今週の「九条の会」(8月20日まで)

各地の「九条の会」の動きについて、インターネットのニュースをピックアップしました。今週は、8月15日をはさんでいたせいか、たくさんニュースがありました。

17日付の「毎日新聞」(たぶん長野版)には、奥平康弘先生が登場されています。

街角ファイル:市民団体「『九条の会』三郷」発足記念集会/奈良

 21日午後1時半、三郷町立図書館視聴覚室。基調報告、アピール文採択のほか桃山学院大法学部長の前田徹生教授による記念講演「憲法九条の意義」もある。問い合わせは事務局の三浦さん。[毎日新聞 8月20日朝刊]

九条の会:きょう、市民ら結成の集い――宝塚/兵庫

 戦争放棄をうたった日本国憲法9条を守ろうと、宝塚市内の市民らが20日、同市小林2の市立西公民館で、「宝塚『九条の会』」結成の集いを開く。
 昨年6月、作家の大江健三郎さんら9人の呼びかけで「九条の会」が結成されたのを機に、全国各地で地域単位の会も誕生。宝塚では、6月ごろから有志9人が中心となって設立準備員会を設置。賛同人は今月初めで、46人になった。
 20日は、弁護士の徳岡宏一郎さんが「九条の心」と題して講演。会の規約を承認した後、ビデオ「9―nine、憲法9条は訴える」を上映する。
 集いは午後2時から。資料代500円。問い合わせは、呼びかけ人の1人の杉島資弘さん。【服部陽】[毎日新聞・阪神版 8月20日朝刊]

「この子を残して」私費を投じ復刻

 「長崎の鐘」の作者で、長崎で被爆しながら救護活動を続けた医師、故・永井隆博士の随筆「この子を残して」の初版本が戦後60年の今年、57年ぶりに復刻された。出版を手がけたのは、東村山市の元ラーメン店主、田浪政博さん(66)。平和への願いを込めて私費を投じた。(芳垣文子)

 永井博士は1908(明治41)年、松江市の生まれ。長崎医科大(現長崎大学医学部)付属病院に勤めていた45年8月9日、爆心地から700メートルで被爆した。自宅にいた妻は即死、自身も重傷を負いながら救護活動に当たった。病に苦しみながら原爆の惨状をつづった作品を数多く書き残し、51(昭和26)年、43歳で亡くなった。
 「この子を残して」は、病状が悪化する中、幼い息子誠一まことさん(故人)と娘茅乃かやのさんへの愛情、先立たねばならないつらさをしたためた随筆。48(昭和23)年、講談社から出版されベストセラーになり、83(昭和58)年には木下恵介監督により映画化もされた。
 冒頭にはこんな場面がある。

〈うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほおを私のほおにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!〉

 田浪さんはかつて台東区に住み、45年3月の東京大空襲で逃げまどった経験を持つ。小さいころ戦死した父の顔は覚えていない。87年、終戦直後の文部省が作った副読本「あたらしい憲法のはなし」を復刻出版、現在は東村山九条の会運営委員として活動している。
 「この子を残して」は、三十数年前、初版本を古本屋で購入。今年5月たまたま手にして読み返したところ、子を持つ親の気持ちや平和を願う思いに強く心を動かされ、復刻を決意した。二人の娘を持つ田浪さんは「憲法がどんどん矮小わいしょう化されている今、戦争反対を声高に叫ぶだけでなく、こういう本を多くの人に読んでもらう必要があると思った」と語る。
 現在は「サンパウロ」(新宿区)から文庫本などが出ているが、初版はすでに絶版になっている。田浪さんは出版元の講談社に相談。著作権はすでに切れているが、茅乃さんが描いた挿絵などがあるため京都に住む茅乃さんと、誠一さんの息子で永井隆記念館館長(長崎市)の徳三郎さん(39)を直接訪ねて、出版の承諾を得た。1000部印刷。約100万円の費用は自費で賄った。
 徳三郎さんは「何十年も前に亡くなった故人の思いを、新たな意味や願いを込めてよみがえらせていただいたことに大変感謝しています」と話している。
 1900円(税別)。問い合わせは七つ森書館(03-3818-9311)へ。
[asahi.com マイタウン東京 8/18]

