井村喜代子『「資本論」の理論的展開』(7)

井村喜代子さんの『「資本論」の理論的展開』の続き。いよいよ「生産と消費の矛盾」の話です。井村さんは、「生産と消費の矛盾」がいかに恐慌となって爆発するか、その展開を考えなければいけないと言われています。

これは、恐慌の「運動論」として提起されている問題と共通する指摘です。

第7章 『資本論』における<生産と消費の矛盾>

はじめに

  • マルクスは<生産と消費の矛盾>に、周期的な過剰生産恐慌の「究極の根拠」を求めている。(205ページ)
  • しかし、『資本論』は「資本一般」体系であったため、そこでは、この<生産と消費の矛盾>がいかに展開し、どのようにして恐慌となって爆発するのか、ということは解明されていない。『資本論』における<生産と消費の矛盾>の基本的把握を正しく理解した上で、<生産と消費の矛盾>の展開を解明していくことが不可欠である。(207ページ)
  • <生産と消費の矛盾>は、いずれは「商品の販売、商品資本の実現、したがってまた剰余価値の実現」において現れるものとして把えられている。(207ページ)
  • したがって、<生産と消費の矛盾>は、労働者が自分で生み出した価値生産物(v+m)のうちの一部分(v)しか消費にあてることはできないという資本制生産固有の矛盾それ自体を指すものではない。(208ページ)
  • マルクスは、「市場」における「商品の販売」「過剰生産」「恐慌」を考える場合、労働者大衆の貧困・制限された消費それ自体に問題を求めていない。資本制生産固有の生産力・生産の無制限的発展傾向が労働者の消費を制限する傾向と対立・矛盾するという関係において、矛盾を把えている。この点でマルクス理論は「過少消費説」と峻別される。(208ページ)

第1節 『資本論』第1部と<生産と消費の矛盾>

  • 資本制生産において、資本が生産力・生産(資本蓄積)を無制限的に拡大する基本的傾向をもっていること、他方で労働者の消費を狭い枠内に制限する基本的傾向をもっていることは、『資本論』第1部において明らかにされている。(209ページ)
  • しかし、第1部では、分析は直接的生産過程に限定され、「実現」の問題は捨象されている。したがって、第1部第7篇で「資本主義的蓄積」の発展過程において、生産力・生産(資本蓄積)の無制限的な発展傾向と同時に、労働者階級の消費を狭い枠内に制限する傾向がもたらされることが明らかになったとしても、これらの傾向がなぜ対立・矛盾するかは示されていない。(210ページ)

第2節 『資本論』第2部と<生産と消費の矛盾>

  • 第2部第3篇の再生産表式分析についてあらかじめ注意しておきたいのは、この第2部第3篇は未完の草稿であって、とくに拡大再生産の分析では問題が残されていること。(211ページ)
  • したがって、第2部第3篇の再生産表式分析そのものを検討することと、第2部第3篇では分析されていないが再生産表式分析としておこないうるもの、おこなうべきものをも含めて検討することとは、明確に区別する必要がある。

(1)再生産表式は、労働力を含むすべての商品の価値どおりの交換を前提にしたうえで、社会的総生産物の価値的・素材的補填を媒介として社会的総資本の再生産が行われる基本的諸関連・諸条件を解明したもの。(211ページ)

  • 再生産表式分析によってはじめて、労働者がいかに「商品の買い手として市場にとって重要である」かを解明した。
  • 再生産の正常な進行のための条件I(v+m)=IIc、I(v+mv+mk)=II(c+mc)と同時に、これらの流通を媒介した貨幣が価値どおりに出発点に環流すること――販売と購買とが分離しないことが重要な条件である。これについては、固定資本における価値的補填(一方的販売)と現物補填(一方的購買)との一致、蓄積部分における蓄積基金積み立て(一方的販売)と現実的蓄積(一方的購買)との一致が重要な条件。(212ページ)

