『賃金、価格および利潤』第6章を読んでみた

明日から始まる「連続教室」を前に、テキストのマルクス『賃金、価格および利潤』の第6章を読み返してみました。

第5章まではウェストン君のたわごとへの反論で、第6章から本格的な経済学の理論が始まる。これは、従来から言われていることです。

そこでマルクスが最初に提示する問題は、「商品の価値とは何か? それはどのようにして決定されるか?」というもの。そして、以下マルクスの説明が始まるのですが、僕は、この部分を、『資本論』第1部第1章第1節の説明を簡単に繰り返したものだと思って読んでいました。多くの方もそうだろうし、新日本出版社の古典選書版『賃労働と資本/賃金、価格および利潤』の125ページには、わざわざ「以下の叙述については、『資本論』第1巻第1章第1節参照」という訳注までついています ((この訳注が間違っているということではありません。この訳注から、『賃金、価格および利潤』を『資本論』第1章第1節の要約解説だと誤解されるとしたら、それが問題だということが言いたいだけです。誤解のないように、念のため。))。

しかし、つらつら読み返してみると、価値の社会的実体が労働であり、価値の大きさを決めるのは商品に体現された労働の量であることを明らかにした後で、マルクスは、次のような「質問」を取り上げていることに気づきました。

 諸君のなかにはこう質問される人も多いであろう。それでは、諸商品の価値を賃金によって決定することと、諸商品の価値をそれらの生産に必要な相対的労働量によって決定することとのあいだには、ほんとうにそんなに大きな違いがあるのか、そもそもちがいというものがあるのか? と。(古典選書版、129ページ)

これにたいしてマルクスは、「しかし諸君は、労働の報酬と労働の量とはまったく異なるものだということに気づかなければならない」と書いて、商品の価値を賃金によって規定すること(ここでは、それを「賃金決定説」と呼んでおきます)と、商品の価値をそれに対象化された労働量によって規定すること(これがマルクスの「労働価値説」です)の違いを理解することの重要性を強調しています。

実は、この問題は、本書第5章の終わりで、すでに予告されていました。そこでマルクスは、ウェストン君の「諸商品の価格は賃金によって決められる」とする説を批判し、それにたいしてリカードウの功績を次のように指摘しています。

 リカードウが、1817年に刊行された彼の『経済学原理』のなかで、「賃金が価格を決定する」という古く、俗受けのする、陳腐な謬論を根本からくつがえしたのは、リカードウの偉大な功績だった。(同、124ページ)

ところが、『資本論』では、労働価値説を正確に理解するうえでは、実は、「商品の価値は賃金によって決まる」という俗説(賃金決定説)との違いを正しく理解することが重要だという問題は、こんなにストレートな形では取り上げられていません。

『資本論』でこの問題に触れているのは、第1章第2節「商品に表わされる労働の二重性」の注(16)です。しかし、それは、「スミスの取り違え」の指摘として述べられているだけです。

「労働だけが、それによってすべての商品の価値を、あらゆる時代を通じて、評価し比較しうる究極の、真の尺度である」ということを証明するために、A・スミスは、次のように言う。「等しい量の労働は、あらゆる時代、あらゆる場所において、労働者自身にとって同一の価値を持っているはずである。彼の健康や体力、活動が正常な状態にあり、また彼のもっているであろう熟練が平均程度であれば、労働者は、つねに同一の割合で、彼の安楽や自由、幸福を放棄しなければならない」(『諸国民の富』、第1編、第5章)。一方でA・スミスは、この場所では(どこでもではないが)、商品の生産に支出される労働の分量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と取り違え、そうすることによって、等量の労働がつねに同一の価値を持つということを証明しようとしている。(新日本出版社、上製版『資本論』Ia、79〜80ページ。一部改訳)

こんなふうに書いて、マルクスは、「商品の生産に支出される労働の分量による価値の規定」(労働価値説)と「労働の価値による商品価値の規定」(賃金決定説)とを取り違えたアダム・スミスの誤りを指摘しているのですが、ここから、労働価値説と賃金決定説の違いを正しく理解することの重要性を読み取れといわれても、そんなの全然分かりませんよ〜 (^_^;)

『賃金、価格および利潤』は、『資本論』の入門書、初級編と思って、正直、簡単に読み飛ばしていたところがありました。しかし、あらためて読み返してみると、『資本論』には出てこなくて、『賃金、価格および利潤』にだけ登場するような展開とか論立てがいろいろあります。『賃金、価格および利潤』は、インタナショナル(国際労働者協会)の内部に発生した誤った運動・理論にたいする批判。だから、ある意味では『資本論』以上にずっと実践的なのです。

ということで、「連続教室」の機会に、あらためて『賃金、価格および利潤』をしっかり勉強しなおしたいと思います。 p(^_^)q ファイト!!

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

3件のコメント

  1. 西村哲さんへ

    (といっても、Twitterなので、ここで答えても仕方ないのかも知れませんが)

    『賃金、価格および利潤』は論争の書。それにたいして『資本論』は理論書なので、労働価値説と賃金決定説が違うということさえ明らかになっていればいいわけです。だから、それ以上の批判はしなかったということではないでしょうか。もし、マルクスがそれ以上踏み込んで「賃金決定説」を批判する必要がある考えていたとすれば、第4部の学説史のところで取り上げていたかも知れません。しかし、それは結局書かれなかった、ということです。

    あるいは、ひょっとすると、ただたんに僕がアホで、『資本論』でもちゃんと「賃金決定説」を批判しているのに気づいてないだけかも知れません。(^_^;)

    他人の言うことは鵜呑みにせず、ぜひご自身で確かめてください。それが古典を学ぶときの秘訣です。

  2. さらに自己レスです。

    賃金決定説の批判という形ではありませんが、「労働の報酬と労働の量とはまったく異なるものだ」という点は、『資本論』第3部第1章「費用価格と利潤」のなかに出てきます。

    たとえば、新日本出版社『資本論』上製版IIIa、47ページでは、次のように書かれています。

    商品が資本家に費やさせるものと、商品そのものが費やすものとは、もちろん、まったく異なる大きさである。

    「商品が資本家に費やさせるもの」というのは、c+vのこと。それにたいして「商品そのものが費やすもの」とは商品価値Wの全額=c+v+mのことですが、cの部分を無視すれば、『賃金、価格および利潤』でマルクスが言っているのと同じことになります。ただし、『資本論』では、これは、「商品に支出された資本価値を補填するにすぎないさまざまな部分〔cとvのこと〕を費用価格というカテゴリーのもとに総括する」のは「資本主義的生産の特殊な性質を表現する」という文脈で取り上げられるのですが。

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