金がない・・・・。ちょっと調子に乗って本を買いすぎました。来月まで、おとなしくしているしかありません。困ったもんです。(^^;)
橋田さんたちの事件で、産経新聞がとんでもないウソをついています。今日の「主張」で、橋田氏が『イラクの中心で、バカとさけぶ』にふれて次のように言っています。
橋田氏は同書の中で「絶叫して正義を訴えるみたいなことはしない」「戦場記者は戦争を語ってはいけない」とも書いている。「戦争はすぐれて政治の世界であり、戦場からは見えないからだ」という。今回の事件をきっかけに、一部の勢力から再び自衛隊撤退論が叫ばれることも予想されるが、橋田流にいえば、戦場と戦争を混同した議論と言わねばなるまい。(「産経新聞」5月29日付「主張」)
しかし、これこそ“死人に口なし”と言わんばかりに、白を黒と言いくるめるやり方です。橋田氏は、確かに「戦場から戦争は見えない」書いていますが、それは、戦場だけでなく、戦争全体をしっかり捉えないとだめだという意味です。橋田氏が、こんどのアメリカのイラク攻撃と占領、それに自衛隊派兵について、はっきりとした立場と認識を同書でも、またその他の機会にも明らかにされています。橋田さんは、ジャーナリストだから自分はそういう戦争論をもっぱら闘わせはしないと言っているだけなのです。『イラクの中心で、バカとさけぶ』を読めば、それは分かること。それを、読者の多くが橋田さんの本を読んでいないことにつけ込んで、まったくあべこべに描くというのは、ジャーナリズム失格と言わざるを得ません。
イラクで、日本人のフリージャーナリスト橋田信介さん(61歳)と元NHKディレクターの小川功太郎さん(33歳)の2人が銃撃を受け、犠牲となったそうです。残念でなりません。ちょうど、この1月に出たばかりの橋田さんの本『イラクの中心でバカとさけぶ』(アスコム刊)を読んでいたところ(というか、正確には読もうと思って買っておいたところ)だったので、とても衝撃的でした。本を読むと、この文章がかなりぶっ飛んでいて、これが61歳のオッサンの書く文章かと思ったりするほどですが、だけれども、テレビに映っているご本人はいたって真面目で、丁寧な語り口のおじいさんです。日本国内では、サマワは戦闘地域かどうかとか、国際貢献すべきかどうかなど、さまざまに議論されているけれども、実際イラクでは何が起こっているのか、それを見なくちゃわかんないだろう!という気概というか、ジャーナリスト魂というか、気迫を感じます。
橋田さんは、日本人人質事件のあとの「自己責任」という口実で被害者たちがバッシングにあっているということを知ったとき、イラクから奥様に電話をして、自分が人質になっても社会や政府に「助けてください」と言うな、本人は覚悟して行ったと言え、と話されたそうです。それでかどうかは分かりませんが、今日、事件のことを質問されて、奥様は「本望でしょう」ときっぱり答えられていました。だけれども、だからといって今回の事件を「覚悟していたんだから、いいじゃないか」ということにはして欲しくありません。橋田さんがいちばん伝えたかったことは何か。戦争というのは、実際に人が死ぬことなのだという“事実”を、橋田さん自身が身をもって実証したということは残念でなりません。何がイラクの治安をここまで悪化させたのか、何が日本人ジャーナリストや日本人ボランティア活動家たちを危険な目に遭わせているのか。そのことを考えずにはいられません。
今日は、仕事で生けなくなった友人からチケットを譲ってもらって、日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴いてきました。
今日のコンサートは、何より弦がとてもよかったです。舞台のうえには、ややこじんまりした編成のオケ。その分、音量に迫力はなくても、逆に弦の音が綺麗にそろって、ゆったりと内容のある響きを感じさせてくれました。また、「ザ・グレート」では、クラリネットが大奮闘。たった1本のクラリネットで、大勢の弦楽器に負けない、しっかりしたクリアな音を響かせ、演奏が終わったあと大きな拍手を受けていました。でだしのホルンは、ちょっと緊張したのか、音がブルってましたが・・・。(^^;) 指揮のマルティン・ジークハルトは、日フィル初登場。ソロ・チェリストだったそうで、なるほど、それが今日の弦の響きの良さの理由だったかと納得しました。