戦後テーマに市民集会 下松/山口

 広島市立大広島平和研究所の浅井基文所長(64)を講師に招いて「歴史を考える市民集会」(日本キリスト教団下松教会など主催)が下松市大手町の市中央公民館であり、市民ら65人が参加した。戦後について問い直そうと毎年、終戦記念日の前後に開いており、今年は35回で13日に催した。
 「核廃絶の課題―平和憲法の重み」をテーマに講演した浅井所長は「原爆投下という大きな代償の上に平和憲法ができた」とした上で「戦争をしないという平和憲法の裏付けがあるから、日本の核廃絶運動も説得力を発揮できる」と強調した。
 一方で、従軍慰安婦問題などに触れ「いくら核兵器の非人道性を訴えても、日本がアジア諸国などへの加害責任を認めない限り、国際的な理解は得られない」とも説いた。
 集会では、同教会の高橋敏通牧師(55)らの呼び掛けで、憲法改正に反対する「九条の会くだまつ」が9日、発足したことが報告された。[中国新聞 ’05/8/17]

埋もれた記憶、後世に 弁護士が戦争体験聞き取り

 戦後60年の節目に、市民の戦争体験を掘り起こして記録に残そうと、大阪の弁護士約600人でつくる「大阪弁護士9条の会」が聞き取り活動に取り組んでいる。大半は戦争を知らない世代だが「悲惨な体験の中から憲法9条の価値をクローズアップさせたい」と意気込んでいる。
 同会は作家の井上ひさしさんらがつくる「9条の会」の呼び掛けに応じ、昨年12月に結成。戦後60年が近づくにつれ「9条が生まれるきっかけになった戦争の生々しい事実を調べよう」との機運が高まった。
 7月に「戦争体験ホットライン」を実施すると、1日で50件近い問い合わせがあり、戦争体験者や家族、遺族の声が寄せられた。[河北新報 2005年08月17日水曜日]

信州・平和へのメッセージ:平和憲法の行方 奥平康弘さん(76)/長野

<戦後60年の原点>
◇9条の意味と正当性考える――憲法学者・奥平康弘さん(76)=信濃町

 信濃町在住の憲法学者、奥平康弘さん(76)は昨年6月、作家の大江健三郎さんや評論家の加藤周一さんらとともに、憲法9条を守ることを訴える「九条の会」結成の呼びかけ人となった。県内には今年7月現在で、同会に賛同する約170の地域組織が発足。一方、国会では自民党が今月初め、戦力不保持を定めた9条2項を改定する憲法改正草案を公表するなど、改憲ムードも高まっている。奥平さんは、憲法をとりまく社会をどう見ているのだろう。
   ◇  ◇  ◇
 ――憲法9条に対する思いを聞かせてください。
 まずは市民としての立場から。憲法が施行された時、私は旧制高校1年でした。あのころ、沖縄、広島、長崎と強烈な経験を経て、圧倒的に庶民は「戦争なんてけっこう」「憲法9条は光である」という思いをしました。私も学生として、そういう思いで9条を見ていたのです。
 次は憲法研究者として。私は自衛隊について「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と規定している9条2項に反するため、その存在自体が違憲という立場を取っています。このような解釈をしている憲法学者は多くいます。「ドン・キホーテ」とも言われてきましたが、この立場を貫き、現状を批判することが抑止力になると思っています。憲法学者が総崩れになると、本当に総崩れになります。
 ――「九条の会」を結成した理由は。
 00年に衆参両院に憲法調査会が結成され、一昨年から昨年にかけ、いよいよ国会で憲法改正作業の動きが決定的、現実的になってきました。9条以外の条文の見直しも議論され、争点がぼやけていますが、問題の根幹は9条にあります。改憲を阻止するため、ちょっと目立つ人が呼びかけることで、地方に運動が広がるきっかけを作りたかったのです。
 ――「九条の会」は反響を呼び、賛同する地域組織は全国で3000を超えています。
 先日、出身の函館市で講演したんですが、市内の花屋さんまで「花屋は平和じゃないとできない」と言って、会をつくっている。「九条の会」がいつまで続くのか分かりません。でもこの問題は簡単に片付かない。持続させるには肩ひじを張らず、それぞれの流儀でやっていくのが必要です。
 ――戦争の記憶は薄れ、平和や憲法に対して無関心な人が増えているように感じます。
 世の中が物質的に豊かになればなるほど、社会の仕組みを当然と受け止め、恩恵だけを受ける「フリーライダー(ただ乗り)」的な動きが出てきます。フリーライダーは社会にかかわろうとしません。今、日本社会のフリーライダーを抱えるキャパシティー(受容力)がなくなってきています。だから、それを「しめてかからないといけない」と、憲法改正の動きが出てきているのです。
 私は戦後の体験から「おかしいと思うことがあったら、それに抵抗しなければならない」という教訓を得ました。若い人には世の中の体制について、どこがおかしいか考えてほしい。まず問題意識を持つことが、社会にかかわっていくことなんです。
 私は「九条の会」でただ1人の憲法の専門家として、世界的、歴史的、哲学的観点から、憲法9条の持つ意味や正当性を考えていきたいと思っています。【聞き手・反橋希美】=おわり
…………………………………………………………
■人物略歴
 ◇奥平康弘(おくだいら・やすひろ)
 北海道出身。東大法学部卒業。東大社会科学研究所教授、国際基督教大学教授などを経て、現在は東大名誉教授。専門分野は「表現の自由」。著書は「表現の自由とは何か」「憲法の想像力」「『萬世一系』の研究」など多数。
[毎日新聞 2005年8月17日]

