資本主義のもとでの搾取

吉原直毅著『労働搾取の厚生理論序説』(岩波書店、2008年刊)

吉原直毅氏の『労働搾取の厚生理論序説』(岩波書店、2008年2月刊)を読んでいたら、こういう議論が出てきた。

1日8時間労働によってある財を8単位生産したとして、そのうちの4単位が労働者に賃金として支払われるのは、財8単位生産における労働の貢献度は財4単位の価値に等しいという「社会的合意」があり、他方、残る4単位は資本財の生産への貢献度に等しいという「社会的合意」があるのだという話になれば、8時間労働に対して財4単位の報酬は単なる等価交換にすぎない。こうした「社会的合意」を成立させるのが市場の需給調整メカニズムであるならば、剰余労働時間の生産成果が労働者に帰属しないとしても、そこに「剰余労働の搾取」の「不当性」を読み取るのは困難になるだろう。実際、いわゆる「限界生産力説」的分配理論は、そうした解釈を正当化する。(同書、75ページ)

これに対して、吉原氏は、「この限界生産力的分配理論を超克するためのマルクス経済学の概念装置」が「労働力商品に固有な使用価値としての『価値生成機能(=価値増殖機能)』論であった」と指摘したうえで、「しかしながら、『唯一の価値生成的生産要素としての労働』論自体、1つのレトリックに過ぎず、それは論証できる様な性質の言明ではない」、「それ自体では形而上学的言明」もしくは「せいぜい『科学的仮説』でしかない」と主張する。

吉原氏の意図は、近代経済学のツールを使ってマルクスの資本主義批判の「厚生理論」的な救出をはかりたいというもので、現代の搾取や「格差と貧困」の問題に関心を向ける姿勢は大いに評価したいのだが、しかし、この言明はマルクスの理解として見過ごせない問題を含んでいるように思われる。

すなわち、1日8時間労働で財8単位を生産したときに、労働の貢献度は財4単位分であり、残りの財4単位は資本財の貢献度に等しいという「社会的合意」があれば、それは搾取とはいえない、ということを主張することになっているからである(もちろん、吉原氏の言いたいことがその点にあるというわけではないが)。

しかし、そもそも限界生産力的分配理論がまずあって、その「社会的合意」にもとづいて資本主義経済が組織される訳ではない。イデオロギーによって生産過程における剰余労働の取得が正当化されるからといって、剰余労働の取得そのものが消えてなくなる訳ではない。上部構造である意識によって、土台を説明するというのは、そもそも逆立ちした議論だといわなければならない。

しかも、なぜ資本財が、ある個人の手に独占されているのか? という問題を、吉原氏はまったく等閑視してしまっている。資本財=生産手段が私的に独占されていることを前提にして、資本財も財の生産に貢献したのだからそれに見合った利潤を受け取るのは当然だというところから出発するのは、――吉原氏の意図がどうであれ――、資本主義的搾取を前提にして「剰余労働の取得」の問題を考えるということになる。から、「剰余労働の取得」を「搾取だ」といって批判できなくなるのは、ある意味、当然なことでもある。

しかし考えてもみよ。生産手段が社会的に所有されているのであれば、同じように一定量の資本財を用いて、1日8時間労働によって財8単位を生産したとしても、そこから資本財の貢献度として財4単位を取り上げるということはおこなわれない。もちろん、資本財の再生産のために必要な補填分や社会的な生産を拡大するための蓄積分、それに災害などへの備蓄分などを控除しなければならないが、その残りは、すべての労働者に社会的に配分される。

つまり、資本財=生産手段が資本家の手に独占されていることこそが、資本家による「剰余労働の取得」=搾取を可能にしているのだ。

経済学は、資本家の手に独占された生産手段=資本の存在を自明の前提として、そのもとで生産活動がどのようにおこなわれるかを分析するだけでなく、そもそも、“なにゆえ、生産手段が資本として資本家の手に独占されているのか?”を問わなければならない。だからこそマルクスは、生産過程においてどのように剰余価値が生産されるかを明らかにするだけでなく、再生産=蓄積をくり返すなかで、資本家が最初に投下した資本までもが剰余価値にすっかり置き換わってしまうことを明らかにしている。資本家の取り分を正当化するように見える資本財そのものが、実は、他人労働の搾取の固まりであるのだ。