最近日フィルのコンサートにはちょっとご無沙汰していたのですが、久しぶりに聴いた日フィルは、“弦は日フィル”の伝統に恥じない、しっとりつややかな音を聞かせてくれました。感謝、感謝、大感謝です。
今日は、日比谷で「スパニッシュ・アパートメント」を観てきました。明日までということで、もうガラガラなんだろうと思っていたら、結構混んでました。(^^;)
で映画はというと、フランスの青年が1年間スペイン(バルセロナ)に留学して、いろんな国からの留学生と一緒にアパートをシェアしながら暮らすというお話。ドイツ、イギリス、イタリア、デンマーク、それにスペインの男女いりまじっての共同生活の様子が、面白おかしく描かれています。このへんは、EU統合がどんなふうに受け止められているかという感じでした。その合間に、イギリス人がこっぴどくやっつけられていたり、アメリカ人がバカだとこき下ろされ、そのおバカなアメリカ人と「セックスだけ」と言いながらつきあうイギリス人も「バカだ」と言われる始末。面白かったですよ(^^;)
ところで、置塩信雄『近代経済学批判』(有斐閣双書、1976年)を読み終えました。批判と銘うってますが、僕には、初めてケインズ経済学や新古典派経済学が分かったという感じです。どうして消費性向は1より小さいのか、なぜ所得が増えるほど消費性向は下がるのか――。そういうことが理論的にどういうことを意味しているのかということが分かりやすく解明されています。いままで近代経済学の教科書や、あるいは近代経済学を批判したマルクス経済学の本なども読んだことがありますが、これほど分かりやすく説明されていたのは初めてです。う〜む、大学に入ったときにすぐこれを読んでいれば・・・。もったいないなあ〜
今日は、神奈川県立近代美術館・葉山館の「ヴィルヘルム・レームブルック展」を見てきました。葉山館は昨年10月に開館したばかりの新しい美術館です。品川で京急快特に乗り換え、金沢文庫で新逗子行きへということで、自宅からは1時間40分ぐらい? 遠いですねえ。(^^;)ついたらお昼だったので、美術館へ行く前に昼飯でもと思ったのですが、京急新逗子駅前には何にもない。そこで仕方なく、JR逗子駅前に行こうと思ったのが運の尽き・・・。道を間違え大回りしてしまいました。(^^;)
美術館は逗子駅前から葉山町へバスで20分ぐらいのところなのですが、この海岸沿いのバス道がとても狭いのです。いちおうセンターラインが引いてありますが、乗用車2台すれ違うのがやっと。バスとすれ違うには、乗用車が路肩いっぱいに寄せないといけません。そんな道なのに、向こうから逗子駅行きのバスが来るんですから、もうたいへんです! 要するに、葉山は古い漁師町なのだと思いました。僕の田舎と同じです。(^^;)
跪く女(1911年、ブロンズ、レームブルック家遺産) 向かって左前から見た方がかっこいいと思うのですが・・・ |
ところで、「レームブルック展」ですが、レームブルックは1881年生まれのドイツの彫刻家。ロダンに憧れ、1910年からパリで活躍し、第一次世界大戦の勃発とともにドイツに戻り、やがて戦争をテーマに表現主義的な手法を完成させ、1919年に自殺した人物です。日本ではまだまだ知られていませんが、「跪く女」(1911年)、「ものを思う女」(1913年)、「くずおれる男」(1915/16年)などが有名――ということを今日初めて知りました。(^^;) 版画家コルヴィッツなんかと同時代人ですが、作品は、ロダンのように筋肉美というよりも、モジリアーニの絵のように細長く引き延ばされた身体が特徴的でした。「跪く女」にしても「ものを思う女」にしても、等身大以上に大きく引き延ばされ、手の指や足の指が長く、大きくなっています。「跪く女」は、左足を前に出して右足を引いて跪き、首を少し左に傾け、右手を軽く持ち上げているポーズです。顔を伏し目がちにしているのが、やはりレームブルックの特徴らしく、動きのあるポーズとの対照をなしています。(写真は図録およびパンフレットから)
くずおれる男(1915/16年、ブロンズ、レームブルック家遺産) |
それからもう1つ発見。彼が惚れた女優エリザベート・ベルクナーのスケッチなどを見ていると、手塚治虫氏の「ブラック・ジャック」に、“冷徹な外科の女王”――ブラック・ジャックの女性版のように登場する女医さんがいるのですが、その女医さんが実にレームブルックの描くエリザベート・ベルクナーにそっくりなのです。ひょっとして手塚氏は、レームブルックを知っていたのかな?
