『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(3)

【第10段落】364ページ上段?367ページ上段までの長い段落

ここで出てくる問題は、まず第1に回転。回転が生産される剰余価値の量に与える影響について。

次が、「流通費用そのもの」「本来的な流通費用」について。

マルクスは、商品を消費地の市場にまで届けるために必要な輸送費は、価値を生み出すとみなした。(草稿集2、188ページ下段?189ページ上段にかけて)

ここで問題になっている「流通費用」は、そうした運輸・交通のための労働ではなくて、社会的分業にもとづいて、自分の生産物を交換し合わなければならない社会の「交換に要する時間」「たとえば彼らの商談がまとまるまでの双方の側での駆け引き、計算」などに必要な時間(364ページ下段?365ページ上段)。「このような時間の喪失は分業と交換の必要とから生じるもの」。このような「本来的な流通費用」は「生産的な労働時間に解消させられることができるものではない」。「商品を貨幣に転化し、貨幣をふたたび商品に転化するのに必然的に要する時間、すなわち資本をある形態から他の形態に移行させるのに要する時間に限られる」(365ページ上段?下段)。「流通費用それ自体は、価値を生むものではなくて、価値の実現の費用であり、価値からの控除である」(366ページ下段)。「資本の流通は、さまざまな局面をを通って価値が通過していく形態変化である。この過程にかかる時間、またはこの過程を維持するために要する時間は、流通の、分業の、交換にもとづく生産の生産費用に属するものである」(367ページ上段)。

【第11段落】368ページ上段?371ページ下段まで

ふたたび回転について。ここでは、「生産過程の繰返しは流通時間によって規定」されている、という問題が取り上げられている。「一定の循環では、資本によって作り出された価値(だからまた剰余価値……)の総額は、労働時間に正比例し、流通時間に反比例する」(369ページ上段)。「資本の1回転は、イコール・生産時間・プラス・流通時間である」(369ページ下段)。「流通時間は……生産の限界として現われる」「流通時間が労働時間にとっての、価値創造にとっての1つの規定的契機になることは、資本の、資本にもとづく生産の本性である」(同前)。

ちなみに、ここに出てくる「資本にもとづく生産」というのが、のちに「資本主義的生産様式」というのになっていく。過渡的表現。

このあとは、ふたたび回転の話。371ページでは、マルクスは複利の計算をしている。こういう計算にマルクスは弱いので、くどくどしい計算をいつもやっている。(^_^;)

【第12段落】372ページ下段?373ページ下段まで

ここも回転の話。

そのなかに、面白い記述が{}にくくられて登場する。(373ページ上段、左から3行目?)

資本の資本としての生産性は、使用価値を増加させる生産力ではなく、価値をつくりだす資本の能力であり、資本が価値を生産する度合いである。

「使用価値を増加させる生産力」は、労働の生産力のこと。これを普通、簡単に「生産力」と呼んでいるが、「資本としての生産性」とをキッパリ区別すること。

【第13段落】【第14段落】

ここも引き続き回転論。第14段落では、ふたたび複利計算。

【第15段落】375ページ上段
【第16段落】375ページ上段?378上段まで

流通時間が生産過程の制限であることについて。そして、本来の流通費用が何の価値も生まないことの説明。

「諸等価物の措定としての交換は、その本性からして、価値の総額をも交換される諸商品の価値をも高めることはありえない」(376ページ下段)。マルクスは、こんな説明もしている。1/4をイコール0.25と置き換えても、「形態は変えられている」が「価値は同じまま」だ。

「流通時間が労働時間を費やす場合には、それは流通する価値の控除、相対的な止揚であり、流通費用の額だけのそれの減価である」(377ページ上段)。

さらに、共同所有にもとづく生産と対比することで、本来的な流通費用が資本主義的生産にもとづくものであることを明らかにしている。

だが、もしも彼らが共同所有者として労働しているのであったならば、交換は行なわれず、共同的消費が行なわれるであろう。だから交換費用はなくなるであろう。分業はなくならないが、交換にもとづくものとしての分業はなくなるであろう。(377ページ下段)