この点を抜きにして、資本家の取り分は資本財の貢献にたいする報酬だいうことを前提にしたうえで、「搾取」の論証は、どのような形でおこなえるのか、ということを議論してみても仕方がないように思うのだが、どうだろうか。

置塩信雄氏は、『ケインズ経済学』(三一書房、1957年)のなかで、次のように述べている ((新野幸次郎・置塩信雄共著『ケインズ経済学』三一書房、1957年、272?273ページ。原文は一つの段落であるが、インターネット上での読みやすさを考慮して、適宜段落改行した。))。

 労働が生産に際しての唯一の生産要素であるということは正しくない。生産を行うには労働のほかに生産手段が必要であり、生産手段のなかには生産物である生産財と、自然に存在するもの(土地)とがある。だから、労働が唯一の生産要素だということを根拠にして、地代や利子が搾取にもとづくものだと主張することはできない。生産手段を用いて労働を行うことによって、各種生産物をそれぞれ一定量生産し(総生産物)、次期においても再生産を行うためには、このうちから生産で消耗した生産財を補填し、残余(純生産物)のうちから、労働力の再生産のために一定種類の消費財を一定量だけ消費し、この残り(剰余生産物)が次期以後の生産拡大のための生産財増加や、種々の再生産外的消費に用いられる。これが一切の社会形態を通じて行われる再生産の様態である。
 資本主義社会では、これが特殊な社会関係のもとで行われる。即ち、生産手段は資本家や地主によって所有されている。従って彼等がこの生産手段を使用するかどうか、どのように使用するかを決定する。労働者は、彼等のもとで労働するしか生活の途がない。そこで生産手段を用いて生産した生産物は、生産手段の私有者のものとなり、彼等はこのうちから生産で消耗した生産財を再び自己の手に収め、労働力の再生産にぎりぎり必要な消費財を労働者に与え、残余の生産物は悉く、自らの所有物とする。ここでの特殊性は、総生産物のうち、生産財の補填部分と剰余生産物のすべてが生産手段所有者の所有となり、労働力再生産に必要な消費財が生産手段所有者たちのために労働を提供することを条件として労働者に与えられるという点である。
 生産手段所有者たちが、このように生産物のうちの大部分を手に入れることができるのは、生産手段が生産における重要な要素であるからではない。生産手段は重要な生産要素の1つであることは確かであり、労働だけが生産要素だというのは誤りである。しかし、だからといって、生産手段の所有者が生産物の大部分を手に入れることができるというのは理論の飛躍である。生産手段が現在より以上に発達した社会では、現在以上に多量の剰余生産物を生産することができるが、その社会で生産手段の私有者が廃絶されていれば、生産手段の私有者によって生産物が取得されるということはなくなる。だから、生産手段の私有者が生産物を取得するのは、生産手段が生産要素であるからではなくて、生産要素である生産手段が私有されているからなのである。

この置塩氏の文章に照らしてみると、吉原氏の議論は、マルクスの理論を「労働が唯一の生産要素だ」と歪めたうえで、資本財も生産要素だから「搾取」は成り立たない、と言うことになっていることも分かる。

以上、私自身は、吉原氏が、マルクスの経済学とは違った立場から、現代の搾取の問題に経済学的にアプローチしようとしていることは、大いに評価されてしかるべきだと考えている。ただ、そのなかで取り上げられているマルクスの理論への批判にたいしては根本的な意見の違いがあると言わなければならない。

『労働搾取の厚生理論序説』の第1章「今、なぜ労働搾取理論なのか?」は、吉原直毅氏のホームページにPDFファイルで公開されている。
http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/exploit1.pdf

同書の目次と著者による簡単は紹介は、こちらから。

ところで関係ない話だけれど、久留米大の松尾匡氏がこの4月から立命館の経済学部に移ったようだ。ホームページMATSUO’S PAGEが移転している。

【関連ブログ】
勉強不足のJCP党員(伊賀篤)のブログ – 吉原直毅(著)「労働搾取の厚生理論序説」について

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

13件のコメント

  1. 拙著へのコメント、ありがとうございます。しかし、

    >吉原氏の議論は、マルクスの理論を「労働が唯一の生産要素だ」と歪めたうえで、資本財も生産要素だから「搾取」は成り立たない、と言うことになっていることも分かる。

    という評価は、残念ながら、不適切であると言わざるを得ません。置塩の、

    「労働が生産に際しての唯一の生産要素であるということは正しくない。生産を行うには労働のほかに生産手段が必要であり、生産手段のなかには生産物である生産財と、自然に存在するもの(土地)とがある。」