(2)第2部第3篇の再生産表式分析の内容の限界・不明確さ

  • 「しかし、これは次の篇ではじめて問題になることである」という注にいう「次の篇」が第2部第3篇を指すのか、あるいは第3部を指すのか論争があったが、内容的にみてみると、第2部第3篇の再生産表式の分析が不可欠であることは明らか。(214ページ)
  • しかし、第2部第3篇で示されたことはあまりに一般的・基本的関係。
  • しかし、再生産表式分析の範囲内においても、いま少し明確にしうることがある。(215ページ)
    • (i)労働者の消費が重要な位置を占めている関係のもとで、生産が労働者の消費制限を無視して独立して発展していった場合、それはいかなる対立となるのか。
    • (ii)その場合、I部門の内部転態部分Ic、Imcがいかなる役割を演じるのか。
  • これらの問題を無視するならば、(iii)の「再生産の正常な進行」の諸条件とそれについての主張のみが一面的に注目されていき、生産が制限された消費を無視して拡大した場合、「再生産の正常な進行」の諸条件が破壊され、「正常でない進行」「恐慌の可能性」が現実化すると主張することになる。これでは、矛盾は「再生産の正常な進行」の諸条件の破壊・「不均衡」のなかにのみ把握されることになる。(215ページ)
  • したがって、第2部第3篇におけるI部門の内部転態部分の特殊性について、より詳しく分析することが必要。

第3節 『資本論』第2部と<生産と消費の矛盾>――その2

(1)検討すべき中心問題
・Ic、Imc部分は、直接にも間接にも個人的消費と結びついてはいない。
・しかし、Ic部分、Imc部分の補填の特殊性にもとづいて、I部門がいかにして「一応は個人的消費から独立して」発展していくのか、その発展がいかなる意味で「究極的には」個人的消費によって「限界を画され」ているのか、ということは第2部第3篇の表式分析には明らかにされていない。(217ページ)
・I部門の生産物がすべて迂回的となる訳ではない。Ic、Imc部分は、II部門で使用されることのない、I部門でのみ使用される生産手段。投資総資本拡大率が上昇していく場合には、たとえ生産力一定、有機的構成一定のもとでも、I部門の新投資が自部門の需要拡大をつうじて自部門のいっそうの新投資をうながしていくという内容をもって、I部門はII部門を上回る率で拡大してゆく。そこでは、I部門の生産物全体のなかで、I(c+mc)の占める比重は上昇していく(“工場増設のための工場増設”)。(217ページ)
・第2に、Ic、Imcの特殊な流通にもとづいてI部門の生産が「一応」消費から「独立」して発展するという問題が、商業資本の介在によって支えられている問題と混同しされる危惧がある。しかし、この2つは峻別すべきものである。(218ページ)

(2)従来の一般的説明――Ic、I(c+mc)はI部門内部で転態される部分であって、II部門や消費とは直接関係はないので、I部門は一応消費から「独立」して拡大していきうる。しかし、I(v+m)、I(v+mv+mk)はII部門とのあいだで転態されなければならないし、このIcとI(v+m)の比率、I(c+mc)とI(v+mv+mk)との比率は、任意に変更できない与えられた大きさである。それゆえ、I部門の拡大は結局のところ、I(v+m)=IIc、I(v+mv+mk)=II(c+mc)の関係をつうじて、II部門によって、消費によって間接に規制を受けている。I部門はI(c+mc)のI部門内転態によって、一応消費から「独立」して拡大しうるが、しかし、I部門が投資拡大をへて生産物の供給を増大させるようになれば、I(v+mv+mk)>II(c+mc)をつうじて生産過剰(II部門用生産手段の過剰)を必然化せざるを得ない。
・以上のような説明には、不明確さと誤りが含まれる。
・単純再生産においては、IcとI(v+m)の比率は、有機的構成と剰余価値率とによって一義的に与えられており、生産力一定でこれらが不変であれば、その比率は唯一不変のものである。
・しかし、拡大再生産の場合には、生産力一定であっても、I(c+mc)とI(v+mv+mk)との比率はけっして一定ではない。(219ページ)