“憲法は涙と願いの結晶”/「戦没者遺族九条の会」発足

 終戦60年の15日、肉親を戦争で奪われた人たちが「戦没者遺族・九条の会」を結成しました。再び戦没者と遺族をつくらせない――を合言葉に、「遺族でなければ言えない言葉で戦争の真実を語り、伝え、憲法9条を守ろう」と申し合わせました。
 昨年の平和遺族会総会で「遺族・九条の会」が発案され、この日までに130人が「呼びかけ人」「賛同者」になりました。平和遺族会員だけでなく、靖国神社公式参拝推進派の日本遺族会の会員も少なくありません。
 父が中国で死んだ倉本頼一さん(京都府)は「9条は遺族の涙と願いの結晶。再び他国を侵略する戦争を許してはならない」、埼玉県の高久綾子さんは「私たち遺族は若者たちに伝えていかなければならない」、三重県の清水美澄さんは「そのときあなたはどう動いたのと聞かれたとき、答えができるように」。賛同者はそんな声を寄せています。[しんぶん赤旗 2005年08月16日11時39分]

平和願う鐘

 60回目の終戦の日を迎えた15日、郡上市白鳥町為真の薬王山正法寺(西沢英達住職)で、戦没者を供養して平和を願う千回の鐘突きがあった。
 鐘楼には、戦没者の位牌(い・はい)と、長崎で拾われた小さな地蔵、お供え物などが置かれた。午前5時から、参拝者らが1分間隔で代わる代わる鐘を突き、夜まで続いた。家族や親族ら10人で訪れた美谷添一久さん(42)は、祖父が沖縄で戦死している。「若いころは無関心だったが、子どもができた今、命の尊さがよくわかる」と、子どもたちと一緒にじっと手を合わせた。
 本堂でも、参拝者らが戦争当時の思い出を語り合った。愛知県愛西市から孫と来た佐藤節子さん(68)は当時小学生。軍歌を歌いながら登校し、米軍機の機銃掃射から逃げまどったこともあるという。「孫のため、平和な世の中であってほしい。それには、一人一人が譲り合い、周りの人と仲良くすることから始めるのが大事だと思う」と話していた。
 西沢住職は「戦争を知らない世代が国民の大半を占め、戦争へとレールを踏み外す危険が高まっている。これからはますます、平和への思いを形にして伝えることが必要だ」と話す。
 また、全国各地で憲法9条を守る活動をしている「9条の会」に賛同する同寺は、この日、境内に憲法9条の条文を刻んだ碑を除幕した。「戦後、日本はこの思いで再出発したことを忘れないでほしい」との思いを込めたという。[asahi.com マイタウン岐阜 2005/08/16]

