アラ還のオッサンがマルクスの勉強やらコンサートの感想やらを書き込んでいます

靖国神社・遊就館見学

2005年8月27日 at 13:24:53

先月、靖国神社と遊就館を見学してきた。遊就館が新しくなってからは初めて。

まず、「満州事変」について。満州事変のきっかけとなった柳条湖事件は、関東軍が満鉄の線路を爆破(実際には、爆裂音をさせただけで、線路そのものは破壊されなかったと言われている)、それを中国側の攻撃だとして出撃し、朝鮮軍(朝鮮半島に駐留していた日本軍)ともども満州全域の占領にむかった事件だった。しかし、遊就館の解説には、そんなことはまったく書かれていない。まるで、偶発的に起こった衝突事件であるかのような書き方をしている。

 日露戦争の勝利とその後の韓国併合は、長年の安全保障の懸案を解決したが、国民の安堵と歓喜は新情勢への対応を遅らせた。第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟の誼(よし)みでドイツ領の青島と南洋諸島を攻略し、さらに地中海への特務艦隊の派遣やシベリヤ出兵をおこなって協力した。一方、米国はワシントン会議によって、戦後アジアの新体制に介入し、日本の封じ込めを図った。中国もまた辛亥革命による民族意識と排外感情を日本に向けた。満洲における排日運動と関東軍の軋轢が、満洲事変となり、満洲国の建設となった。

地図につけられた説明でも、関東軍自身がでっちあげた鉄道爆破事件だという説明は出てこない。

 昭和6年9月18日、奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに、関東軍は満州全域の軍事占領を図った事変で、昭和8年5月31日の塘沽停戦協定によって事実上終結した。日本は、日露の戦勝で満州に権益を有していたが、「倒満興漢」を旗印に新国家中華民国を建国した熱気は、既存の条約を無視した過激な国権回復運動となって満州に波及した。この反日行動を武力で制圧した関東軍の行動は、国民に支持されたが、列国はこれに強く反発し、日本は国際連盟から脱退して、国際的孤立を深めるに至った。

日中戦争(展示では「支那事変」)についての説明は以下の通り。盧溝橋事件以降の経過の責任が、ひとえに「中国正規軍による日本軍への不法攻撃」に帰せられているが、日本政府は、現地での停戦合意を無視して、大軍派遣を決定した。さらに、北京周辺の事件から世界の目をそらせるために、上海に戦線を拡大したのは、日本である(陸軍に対する海軍の対抗意識もあった)。しかし、この説明では、そうしたことはすべて無視され、日中戦争が拡大していったのは、「日中和平を拒否する中国側の意志」「広大な国土全体を戦場として、日本軍を疲弊させる道を選んだ蒋介石」の責任とされている。まっとうな人間なら、外国軍が自分の国内に攻め込んできておきながら「和平を拒否するのはけしからん」と言われて、納得するだろうか? かりに蒋介石が「広大な国土全体を戦場として、日本軍を疲弊させる道」をとったのがけしからんとしても、その戦略にまんまとはまりこんで、何の展望もなく日中戦争につっこんでいった日本軍部には何の落ち度もないというのであろうか?

日中関係は、10年〔昭和――1935年〕8月の中国共産党の八・一宣言以来テロが続発し再び悪化した。翌11年12月の西安事件で、反共の蒋介石が共産党との提携に踏み切ると反日行動は一層激しくなった。盧溝橋の小さな事件が、中国正規軍による日本軍への不法攻撃、そして日本軍の反撃で、北支那全域を戦場とする北支事変となった。背景には、日中和平を拒否する中国側の意志があった。戦場を上海・南京へと拡大し、広大な国土全体を戦場として、日本軍を疲弊させる道を選んだ蒋介石は、大東亜戦争終戦までの8年間を戦い、戦勝国側の一員となった。

