたことがあります)。しかし、そうではなかった! 地球が完全に氷のボールとなっていた? なかなか魅力的な仮説です。
ところで、この本が面白いのは、この本全体が、「仮説の提唱」--->「仮説を裏づける証拠の提示」--->「対立する仮説の提示」-->「仮説の検証」という論証手順にしたがって書かれていることです。そのなかに、きちんと地球科学の発展が盛り込まれていて、楽しく読めます。
梅若猶彦さんは、能楽観世流シテ方で、国際交流基金アジアセンター製作の『リア』(シェークスピアの「リア王」をもとにした現代劇)でリアとその王妃(シェークスピアの原作には登場しない)との一人二役を務めたり、加賀乙彦氏原作の「高山右近」のシテ(高山右近)を演じるなど、現代劇、創作能にも意欲的に挑戦する能楽師です。
その梅若氏が、能楽の本質に迫るために、本書は、冒頭から、パントマイムの達人と能楽師が芸術的にコーヒーを飲むとしたらどうなるか、という意表をついた質問から始まっています。そして、能の所作の「型」についての考察にすすみ、能という演劇が、他の演劇と同様に身体性を基本としながら、しかし、大事なことは「型」という身体の外面的な形式ではなく、身体性に込められた演者の内面であることへと考察をすすめていきます。そこに、動かざることで動きを表す、表現を抑制的にすることによって感情をより深く表すという、能の独特の奥行きがあることを明らかにしています。
ひきつづき、桐野夏生です。舎弟企業とネオナチを絡めたストーリーで、ミステリーとしては、『OUT』や『柔らかな頬』よりはるかに常道を行くという感じですね。まあ、その分、『OUT』や『グロテスク』のような禍々しさはありませんが・・・・。話の結末も、いちおう二転三転させてあって、最後まで楽しませてくれます。でも、失踪した宇佐川耀子のキャラクターが、どうしても馴染めないのがちょっと不満ですね・・・・。(^^;)
さて、これが村野ミロシリーズの第1弾のようです。「ローズガーデン」は2000年の書き下ろしということですから、シリーズのなかの言わば“外伝”ふうなものとして書かれたものなんでしょう。博夫のことは、『顔に降りかかる雨』では、赴任先のジャカルタで自殺した夫として出てきます。これで、第1作とあとの作品との格差にも納得しましたが、それでもやっぱり、「ローズガーデン」に描かれた奔放?なミロが、イマイチその後のキャラクターに繋がってきません。父親との関係もよく分からないところがあるし。こういう小ネタをはさみつつ、女性探偵シリーズをつくりあげるというあたり、エンタテイメント作家としてもなかなかの技量を感じました。ミロは、サラ・パレツキーの女性探偵ヴィクやパトリシア・コーンウェルの検死官ケイとも共通する女性キャラですが、でもあとの二人とは違って、もっと若いのが魅力です(でも30代だと思うのですが)。
ところで、このあたりで桐野夏生作品の整理。
○は僕が読んだものです。だんだん残りは少なくなってきました。(^^;)
書名 | 刊行年 | 備考 | |
---|---|---|---|
○ | 残虐記 | 2004年2月 | |
○ | グロテスク | 2003年6月 | |
○ | リアルワールド | 2003年2月 | |
ダーク | 2002年10月 | ミロシリーズ | |
ファイヤーボール・ブルース2 | 2001年8月 | ||
○ | 玉蘭 | 2001年3月 | |
○ | 光源 | 2000年9月 | |
○ | ローズガーデン | 2000年6月 | ミロシリーズ・短編集 |
○ | 柔らかな頬 | 1999年4月 | |
○ | ジオラマ | 1998年11月 | 短編集 |
○ | 錆びる心 | 1997年11月 | 短編集 |
○ | OUT | 1997年7月 | |
○ | 水の眠り 灰の夢 | 1995年10月 | ミロシリーズ番外編 |
ファイヤーボール・ブルース | 1995年1月 | ||
○ | 天使に見捨てられた夜 | 1994年6月 | ミロシリーズ |
○ | 顔に降りかかる雨 | 1993年9月 | ミロシリーズ |
知り合いから、“人気は『OUT』の方があっただろうけれど、ミステリーとしては『柔らかな頬』の方が完成度が高い”といわたけれど、確かに、読み物、エンタテイメントとしては引き込まれるものがありますね。まあ、『OUT』に比べると、艶めかしい場面も多いし・・・・。やっぱり、ミステリーには不可欠のアイテムでしょう。
しかし、『グロテスク』『OUT』などと読み継いでくると、桐野夏生が一貫して描こうとしているのは、現代人の孤独なんだろうかという気がしてきます。そして、彼女はそれを見事に描いているように思います。こういう作家がこういう作品を書いていたことを知らなかったということが、つくづくもったいないことをしたなあとあらためて後悔しています。