非戦の誓い新たに…

 終戦記念日の昨日、石垣市では平和を希求し、悲惨な戦争を2度と起こしてはならないと「九条の碑・平和の詩朗読会」が開かれました。
 これは平和憲法である日本国憲法を守ろうと結成された「九条の会やえやま」が実施したもので、石垣市の新栄公園、9条の碑前では130人余りの人たちが参加して反戦平和を呼びかけようと詩の朗読会が行われました。朗読会では、名蔵中学校3年の金城龍太郎君が「願いを届け」と題した詩を読み上げ、「戦争の恐ろしさを語り継いでいくのだ」と強い意志を見せていました。このほか、俳句や短歌、地元出身の詩人の詩などが朗読され、参加した人たちは平和の誓いを新たにしていました。 [沖縄テレビ放送 2005/08/16 19:00]

戦後60年いわて 学徒動員

 今年5月。東和町で、憲法九条の保持を呼びかける「いわて女性・九条の会」が、戦争体験を語る会を開いた。
 「戦時中、恩師のおかげで、動員先の工場から脱走しました……」
 「九条の会」呼びかけ人の一人、花巻市の押切郁さん(78)が語り出した。
   ■   ■  
 1945年2月25日、押切さんら県立水沢高等女学校(現水沢高校)の3年生97人は、川崎市の「東京航空計器」の工場に動員された。学徒は旋盤、検査、事務などに配置されたが、空襲が激しく、連日連夜、避難する生活が続いた。
 4月のある夜。引率の菊池誠之先生(故人)が、各部屋の室長数人を、自分の部屋に呼び出した。
 菊池先生は言った。
 「会社に帰校を願い出たが許可されないので、私の責任で帰る。秘密裏に行うので、絶対他言してはならない」
 決行は4月26日。数人ずつに分かれ、身の回りのものだけを持ち寮を出た。駅で汽車を待っていると、寮の舎監が追いかけてきた。菊池先生と舎監は口論になった。
 「終わりだ!」
 押切さんが思った瞬間、汽車がホームに入ってきた。
 「乗れ!」
 菊池先生の叫び声で、飛び乗った。全員水沢に帰ることができた。
   ■   ■
 終戦から38年後の83年、同窓会で、菊池先生は初めて、「脱走」のことを口にした。ある鉄道員の親切で、列車の切符が取れたこと。帰省後すぐに辞表を出したこと…。ただ、辞表は預かりになり菊池先生は戦後も教職を続けた。
 押切さんたちはそれまで「先生に迷惑がかかる」と思い、脱走のことは誰にも話さなかった。「皆の記憶を文集にまとめましょう」
 押切さんは呼びかけた。
 同窓会の直後、菊池先生は、日記に「汚い戦争だということを見破り損ねた。そういう私が感謝されるいわれがどこにあろうか。文集にはざんげを書くとしよう」とつづっていた。
 1年後、文集は出来上がった。
   ■   ■
 押切さんは戦後、県内の公立高校で家庭科教師として教壇にたった。一方で、菊池先生の思い出を胸に秘めつつ、66年に花巻ユネスコ協会の設立に参加。「人の心の中に平和の砦をきづかなければならない」とのユネスコ憲章の文言に心を打たれたからだ。
 文集ができた翌年の85年、インドシナ難民キャンプを訪問。その後も、学徒動員の記憶を、市民集会などで話してきた。
 今年4月、知人の誘いで「九条の会」の呼びかけ人になったのも、押切さんにとって、ごく自然なことだった。
 「奇跡的に生きて帰ったからこそ、語る義務があると思う」
 押切さんは言う。動員先の工場敷地は大半が焼け野原になったと、聞いている。
   ■   ■
 今年7月、押切さんは戦後初めて、動員先の工場跡地を訪れた。
 跡地は米軍に接収された後、川崎市民の要望で返還。83年、「中原平和公園」となった。約4万平方?の敷地に、野外音楽堂や広場がある。
 「あのとき、逃げなければ、私はこの場所に埋もれていたかもしれない」
 押切さんはそう思った。

 学徒勤労動員 戦時下に、労働力の不足を補うため、43年6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」に基づき、学生・生徒も軍需生産や食糧増産などに一時動員された。戦況が悪化するに従って動員は強化され、44年3月には、「決戦非常措置要項に基づく学徒動員実施要項」が決定。旧制中等学校以上の大半の学校で、生徒が学校を離れて工場に配置されるようになった。県内では、釜石製鉄所、松尾鉱業所のほか、関東の軍需工場などにも、多く学徒が動員された。[asahi.com マイタウン岩手 2005/8/16]