さらに、南京事件については、こう書かれていた。海外のメディアが厳しく批判したところである。

 南京事件

 昭和12年12月、南京を包囲した松井司令官は、隷下部隊に外国検疫や難民区を朱書した要図を配布して「厳正な軍規、不法行為の絶無」を示達した。敗れた中国軍将兵は退路の下関に殺到して殲滅された。市内では私服に着替えて便衣隊となった敗残兵の摘発が行われたが、南京城内では、一般市民の生活に平和がよみがえった。

日米交渉についても、「和平を摸索する日本」という見出し付きで、次のように書いている。

 泥沼化する支那事変を解決する方法は、米国の手中ににぎられていた。その米国は日本を敵視して蒋介石を支援し、実質的には参戦していた。この米国との関係改善の方策として、近衛内閣は三国同盟を決定し、米国を威圧して戦争を回避する政策を決定した。

しかし、これでは、アメリカが中国を支援しなければ、さっさと日本は中国をやっつけることができたのに、アメリカが蒋介石を支援したから「支那事変」は泥沼化した、というに等しい。身勝手としか言いようがない。日独伊三国同盟で戦争を回避しようとしたというのも、言い古されたごまかし。日本の支配瀬力が、三国同盟で脅かして対米開戦が回避できたらいいと思ったのは事実だが、それは平和のための努力ではなく、アメリカに手を引かせることができたら中国や東南アジアを自由に支配できるのに、ということにすぎない。

そして、アメリカの参戦については、このように書かれている。

大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトは、三選されても復興しないアメリカ経済に苦慮していた。早くから大戦の勃発を予期していたルーズベルトは、昭和14年には、米英連合の対独参戦を決断していたが、米国民の反戦意志に行き詰まっていた。米国の戦争準備「勝利の計画」と英国・中国への軍事援助を、粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した。

これが、アメリカなどの批判をまねいた記述。

さらに、次は「ハル・ノート」のくだり。これも、使い古された言い訳にすぎない。もともと、中国やインドシナは、日本が侵略していったところ。それに固執したために、日米開戦につっこんでいった訳で、それをアメリカのせいにしてみせても通用する話ではない。

 ハル国務長官は、野村、来栖両大使を呼び、11月20日提案の乙案を拒否し、新提案と称する覚え書「ハル・ノート」を手交した。従来の四原則を敷衍し、支那及び印度支那からの全面撤退や三国同盟の無効化など、交渉決裂を迫るに等しい内容であった。

そして、最後に戦後のアジア諸国独立のくだり。「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などをへて民族国家が次々と誕生した」と書いて、まるで日本のもとで、アジア諸国が初めてヨーロッパにたいして独立に立ち上がったかのように描いているが、インドだって、ベトナムなどインドシナだって、日本が占領する前から独立運動がたたかわれていた。インドシナでは、フランス植民地当局にとってかわった日本に対して、独立戦争をたたかったのであって、日本占領下でフランスに対してたたかったのではない。したがって、その後、ベトナムが独立をかちとったのは、日本のおかげでないことは言うまでもない。

終戦と同時に、かつての宗主国が自らの領土と信じる植民地に復帰した。しかし、独立の意欲に目覚めた人々は、かつての従順な下僕ではなかった。マレーや仏印、蘭印で、激烈な独立戦争が勃発した。第1次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等、民族自決」の理想は、開戦劈頭に日本に敗れて権威を失った宗主国が、武力で抑止できる状況ではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがてアフリカなどに波及した。

 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が日本を訪れた。しかし、激動の第一次世界大戦が終わっても、民族独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍の輝かしい勝利の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

アジア民族の独立が現実になったのは、「大東亜戦争緒戦の日本軍の輝かしい勝利の後」ではなく、日本軍国主義の敗北のあとです。いうまでもないことで、日本は、フィリピンなどは形の上だけで独立をみとめましたが、マレーや蘭印などは、まったく独立を認めませんでした。「人種平等、民族自決」も、欧米に対しては主張しても、アジアに対しては認めようとしなかったというのが、戦前の日本です。

ということで、遊就館の展示のメモを起こしてみました。メモなので、一部不正確なところがあるかも知れませんが、それはお許しください。

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