アラ還のオッサンがマルクスの勉強やらコンサートの感想やらを書き込んでいます

小松美彦『自己決定権は幻想である』

2004年7月21日 at 00:41:42

小松美彦『自己決定権は幻想である』(洋泉社新書)

「自己決定権」の問題を社会学的に取り上げた本かと思って読み始めたのですが、主に取り上げられているのは脳死・臓器移植にかんする「自己決定権」問題、つまり、本人が「ドナー登録」に同意したということを理由にして脳死・臓器移植をおこなう「論理」の“危うさ”です。

ショッキングなのは、脳死者に起こることがあるとされる「ラザロ兆候」の話です。ラザロというのは、イエスによって復活した人の名前ですが、脳死が確定したあとでも、脳死者の手が自力で動き、胸のところまでいって祈るように両手を合わせる格好をすることがあるとか、人工呼吸器を外そうとするとチューブをつかむような仕草を見せるというのです。さらに…

特別な処置をしないでメスを入れると「死体」がのたうち回り、臓器摘出どころではなくなるので、アメリカやイギリスでは前もって筋弛緩剤や麻酔を打つことになってるという話も紹介されています。あなたは、あなたの肉親がそういう反応を見せたとしても、なお彼/彼女はすでに死んでいるという考えを受け入れられますか?

小松氏の指摘はさらに、脳死・臓器移植をめぐる議論の前提として、「もう助からない患者」「治療・延命しても無駄な患者」と、「助けるべき患者」という差別があるのではないかというところにすすみます。そして、それは一歩進めば、障害者や老人などは「安楽死」させてもよいとしたナチスの優生思想と変わらないことになるのではないか。あるいは、これから生まれてくる子どもが障害を持つことが分かったときに、それでも生むかどうかは「自己決定権」だとする議論からは、「自分で決定して生んだ以上は、社会や福祉に頼るな」という議論につながるとも。「自己決定権」論は、社会保障・医療を切りつめたい新自由主義国家に実に適合的だという訳です。

子どもを生むか生まないか、自分の病気治療をどうするか、みんな「自分で決めること」ではあるけれども、「自分で決める」ことと「自己決定権」は違う、「自己決定権」という言葉に包まれたとたん、決定する主体である「個人」はノッペラボーの抽象的な存在になってしまい、実際に「決める」個人の顔や姿、かかえる問題が見えなくなる。最後は『自分で決める」ことでも、実際には、社会的な広がり、関係の中で「決定」しているんだ、その社会的なつながり、関係性を断ち切ってしまうような「自己決定権」の欺瞞性に気づいてほしいというのが、一番の主張です。

■小松美彦『自己決定権は幻想である』(洋泉社新書、2004年7月刊、本体740円)

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