ところで、葉山館への行き帰りで、アルチュセール『国家とイデオロギー』を再読。かつて読んだときには気づかなかったことにいろいろ気がつきました(だから、読書は面白いのですが)。以前は、アルチュセールのいう「国家イデオロギー装置」というのを、機能というより、実体として捉えていて、国家機構を「国家抑圧装置」と「国家イデオロギー装置」とに二分して捉えたものというふうに理解していましたが、あらためて読んでみると、確かにそういうふうに実体的に二分する議論がなされていることは事実ですが、むしろアルチュセールの議論として注目されるのは、そもそもイデオロギーとは何か、イデオロギーというのはどうやって機能するのか、こういうことについての彼の分析です。
と、こういうふうに読み返してみると、イデオロギーの実践意識としての役割を的確に明らかにしているアルチュセールの議論に改めて感心しました。他方で、なるほど確かに上野俊樹氏が指摘したように、イデオロギーの中における「再認」関係は論じても、「否認」関係はどこにも論じていないこともよく分かります。また、これはアルチュセール自身が認めていることですが、イデオロギー一般については論じても、それが階級的形態を帯びたときにどのような規定を受けるのかは具体的に何も述べていません。さらに、イデオロギー的認識と科学的認識との関係についても、あらゆる実践がイデオロギー的な実践意識に導かれることを前提としつつ、しかし、そこから科学的認識にふみだすことの重要性を指摘しながらも、それを自覚的な形では述べていません。そこから、被支配階級も、イデオロギー的に、「国家イデオロギー装置」に統合される側面だけが強調されて、どこで、どのようにして、このイデオロギー的な再認関係を踏み破っていくかが明らかにされない。その結果、一面で被支配階級がいつまでもイデオロギー的に統合されっぱなしになる一方で、「国家イデオロギー装置」の中に階級闘争が反映するといったときに、どのような形で反映するか具体的に明らかにできないということにもなっているようです。
他方で、アルチュセールが、資本主義国家における中心的な国家イデオロギー装置は学校だとしたことについては、今日、イデオロギー的上部構造の真ん中にあって、諸個人=諸主体の「再認/否認」の中心になっているのは法律的イデオロギーだという批判があります。たぶん、社会全体、国家全体を見た場合にはその通りなのでしょうが、アルチュセールの“つもり”としては、そういう法律的イデオロギーを内部化していくように諸個人が主体として形成される過程というものに注目したのではないでしょうか? 僕も、個人が人格形成をとげるとき、家族的イデオロギーの中から抜け出して、社会的なさまざまな関係についての「実践意識」を身につけて、いわば社会的な人格を形成する過程というものに注目する必要があると思っています。
それにしてもアルチュセールの議論は面白いですね。かつての「重層的決定」論や「審級」論、「ネオ・マルクス主義」などの枠にとらわれずに、もう少し研究してみたいと思いました。
仕事帰りに新日本フィルのコンサートへ行ってきました。今日は、ヴァイオリニストの諏訪内晶子さんがソリストで登場するプログラム。諏訪内さんのナマ演奏は久し振りです。
■指揮=クリスティアン・アルミンク■ヴァイオリン=諏訪内晶子■新日本フィルハーモニー交響楽団■すみだトリフォニーホール
1曲目は、日本人作曲家の佐藤聰明氏(1947〜)の作品(1999年)。現代音楽のように、モゾモゾモゾ、ゾワゾワゾワと始まる曲調ですが、しかし調性に戻っていく感じで15分程度の曲ですがなかなか聴き応えがありました。「季節」という標題との関係でいえば、日本人好みの季節感というより、人間存在とは無関係に無慈悲に季節が過ぎていくという印象を受けました。この作曲家について僕は全然知りませんでしたが、なかなか面白そうです。会場には佐藤聰明氏が来られていて、プレ・トークでは、この曲について、指揮のアルミンク氏から質問を受けていましたが、残念ながらぎりぎりに着席したのでほとんど聞けませんでした。
