ヘーゲル『自然哲学』を読む

エンゲルスの『自然弁証法』を読み直している関係で、ヘーゲルの『自然哲学』(長谷川宏訳)を読んでいます。
以下ノート。

ヘーゲルは観念論だが、自然哲学は、客観的な自然と人間との関係を取り扱っており、きわめて唯物論的。

序論

「粗野な経験論とわけのわからぬ思考形式」、「思いつくがままの想像と表面的な類似によりかかるお粗末な方式」をごちゃ混ぜにした「自然哲学」。シェリング批判。(10ページ)

自然哲学の真の概念をうちたてる。自然哲学と自然科学との境界線。「自然哲学はそれ自体が物理学だが、合理性を持った物理学である」(11ページ)。「両者は人が思っているほど離れてはいない」(同前)。物理学は経験科学であり、「思考による自然認識をめざす自然哲学とは対立する」ようにみえるが、「実際はそうではない」。物理学においても思考は働いている。思考をよろしくないとする物理学は、物理学としてよろしくない(12ページ)。「思考によって自然を認識するという点では、どちらも同じ」(同前)

序論の課題(12ページ)

  1. 物理学と自然哲学における思考の働きの違い
  2. 自然とはなにか
  3. 自然哲学の章立て

自然の考察法(13ページ?)

「自然は謎に包まれた問題としてわたしたちの前にある」(13ページ)。「わたしたちのはじまりは知覚にあって、知覚によって自然のさまざまな形態や法則についての知識が集められる」(同前)。いきなり跳躍して哲学的理念のもとへいったからといって、自然とはなにかという「事柄が明瞭になるわけではない」(14ページ)。←自然は認識の前提として与えられおり、知覚によって、そこから人間は自然についてのあれこれの知識を導き出す、ということ。唯物論的な自然観!

自然認識の実践的な面と理論的な面。「理論的に自然の考察を進めると、矛盾が生じてきて」、その矛盾を解決するために、「理論的なものに実践的な特質を付加しなければならなくなる」(同前)。自然認識における「理論的なものと実践的なものの統一」(同前)。

第245節(15ページ?)

「人間が実践的に自然とかかわるとき、自然は直接目の前にある外的なものであり、人間もまた直接そこにある外的な個人――つまり、肉体を持つ個人――である」(15ページ)。←完全な唯物論

その個人は、「自然の対象にたいして目的を設定する権利をもつ」。有限な目的論。自然そのもののうちには絶対の最終目標(理念のこと)がないという正しい前提。同時に、自然哲学の考察が有限な目的から出発するというのは、自然にとって偶然的なものが出発するということになる。(同前)

【補遺】

 自然との実践的なかかわりにおいて、人間は、利己的な欲望に大きく支配される。必要にかられて自然を自分たちの役に立つよう利用し、自然を使い古し、すり減らし、自然を滅ぼそうとする。
 人間は、自然を利用して自然に立ち向かう。自然の力にたいして、別の自然物を差し向けて、その中で自分を保持し維持するのが、人間独自の理性の策略というもの。
 しかし、このやり方では、自然全体を支配することも、自然を自分の目的に合うように調整することもできない。(16ページ)

 目的論。かつての目的論は、外的な合目的性にしか目が行かず、自然の目的を抜け出せない有限の精神しか問題にしていなかった。
 しかし、目的の概念はいつも自然の外にあるとは限らない。「自然物に内在する目的概念」(17ページ)。たとえば植物の胚芽。胚芽は、樹木のもとに生じるいっさいの実在の可能性を含む。萌芽にとって、目的にかなった活動=自己保存をめざす活動。物の本性(アリストテレス)、真の目的論=最高の目的論=自然を、自由にして独自の生命活動をするもの、ととらえる(同前)。

第246節

物理学は、かつては自然哲学と呼ばれていたが、それは、自然を理論的に、思考によって、考察する。自然の一般原理を、それも具体性と方向性を持つ一般原理を――力、法則、類などを――認識しようとするもの。(17ページ) ←きわめて唯物論的!

【注解】

哲学は経験的な物理学を前提条件として成立し、形成される。(17ページ)
しかし、哲学そのものは、経験的な物理学を基礎にするのではなく、概念の必然性が基礎になる。(18ページ)

【補遺】

理論的な態度をとったときの、物とわたしたちとの関係。
第1の関係―自然を感覚的に知る。
第2の関係―物が一般的な姿をとって現われる、という関係。わたしたちが物を一般化してとらえるという関係。物の自然で個別的な直接の姿は影が薄くなる。「思考が力を得てくるにつれて、無限に多様な自然の豊かさは消えていき、自然の若さは滅びへとむかい、色の戯れはあせていきます。自然にある生命のざわめきは、静かな思考のなかで沈黙へと向かう。色とりどりの魅力的な脅威をくりひろげた、暖かく充実した自然が、北方のあいまいな霧のように無味乾燥な形式と平板な一般法則へとまとめ上げられます。」(18?19ページ)←レーニン:理論は灰色、現実は緑なす大地

理論的態度自身のうちに矛盾が見てとれる。認識したいのは自然の現実であるにもかかわらず、実際にやっていることは、自然をありのままにとらえ、知覚するのではなく、そこから自然の現実とはまったく違う別のなにかを引き出している。物を思考するというのは、物を一般化することだが、個別の物は存在するが、ライオン一般は存在しない。

主観と客観の対立。此岸と彼岸。わたしたちの主観は、いかにして客観へと到達するのか。あいだにある溝を跳び越えて、彼岸へと向かう。それが自然を思考するということ。思考するとき、わたしたちとはべつものだった自然が、自然とはべつものになる。わたしたちは物を一般化して、わたしたちに近しいものにする。しかし、物は自然物として自由で自立した存在である。

◎ヘーゲルの宗教批判(20ページ?)

主観と客観の矛盾を解決する2つの方法。<1>学問、<2>宗教。(20ページ)
宗教――
 主客の統一が「原初の純粋無垢の状態」と名づけられる。ここから意識が分離してくる。直感的理性=神の理性。神のもとでは、精神と自然が一体化。
 右の考え方の欠点。知性と直観の統一、精神の内実と外的関係との統一は、はじまりではなく目標であり、直接あるものではなく、うみだされるもの。思考と直観との自然のままの統一は、子どもの統一、動物の統一。感情の次元にとどまる。
 思考の苦労と活動をくぐりぬけ、おのれと自然との分裂を克服したところで、はじめて本来の人間になる。(21ページ)
 直接的な統一は、抽象的な素朴な真理にすぎず、現実性のある真理ではない。内容だけでなく、形式も真理にふさわしいものにならなければならない。

 自然物は認識できないという「目下広く行きわたった形而上学」について(21ページ)。欲求は、物と実在的に対峙する点に欠陥があるのではなく、観念的にしか対峙しないところに欠陥がある。真の哲学は、物そのものが感覚的な個物として目の前にあり、したがって仮のもの、移ろいゆくものにすぎない、それが物の真理だと考えるところになりたつ。物は、わたしたちを寄せつけぬ確固不動の存在だから、その認識は不可能だという形而上学についていえば、動物だってこんな形而上学者ほどばかではない。動物は、物にむかって行き、物に手を伸ばし、物を捕まえ、物を食い尽くすから。←ヘーゲルの不可知論批判まず食ってみること

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