(3)以上の不明確さは、『資本論』第2部第3篇の拡大再生産の分析が未完であることによるもの。(220ページ)
・マルクスは、拡大再生産表式例を用いて以上の関係を示すさい、I部門ではつねにmは50%が蓄積されると仮定し、II部門の蓄積はI(v+mv+mk)=II(c+mc)という条件を満たすように従属的に決定されるものとして表式をつくるにとどまり、それ以上に、I、II部門の蓄積率、拡大率をいかに把えるべきか、このI、II部門の蓄積・拡大のあり方が次年の「剰余生産手段」の増減にいかに影響を及ぼし、その後の拡大再生産にいかなる問題をもたらすか、などということについては考察していない。(221ページ)

(4)第2部第1篇、第2篇では、「商人」の介在、「生産・建設期間」の問題について指摘があるが、第2部第3篇の再生産表式分析では、社会的総生産物の価値的・素材的補填の諸関連それ自体を純粋に考察するために、「商人」の介在や長期にわたる「生産・建設期間」の問題を捨象している。(223ページ)
・マルクスは、再生産過程そのものにI部門の生産が消費から独立して発展してゆく構造があることを充分明確にしていなかったので、I部門の内部転態部分の特殊性にもとづく問題と、「商人」の介在の問題とは明確に区別されず、ともに生産が消費から独立して発展していくことを促す要因として把握されたのではないか。
・しかし、問題は、「商人」の介在それ自体や「生産・建設期間」それ自体ではないのであって、ある期間において、生産の拡大にもかかわらず順調な販売が続くのはなぜか、それがある状況の下で不可能になるのはなぜか、ということである。
・この問題のカギは、I部門の内部転態部分の特殊な役割にもとづいて「I部門の不均等的拡大」が進展していく関係にある。この問題と、「商人」の介在の問題、「生産・建設期間」の問題とは峻別されるべきだ。(223?224ページ)

補論 レーニン表式と<生産と消費の矛盾>

・レーニン表式の「I部門の優先的発展」は、有機的構成の高度化に対応する限りのものであるから、I部門の拡大率が消費の拡大率よりも上回っているとしても、それは、生産が消費から独立して拡大しているというものではない。(224ページ)
・だから、レーニン表式に表示されている「I部門の優先的発展」の矛盾を、恐慌の「究極の根拠」としての<生産と消費の矛盾>と同一視することは大きな誤りである。(225ページ)
・I部門の不均等的拡大は、生産力不変・有機的構成不変のもとで、投資総資本拡大率の上昇に対応してI部門の新投資が相互に促進しあいつつI部門の内部転態部分の特殊性にもとづいて、不均等な拡大を続けるものである。ここでは“工場増設のための工場増設”という内容をもってI部門の生産が消費から独立して発展していく。このような発展において<生産と消費の矛盾>が累積されていくのである。
・このようなI部門の不均等的拡大の内容と、レーニン表式が示す有機的構成の高度化に対応する限りでのI部門の優先的発展との内容は峻別しなければならない。
・しかし、生産力の発展・有機的構成の高度化は、「I部門の優先的発展」を促すことをつうじて、I部門の不均等的拡大を惹起し、両者は絡み合いつつ進展していく関係にある。(226ページ)

第4節 『資本論』第3部第3篇第15章と<生産と消費の矛盾>

(1)第15章の主題
・内容的に見ると、そこでの中心的問題は、「生産の無制限的な増加」「社会的生産力の無条件的発展」が利潤率と「衝突」「制限」されることが、周期的な過剰生産として現われることであり、マルクスは、このような事態が<生産と消費の矛盾>の深化した基礎上で生じることを強調しているのではないか。(227-228ページ)
・資本過剰の説明において、「資本の絶対的過剰生産」を、急速な資本蓄積→労働力不足→賃金率の上昇→利潤率の下落という系列を仮定して、追加資本による利潤凉増大がゼロ、マイナスとなり「追加資本がゼロ」になる状態であると説明したため、これが資本過剰の生じる原因であるという誤った解釈がみられた。(229ページ)
・しかし、第3節の内容を検討すると、マルクスは、資本過剰と人口過剰の併存する事態を、<生産と消費の矛盾>にもとづくものとして捉えていることは明らか。

