沖縄で、「集団自決」軍命令削除に抗議集会

沖縄では、誰もが知っている問題。文書が残っていないから、軍の命令はなかった、などと言っても、誰も納得しません。

教科書検定意見の撤回を求め「頑張ろう」を三唱する参加者=9日午後、那覇市の県民広場(琉球新報)

「集団自決」軍命削除に抗議 3500人、撤回要求(琉球新報)
集団自決「軍関与」削除意見 修正撤回を 元学徒隊ら署名求め訴え(琉球新報)
歴史 消させない/真実 次の世代へ(沖縄タイムス)

「集団自決」軍命削除に抗議 3500人、撤回要求
[琉球新報 6/10 9:52]

 文部科学省の高校教科書検定で沖縄戦の「集団自決」記述から日本軍の関与が修正・削除されたことに抗議する「6・9沖縄戦の歴史歪曲(わいきょく)を許さない!県民大会」(同実行委員会主催)が9日午後、県庁前の県民広場で開催された。平和団体や労組、住民など3500人(主催者発表)が参加。「集団自決」を体験した高齢者も姿を見せ大会を見守る中「子どもたちに沖縄戦の実相を伝えよう」と文科相や首相、県知事、県議会議長あてに検定意見の撤回を求めた決議と3項目からなるスローガンを採択した。15日に同実行委代表が文科省などに要請行動を行う。
 大会では、実行委共同代表の高嶋伸欣琉球大教授が情勢を報告し「今回の検定は明らかに歴史の事実を歪曲した改悪。十分、記述の正誤訂正を要求する根拠はある」と説明。「(19)82年に『住民虐殺』の記述が削除された時も県民の怒りの声で政府が検定意見を撤回した前例がある。勇気を持って今回も撤回へ取り組んでいきたい」と呼び掛けた。
 会場には若い世代の姿も見られた。沖縄戦体験者と対話を重ね、戦争を語り継ぐ活動をしている「虹の会」の赤嶺玲子さん(24)、北上田源さん(25)、榎本真弓さん(20)は「文科省の担当者は一体どれくらいの体験者の話を聞き、資料を参考にしたのか。苦しい戦争体験を語ってくれた人の思いを裏切ることになる」と今回の検定に抗議。「沖縄戦の真実を知りたいという気持ちは多くの若い世代の意志。真実を知る権利を奪わないでください」と訴えた。
 社民党県連、社大党、共産党県委、民主党県連の各代表や労働団体、民主団体の代表もあいさつ。最後は全員で「頑張ろう」を三唱し、国際通りをデモ行進した。実行委事務局の高教組によると、検定意見撤回を求める署名は高校生も含めこの日で1200件超集まった。

集団自決「軍関与」削除意見 修正撤回を 元学徒隊ら署名求め訴え
[琉球新報 6/7 16:05]

 文部科学省の高校歴史教科書検定で「集団自決」から軍関与の記述が修正・削除された問題で、県内の平和団体や戦争体験者らが修正指示撤回を求める要請書の署名活動を行い、全国各地まで広がっている。署名をまとめる高教組によると、短期間で県内の個人や団体から全国各地に広がり、6日までに集まった署名は約2万5000件に達した。まだ署名件数を集約していない団体もあり、近いうちに5万件は集まる見通しだ。
 署名活動は、9日午後2時から県民広場で開催予定の「沖縄戦の歴史歪曲(わいきょく)を許さない!沖縄県民大会」(雨天の場合は、宜野湾市民会館)の実行委員会が実施。要請書には「沖縄戦の実相を歪(ゆが)めるもので戦争の本質を覆い隠すもの」と記されている。
 沖縄戦で看護要員として従軍した県内の高等女学校、9学徒隊で構成される「青春を語る会」(中山きく代表)も署名活動に参加。活動から約1カ月の5月中旬までに集まった署名は約500人分に上った。同会のメンバーは「わずかな署名運動だけには終わらせたくない。撤回させたい」と声を振り絞った。
 白梅同窓会の会長も務める中山代表(78)は「兵隊から手りゅう弾を配られた。(死を選べと)暗黙の命令。配った人が誰であれ、軍の物を(民間人が)勝手には動かせない」と軍の関与を指摘。 戦争体験を学び、次世代へ伝えていこうと若者たちで構成され、署名活動や学生への呼び掛けを実施する「虹の会」の北上田源さん(25)=中城村=は「事実を知り、伝えていこうとする僕たちの活動を力でねじ伏せられたと実感している。そんなに簡単に変えられてしまったことにがっかりする」と話した。
 沖教組の山本隆司副委員長は「県内の団体だけではなく、短期間で県外、個人にも広がった。沖縄からだけの要望ではなく、日本の歴史観としてしっかり元に戻してほしい」と話した。
 署名は、15日に文部科学省に提出される。(大田紗弓)

歴史 消させない/真実 次の世代へ
[沖縄タイムス 2007年6月10日(日) 朝刊 25面]

 「沖縄戦の書き換えは絶対許せない」「悔しくて、居ても立ってもいられない」。九日、那覇市の県庁前県民広場で開かれた、「沖縄戦の歴史歪曲を許さない!県民大会」には「集団自決」体験者をはじめ沖縄戦体験者や若者も多数参加し、怒りの声を上げた。壇上でも日本軍から手榴弾を渡された体験者が証言し、「集団自決」犠牲者の孫が決意表明するなど文科省に検定意見の撤回を求める熱気に包まれた。集会後には国際通りをデモ行進し検定に反対の声を上げた。