    は経済学では当然の話で、私もそのようなモデル設定で議論しています。私は、「労働が唯一の価値形成的生産要素」と書いていますが、「労働が唯一の生産要素」とはどこにも書いていません。ちなみに、マルクス自身も、当時にも一部の左翼セクトにおいて存在した「労働が唯一の生産要素」論的な搾取論には批判しております。対してマルクス自身は、「労働が唯一の価値形成的生産要素」論の見解を取っています。これは『資本論』を注意深く読んでいただければ、了解できるはずです。置塩の引用部分の議論は、マルクスの時代の頃から繰り返し生じた「労働が唯一の生産要素」論的な誤った搾取論に対する批判であって、こうした批判のロジックはマルクス=エンゲルスたちのそれを継承しています。しかし、マルクスの「労働=唯一の価値形成的生産要素」論は置塩自身も間違いなく継承しています。実際、置塩のお弟子さんたちと私との主な論争点は、「労働=唯一の価値形成的生産要素」論を擁護するか批判するかという形になっています。

    それから、置塩の

    「生産手段の私有者が生産物を取得するのは、生産手段が生産要素であるからではなくて、生産要素である生産手段が私有されているからなのである」

    という主張は、私自身も同意する主張であり、実際、拙著の5章ではそういう議論をしています。不均等な資本財の私的所有関係の存在が搾取関係=階級関係の生成を説明するという「搾取と階級の一般理論」の議論は、まさにそれにあたります。

    批判をされるときは、言葉尻を捕らえてそれを都合よく解釈するのではなく、全体のロジックを把握し、よく理解した上ででなければなりません。それから老婆心ながら、

    >イデオロギーによって生産過程における剰余労働の取得が正当化されるからといって、剰余労働の取得そのものが消えてなくなる訳ではない。

    という類いの議論は、マルクス主義を共有している人たち内部にはそれで納得と安心感を得られるかもしれませんが、マルクス主義の外にいる大多数の人たちにはなんら説得的ではありません。「生産過程における剰余労働の取得が正当化されるイデオロギー」に対しては、それを批判的に克服する説得的な理論=イデオロギーを代替的に提示する必要があり、その際には、最初から自分もしくは一部の人しか共有しない理論の正しさを前提にした議論を展開しているだけでは、全く説得力がありません。ああこの人は「染まった人」だな、で終わるだけです。高校の数学で学ぶ「証明」という論理的手法は、数学的問題の世界だけでなく、社会科学における論争一般においても適用できるという事を、頭に留めておかれると良いと思います。

  2. 吉原様

    わざわざ私のBlogのような素人の評にコメントをいただき、ありがとうございます。

    自分としては十分な説明を展開する能力がありませんので、言葉足らずになったところがあるかも知れません。第5章において、確かに資本財の不均等を前提に、それが再生産されると指摘されていることも理解しています。

    しかし、「搾取」という概念にどのような意味を込めるか、という点では、やはり吉原さんの議論には、私は同意しかねます。

    「そういう類の議論は、マルクス主義の外にいる人たちには何の説得力もない」というふうな議論には、私は賛成しません。マルクス主義の外にいる人に対して、マルクスが何を明らかにしたか、それを主張することが必要だと思っていますので。

    繰り返しになりますが、私は、吉原さんの研究を面白いし、意味のあるものだと思って注目しているつもりです。同意しかねるのは、その議論のなかで論じられているマルクスの理解についてであって、現代における搾取や「格差と貧困」の問題を、経済学の理論として取り組まなければならない課題として取り上げられおられることは高く評価しております。

    でなきゃ、こんな数式だらけの高い本を買うはずがありませんので。その点はご理解下さい。

  3. 立ち入ったコメントをするつもりはありませんでしたが、ここで「関連ブログ」としてリンクされた私自身の立場だけは、ハッキリさせておこうと思います。

    (まぁ受け取り方は人それぞれでしょうが)