2曲目、3曲目は、諏訪内晶子さんの演奏です。登場した諏訪内さんは、めずらしく髪をひっつめにして、いつも見慣れた写真とはかなり違った印象でした。(^^;) バルトークの作品は、いわゆる民族派の曲ではなく、もうすこしモダン?な感じです。諏訪内さんの演奏は、相変わらず力強い感じですが、オケとちょっと合わなかったのか、少し戸惑った印象を受けました。3曲目のツィゴイネルワイゼンは、高度なヴァイオリンのテクを披露できる有名な曲ですが、今日のプログラムから言えば、全体として20世紀の音楽でつくられていて、その中でこれだけちょっと異色な感じ。まあアンコール代わりといったところでしょう。
最後の曲は、ショスタコーヴィッチの歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1932年)を書き直した「カテリーナ・イズマイロヴァ」(1963年)から編纂された交響楽曲。「カテリーナ・イズマイロヴァ」がイマイチ人気がないということで、ショスタコーヴィッチ死後に未亡人が知人の作曲家に頼んで作ってもらったものだそうです(プログラムによる)。ということで、評価は微妙・・・・。確かにショスタコーヴィッチの音楽なのですが、しかし、聴いていると、ちょっとどこか違うなあ〜と唸ってしまうという感じでした。(^^;)
19時15分開演で、終了は21時30分という、今回もまたかなり長大プログラムでした。
「東京新聞」マニラ支局の若松篤記者が、3月におこなわれた米比合同軍事演習で、人道・民政支援活動を担当した米陸軍予備役少佐の「米軍の任務は二種類ある。一つは戦争、一つは人道支援などのオペレーション・アザー・ザン・ウォー(OOTW=戦争以外の作戦)だ」という発言を紹介しつつ、次のようなことを書いています(記者の眼「中立の人道支援とは」5月20日付)。
米軍がOOTW戦略を各地で展開している現状では、人道支援は3つに分けて考えなければならない。すなわち、
このように考えると、イラクでの自衛隊の活動について、「国連の明確な枠組みを欠く以上」、「米軍のOOTW戦略の一端を担う作戦行動」であり、「第3の人道支援」と言わざるを得ない。したがって、「米軍を敵と考える勢力から『敵対行為』と見なされる性格をもつことになる」。自衛隊のイラク派遣について、サマワが戦闘地域か非戦闘地域かというだけでなく、「自衛隊が外国でOOWTを実施していることの意味を考えるべきだ」。誰がやろうと人道支援は人道支援だと「一括する論法には、陥穽がある」、云々。
米将校の発言をふまえつつ、的確でリアルな議論をしていると思います。軍がおこなう「人道支援」について、もっと議論を深めるべきだろうと思いました。
アルチュセールの『不確定な唯物論のために』(イタリアの哲学者フェルナンダ・ナバロ女史によるインタビュー、原著1988年刊、邦訳=大村書店、1993年刊)を初めて読みましたが、彼のイデオロギー論についての非常に分かりやすい解説になっていると思いました。
1つは、彼の議論が、実はスターリン主義流の哲学――いわゆるヘーゲル主義にたいする批判をねらったものだということが非常によく分かったこと。
そこで、こうしたヘーゲル的でないマルクスの唯物論をアルチュセールは「不確定な唯物論」と呼ぶ。それは、「『資本論』の哲学、彼の経済・政治・歴史思想の哲学」(p.45)であり、「マルクス主義のための哲学」とも呼んでいる。「偶然性の唯物論」とも言っているが、「偶然性を必然性の容態あるいは例外として考えるのではなく、さまざまな偶然的なものの出会いが必然になったものだと、必然性を考えなければなりません」とも指摘する(偶然というものを認める必要性、つまりすべてを必然性によって説明できないし、説明できると考えるのは正しくないということは、見田石介氏や鈴木茂氏が強調された点である)。
2つ目には、イデオロギーとは何かという問題。
では、イデオロギーはどこから始まるか?