     ◇     ◇     ◇

生存者、孫のために証言/検定に怒り熱気あふれ

 「腹が立ってしょうがない。教科書書き換えを許してはいけない」と憤る池原利江子さん(84)=那覇市=は渡嘉敷の「集団自決」から生き延びた。弟の持っていた手榴弾が爆発しなかったため、池原さんの家族は死ななかった。しかし、隣で輪になっていた父のいとこの家族は十数人、叔母一家は6人全員…、数え上げればきりがないほど親せきたちが命を落とした。「島から復員した兵隊だってみんな(斜面の)上の方から見ていたから知っている。それなのに…」ごまかそうとする国の姿勢に怒りが込み上げてくる。
 「自分の人生は短いが、孫やひ孫に事実を伝えなければいけない」。腰が悪く遠出は難しいが、声を上げるために可能な限り出掛けていく。
 慶留間の「集団自決」体験者の與儀九英さん(78)=沖縄市=は、「血の海の悲惨な話はもういい」と実体験については、あまり触れない。が、米軍上陸の1カ月半前に、日本軍の戦隊長が、集落の全員に「全員玉砕あるのみ」と力強く訓示した、と証言する。軍が狡猾に「自決」に追いやった手口を今のうちに残しておかねば、危機感を訴える。
 座間味から参加した宮村肇さん(53)は、体験世代ではないが「すごく腹立たしい。悔しい」と国の姿勢に怒る。体験者の島のお年寄りたちは教科書の書き換えを「ばかにしている」と怒っている、という。
 島袋浩さん(74)=豊見城市=は戦時中は疎開していた。弟は対馬丸で亡くなった。「当時は怖くても、行かないと言えなかった。あれも強制だったんだ」と、振り返る。最近の戦前回帰の風潮を恐れ「教科書だけでなく世の中おかしくなってきた。意思表示しなければ」。教員を目指して勉強中の宜野湾市の比嘉徳史さん(26)は「歪曲された事実を子どもたちに教えたくない」と参加。「本土の人たちも同じ気持ちが持てるよう、声を伝えたい」

祖父母は生きたかったはず/犠牲者の孫・宮城千恵さん

 「祖父母は死にたくて死んだというのですか」。渡嘉敷島で起きた「集団自決」犠牲者の孫で、南風原高校教諭の宮城千恵さん(48)は登壇し、「本当は生きたかったはずの祖父母のためにも、歴史の書き換えは許さない」と語った。
 宮城さんの母方の祖父母は、渡嘉敷島で「集団自決」の犠牲となった。当時、ずいせん学徒隊の動員で本島にいた母は戦後も両親の死を知らず、何度も手紙を書き続けたという。
 多くを語らなかった母から詳しく話を聞いたのは約20年前。宮城さんはそれを基に紙芝居を作り、留学先の北アイルランドやハンガリーなどで子どもたちに読み聞かせる活動を続けた。
 宮城さんは「多くの子が、愛する家族同士がなぜ殺し合ったのか理解できない様子だった」と振り返る。
 「沖縄戦体験者がどんどんいなくなっていくという焦りもある。事実をしっかり若い世代に伝え、命の大切さを訴えたい」
 その思いから絵本制作を思い立った。母の体験を基にした英語の絵本「沖縄からの手紙」を七月に出版する。一度も会うことのなかった祖父母に思いを込めて作った。
 「この世に肉親同士が手をかけ合うほど、悲しいことはない。小さな島で起こった悲惨な出来事を世界中に知らせ、戦争をなくすきっかけにしたい」

「手榴弾渡された」/瑞慶覧さん体験を証言

 県民大会で社大党顧問の瑞慶覧長方さん(75)が自決用に日本軍から手榴弾を渡された自身の体験を証言した。
 太平洋戦争最中は国民学校の6年を終えたばかりで13歳だった。
 戦時中は校舎を日本軍に接収され、公民館へ移ったがそこからも追い出された。授業どころではなかった。学徒動員で、軍の防空壕を掘った。
 5月23日。大里村のひめゆり学徒隊の隣の壕に身を寄せていたが、軍によって追い出された。それから約1カ月半、玉城、東風平、摩文仁と激戦地の中をさまよった。まさに鉄の暴風だった。
 6月17日には現在の糸満市、旧真壁村で壕を掘った。当時は学校でもどこでも皇民化教育が徹底されていた。天皇の子である日本人が、もし米軍の捕虜にでもなったらこれ以上の恥はない。だからいざというときには、自分で決死しなさいということで、日本軍から手榴弾を二個渡された。
 知人の防衛隊が直接受け取った。うち1個が年長の自分に渡され、もし米軍が来たら壕の中の仲間17人と一緒に自決しなさいと、その時を声を潜めて待っていた。幸い米軍は来ず、われわれは命拾いをし死体の中をくぐって真壁を突破した。
 手榴弾は、軍の武器だ。それを軍が渡した。どんなことがあっても国民として敵の捕虜になるな、なるぐらいなら自決せよ。これが軍、国の命令だった。
 皇民化教育は徹底されていた。大半の住人が捕虜になるよりはと、「集団自決」、「自決」に追い込まれた。
 6月19日朝、現在の平和祈念資料館の東側。住人を救うために捕虜になった沖縄の人が壕に来た。しかしその人まで日本兵が虐殺するという大変恐ろしい状況を目撃した。われわれは何度も軍命による自決を選ぼうとしたが、何とか終戦まで生き抜いた。
 教科書から歴史を歪曲しようとする国の動きに対し断固として反対していかなければならない。

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

2件のコメント

  1. ピンバック: SHINAKOSAN IS OKINAWAN

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