金融と投機はどこで区別するか? (3)

井村喜代子氏は、投機について「投機は価格変動それ自体から価格差益(投機利益)を獲得しようとする取引である」(『日本経済――混沌のただ中で』勁草書房、2005年、24ページ)と指摘されている。

だから、社会のさまざまなところから余剰資金を社会的に集めて、資本を必要とするところにそれを貸し付けるという本来の金融と、投機とのこの区別が重要。

マルクスは、第25章「信用と架空資本」に続けて、第27章で次のように書いている。(ちなみに、第26章はマルクスが『資本論』とは別のことのために書き抜きをしていたものをエンゲルスが組み込んでしまったもの ((不破哲三『「資本論」全三部を読む』新日本出版社、6分冊、213-214ページ参照。))なので、マルクスのつもりとしては、本文は第27章に続いている)。

 これまで信用制度を考察したさいにわれわれが引き出した一般的諸論点は、次のようなものであった。

  1. 諸利潤の均等化を媒介するための、あるいは、全資本主義的生産の基礎をなすこの均等化の運動を媒介するための、信用制度の必然的な形成。
  2. 流通費の軽減。
    1. 1つの主要な流通費は、それ自身価値をもつかぎりでの貨幣そのもののである。貨幣は信用によって3通りの仕方で節約される。
      1. 取引の一大部分にとって、貨幣がまったく必要とされなくなることによって。
      2. 通流する媒介物〔草稿では「金属通貨または紙券通貨」〕が速められることによって。これは部分的には(2)で述べることと一致する。詳しく言えば、一方では、この加速は技術的である。すなわち、消費を媒介する現実の商品諸取引の大きさも数量も何ら変わらないのに、より少量の貨幣または貨幣章標〔草稿では「紙券」〕が同じ役目をする。このことは、銀行制度の技術と関連する。それにたいして信用は、商品変態の速度を、したがってまた貨幣通流の速度を速める。
      3. 紙券による金貨幣の代位。
    2. 流通または商品変態の、さらには資本の変態の個々の局面の、信用による加速、またこのことによる再生産過程一般の加速。(他方で、信用は購買行為と販売行為を比較的長期間にわたって分離することを許し、それゆえ投機の土台として役だつ)。準備金の節約。これは2つの側面から考察されうる――一方では、流通する媒介物〔通貨〕の減少として。他方では、資本のうちつねに貨幣形態で実存しなければならない部分の縮小として。
  3. 株式会社の形成

(『資本論』第3部、新日本新書、第10分冊、574-756ページ。MEW, SS.451-452)

 つまり、マルクスは、これまでに信用制度を考察したときの論点を、次の3つに整理している。

  1. 信用制度は、利潤率の均等化という資本主義的生産の基礎を媒介する運動として、必然的に形成される。これは、信用制度というものが資本主義にとってどんな意義を持っているかという問題。
  2. 流通費の軽減。これは、実際の信用制度がどこから生まれるかという問題?
  3. 株式会社の形成

「流通費の軽減」の方法として、マルクスは、まず大きく2つあげている。

  1. 貨幣の節約
  2. 流通の加速、再生産過程の加速。

この第1の「貨幣の節約」の手法として、

  1. 「取引の一大部分にとって、貨幣がまったく必要とされなくなることによって」。これは、手形による債権・債務関係の相殺のことを言っているのだと思う。
  2. 貨幣の流通速度が増すことによって、貨幣を節約する方法。
  3. 「紙券による金属貨幣の代位」。これは説明不要。

この1のBと2との関係は、いまひとつよく分からない。同じことではあるが、1のBは、問題を貨幣の節約という面から取り上げ、2は、信用による流通の加速という面から見ているのかも知れない。

第2の「流通の加速」の問題では、()内に面白いことが指摘されている。すなわち、信用が購買と販売とをうんと引き離すことを可能にするため、それが「投機の土台として役だつ」ということ。

第2の部分では、もう1つ、「準備金の収縮」が指摘されているが、これは「流通の加速」に含まれるのだろうか? それとも、(2)のなかの第2の問題なのだろうか?

「株式会社」については、マルクスは(1)(2)(3)の3つの点を指摘した上で、760ページで「これこそは、資本主義的生産様式そのものの内部での資本主義的生産様式の止揚であり、それゆえ自分自身を止揚する矛盾であり、この矛盾は明らかに新たな生産形態への単なる過渡点として現われる」と指摘している。

そして、その過渡的な性格の1つとして、「新たな金融貴族を、企画屋たち、創業屋たち、単なる名目だけの重役たちの姿をとった新種の寄生虫一族を再生産する」(同前)と指摘。

そのことが、その次からのパラグラフで展開されている。現行版『資本論』では「IV 株式制度」で始まる段落だが、このIVはエンゲルスによるもので、マルクスの草稿には書かれていない。さらに、「IV株式制度」とあるので、「III株式会社」に続いて、「株式制度」について述べているかのように誤解しがちだが、マルクスは、ここでは「株式制度は……度外視すれば」と言っているのだから、株式制度を問題にしている訳ではない。