う〜む、こんなメモで意味が分かるか? (^^;)
大学時代の後輩が、7年ぶりに海外勤務から帰国したということで、帰国歓迎会が開かれました。といっても、結局、帰国した後輩は集まるための“ダシ”にされたようなもので、海外の生活ぶりや帰国してからの様子なども少し聞いたものの、あとは実に勝手な話題ばかり・・・。お疲れ様でした。(^^;)
その後輩氏は、帰ってきたあとは、工場の図面管理の部署にいるらしい。現場の生産ラインでは、日々、改善が行なわれ、少しずつ図面も変わっていく。その最新のものをきちんと管理し、いつ何時「○○の図面が必要だ」と言われてもすぐに用意できるようにしておくというのはなかなかたいへんな仕事のようです。同時に、昨今の会社事情。情報管理には厳しいらしく、会社へ持って行った私物は全部ロッカーに預け、職場へは必要なものだけ透明のビニールバックに入れて持って行くらしい。もちろん携帯などはもちろん持ち込めません。退社するときも、荷物の確認を受けるという話を聞いて、日本資本主義の現場の大変さを少し感じました。
しかし、同席した某ディスプレー屋曰く、うちは携帯だろうがなんだろうかまったくお構いなしだぞ〜。情報管理の問題は、まだまだ定着するのは難しそうですねえ・・・。(^^;)
小泉首相が22日に再度訪朝することが発表されました。政治的な思惑はどうであれ、一方的な制裁論議ばかりが言いつのられるような状況がすすむなかで、平壌宣言を基本としつつ、拉致問題を含めて平和的、外交的な方法で話し合いを通じて問題が実際に解決されていく方向へ前進することを期待したいと思います。
『女性たちの平成不況』について短い紹介原稿を書く。こういうとき、メモ的なものでもインターネットに書き込んでいると、それを見ながらまとめられるので便利です。(^^;)
レイトショーで、「メイキング・オブ・ドッグヴィル〜告白〜」を見てきました。今日で公開終了と言うことで、絶対に逃すわけに行かなかったのに、何を思ったか時間を勘違いして、上映開始直前にぎりぎり滑り込みセーフ・・・。中央線の中で「ここで事故でも起こったらどうしよう?」などと焦ってしまいました。メイキングというと、NGシーンや裏話をおもしろおかしく紹介したものというイメージですが、まったく違いました。全く異色の手法で映画を作った監督とスタッフ、俳優の苦労というか、ストレスというか、イライラというか・・・・、そういうものと格闘しつつ映画が作られていった様子が分かり、面白かったです。
今日は、仕事帰りに、イタリア映画「僕は怖くない」を見てきました。先月まで新宿のテアトルタイムズ・スクエアで公開されていて、好評につき2週間だけ銀座テアトルシネマで延長上映というだけあって、夜7時半からの回でも40人以上のお客さん・・・。マイナーなミニシアター系映画の、しかも公開終わりかけとしては、めずらしく?混み合っていました。
巷は「冬のソナタ」ブームである。BSでの放映はすでに終了、この4月から地上波での放送が始まり、ますます話題と人気が高まっています。といっても、地上波は日本語吹き替えバージョン。せっかくの韓国語の台詞が楽しめないのが残念です。それに、これは韓国での放送用テープの録音によるのかも知れませんが、日本語吹き替え版は、台詞のバックに聞こえるいろんな音がペタッとした感じになっていて、いかにも録音室にこもって吹き替えましたというように聞こえてしまいます。教育テレビのハングル講座では、韓国語そのままで番組のシーンの一部を紹介していますが、それを聞くと、韓国語が、日本語と違って母音の種類が多く、抑揚もあって、やわらかで、特に女性が話す韓国語はとても魅力的に聞こえます。
人間は、なぜ生きることができるのか。人間は、なぜ行動することができるのか。人間は、なぜ判断できるのか――。こういうことを、思弁的にではなく、科学に基礎づけられたものとして考えてみたい、とずっと思ってきた。
これは、一言でいえば、実践的規範意識としてのイデオロギー論ということになるだろう。価値とか実践的規範意識というものを人がどのようにして自分の内側に取り込むのか、というように問題をたてれば、道徳論や倫理学であったり、社会学でいうところの文化とパーソナリティの問題であったりするだろうし、精神分析でいえば、イドとかエスとか超自我、無意識・・・・というようなものの問題になるのだろう。教育学や心理学では、発達心理学などになるのかも知れない。