    マルクスが資本論で展開した様な「投下労働価値説」(マル経流に剰余価値説と表現しても良いのですが)に基づく搾取の定式は、技術選択の可能性の無い単純な経済を想定する限りでは矛盾無く説明できるかもしれませんが、より現実的な経済モデルを採用するや否や、矛盾(たとえば従来の定式での搾取率がゼロで利潤が生じる様な)が生じる事が明らかになっていると思われます。

    よって、マルクスをドグマ化するのではなく、その精神を受け継ぐ者であれば、搾取の定義を改めて「投下労働価値説」に寄らない再定義をして、矛盾無く・・・つまりは価値観を共有しない人に対しても説得的に、理論を【発展】させていく必要があると考えます。

    古典的なマルクス主義が研究者の年齢層も内容も、ここ20年停滞しているのは事実だと思われるので、これからは均衡分析やゲーム理論といった近年目覚しく発展している一般的な(マル経以外の)経済学とも対等に議論できる、数理的マルクス主義の方法論は、ますます重要になってくるとは思います。

  4. 伊賀篤様、初めまして。

    TBを送ったばかりに、いろいろ悩ませてしまったようで、申し訳ありません。

    私も、マルクスをドグマ化するのでなく、理論を発展させてゆく必要があると考えています。数理的マルクス主義の重要性についても、私は大いに認め、素人なりに勉強してみようと思っています。

    しかし、吉原氏の議論の方向は、それとは違っているのではないかと思っているだけです。ある数学的モデルのもとで搾取が証明できないのは、その数学的モデルが現実を正しく反映していないのかも知れません。あるいは、マルクスの定義だと思って、マルクスの定義とは違う別の定義を持ち込んでいるのかも知れません。

    そういうことをきちんと考えたいと思っています。
    価値観の異なる人に対しても説得的に議論を展開していくためにも、マルクスの理論が何を明らかにしているのか、正確につかむ必要があると思っています。

  5. Gakuさん

    >現代における搾取や「格差と貧困」の問題を、経済学の理論として取り組まなければならない課題として取り上げられおられることは高く評価しております。

    ありがとうございます。そのように評価していただいているのであれば、せっかくですから、もう少し貴方の議論の仕方の問題点についてご指摘致しましょう。

    貴方の議論の問題点は、私のマルクス理解に同意しかねると言明されているのですが、結局どういう点で、なぜ同意しかねるのかが、クリアでない点です。例えば、最初の貴方の議論では、

    「吉原氏の議論は、マルクスの理論を「労働が唯一の生産要素だ」と歪めたうえで、資本財も生産要素だから「搾取」は成り立たない」

    という風に批判されていたのですが、それに対して私が、資本財も生産要素であるのは当然であり、そのようなおかしな主張は私はしていない旨、反論しました。それに対して今回の貴方は、

    「第5章において、確かに資本財の不均等を前提に、それが再生産されると指摘されていることも理解しています。」

    と事実上、私の反論を受け入れています。という事は、「吉原氏の議論は、マルクスの理論を「労働が唯一の生産要素だ」と歪めたうえで、資本財も生産要素だから「搾取」は成り立たない」というのが私のマルクス理論理解であるという貴方の当初の議論を撤回したという事を事実上、意味するのですが、それで宜しいですか?であるとすると、

    「「搾取」という概念にどのような意味を込めるか、という点では、やはり吉原さんの議論には、私は同意しかねます。」

    と言う主張の根拠がまったく不明瞭なわけで、現状では、従来のマルクス経済学に批判的な議論をしている私の議論を単に貴方は主観的に気に入らないのだ、と表明しているに等しいのです。

    繰り返しますが、今回貴方はこれについては何も反論されていませんが、「労働=唯一の価値形成的生産要素」論は、マルクス自身、明確にそのように『資本論』で言っていますし、少なくとも正統派のマルクス経済学(宇野派ではないという意味)では、共有されているマルクス主義理解です。私は正統派マルクス経済学の勉強は、専門の正統派マルクス経済学者の指導下で、かなり本格的にやってきましたから、私が言っている事は決して特異なマルクス理解ではない旨、信用していただきたいと思います。そして、最初の貴方の議論を読む限りでは、貴方は単に、「労働=唯一の価値形成的生産要素」論を「労働=唯一の生産要素」論と混同して、後者の立場を私が取っているとして批判しているわけですから、それは誤解であるという私の反論を受容する以上は、貴方は私のマルクス理解がおかしいと主張する根拠を失っているのです。

