マルクス『1857-58年草稿』を読む(10)

『資本論草稿集』第1分冊、438ページ。「絶対的剰余価値と相対的剰余価値」の第8段落から。

【第8段落(438ページ?443ページ)】

富そのものの発生は、その富が地代から生じるのではなく、すなわち彼〔リカードウ〕によれば生産力の増大から生じるのではなく、逆に生産力の減退から生じるものであるかぎり、彼にとってまったく理解を絶するもの…。(438ページ下段14行目?)

【第9段落(445ページ下段?)】

旧版では、ここは段落改行になっていない。

賃金〔Salair〕は、労働者だけでなく、労働者の再生産をも含んでいる。

50人の労働者自身…は、彼ら自身を生産する費用を表わすだけでなく、50人の新たな個人のかたちで自分たちが補充されていくために、個人としての賃金以上に、彼らの両親に支払われねばならなかった費用をも表わしている。(445ページ下段)

【第10段落(447ページ?)】

ここから453ページまでは、「摘録」では、「労働は、それが働きかける材料とそれが用いる道具との価値を再生産するわけではない。労働は、労働過程において労働の対象的諸条件としての材料および道具に関係することだけによって、材料および道具の価値を維持するのである。〔価値に〕生命を与え、維持する労働のこうした力を得るために、資本はなんの費用も払わない。これはむしろ資本自身の力として現われる、云々」と書かれている部分になる。

まずマルクスは、次のことを確認する。

われわれはつねに資本の2つの要素、すなわち生きた労働日の2つの部分だけを問題にしてきたのであって、その一方は賃金を、他方は利潤を、一方は必要労働を、他方は剰余労働を表わしている。(447ページ上段)

そのうえで、マルクスは「労働材料と労働用具とに実現されている資本の他の2つの部分は、どこに残っているのだろうか?」という問いを投げかける。これが、この段落の主題。

そこから「資本の構成部分としての用具や材料は、労働が補填しなければならない価値なのであろうか?」と問い、次のような結論を導き出す。

彼の労働は、これらの紡ぎ糸と紡錘により高い使用価値をあたえ、それらに80ターレルの分量の対象化された労働を…つけ加えるのである。(448ページ上段、15行目?)

紡ぎ糸と紡錘に含まれ、生産物の価値部分を構成している対象化された労働時間は、労働者がつくり出したものではない。彼にとってそれらのものは、これまでも、またいまもなお材料であり、彼はそれに他の形態をあたえ、新たな労働を合体させたのである。(448ページ下段、2行目?)

彼〔労働者〕は、それらの加工といっそう大きい価値増殖とに必要とされる労働時間のほかに、より大きな労働時間を費やすわけではない。それは、資本が彼に課した労働するための条件である。彼は、それらのものにより大きな価値をあたえることによってのみ、それらのものを再生産するのであり、このより大きな価値の付与が彼の労働日にに等しいである。……それらのもとの価値が保持されるのは、それらに新たな価値が付与されることによって行なわれることであって、もとの価値そのものが再生産され、つくり出されることによって行なわれるのではない。(449ページ下段)

彼が実際にこの生産物において生産するのは、彼がそれに付加する労働日だけであって、もとの価値を保持するためには、新たな価値を付加するために彼が費やすもの以外、まったくなに一つ彼は費やしはしない。(450ページ上段)

資本家はこのもとの価値の保持を、剰余労働と同様に無償で受けとる。(450ページ下段)

しかし、この段階では、まだ「労働の二重性」という話は出てこない。「労働の二重性」への初めての接近は、463ページ下段から。そこで初めて、次のような指摘がなされている。

資本は……生きた労働をわがものとすることによって、次のものを二重の意味で無償で手に入れる。すなわち第1に、彼の資本の価値を増加させる剰余労働を手に入れるが、同時にまた第2に、生きた労働の質を手に入れる。この質は、資本の構成諸部分のなかに物質化された過去の労働を保持し、こうして前もって存在している資本の価値を保持するのである。(463ページ下段?464ページ上段)

さて、まだまだ続く…。

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

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