【第17段落】378ページ下段?379ページ上段

ここでも、「流通費用」が「生産に用いられた時間からの、または生産によって生み出された価値からの控除」「生産上の空費」であることを繰返し指摘。さらに、この「生産上の空費」が「資本にもとづく生産の内在的費用に属する」ことを明らかにしている。

商業や「本来的な貨幣取扱業」は、「たんに資本の生産上の空費を表わす」。「それらは、この空費を減少させるかぎりでは、生産に寄与する」(379ページ上段)。

「流通操作は資本の生産にとっての必要条件である」(379ページ下段)。

【第18段落】379ページ下段?380ページ上段

引き続き、流通費用(あるいは流通のための時間)は「生産上の空費」であることの説明。

ただし、ここでは、それが「生産上の空費」であっても、「それ自体としては、労働時間からの控除ではない」ことの説明。「流通時間は、資本家の時間を取り去るという意味で存在するのではない」「つくりだされた価値を実現するのは資本であるにもかかわらず、資本家の時間は、余計な時間、つまり非労働時間、非価値創造的な時間として措定されている」(379ページ下段)。

このような資本家の「非労働時間」は「自由な時間」である、云々。

他方では、資本家の必要労働時間も自由な時間なのであり、直接的な生存のために必要とされる時間ではない。自由な時間とは、すべて、自由な発展のための時間であるから、資本家は、労働者によってつくりだされた、社会のための自由な時間、すなわち文明を、横領するのである。(380ページ上段)

【第19段落】380ページ下段?381ページ下段

引き続き、「資本家の労働時間」について。

冒頭でマルクスは、「経済学的に見れば、資本家の自由な時間を奪うという限りでの流通時間がわれわれに関わりがあるのは、資本家が高級娼婦と過ごす時間がわれわれにかかわりがあるのとまったく同じ程度のことである」(380ページ下段)といっている。つまり、経済学的には、流通時間が資本家の自由な時間をどれだけ奪うかという問題はどうでもいい問題だといっている。

ここで面白いのは、この段落の一番最後でマルクスが、「いわゆる資本家の労働時間は、のちに考察しなければならない」と書いていること。はたして、どこで考察しているんだろうか?

【第20段落】382ページ上段

ふたたび、「生産物を市場に送り届ける」商業は「生産物に新たな形態を与える」ものであり、したがって価値を創造する、という話。「商業は生産物に新たな使用価値をあたえる」「この新たな使用価値は労働時間を要費し、したがってそれは同時に交換価値なのである」。「市場への搬送は、生産過程そのものに入れられるべきものである」(382ページ上段)。

【第21段落】382ページ上段?384ページ上段

ここは、シュトルヒからの引用。

【第22段落】386ページ上段?386ページ下段

「単純な流通は多数の同時的交換または継起的な交換から成り立っている」という話。

ここで面白いのは、流通過程の「一続きの交換操作」は、「資本の再生産と増大とにおける1つの契機を表わしている」という指摘。(386ページ下段)

【第23段落】387ページ上段?387ページ下段

流通過程の契機として、「商品資本」とか「貨幣資本」というタームが登場する。

【第24段落】387ページ下段?389ページ下段

「流通は、資本にとってたんに外的な操作なのではない」(387ページ下段)。「流通は、資本の概念に入れられるべきもの」(388ページ上段)。

そこから、ふたたび「資本は、本質的に流動資本なのである」(388ページ下段)という結論が導き出されている。

他方で、「流通は一種の霧」「その陰にはまだ、まるまる1つの世界が、資本の諸関連という世界が隠れている」(389ページ上段)。

最後のところで、資本の流通の「第1の軌道」と「第2の軌道」という話が出てくる。「第1の軌道」は「商品と商品との間の流通」。「第2の軌道」は「商品と消費者との間の流通」。(389ページ下段)。

「資本のさまざまな軌道の同時性は、資本のさまざまな規定の同時性と同じく、多数の資本が前提されたときに、初めて明らかになる」(同前)

【第25段落】390ページ上段?391ページ上段1行目まで

またまた、資本の回転。

「過程を進行するもの――したがって回転を経過していくもの――としての資本それ自体が、働いている資本とみなされる」(390ページ下段)

【第26段落】391ページ上段?392ページ下段1行目まで

ここから、経済学者の批判が始まる。

…まだまだ続く、はず?!

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