    それから、私が前回、

    「>イデオロギーによって生産過程における剰余労働の取得が正当化されるからといって、剰余労働の取得そのものが消えてなくなる訳ではない。

    という類いの議論は、マルクス主義を共有している人たち内部にはそれで納得と安心感を得られるかもしれませんが、マルクス主義の外にいる大多数の人たちにはなんら説得的ではありません。」

    と批判した意味を貴方は全く理解されていないようですが、貴方の議論は、真であると論証すべき事柄を最初から正しいものと仮定しているのです。「剰余労働の資本家による取得」という「搾取の存在」について、非マルクス主義者は一般にそれが真であるとは思っていません。そういう大多数の人たちに、剰余労働の資本家による取得=搾取の存在
    という命題を説得する為には、この命題が真であることを論証しないといけないわけです。「マルクスの基本定理」はまさにこの課題に取り組んでいるわけですが、貴方の

    >剰余労働の取得そのものが消えてなくなる訳ではない。

    という反論の仕方は、むしろ搾取の存在を説得的に論証するのでなく、その存在を仮定していて(あるいは最初から論証抜きに正しいと思い込んでいて)、「お前が何と言い繕おうと、搾取は存在しているんだよ!」と自己信念の表明をしているに過ぎないのです。だから私は、「マルクス主義の外にいる大多数の人たちにはなんら説得的ではありません。」と指摘しているわけです。貴方も

    「マルクス主義の外にいる人に対して、マルクスが何を明らかにしたか、それを主張することが必要だと思っています」

    という事であれば、その為にこそ、私が上で書いたようなマルクスの主張の論証をする必要があります。そしてそのような論証とは、自分の正しいと思う事をそのまま吐露・表明する事ではなく、論理的ステップを踏んでその正しさを証明する事なのです。(例えば、背理法的仮定として、搾取は存在しないと仮定する事によって、何らかの論理的矛盾を導く等のやり方です)

    自己の信念表明のような議論をしているだけでは、同じ信念を共有しない大多数の非マルクス主義者たちは、「宗教チックな議論だ」と思うだけなのです。これは大真面目に、貴方の今後の為を思ってのサジェスチョンであり、決して、貴方の議論を攻撃するための議論ではありません。自己の信念表明のような議論の仕方を真面目に克服していかないと、貴方の議論は多数を説得できるものには決してなれません。以上のことは、貴方が研究者でないから関係ない、という話ではないはずです。

    最後に、伊賀さんのコメントに対して、貴方が

    >ある数学的モデルのもとで搾取が証明できないのは、その数学的モデルが現実を正しく反映していないのかも知れません。あるいは、マルクスの定義だと思って、マルクスの定義とは違う別の定義を持ち込んでいるのかも知れません。

    と言われていることに対して、反論しておきます。「数学的モデルが現実を正しく反映していないのかも」に関しては、伊賀さんが、

    「技術選択の可能性の無い単純な経済を想定する限りでは矛盾無く説明できるかもしれませんが、より現実的な経済モデルを採用するや否や、矛盾が生じる事が明らかになっている」

    と書かれているところで、すでに反論になっています。現実の経済では技術革新が絶えず生じている事からも見れるように、技術選択の可能性がある状況で、企業は何からのより合理的な技術を選択しているわけです。ですから、より現実的な経済モデルとは、技術選択の可能性を許容するようなモデルであるというのが、マルクス経済学、近代経済学の違いを問わず、経済学一般に共通する理解です。そして、技術選択の可能性を許容するようなより現実的なモデルで搾取の存在しないケースが生ずる、と指摘しているのが伊賀さんの議論です。

    次に、「マルクスの定義とは違う別の定義を持ち込んでいるのかも」について。この伊賀さんの議論で前提されている搾取の定義とは、置塩信雄(及びその発展形態としての森嶋通夫)の提示した定式であって、これはこれまで正統派マルクス経済学の中で、マルクスのオリジナルの搾取の定式に忠実な、標準的定式として受容されてきたものです。決して私が恣意的に、マルクスの定義とは別の定義を持ち込んで議論しているわけではないのです。

