少し前から、井村喜代子さんの『「資本論」の理論的展開』(有斐閣、1987年)を読んでいます。
井村氏は一つ一つ厳密に考察をすすめているので、とても勉強になります。『資本論』でマルクスが問題をどう解明、展開しているか、ということと、マルクスが解明・展開しなかった問題をどう考えたらよいかということとを厳密に区別し、本書ではマルクスが『資本論』で分析・解明の対象とした問題はなになのかを明確にするとともに、それをふまえて後者の問題にも取り組んでいます。
井村氏は、『資本論』は、いろいろありつつも、基本的には「資本一般」という分析の枠組みに規定されているとしているところがポイント。
第1章「『資本論』の対象領域と残された課題」
『資本論』第3部でも、「競争の現実の運動」はそれ自体としては分析対象とはならない。(6ページ)
…同〔『資本論』第3部〕第2篇第10章は競争にかんする多くの論述を含んでおり、商品の市場価格の市場価値・生産価格からの乖離と両者の一致、需要と供給の関係、市場価値と個別的価値との差額としての特別剰余価値、自然的・人為的・偶然的独占による超過利潤の成立などにも一応言及している。しかしそこでも、つぎの引用文5、6のように「需要供給の運動によってひき起こされる外観にかかわりなく」、市場価値そのものを解明すべきであることがしばしば強調されるのであって、需要供給の諸変動、それらを左右する「現実的」諸競争、市場価格の変動それ自体の分析は、そこでの分析対象からは厳しく排除されている。(6ページ)
「市場価値」をマルクスは、どのように規定しているだろうか? 調べる必要あり。
資本制的再生産の「現実的」過程で、不均衡、「正常でない進行」がいかにして現れ、いかなる展開をとげるのかという問題は、再生産表式分析ではもちろん分析対象とはならないし、『資本論』全体においても分析対象とはなっていないのである。(8ページ)
●『資本論』における分析対象の限定、「理想的平均」における考察という意味について
第1の場合――現実では需要と供給の不一致、市場価格の価値・生産価格からの乖離が不可避であるが、これらを捨象して、需要供給の一致、価値・生産価格どおりでの交換=「均衡」を前提として、価値そのもの、生産価格そのものを解明する、あるいは資本制生産の諸関連を解明する、という場合。
現実の「不断の不均衡化作用」とともに、「不断の均衡化作用」が働き、「一定の期間にそれ〔生産価格〕に平均化される」。
第2の場合――資本制生産固有の生産力発展・資本蓄積過程の特質・矛盾を明らかにするうえで、その目的に必要な限りで、突発的な一時的変動や産業循環・恐慌の存在を前提として、それらとの関連で問題を考察する場合。
この場合、考察は、需給一致=「均衡」を前提とした「理想的平均」における考察ではないが、しかし、需給の一時的な不一致や産業循環の変動をそれ自体として分析対象としているわけではない。
この両面を正しくつかむことが大事。(12?13ページ)
●次の2つの場合を区別することが必要(14?15ページ、9章も参照)
(a)社会的総供給と社会的総需要、総価値(=総生産価格)と総市場価格とが大体一致しているもので、各生産部門における需給の乖離・変動が生じ、商品の市場価格が価値・生産価格から離れて運動する場合。
(b)社会的総供給と社会的総需要、総価値(=総生産価格)と総市場価格がかなりの乖離を示し、社会的総生産の規模の変動が生じるという、産業循環上における変動の場合。
(b)では、諸競争を媒介とした需給の対応的変化は、生産諸部門の利潤率を均等化する作用を果たすとはいえ、それはけっして社会的総需要と総供給を適合させ、あらゆる部門での価格を価値・生産価格と一致させる作用をもっているわけではない。
●賃金論
賃金の「現実的」運動と労働力の価値の関連を問うことは、『資本論』の対象領域を超えた(残された)課題の解明として必要であるばかりではなく、『資本論』の対象とした労働力の価値規定の正しい把握のためにも必要。(16ページ、第3章参照)
●相対的過剰人口
『資本論』第1部第7篇における相対的過剰人口の考察は、変動に満ちた資本蓄積の動態的過程を前提とし、それとの関係で相対的過剰人口を把握している。
しかし、そこでの論述は、『資本論』の分析対象・論理次元によって限定されており、資本蓄積の一時的諸変動や産業循環の変動そのものが解明されている訳ではないし、それらの変動のもとでの相対的過剰人口の運動が解明されている訳でもない。
第1部第7篇では、資本制生産では生産諸部門における資本蓄積の不断の変動や産業循環の変動が不可避であるという認識にもとづいて、それらを前提として、それらとの関連で、相対的過剰人口の発生、運動とその機能の把握にとどまっている。したがって、そこでの相対的過剰人口の発生・運動の説明はけっして充分なものではなく、資本蓄積の諸変動・産業循環の解明にもとづいて充分なものにしていく必要がある。(18?19ページ)
●第3部第3篇第15章の読み方について
内容的には労働の生産力の発展過程における資本制生産の「内的な諸矛盾の展開」を、“利潤”・“利潤率”範疇が解明された第3部の理論次元でとりあげたものといえる。(19ページ)
第15章第3節でマルクスは、産業循環がいかに推移し、恐慌がいかにして生じるかを解明しようとしている訳ではない。『資本論』の当該部分の論理次元では、まだ産業循環の変動や恐慌の爆発を解明することはできなかったので、マルクスは「極端な前提」(Werke,265ページ)を想定して、そこから「再生産過程の現実の停滞と撹乱」(同前)と人口過剰の発生を説いたうえで、このような資本過剰と人口過剰の併存という奇妙な事態をいかに理解すべきかを問題にしている。(21ページ)
周期的に生じることが明らかな、資本過剰と人口過剰の併存という事態を、あたえられたものとして取り上げ、このような事態が、「欲求の充足ではなく利潤の生産」を「目的」とする資本制生産の転倒的本性に根ざしたものであること、このような事態のなかに、労働者の欲求がまったく充足されていないにもかかわらず、利潤率によって生産拡大が規制され、それによって生産の停滞と労働者の失業が生じるという資本制固有の矛盾の発現をよみとるべきことを強調している。(22ページ)
したがって、「絶対的な」「資本の過剰生産」の説明を、周期的恐慌の爆発の原因を説明したものと読むことは大きな誤りである。(22ページ、第6章、第8章参照)
この項続く…。