戦後60年の原点:その時、子どもだった 藤本義一さん/大阪

 <45年8月15日・終戦>
 ◇闇市で働いた1年半――「九条の会・おおさか」の作家・藤本義一さん(72)
 自宅は堺市浜寺諏訪森にあり、小学校の思い出といえば、友だちが絵の具を食べて「チョコレートみたいな味がする」と言っていたこと。食糧難だった。おれも飛行兵になりたくて、養成所に入るための身体検査を小学校6年の時に受けた。その時の身長が150センチぐらいで体重が26キロしかなかった。ガリガリやった。
 昭和20(1945)年3月13日の大阪大空襲で、難波にあった父の質店が焼けた。父は無事だったが、そこら中で炭化した死体を見た。水分が無くなり、全体が2分の1ぐらいに縮んで、手とか足がくさび形文字みたいになるんやね。その後の堺空襲では、遊郭の女性が10人ぐらい火から逃れて川まで来て死んでいた。互いにつながれたままだった。「怖い」とも思わなかった。感覚が鈍っていた。むしろ腐乱した死臭が記憶にある。
 店を失った父は戦後、うつ病と肺結核になり、療養所に入った。母はその年末に進駐軍のジープにはねられて入院。役所に行ったけれど商人(あきんど)への生活保障はないし、警察は事故のことも調べない。2人の入院費をかせぐために、1年半は闇市で働いた。大阪に40カ所ぐらいあり、朝6時から順に回り、上下する物価を闇市間で連絡する“レポ”員やった。どんなことがあっても、生きていく方法はある。「あきらめ」は危険な思想だ。一人一人が枠にはめられず、自分の意思で生きたら戦争は起きない。
 戦争は、プラスになるものが何もない。「昔の教育で、子どもはきちんとしつけられていた」と懐かしがるのも、戦争被害のなかった人の言うこと。憲法9条と非核三原則は守らなければいけない。【社会部・花岡洋二】
[毎日新聞 8月15日朝刊]

高橋哲哉氏、鄭敬謨氏が対談 平和集会

 さいたま市の大宮ソニックシティで14日、平和と憲法を考える集会が開かれ、130人余が集まった。九条の会さいたまが主催し、著書『靖国問題』などで知られる哲学者の高橋哲哉氏と、南北朝鮮の統一を訴える評論家の鄭(チョン)敬謨(ギョン・モ)氏が対談した。
 鄭氏は「明治の日本はアジア侵略の利益で大国になろうとしたが、現在の歴史作家やメディアは、その明治期を無批判に賛美する傾向にある」とし、「平和運動は憲法9条のみに視野をとらわれず、偏った歴史観に疑問を投げかけることも必要だ」と訴えた。
 高橋氏は「戦争の本当の意味を知るのは、自国の兵士が海外で戦っている時でなく、空襲で国民自身が戦場を命からがら逃げまどう時だ」と指摘。靖国神社とは別の戦没者追悼施設を作ったとしても、日本が軍備を持つ限り、新たな戦争の正当化に利用される可能性があるとして、「軍備の撤廃は訴え続けるべきだ」と主張した。[asahi.com マイタウン埼玉 2005/8/15]

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

2件のコメント

  1. はじめまして。
    ブログを読ませていただき、音楽が大好きで、ぜひ、九条の会ということろに参加させていただきたいと思いました。
    中原区に住んでおりますので、中原平和公園などで催し物などはございませんでしょうか。
    お知らせいただけましたら幸いです。

  2. かみや様

    はじめまして。拙ブログにコメントをいただき、ありがとうございます。

    私自身は、各地の「九条の会」の活動にかんする記事を勝手に拾い集めているだけで、川崎市や中原区の「九条の会」の活動に直接タッチしているわけではありません。

    しかし、インターネットを検索してみると、中原区住吉・今井地域でも「九条の会」が活動しているようです。一度、ご連絡をされてみてはいかがでしょうか。

    「住吉・今井 九条の会」ホームページ
    http://homepage2.nifty.com/sumiyoshi-9jo/index.html

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