それにしても、結局、由香ちゃんを殺した犯人は誰なんでしょう? (^^;)
どう評価したらいいのか迷う本です。著者がいまの子育ての問題点にたいして指摘している点については何の異論もない、というか大賛成なのですが、しかし、それが著者の主張する立場や方法論ときちんとかみ合っているのかどうか、そのあたりに疑問を感じるからです。
著者がいまの子育ての問題点として指摘するのは、1つは早期教育の流行、2つには「3歳児神話」(3歳までは母親が育てるべきだという理論)、3つ目に「テレビ育児」の問題。それにたいし、著者は、赤ん坊は外部からの刺激を受けて、それによって能力を発展させるという受動的な存在ではない、脳の発達には多様性、可塑性があるので、「○○の才能を伸ばすには何歳まで」という早期教育には根拠がないと主張します。また、子どもは母親一人で育てるものではないから、「3歳児神話」には根拠がないと強調。そして、言語能力などの獲得には「語りかけ」とともに「語り返し」という相互作用が大事だということを根拠に、子どもが注視しているように見えても、一方的に刺激を垂れ流すだけのテレビを赤ん坊や子どもが見続ける状態は良くないと指摘します。
前にも書いたように、こういう結論には僕は大賛成なのです。それを著者は、動物行動学者コンラート・ローレンツの弟子であるオランダの発達神経学者によって教えられたとする“赤ちゃんは自発的に行動する”という理論によって根拠づけようとしているのですが、しかし、それが成功しているとは思えないのです。
1つには、著者は、「早期教育」論の根拠になっている理論としてピアジェを引き合いに出すのですが、ピアジェ理論を今日の「早期教育」論に結びつけるのはあまりに飛躍しすぎているということ。そして、ピアジェ理論を、赤ん坊は外部の刺激によって能力を開発される受動的存在と看做す議論とし、それにたいして、上述のように、赤ん坊は自発的に行動するという自発性理論を対置している訳です。ピアジェが能力=学習によって獲得されるものと考えて、いわゆる生得的な能力というものに否定的なことは事実ですが、しかし、ピアジェの本を読むかぎり、彼が赤ん坊の自発性を認めていないとは読めません。
2つ目に、著者自身が、言語獲得における赤ん坊と周囲の人間の相互作用を指摘しているように、赤ん坊は、自ら自発的に行動してすべての能力を自発的に獲得していく訳ではないことです。その点では、著者も相互作用の重要性を認めているのですが、彼自身はそのことにあまり気づかず、赤ん坊の自発性のみを強調し、それによって従来の刺激=働きかけ=発達という育児論を批判できていると考えていることです。
3つ目に、彼の結論的な主張はきわめてまっとうなのですが、それが実験的・観察的な事実によって十分根拠づけられている訳ではないという問題です。観察的な事実によって根拠づけられているのは、生後2カ月ごろに見られる「U字現象」と言われるものとGM運動ぐらいだろうと思います。あとは、いたって常識的な結論を、それにふさわしい若干の経験的な事例をはさんで、下しているだけなのです。結論がまちがっているというつもりはまったくありませんが、結論が、著者の主張する赤ん坊の自発性理論によって科学的に検証されているわけではないということなのです。だから、本書は、最新の発達神経学理論によって根拠づけられているように見えて、実際には十分な論証をあたえられていません。そのアンバランスが気になるということです。
著者は、「早期教育」論にしても、「3歳神話」にしても、子どもがどうやって育つか十分分かっていない以上、証明された訳ではなく、それを無視して一面的に強調するのは間違だと主張していますが、それは、逆に言えば、そうした「理論」が誤りであるということも論証されないということです。そこのところの検証を期待したのですが、そうした点は、意外と常識的な結論で埋められているだけなのです。もちろん、これは、本書が一般向け啓蒙書であるからかも知れませんが・・・・。
ひきつづき、桐野さんの小説を読みあさっています。で、この『ローズガーデン』は、村野ミロという女性を主人公としたシリーズの短編集。・・・・・・なのですが、第1作「ローズガーデン」と2作目から後とが全然違うんですよね。1作目はジャカルタに赴任した夫・博夫が、高校のときのミロとの出会いからをジャングルのなかで回想するという不思議なお話なんですけど、2作目からあとは、新宿2丁目に住むミロが女性探偵としていろいろ事件を解決するフツーのお話・・・・。博夫は全然登場しないし、博夫の回想に登場する自分の快楽にどん欲で男を嫉妬に狂わせるミロの様子はまったく登場しない。なんでこんな事になってるんでしょうねえ。(^^;)