    以上を纏めると、伊賀さんの主張は、より現実的な経済モデルの想定の下で、マルクスのオリジナルの定式に忠実と受容されてきた置塩・森嶋型の搾取の定義に基づく限り、正の利潤の下でゼロの搾取率という、マルクスの理論との矛盾が生じてしまう、というものです。この矛盾は、別に私が最初に論じたものではなく、置塩さんのお弟子さん達が早くから気づき、この矛盾をどう解決するか、という研究をされてきたものなのです。したがって、「吉原氏の議論の方向は、それとは違っているのではないか」と言われるのであれば、それは同時に、正統派マルクス経済学である置塩さんのお弟子さん達の議論の方向をも批判する事を意味します。

    結局、この矛盾を解消する為には、搾取の定式を再構成しなければならないわけであり、世界のマルクス経済学者たちがいかに再構成すべきかの研究をしてきているわけです。そして私の拙著での研究も、このような研究の動向を受けて、いなかる搾取の定式の再構成が、「マルクスの基本定理」を矛盾なく成立させる為に必要であるかを明らかにする試みです。このような研究の方向のどこが、「マルクスをドグマ化するのでなく、理論を発展させてゆく」方向性とは違っていると言われるのでしょうか?

  6. 吉原直毅様

    何度も、拙ブログにコメントいただき、ありがとうございます。

    このブログは、あくまで勉強中の私の思ったこと、考えたことをいろいろ書き込む場所で、いってみれば勉強用のノートです。吉原さんが、そんな素人のノートをのぞき込んで、いろいろご教授いただいたことには感謝しております。しかし、所詮、これは素人のブログです。研究者の論文のように、吉原さんの所説を全面的に検討したうえでの評でなければないということになれば、素人は、研究者の著作について何も書けないことになってしまいます。

    勉強途上の素人の世迷い言と思って、寛容にお願いします。数学的モデルの問題についても、私には、数式的に反論する能力はありませんので、ご勘弁を。

    ただ私には、上述の部分が、吉原さんがマルクス的定義での搾取を捨てて、新しい理論を展開していく一番の転換点になっていると思われたので、それは違うのではないかと言うことを思ったということです。

    それについては、私なりにこれからも勉強してみたいと思っています。たびたびのコメント、ありがとうございました。

  7. あいさつが遅くなりましたが「始めまして」なんですよね。

    以前から貴ブログの存在は知っていましたが(マルクスの使い道のレビューなどで)、今回、私の閑古鳥の鳴いている(更新頻度も高くない)ブログのアクセスカウンターが急増して何事か?と思ったらGAKUさんからトラックバックが送られている事に気がついて、挨拶もロクにせずカキコしてしまいました。(苦笑)

    余談になりますが、私は工作機械メーカーに勤める労働者でして、日頃は各自動車メーカー等にエンジンなどの部品を加工する自動生産ラインなどを納入する仕事の一環を担っております。

    そこでは、同じ労働量を投下した商品(ウチの場合は生産ライン)であっても、ほんのちょっとした工夫や技術により、御客様の工場での生産性が大きく変わるといった現場を、日々目撃しております。

    上記の意味では、ある経済が剰余生産物を生産できる可能性というのは、生産に投入される財や労働力のいずれが決定的というよりも、下部構造の持つ生産技術体系全体が労働を効率的に使用できるか否かによって決まるという事(つまり一般化された商品搾取定理の含意)は、受け入れ易い事実でもありました。

    これは決して、松尾氏風のバナナの搾取ナンセンス論を意識しての事を言いたいのでは無く、剰余を生み出す可能性の根本について、技術選択が可能な経済を想定した場合の実際的な問題としての感慨であります。

    もちろん、これは「労働」が極めて貴いものである事を否定するものではありませんし、搾取自体が存在する事を否定するのでは無いのです。

    ただ別の搾取の定義で、矛盾(搾取率ゼロで利潤発生とか)が無く、理論が構築できるのであれば、従来の投下労働価値説を止揚して理論を「発展」させる事で、価値観の違いを超えて搾取の存在を「証明」し、その上で如何に現代社会と向き合うかという議論に繋げる事は、私がマルクスを読んで感じていた科学的姿勢と重なる様な気もします。

    まぁ、取り留めも無くなってしまいましたが、仮に今回お互いの意見が一致しなかったとしても、貴重な「議論」の場を与えてくれたGAKUさんに感謝し、コメントを終わりたいと思います。