(2)第1に指摘したいことは、これら第15章の主題が『資本論』第2部第3篇の再生産表式分析に基づいたものだということ。
・第2に指摘したいのは、第15章の主張は第2部第3篇の再生産表式分析の内容を確認しているだけのものではない。第2部第3篇の分析は、社会的そう生産物の価値的・素材的填補において生産と消費が互いに絡み合い、相互に前提しあう関係を明示することをつうじて、生産が消費から自立して運動する資本制生産では、生産と消費が対立・矛盾する関係にあることを示したが、そこではまだ生産と消費の対立・矛盾がいかに現われるかということ自体は対象になっていなかった。
・第3部第15章では、生産力・生産の増進が「実現」の諸条件と対立・矛盾し、この矛盾の増大した基礎上で周期的な過剰生産が生じることに減給している。
・第3に指摘しなければならないことは、第3部第15章では、このように周期的な過剰生産の問題がとりあげられているとはいえ、そこでは、それがなぜ、いかにして生じるかということが解明されている訳ではない。そこではなお、生産力・生産の無制限的発展傾向と消費を制限する傾向が第2部第3篇の示した再生産の諸関係をつうじて、需給関係の推移、市場価格・市場利潤率の推移のもとで、いかに展開し、いかに周期的な過剰生産を生み出していくかは解明されていない。(230?231ページ)

(3)最後に補足。再生産過程の弾力性について
・マルクスの言う「再生産過程」の「弾力性」の内容は必ずしも明確でない。
・だとすれば、「再生産過程」の「弾力性」とはなにによって支えられた、いかなるものか、それは第2部第3篇の再生産表式分析で示された社会的総資本の再生産の諸関連・諸条件との関連でいかに理解すべきものか?
・しかし、第3部では、再生産過程の弾力性は、商業資本の問題、信用の問題との関連で指摘されており、再生産過程それ自体の弾力性とはなにかという肝心の問題が明確にされていない。(232ページ)
・さらに、第3部では、商業資本や信用の作用について、それらが「資本主義的生産をそれ自身の制限を越えて進行させるもっとも強力な手段になる」とか、「再生産過程の限界」「生産の内在的な束縛と制限」「生産過程の資本主義的制限」ということが語られているが、それらは、第2部第3篇の再生産表式分析の示した社会的総生産の再生産の諸関連・諸条件との関連でいえば、どのような内容のものであるか?(233ページ)
・さらに、再生産過程がその「弾力性」を最高度に発揮した状態というのは、右の「制限」「限界」の範囲内にあるのかどうか。I部門の内部転態部分の特殊性にもとづく生産の消費からの「一応」の独立は、この再生産過程の「制限」「限界」の内のことなのかどうか。(233ページ)
・「再生産力の極度の緊張」(K.III, S.499)とは、I部門・II部門からなる社会的総資本の再生産のどのような内容の拡大なのか? 上記の「弾力性」や「限界」とどんな関係にあるのか?(233ページ)
・しかしマルクスは、『資本論』においては、こうした「再生産過程の限界」の内容や、その「限界」いっぱいに拡大するといわれる再生産過程自体の内容を明確にしないで、商業資本や信用がこの「限界」「制限」を超えさせる作用をはたすと指摘しているだけ。社会的総資本の再生産過程自体の問題と、商業資本や信用の作用の問題との区別がはっきりしなくなっている。(233ページ)

・『全集』訳では、Schrankeが「限界」あるいは「制限」と訳されているが、2つの訳語は厳密に使い分けられている訳ではない。マルクス自身、各所のSchrankeを必ずしも厳密に規定して用いている訳ではない。(236ページ、注18)

※<生産と消費の矛盾>の展開過程を探究する必要がある、という点では「運動論」の提起と共通するが、井村氏の議論の中心は「I部門の不均等的発展」にある。「運動論」では「流通過程の短縮」に注目しているが、これは井村氏が峻別すべしといっている「商業資本や信用の役割」の問題。

とりあえず第7章は終わり。しかし、井村氏の本はまだまだ続く…。

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