ますます混乱するだけ

文化審議会国語分科会が、敬語を5分類にする案をまとめる。

「尊敬・謙譲・丁寧」の3分類は、自分と相手との関係において、<1>相手を持ち上げる、<2>自分を低める、<3>相手・自分にかかわりなく表現を丁寧にする、という分け方をしていて、分類の基準が明確。ところが、5分類案は基準がばらばらです。謙譲語をIとII(丁重語)に分けるというのですが、ここでの基準は、動作が相手に向かうものかどうかになっています。「丁重語」という新しい言葉は、「丁寧語」と違いが分かりにくいので、かえって混乱するのでは?

敬語5分類に 文化審議会小委が指針案(東京新聞)

敬語5分類に 文化審議会小委が指針案
[東京新聞 2006/10/03]

 文化審議会国語分科会の敬語小委員会は二日、一般的に「尊敬・謙譲・丁寧」と三分類されている敬語の分類法を五分類にする指針案をまとめた。三分類では丁寧語とされた「お料理」など上品さを表すための言葉は「美化語」として分類し区別。謙譲語は性質により二種類に分割する。
 美化語は、「です、ます」などとともに丁寧語の一種とされるが、既に独立した種類として扱い「四分類」としている学校教科書もある。新たな指針は敬語の性質を厳密に分類することで、使い方の混乱を防ぐのが狙い。しかし、複雑な分類でさらに混乱を招く恐れもあり、教育内容などに定着するかどうかは不透明だ。
 指針案では、聞き手に上品な印象を与えるために使われる「お酒」「お化粧」などの言葉を美化語として丁寧語と区別。
 謙譲語については、(1)「伺う」「申し上げる」など動作の対象となる相手への敬意を表す「謙譲語1」(2)「申す」のように自分の動作などを丁重に表現する「謙譲語2(丁重語)」?に分けている。
 指針案は、五分類した敬語の性質、使い方について具体的な場面を例示し解説。一方で、画一的な「マニュアル敬語」や、「ご苦労さま」など本来の使い方とは逆に、目下から目上の人に使われるケースの多い「ねぎらい言葉」についても注意を促している。

敬語の使い方が乱れている、とよく言われますが、だからといって、敬語の分類を増やしてみたところで分かりやすくなる訳でもなく、乱れが減るとは思えません。僕は、むしろ、社会的な趨勢としては過剰な敬語表現を簡素にしようという傾向にあるのに、マニュアル用語などでは過剰な敬語表現が横行している、そのギャップが混乱を生んでいるのだと思います。

むしろ、文化審議会国語分科会敬語小委員会の方におかれましては、過剰な敬語表現につきまして、改善の方を御検討いただかれた方がよろしいのではないかと思われます。(^_^;)

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カテゴリー: 文化

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

3件のコメント

  1.  通りすがりに失礼します。私は大学で留学生に日本語を教えるかたわら、日本語教師志望者のための日本語学講座を担当しています。
     実は、日本語教育の分野では以前から「尊敬・謙譲(謙譲?)・丁重(謙譲?)」の分類が用いられておりまして、日本語教師向けの参考書でも大抵そのように書かれています。
     これには、動作の対象があるか/ないかで謙譲語を厳密に分類できるという利点があります(素材敬語/対者敬語ともいいます)。
     例えば「私は○○と申します」には「申す」動作を直接受ける相手が存在しませんが、「皆様にお礼を申します/申し上げます」の「申す/申し上げる」には「皆様」という明らかな受け手が存在します。従って、両者を謙譲語としてまとめてしまうのは正確でないということから、日本語教育の現場では前者を「丁重語」、後者を本来の「謙譲語」の例として説明するのです。
     「申す」はどちらにも使えますが、「申し上げる」は「謙譲語」でしか使えません(「私は○○と申し上げます」は誤用)。逆に「今、東京におります」の「おる」のように、「丁重語」でしか使えない動詞もあります。
    (この点『東京新聞』の「自分の動作などを丁重に表現」という解説はいささか不適切です。「丁重」だから「丁重語」だ、では説明になっていません。記者自身がきちんと理解できていないような気がします)。
     また、日本語教育では「丁寧語」と「美化語」をまとめて「丁寧語」として説明したりもします(本質的な違いがないからです)。そう考えると、計四分類で増えも減りもしていないことになります。
     もちろんこれはあくまでも専門的な立場での分類なので、いきなり一般向けに出したところで、戸惑いや反発が出るのは仕方がないと思います。また、こうした指針を一方的に押し付けるようなこともあってはならないと思います。ただ、今回の指針案に対し否定的な報道やブログコメントが圧倒的に多いことについては、日本語教育にたずさわる者として、やはり少々違和感を覚えます。
     それから、「マニュアル語」や「過剰敬語」の問題は、むしろ「社会言語学」と呼ばれる学問のテーマだと思います。特に前者の場合は、そういう言葉遣いを要求されるのがもっぱらパート・バイトなどの非正規雇用労働者である(ホワイトカラーの管理職層などではまず問題にされない)点にも、注目すべきではないでしょうか。
    (ついでに書きますと、言語学者は「敬語が乱れている」と断定する前に「敬語の体系が変化している」という可能性をまず考えます)
     長々と書き連ねてしまいましたが(いろいろなことを勉強されている方とお見受けしましたので)何かのご参考になれば幸いです。

  2. GAKUさん、わたしも通りすがりです。
    わたしは朝日新聞で記事を見たのですが、やはり丁重語の説明が同じで定義がさっぱりわかりませんでした。ユシマダイオードさんの説明なら一発でわかるので、なるほどと思いました。記事を読んでから、ずっと気になっていたので、検索をかけたら、ここにたどりつき、やっと胸落ちしました。ありがとうございます。
    ところで、「自分の動作を丁重に表現」てただしい日本語ですか?こういう「丁重」の使い方はきいたことがありません。

  3. ユシマダイオードさん、似非英国紳士さん、こんばんは。
    通りすがりのコメント大歓迎ですので、これからもよろしくお願いします。m(_’_)m

    似非英国紳士さんが指摘されるように、「自分の動作を丁重に表現」というのは、日本語としておかしいですね。辞書を引くと、「丁重」はこんなふうに説明されています(広辞苑)。

    1,礼儀正しく、てあついこと。ねんごろ。「―なもてなし」「―に断る」
    2,ていねいなこと。大事に扱うこと。「―に棚にもどす」

    1は、明らかに相手があって初めて成り立つものです。2だと、「丁寧」と同じ意味になって、「丁寧語」と「丁重語」との区別が成り立たないことになります。だから、分類の考え方はともかく、「丁重語」という命名は要検討、ということではないでしょうか。

    ところで、敬語の基準の問題ですが、僕が基準がバラバラというのは、相手を持ち上げるか、自分を下げるか、という基準の他に、「動作の対象があるかないか」という別の基準をもちこんでいて、基準が二元化しているということを言っているのです。
    「先生が、本を、山田さんにお渡しになった」という文章の場合、「お渡しになった」という動詞は、「山田さん」という「動作の対象」を持っています。しかし、尊敬表現の場合は、動作の対象を持っているかいないかでは分類しない。しかし、謙譲表現の場合は、動作の対象を持っているかいないかで区別する。これが、基準の二元化だというのです。
    分かりやすいかどうかの問題ではありませんので、念のため。

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