    まぁ、現実問題(格差や貧困を含)に向き合うに当っては、お互い何処かで行き会う事もあるかもしれませんが、その時は宜しく御願い致します。

  8. 一点だけ訂正です。

    誤:
    > 下部構造の持つ生産技術体系全体が労働を効率的に使用できるか否かによって決まるという事(つまり一般化された商品搾取定理の含意)

    正:
    > 下部構造の持つ生産技術体系全体が、労働や財を、効率的に使用できるか否かによって決まるという事(つまり一般化された商品搾取定理の含意)

    ・・・でした。

    不景気な中で、売れない(価格が付かない)ものにも「価値」があると言われても、見えないものを信じる気にはなれない今日この頃・・・と弁解

  9. 伊賀さん、たびたびコメントありがとうございます。

    資本が用いる技術の問題は、私も非常に重要な問題だと思います。

    マルクスは、技術が高度化すれば、必ず資本の有機的構成が高度化すると考え、そこから「利潤率は傾向的に低落する」と結論づけました。しかし、置塩氏は、資本が結果として利潤率が低下するような新技術を導入することはあり得ないのではないか、という問題提起をされています(したがって、「利潤率の傾向的低下」についても批判されています)。

    で、実際の生産現場で、資本は、どのような生産技術を選択してゆくのか、それが利潤率や搾取率にどのような影響を与えるのか――。これは、現実がどうなっているかという事実の問題なのですが、いろいろマルクス経済学の理論書を読んでみても、そのあたりがさっぱり分かりません。

    複雑な資本主義の現実を理論的に解明しようとするときには、目の前で起きていることをきちんと整理して、まず現実がどうなっているか、正しい「表象」をもつ必要があると思いますが、さっき言った問題では、この事実としての「表象」がはっきりしないのだと思っています。

    だから、伊賀さんが指摘されている問題は、私自身、非常に興味がある問題です。企業は、実際の問題として、どのようにしてより多い利潤を上げようとしているのか? 生産技術をどのように選択し、どのように生産計画を決定するのか? そのあたりを是非勉強したいと思っています。

    「マルクスの基本定理」の問題も、そういう問題を解き明かすなかで、はっきりしてくるのではないか、と思っています。

  10. 本当に何度もすいません。(笑)
    ただ、一点だけ誤解があるようなので・・・

    > 資本の有機的構成が高度化

    これについては私も資本論ぐらいは読んでますので知ってますが、今回は私はコレについては何も言ってません。

    同程度の有機的構成であっても、剰余生産物を生産できる可能性は、投入される労働や財を効率的に利用できるか否かによって変わり得るという事が言いたかったのです。

    「一般化された商品搾取定理(GCET)」とは、正の利潤(剰余)の可能性とは、労働力という【特定】の投入財にのみ剰余生産の神秘的可能性(価値増殖機能)があると言うよりは、私が前回挙げた例の様に、投入される労働や財を効率的に利用できるか否かによって正の利潤の可能性が求められるという含意を持っています。

    これに対して例えば松尾匡氏などは、「一般化された商品搾取定理(GCET)」は労働以外の生産要素についての搾取という概念はナンセンスなどと(私からすると本来の意味とは違う角度から)批判しておられ、更に効用関数(消費による満足度みたいなもの)を持つのは生きた人間である労働力だけなのだからと、効用関数を取り入れた搾取の「定式化」を行ったわけですが、これも今回の吉原氏の著作で矛盾が生じる事が指摘されています。

    まぁ、この問題を、単なる価値観の違いでは片付けられないのは、数理的に矛盾無く成り立つか否かという冷徹な結果に基づくもので有る限りは「科学」としては仕方ない事だと思います。

    余分な蛇足だったかもしれませんが、閲覧者に私の意図が誤解される事の無い様に、補足させて頂きました。

    長々とすいませんでした。

  11. 誤字訂正です。(今後はちゃんと推敲します)

    誤:
    > 「一般化された商品搾取定理(GCET)」は労働以外の生産要素についての搾取という概念はナンセンス

    正:
    > 「一般化された商品搾取定理(GCET)」の労働以外の生産要素についての搾取という概念はナンセンス

    ・・・かくいう私も「一般化された商品搾取定理」を受け入れるまでには時間がかかったのですが(恥)

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