問題は、それをどうやって科学の基礎の上にすえるか。教育学的、あるいは社会学的な議論のまえに、そもそも人間の人格、パーソナリティというものは、いったいどうやって形成されるのか。そういう一般理論を明らかにする必要がある。人間は、社会関係というものを、どのようにして認識することができるのか。もっと根源的にさかのぼれば、たとえば他人の存在、他人の気持ち、こういうものを人間が理解することができるのは。いったいどういう仕組みによるのか? そういう基礎的なところで、科学的に共通認識となりうる一般的理論をつくりあげなければならないだろう。そういう点で、いくつか勉強したいと思っているものがある。
1つは、チョムスキーの普遍文法論。人間が生得的に持つ言語能力、言語を言語として認識し、文法法則をそこから抽出し、自らそれを使いこなす能力。こういう人間の生得的な能力についての、言語学の分野での、さしあたり唯一科学的なアプローチだと思う。広くいえば、認知科学として、この間急速に発達してきた分野の成果は、もっときちんと学ばれるべき内容を持っていると思う。
似たような問題として、ギブソンの生態学的心理学がある。視角・視野というものが、人間の認知にどのような作用を及ぼすか、逆に言うと、人間の認知というものが、生物学的な機能によってどのように条件付けられているか。それを具体的に明らかにしていく必要がある。
3つめに、教育学・発達心理学の分野での科学的な成果、達成というものをきちんと生かす必要がある。具体的には、たぶんピアジェの発達心理学であり、ヴィゴツキーの文化理論ではないかと思っているのだが、はたしてそれでよいのかどうか。それも含めて、この分野は研究する必要がある。
現象学などが強調する人間の認識・認知の構造についての議論も、上述したような人間の認知・認識、人格形成の一般理論の基礎のうえに検討しないと、学問的には退廃となってしまうだろう。同じことは、存在と意識をめぐる唯物論の議論についてもいえる。僕自身、唯物論哲学の正しさに確信を持ち、自分の諸見解を唯物論の基礎のうえに組み立てるつもりではあるが、新しい“発見”に惑わされて唯物論の基本を曖昧にする傾向と、それにたいして原理的な反論で終わっている批判との繰り返しでは、唯物論哲学の発展は望めない。そのあたりを、もっと具体的に、最新の自然諸科学の成果を取り上げ、唯物論的認識論の発展に自覚的にとりくむべき時代が来ていると思う。
置塩信雄先生の著書を読んでいて、マルクス経済学が科学として成立するためには、やはり2つの理論的課題をクリアする必要があると思えてきた。
1つは利潤率の傾向的低落法則であり、もう1つは広い意味での転型問題、価値と価格の関係についてである。
前者の利潤率の傾向的低落法則については、やはり現実的な意味で検証されない以上、マルクスが想定したような形では成立しないと結論せざるをえない。そうすると、資本主義的生産様式の歴史的過渡的性格を利潤率の低下によって根拠づけることはできない。資本主義の歴史的な有限性は、利潤率の低下以外のものによって説明されなければならない。置塩先生は、そこから、技術の社会に与える影響の範囲の拡大(局所的な技術から地球的な規模で影響を及ぼす技術へ、あるいは技術の結果を私的利害によって計れなくなること――置塩先生は、その例として、有害な伝染性疾病の除去の例を上げられている。つまり、たとえばサーズの防疫によって受け取る便益を、個々の私的利益として負担することは不可能)、地球環境の破壊などに、資本主義の体制的矛盾の現われを見、それがどのような意味で資本主義の体制的な矛盾なのかを明らかにしようとされた。
では、後者の価値と価格の問題はどうか。これについては、昔から転型問題でマルクスの議論は論理的に成り立たないとする批判がマルクスにたいして持ち出されている。それにたいして、置塩先生は、数学的に、価格次元で表現された方程式から価値次元で表現された関係が論証されなければならないと主張された。僕はその数学的な証明を理解することができないが、置塩先生が言わんとしたことは数量的な側面での証明の問題というより(つまり例えば現実に1000円の商品にどれだけの抽象的人間労働が対象化されているかといった問題ではなくて)、むしろ現実の価格関係から価値関係を導き出すことが論理的に可能かどうかということではなかったか。数学的に論証できるかどうかというのは、そういう問題だと思う。