……信用は、個々の資本家または資本家とみなされる人に、他人の資本および他人の財産 ((新日本訳では「所有」になっているが、原語はEigentum。「所有」「財産」どちらの訳もありうるが、ここでは「資本」と同列になっており、具体的な物を指すと考えるべきだろう。したがって「所有」よりも「財産」あるいは「所有物」の方が適訳と考える。))、それゆえ他人の労働にたいする、一定の範囲内での絶対的な処分権を提供する。……人が現実に所有 ((Werkeの原語はbesitzt。「占有」の訳語にこだわる向きもあるが、ここでは区別しない。マルクスの草稿には「所有」云々の表現はなく、ただたんに「資本そのもの、あるいは『資本と見なされているもの”reputed Capital”』は」となっている。新MEGA II-4.2 S.503,19-20参照。)) しているか、所有していると世間が考える資本そのものは、いまではもはや信用という上部構造の土台となるだけである。……ここでは、いっさいの基準、資本主義的生産の内部でなお多かれ少なかれ正当化されているいっさいの弁明の根拠が消滅する。投機をする卸売業者が賭けるのは社会的な財産であって、彼の財産ではない。(新日本新書『資本論』<10>、761ページ)

ここでマルクスが問題にしているのは、信用制度が「他人の資本および他人の財産 、それゆえ他人の労働にたいする、一定の制限内での絶対的な処分権を提供する」ようになると、資本主義はどうなるかという問題。つまり、自分の資本を使うのではなく、他人の資本を使うようになることによって、資本主義はどう変質するか、という問題だ。だから、信用制度が「新種の寄生虫一族」を生む、という話からつながっていることが分かる。

で、マルクスは、他人の資本、他人の財産、他人の労働を処分できるようになることによって、それまでの資本主義の「いっさいの基準」が消滅してしまう、といっている。

いま「基準」と訳した単語は、新日本訳では「尺度」となっている。新日本訳だけでなく、これまでの邦訳では、長谷部訳(青木書店)、岡崎訳(大月書店)、向坂訳(岩波文庫)など、すべて「尺度」の訳語が当てられてきた ((大谷禎之介氏は「『資本主義的生産における信用の役割』(『資本論』第3部第27章)の草稿について」(『経済志林』第52巻第3-4号、1985年)で、「基準」の訳語をあてておられる。))。原語はMaßstäbeで、独和辞典を引くと「尺度」「度量」「基準」などの訳語が出てくる。しかし、ここでは「弁明の根拠」と同格となっていることからも分かるように、「価値尺度」を問題にしている訳ではなく、したがって「基準」と訳した方が意味が通ると思う。

「資本主義的生産の内部で多かれ少なかれ正当化されている弁明の根拠」が崩れる、というのは分かりやすい話だ。たとえば、それはまでは、「彼が資本家として儲けているのは、彼が一生懸命働いたからだ」というような“弁明”ができたが、株取引などで一発当てれば大金持ちということになれば、そうした“弁明”は成り立たなくなる、ということだ。あるいは、さらに、たとえば「自由な競争が大事だ」などと言っておきながら、自分はインサイダー取引で大儲けしたり、あるいは政府の審議会の委員などになって、政府・官庁とぐるになって大儲けしたり、などなどのことを平気でやるようになる、ということも含まれるかもしれない(この前の段落では、マルクスは「国家の干渉」に言及している)。

こうしたことが、ここでマルクスの言っている「基準の消滅」だと思われる。このように理解するうえでも、「尺度」ではなく「基準」と訳した方が分かりやすいだろう。

で、投機によって「財産の運動および移転は取引所投機の純然たる結果となる」。もはや、財産は勤勉の成果ではなくなる。だから、「株式形態への転化」は「社会的富としての富の性格と私的富としての富の性格との対立を克服するのではなく、この対立を新たな姿につくりあげるだけ」(同前、762ページ)だというのだ。

ちなみに、不破さんは、この後のところから「主題が転換」する、「この転換は見落とされがち」だが、「ここをきちんと読み分けるのは、信用論全体の流れをつかむうえでも、大事な点」と指摘している ((不破哲三『「資本論」全三部を読む』新日本出版社、第6分冊、222ページ参照。))。

【追記】

井村喜代子氏は「『現代資本主義の変質』とその後の『新局面』」(『経済』2007年1月号)で、金融の本来の役割と投機の違いについて、次のように述べておられる。

 本来、資本主義では金融経済は実体経済の活動のためのものであった。そこでは実体経済の活動にもとづいて企業、家計から産みだされた蓄蔵貨幣が金融を媒介にして実体経済の活動に融通された。
 しかし「現代資本主義の変質」後の「新局面」では、このような金融は後退し、いまや金融的取引それ自体から短期的収益・投機的収益を獲得する金融的取引(いわゆるマネーゲーム)が膨大化・肥大化し、これが金融活動の主たるものとなっていったのである。(同論文、30ページ)

さらに、続けて、このことを銀行の信用創造との関連で、次のように明らかにされている。

いまや蓄蔵貨幣にもとづかない信用膨張によって大量の資金が供給され、これが直接・間接に金融的取引に向けられその膨大化・肥大化を可能にし、資産価格高騰を可能にしている。かつては実体経済活動を中心に行われた信用創造(預金創造)もいまでは投機的金融取引に対して急増した。そして投機的取引によって株価や不動産価格が高騰すると、それらの担保価値の増大、これらを担保にした銀行貸付の増大が投機的取引と資産価格の高騰を倍加した。(同前、同ページ)

ここで井村氏が指摘されているように、資本主義本来の「実体経済の活動のための」、「実体経済の活動にもとづいて企業、家計から生み出された蓄蔵貨幣」を媒介して「実体経済の活動に融通する」のが、本来の金融である。マルクスが『資本論』の中で明らかにしてきたことも、基本的には、この範囲での金融のことである。

この範囲の活動だけでも、好況時には、景気の「過熱」を生み出し、さまざまな投機を生み出す場合がある。しかし、現在のような「金融的取引それ自体」からの「短期的収益・投機的収益」を目的とした「金融的取引」は、それとは性格を異にするものではないか。そこに、単なる、あるいは本来の金融と投機とを区別する一番の問題があるように思う。

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作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

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