この置塩先生の提起について、マルクスの議論は正しいとする立場からも、いろいろな批判がある。たとえば見田石介氏は、『資本論』第1部と第3部は論理的に矛盾しているとする批判にたいして、そもそもわれわれが複雑な諸関係の総体からなる資本主義の現実の動きをわれわれが認識する場合、認識の発展、論理の展開の順序として、マルクスが『資本論』で解明したように、まず価値どおりの生産を想定し、そのうえで平均利潤率の成立を論じ、それによって価値から生産価格への転化を論じるのが科学的に正しい方法であり、そこには論理矛盾は存在せず、それが矛盾しているように思えるのは、そうした認識の発展と論理の展開の弁証法的な筋道を理解しないことによると批判された。しかし、はたしてそれだけで十分だろうか? やはり、科学として検証されるためには、現実にわれわれの目の前に広がっている諸商品の価格関係から、その背後にある社会的実体としての価値の関係を証明する必要があるのではないだろうか。
要するに、マルクスの理論を正しいと主張するためには、やはり価値論のところから、現実にわれわれの目の前で起こっている資本主義の諸現象を、一貫した立場で説明し抜くことが必要だということ。それは、たんにマルクスが目の当たりにしていたような資本主義だけでなく、今日の国家独占資本主義の高度に発達した経済諸現象を、価値論から根拠づけることができるかどうかという問題だ。そこを曖昧にしたまま、あれこれの部分でマルクスの理論によって説明できると主張してみても、それでは本当に科学的に資本主義を説明したことにはならないと思う。そのことを逆に言えば、たとえば有名な「置塩の定理」が証明されるのかどうかという問題も、『資本論』の枠の中の議論ではなく、今日の高度に発達した資本主義をどう理解するのかということをめぐる議論として、きちんと論争される必要があるということではないかと思う。なお、そこには置塩先生が論じなかった問題も存在すると思う。それは、今日の「価格」をどう理解するかという問題である。マルクスが論じたときのように、金商品であることを前提にした通貨による価値の表現という段階の価格と、今日の価格というものが同じ水準で論じられないことは明らかで、それを考えに組み込んで、もう一度置塩先生の提起を考えてみる必要があるのではないだろうか。
閑話休題。いま『現代大学生論』(溝上慎一著、NHKブックス)を読んでいます。第1章、第2章は、1960年代、70〜80年代をふり返った大学生論です。著者は1970年生まれなので、自己了解作業として必要だったのでしょう。多少内容に疑問を持つ部分もありますが、第3章から、90年代以降の大学生が取り上げられ、俄然面白くなってきました。
大学生の間におけるアイデンティティの形成というときに、かつては、自分の将来の職業、生き方、働き方をどう選択するかという問題はあっても、選択のモデルとなる将来の職業像、生き方像のようなものが存在していたのにたいして、90年代以降は、そういう将来像そのものが揺らいできている。だから、大学生は、自分の将来像そのものを自分でつくりあげるとともに、その将来像に向かって自分を自己形成していくという二重の課題を課せられるようになったと指摘されています。そこに「自分探し」「私探し」と呼ばれる現象が生まれた原因がある訳です。しかし、だからといって、かつての受験競争、「二流大学より一流大学」という流れがなくなったかと言えば、それも根強く残っていて、二重、三重に大学生の自己確立は難しくなっているということのようです。
その他にも興味深いことがいろいろ登場します。たとえば大学生のアンケート調査で、7割ほどが自分のめざす将来像が分からない、あるいは分かっているがそのために具体的にどうしたらよいか分からないと答えていること。また、80年代の消費生活に浸りきった中からは、「自分らしい」仕事というと、「ファッションデザイナーになりたい」とか「アニメーターになりたい」というように、「遊び」の延長線上にしか自分のやりたいことを想像することができない青年を生んでおり、職業選択というときに「肉体労働はやりたくない」「きつい仕事はむいてない」とか「一日ずっと事務仕事をしているなんて耐えられない」など、否定的な形でしか自分のやりたいことがでてこないこと。この2つは、もちろん重なっていて、その結果、ばく然とした将来の「夢」のようなものは持っていても、そのために具体的にどうするかということがまったく具体的なものになっておらず、しかもそれを本人は「自分に本当にあった仕事を探している」と考えて、漫然と大学生活を過ごしてしまう部分が存在するとも指摘されています。成年期の人格形成の問題として、また、科学的な社会認識の形成にかかわる問題として、この辺りはさらに考えてみる必要があるのではないでしょうか(これが、僕の考えていることの2つめ。それについてはまた後日)。
『女性たちの平成不況』(樋口美雄・太田清編、日本経済新聞社刊)を読み終えました。内容の紹介は、「僕の読んだ本」のページに書いたのでぜひそちらを見て欲しいのですが、ともかく1500人の女性を10年間にわたって追跡調査して、90年代以降のデフレ不況が女性たちの生活や生き方、働き方にどんな影響を与えたかを分析しており、研究してみる価値は大いにあると思いました。たくさんの人が読めば、それだけさまざまな結論を引き出すことができると思います。女性問題だけでなく、青年論としても、また暮らしと経済の問題としても多面的に掘り下げることが可能です。多くの方にお薦めしたいと思います。
連休の真っ最中でありながら、ちょっと小仕事をやりにお出かけ。(^^;)
帰りに、映画「イン・ザ・カット」を見てきました。製作総指揮ニコール・キッドマンで、もともとは自分で主演もやるつもりだったものを、メグ・ライアン主演でつくったという話です。また、40歳になったメグ・ライアンが「ラブコメの女王」のイメージを投げ捨てて、体当たりで勝負したということでも話題になりました。しかし、見終わった結論からいうと、やっぱりメグ・ライアンはなかったんじゃない? という感じですね。それに、ひょっとしたら殺人犯じゃないか?と思う男に、しかし惹かれてしまうインテリ女性というミステリーの肝心の部分が、あんまり盛り上がらないのはどうしてでしょう? 種明かしのところも、なんか盛り上がりもないままに終わっちゃうし。結局、やっぱりメグ・ライアンには無理でしたということなか、それとも製作総指揮のニコール・キッドマンが悪いのか・・・。メグ・ライアン演じる主人公が、なんであんなに“言葉”にこだわったのかもわからんし、主題歌がなぜ「ケセラ・セラ」なのか? かなり激しく疲れた映画でした。(^^;)
昨日、イラクで拘束された2人の記者会見について、今朝の読売新聞は「『自己責任』は悪者か?」という論評を載せています。いわく、「『自己責任論』がすっかり悪者になってしまった」という社会部長の署名入りコラムです。しかし、「自己責任論」をふりかざして、彼ら3人を悪者にしようとしたのは、読売新聞の側でなかったでしょうか。しかし、そういう圧力を、昨日の2人の記者会見はきっぱりとはねつけるだけの中身をもっていました。「自己責任」を言いつのる側が、実は、安全な日本の中で何も実践せず、他人の行いをあれこれあげつらっているだけだということが白日の下に明らかになってしまったのです。その“負け犬の遠吠え”とでもいうべきなのが、この社会部長のコメントです。その悔しさが、2人の記者会見の報道記事と同じが、それ以上の紙面をとってこんな論評を載せたところに現われています。
今夜は、レイトショーで「幸せのためのイタリア語講座」を見てきました。デンマーク映画です。デンマークの田舎町で、あんまり順調にいっていない生活を送っている何人かの、普通の人の生活を丁寧に追っかけた作品です。印象的だったのは、社会保障の行き届いたデンマーク社会で、離婚したり、アルコール中毒になったり、あるいは孤児として育ったり、というマイナスの面がいろいろ登場すること、そして、それにもかかわらず、人びとが“不幸”のどん底に突き落とされる訳ではないこと。このあたりに、個人の自立と尊厳を尊重し、社会的な“支え”をすすめてきたデンマーク社会の特質が見えたように思いました。